法と道徳
1.
「自然的道徳」と法
「法と道徳」という主題は、様々な観点から論じられてきた。その中で最も古典的な立場は、「自然的道徳」の立場からの論議である。
「人間の本性(nature)に基づき、時と場所を問わずに妥当する法」が存在するとする自然法論に対応する、「人間の本性(nature)に基づき、時と場所を問わずに妥当する道徳」の存在を信ずる「自然的道徳」(natural morality)論は、倫理学における最も古典的な立場といえよう(「その人間の本性は「神の似姿」(imago Dei)としての本性だ」という思想は「神学的自然的道徳論」ということになる)。そのようなものは存在しないという立場からすれば問題にならないのだが、両者の存在を信ずる人々からすると、両者は同じものか異なったものか、異なっているとすればどこか、というようなこと(「自然的道徳」と「自然法」の関係)が大きな主題となる。田中耕太郎などは、「自然的道徳」は内面を、「自然法」は外面を支配する、と考えている。しかし両者を同一視する考えも強いようである。
「自然的道徳」があるとすれば、それと実定法との関係が問題となる。自然的道徳は各人の良心に植え込まれているが、その内容や個々の場合にどう適用されるかが不明確なので、明文の定式化が必要であり、その違反者に対しては制裁が必要である。自然的道徳を現実化するためにそれを成文化し、それへの違反に制裁を科するのが法だということになる。法は道徳の手段であり、「制定」と「制裁」が法の本質的要素だ、というのがこの思想の帰結であろう。
なぜ「神の似姿」である人間が自然的道徳に違反するのかというと、それは神が人間に、宇宙の中で神のみが有する自由意志を人間に分与したからであり、そしてアダムがその自由意志を用いて罪を犯し、アダムの子孫はその罪性を承継しているからだ、などと答えられる。なぜ神が全く自らに従順な自然物と異なって人間に自らに背く可能性をもった自由意志を人間に与えたのかというと、そうすることによって何の波乱もなく神の意志に従う世界より、自由意志によって神意を実現し、それに背く者を最後の審判によって克服することにより、高次の世界となるのだ、とかいう。Hegelの「弁証法」とよばれるものの発想の原点はここにある。
2.
国家と教会、あるいは外面と内面
西洋思想史においては、国家と教会の関係という主題が、思想上のみならず政治上激しく争われた。法と道徳の関係という主題は、国家と教会の管轄権の限界づけの問題としても論じられ、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」(マタイ21:22)という福音書の言葉もこれとの関係で論じられる。
しかしカトリック教会は、教会法という法体系をもち、中世には領土も領有していたから、教会の権限を「内面」に限定することはできない。国家は外面を、教会は内面をという権限分割原理が明確な形でと唱えられたのは、宗教改革以後のことであろうと思われる。
国家権力は内面に及ばないことを明確に述べたのはSpinoza(1632-1677)で、これを定式化したのはThomasius(1655-1728)であるが、何れも国家権力の内面への介入を拒否するという自由主義的発想を一動機としていた。Kantは彼らを承継して、道徳規範は「義務であるが故に」(aus Pflicht)守らるべきであるが、法規範は(結果として)「義務に適って(Pflichtgemäß)いればよい」と説いた。例えば「隣の勉強家の答案がちらちら見える、見ようか」と思った時、「いや不勉強な自分のような者が他人の勉強の成果を横取りし、本来の学力を偽るのは正義でない」と考えて見ないのは、義務感に発して規範を守ったのであるから、道徳に適っている。それに対し「見つかったらやばい」と思って見ないのは、見つからなければやろうという思想だから道徳的には許されないが、実際に外面的行動に出なかったのだから、法には適っている。法は犯罪行為に出た者を罰することによって外的秩序を守ろうとするものだから、それで充分なのだという。
問題は、「内面」「外面」とは何かである。皮膚の中と外という意味ではないのはもとより、心が内面で肉体が外面という訳でもない。この議論における内面と外面の区別の線は心の中にあるのである。即ち良心に従った行動は内面的動機による行動で、利己心とか虚栄心に基づいた行動は外面的動機による行動なのである。恥とか世間体というようなものも外面に属する。
