「日本男児」復活反対論

   明治の「日本男子」

   戦地から帰った男が妻を性病に感染させた。妻が「貴方の不品行のおかげで私をこんな体にして」と抗議すると、「日本男児に向って何をいうか」と妻を殴り倒した、という。戦前の日本に生きた者の身辺には、この種の実話が充満していたし、私自身も父の世代の男たちのこの種の行動を随分見聞した。

   独善、暴力、空威張り、女性蔑視、弱者の人格の蹂躙。国際的アウトローとして、アジアの野で狼藉を重ねた「皇国日本」は、この種の「日本男児」によって構成されていた。

   「日本男児」とは、明治以降の軍隊教育・軍隊宣伝の中で生み出された人間像である。そこで、軍事宣伝の最大の媒体であった軍歌を通じ、てこの人間像を描き出して見よう。

         中佐はさらに驚かで/「隊長われはここにあり/受けたる傷は深からず/日本男子の名を思い/命の限り防げよと/部下を励ます声高し (「橘中佐」)

         天晴れ敵の面前に/日本男子の名乗りして/卑怯の肝をひしがんと/誓いしことの雄々しさよ (「廣瀬中佐」)

   日露戦争の頃は「日本男子」といったものらしい。生命ある限り戦う戦士の像である。生命ある限り義務に忠誠を尽くすことは、軍人に限らず倫理的価値をもつが、戦場で死ぬこと自体を日本男子の特徴とする傾向も明治期から既に見られる。

          日本男子(やまとおのこ)と生まれては/散兵戦の花と散れ (「歩兵の歌」)

   「花と散る」、即ち戦死こそ日本男子にふさわしい死に方なのである。隊伍が乱れて各人ばらばらに戦う散兵戦においては、集団でなく個人が剣を振るって戦わねばならず、この歌詞は古風な戦闘のイメージ、武士のイメージを留めている。

  

 

昭和の「日本男児」

   昭和になると「日本男子」(やまとおのこ)は「日本男児」(にっぽんだんじ)になる。

         日本男児と生れ来て/戦(いくさ)の場(にわ)に立つからは/名をこそ惜しめ武士(つわもの)よ/散るべきときに清く散り/御国に薫れ桜花 (「戦陣訓の歌」)

   死ぬまで義務を離れるなという義務を越えて、死ぬこと自体が要求されるのである。

   「日本男児」という言葉が人口に膾炙するに至ったのは、「わが大君に召されたる」に始まる「出征兵士を送る歌」からであろう。その五番は次のようなものである。

         ああ万世の大君に/水漬き草むす忠烈の/誓(ちかい)効(いた)さん秋(とき)到る/勇ましいかなこの首途(かどで)/いざゆけ つわもの 日本男児

   戦死者の記念碑が「忠烈碑」と記されるように、「忠烈」は殆ど戦死と同義であった。

         散れよ若木のさくら花/男と生まれ戦場に/銃剣執るも大君(きみ)のため/日本男児の本懐ぞ (「軍国の母」)

   これは母が戦場に向かう息子に言い聞かせた言葉ということになっている。本居宣長が「敷島の倭心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠んだ時は、桜の「匂ふ」ところに重点があったが、今や「散る」ところばかりに重点が置かれるようになった。

   生命を粗末にする者が、それ以外の人間的価値を尊重するはずがない。また自分の生命を粗末にする人間が、他人の生命を尊重するはずがない。旧日本軍がしたことを調べれば調べるほど、よくまあこんなことを考えついたと唖然とするようなことが次々に出てくる。

   元憲兵隊曹長久保田知績著『上海憲兵隊』(東京ライフ社)より抜き書きしてみよう。

         憲兵は、鬼でもなければ、蛇でもない。ただありふれた人の子である。平凡な一人の日本人は、日本を憂い、日本人を思う時初めて鬼畜の心となる。・・・諜報戦下、凍る夜半、全裸の女スパイに冷水を浴びせ、陰毛に火を点じたのも我等憲兵。・・・一度連れ込まれたら再び元の姿では現れぬと怖れられたこのブリッジハウスの留置場。・・・監視兵の靴音の合間合間にかすかに伝ってくる拷問の悲鳴。・・・ジャコブ・デシェーザー氏の著書『私は日本の捕虜だった』を読むことによって、人々は彼等が如何に我々憲兵始め日本人の同僚によって虐待されたかを知るだろう。当時憲兵の一人であった私としていい得ることは、「それは大体真実であった」という是認とともに、私そのものがそれ等の人々とともに、そうした行動に誇りを持って生きてきた一人であるということだけである。

   傍点部は、「平凡な一人の日本人は、日本男児となる時初めて鬼畜の心となる」と言い換えることもできるであろう。

  

万葉の「ますらを」

   「日本男児」の復権など真っ平御免であるが、万葉時代の男たちの理想像「ますらを」なら話は別である。「ますらを」は第一かわいい。

         ますらをや片恋せむと嘆けども醜(しこ)のますらをなほ恋にけり(2・117)[「ますらを」ともあろうものが片恋などするはずがないと嘆いては見たが、やっぱりこの俺も片恋に陥ってしまった]

   片恋が「ますらを」にふさわしくないかどうか知らないが、女性を追いかけまわすことは、むしろ「ますらを」らしいことである。葦の屋の菟原処女(うなひをとめ)をめぐって二人の男が争奪戦を演じ、可憐な彼女は困って自殺した。後にその墓に詣でた者の歌は、「いにしへのますらをとこの相競ひ」という言葉で始まっている(9・1801)。

         山越しの風を時じみ寝(ぬ)る夜おちず家なる妹をかけてしぬびつ(1・6)

   旅先で眠れずに妻のことばかり思っているこの愛妻家は、「ますらをとおもへるわれ」と自称した男なのである(1・5)。

   「ますらを」たちが女性にやさしかったことは、大伴旅人の歌からも窺われる。

         ますらをと思へる我や 水茎の水城(みずき)の上に涙のごはむ(6・968)

   これは彼が太宰の帥(そつ)の任務を終えて京に戻る時、滞在中愛した児島という名の「遊行女婦」(うかれめ)の「凡(おほ)ならばかもかもせむを恐(かしこ)みと振りたき袖を忍(しぬ)びてあるかも」(6・965)(本