この思想の背後には、神の人間の心に植え付けた良心という思想があり、更には「霊魂二元論」という古い信仰がその背後に潜んでいる。一部の未開人は「自分は祖先(例えば祖父)の生れ変りだ」と信じ、自分の心の中に、「祖先の魂」の部分と、それが自分の肉体に入って成長してきた「自分の心」の部分とがあると考える。前者は道徳的で、後者に対する命令者であるが、後者は品性卑しく、盗み食いその他下らないことばかり欲望する。前者が良心、後者が欲望ということになる。Platonの、人間の魂は生れる前はイデアの世界に住んでいた純粋無垢のものであったが、肉体に入って穢れた部分が付着してくるという思想もこれと共通する。
戦争中政府から依頼されて日本人二世や捕虜の研究をしたRuth Benedictは、西洋人は罪の意識を動機として行動するが、日本人はキリスト教的良心をもたないから、恥の意識を動機として行動するとして、guilt cultureとshame cultureを区別した。しかし安定した価値観が支配する共同体の中で幼時から育った人間は、その価値観が人格の深い層に浸透しているのに対し、多様な価値観が交錯し、対人関係が希薄な世界で育った者は、短期的にしか自分を見ない人々を相手に行動するから、shame cultureになりがちだというようなことが言えるのではないか。
3..
leges mere
poenales
法が道徳的悪に制裁を科する場合には、法違反は道徳違反で、法遵守は道徳的義務でもある。道徳が「良心において義務づける」ものであるならば、このような法もまた良心において義務づける。教会風にいえば、このような法を犯した者は、懺悔などの贖罪が必要であり、贖罪をしなければ死後地獄に送られる。他方法が道徳的善を処罰している場合には、その法は「悪法」であって、それに対しては抵抗権ないし抵抗義務の問題が生ずる。
しかし多くの人間行動は、道徳的善でもなければ悪でもない、道徳的に中性的なものである。それに法が制裁を結びつけるとどうなるか?
一つの考え方(A)としては、法遵守もまた道徳的義務であり、これまで道徳的に中性的であった行為も、それが立法されると同時に良心において義務づける法的義務となる。その根拠には、パウロのように、地上の権威に服従することも神の命じた道徳的義務だからと考えるからか、「平和」も一つの道徳的価値で、「悪しき平和」も戦争や内戦ほどは人々を不幸にしないから、とかが挙げられる。「決断そのものの価値」というCarl Schmittの思想も、元来等価的であった選択肢も、立法という決断によって選ばれた方にプラスαが生ずるというものである。
もう一つの考え方(B)としては、そういう法は、良心において義務づけることのない、「単に刑罰的な法」(leges mere poenales)である。そうだとするとその法律に違反することは道徳的に悪いことではなく、それを犯したといって良心に痛みを感ずる必要も恥じる必要もない。法を守ることも犯すことも道徳的には等価で、人は法を守るか、法を犯して罰金を払うか、自由に選ぶことができる。昔プロ野球で、審判をなぐると一万円の罰金が科された時代、ある監督は一万円札をひらひらさせながら審判に迫った。一万円を「殴り賃」と考えているのである。運転手に「罰金は出すから飛ばしてくれ」という乗客なども、同様の発想である。
実定法や既存の権力の正統性を否認する反体制派の実定法に対する態度は、これと共通するものがある。例えば権力者の銅像に敬礼しなければ罰金を取るという法律がある場合、カネを払って胸を張って通り過ぎる者がある。日本植民地支配下の朝鮮において、天皇や神社に対する敬礼要求などについて、こうしたことが色々あったと思われる。君が代演奏時の規律、国旗に対する敬礼などを、制裁覚悟で拒否する人々は、その制裁を「信念貫徹コスト」と解しているのであろう。極限的にはそのコストが生命である場合、即ち踏み絵を踏まなければ死刑になるというような場合もある。
Aの思想は、実定法を道徳的に正当化する体制派の思想で、結局Might is right.に帰着する。Hegelが「世界史は世界精神の顕われである」として、あたかも戦争の勝者には神の意志の体現者であるかのように論じているのは、非常な嫌悪感を惹起している。勝者の殺人や詐欺は弁証法のAntitheseだという訳である。
しかし道徳的に等価的であった選択肢も、一方が実定法となると等価的でなくなるという思想にも一理はある。例えば右側通行か左側通行かは、立法以前には等価的であろうが、一旦何れかに決定された後には、それに反して車を運転するとcatastropheである。
刑法理論における「それ自体としての悪」(mala in se)を罰する「自然犯」と「法定犯」(mala prohibita)の区別において、法定犯はleges mere poenalesであろう。この区別を否定する議論も有力であるが、この区別を一応前提すると、前者と後者では「故意」の意味を異にするであろう。前者においては、sinとcrimeが合体しており、道徳的悪をなす意思が即ち法的故意であるのに対し、後者においては「罪を犯す意思」(刑法38条1項)は道徳的な罪の意識を伴わない可能性がある。「そういう法律があることは知っているが、それを犯すことを俺は少しも悪いことだと思っていないのだ」という訳である。
この問題は、いわゆる「法の不知」の問題、即ち「法律を知らなかったとしても、そのことによって、罪を犯す意思がなかったとすることはできない」(刑法38条3項)という条文の解釈にも関わってくる。この条文は、「自然犯」においては、まんびきをした男が「俺は法学を学んだことはなく、六法全書も持っていないから刑法235条など知っているはずがない」として故意を否定しようとしても、「何をいうんだ、盗みは人間社会あるところどこでも悪いとされている自然犯だよ。六法全書をもっていようといまいと、それは常識じゃないか」と反論することができる、という趣旨であろう。
他方「法定犯」においては、二つの解釈に分かれる。上記の条文が自然犯に関するものだという解釈に従えば、法定犯の場合は法律を知らなければそれが悪いことを知りようがなく、従って罰し得ないことになる。例えば鹿が多過ぎれば狩猟を解禁し、減り過ぎれば狩猟を禁ずる時限立法の条例があったとして、鹿を獲ること自体は悪いことではないのであるから、条例を知らずに鹿を獲った者には、道徳的罪を犯す意思もなければ法を犯す意思もない、従って罰しようがないことになる。
しかしこれでは、「知らぬ存ぜぬ」と言い続ける者は罰しようがなくなり、法を定める意味がなくなる。そこで刑法38条3項は、まさしく法をしらなくても法定犯を罰し得ることにする条文だという解釈がでてくる。そうしなければ、上の例でいえば鹿を保護するという立法趣旨が空洞化してしまうから、犯意がなくても罰するという規定だとするのである。
4. 功利主義―良心なき倫理学?
Jeremy Benthamによれば、自然は人間を快楽と苦痛という二人の支配者の支配下に置いたという。そこで個人にとっては快楽を追求し、苦痛を避けること、「快楽マイナス苦痛」を最大にするのが自然権であり、集団は「最大多数の最大幸福」を実現するためにある。後者を絶対化すれば、集団功利のために個人の幸福を侵害することが無制限に認められるが、18世紀英国人Benthamにおいては、中間のどこかに解決が求められたのであろう。
個人にとっては快楽の追求は自然権であるから、盗みも詐欺もそれ自体として悪いことではない。しかし全体の立場に立つ立法者は集団功利の立場から、それに刑罰を結びつける。すべての法はleges mere poenalesである。個人は刑罰が制定されると、それを「快楽計算」の中にそのことを取り入れる。例えば隣の庭の柿を取って食うことは、それ自体としては快楽であるから、それは自然権であるが、今やそれに刑罰が科せられることになったから、柿を食う快楽と罰せられる苦痛とを比較しなければならない。そうなれば計算上罰金や懲役によって受ける苦痛の方が大きいから、柿を取らなくなる、という訳である。
それではなぜ犯罪者がいるのか。それは彼らが快楽マイナス苦痛の計算能力を欠いた愚者だからだということになり、全国民を聡明な功利主義者に教育することによって犯罪をなくそうという発想となる(しかし実は、比較さるべきは、[(柿を食う快楽×発覚して罰せられない確率)マイナス(柿を食う快楽×発覚して罰せられる確率)]とゼロ(食いもせず罰されもしない状態)との比較であろう)。
Feuerbachが罪刑法定主義を唱えた前提として、この功利主義的人間像がある。即ち刑罰は事前に予告されておかなければ、快楽計算に従って生きる自然権をもった人々に対して騙し討ちになるという発想である。もっともBenthamは功利的人間像を法と道徳両方の前提としたが、カント主義者であったFeuerbachは、法の前提するのは損得勘定に生きる「平均人」、道徳の前提するのは良心に従って生きる道徳人であるとしたから、この点で両者は異なる。
5. 実定法と実定道徳
実定法とは、ある時代、ある社会で行なわれている法である。「行なわれている」とは、Kelsenによれば、by and large effectiveという意味である。彼の用語法では、validity(効力・有効性)とは上位規範によって正当化され得るという規範的なもので、effectiveness(実効性)とはそれが事実として行なわれていることである。by and largeとは、殺人犯が捕まらないこともあるが、ある程度の確率で捕まるというような意味である。
この実効性には、遵守の実効性と適用の実効性とがある。例えば「くわえタバコ」に罰金を科する条例について、その条例ができることによって何パーセントくわえタバコをする人が減ったかの統計は遵守の実効性であり、くわえタバコをした者の何パーセントが罰せられたかの統計は適用の実効性である。
原始的共同体においては、実定法と実定道徳は一つの規範体系に属しており、規範違反の軽いものには心理的制裁、重いものには物理的制裁が加えられた。伝統的中国における仁・礼・法の分業関係も、その一例である。
しかし古代中近東のバビロニアとかアッシリアとかいう帝国は既に多民族国家で、帝国の実定法と各民族の実定道徳との間には大きなずれがあり、一つの規範体系に属するとはいえなくなってくる(支配民族の実定道徳は実定法と親和的かも知れないが)。原始時代には、各民族が各々の神をもっていた。この神に従うことが各民族の実定道徳の根本規範である。実定法の根本規範と、諸実定道徳の根本規範は分離する。
中近東の都市は元来騎馬民族集団が城壁に立て籠ったところに起源があるというが、やがて諸民族の出身者が混住し、各民族の実定道徳も実効性を低下させる。支配民族が他民族に自民族の実定道徳を押し付けることも容易ではないし、異民族共存の新たな実定道徳などそう簡単に成立するものではない。それが成立すれば帝国法と帝国道徳とが一つの体系に収まることもあり得るが。ローマにおける万民法(jus gentium)は民族横断的な規範体系創造の試みである。
6. 実定法と個人主義世界
「実定道徳」というものは、その実効性を支える共同体の存在を前提している。血縁共同体・村落共同体・宗教集団・民族共同体など。アトム化した個人主義の世界においては、もはやそのような共同体が存在しないから、「実定」道徳は存在しえない。「私の道徳観」というものがあって、「私」が一定限度それに忠実であることをもってその実効性とよび、その実効性をもった規範体系を個人限りの「実定道徳」とよぶことを許容すれば別である。
ともあれ、この世界においては、規範体系の数だけ根本規範があり、「神々の争い」の世界、「ある者にとって神であるものが他の者にとって悪魔である」という世界(Max Weber)となる。しかし各人は、自己の規範体系の中に実定法を位置づけざるを得ない。一方の極には、実定法の規範性を全面的に否定するアナキストがおり、他方の極には実定法の根本規範を自己の根本規範とする(実践的)法実証主義者がいる。中間には一定の留保を附して実定法への服従を正当化する立場が存在するであろう。このように、各人の主観的信念の中で、法と道徳は統一性を回復するのである。
人類が「神々の争い」の中で自滅しないならば、規範体系と規範体系の共存のためのetiquetteが生成する。このetiquetteは、各規範体系の中では下位の周辺的規範であるが、これを共有し合うことによって、共存が可能となる。このetiquetteが各規範体系内で地位を高めていき、各々の規範体系の最高規範にまで至ったとき、世界の倫理的統合が可能となり、世界法と世界道徳が一つの体系となる。それがメシアの支配する時代、キリストが再臨した千年王国かも知れない。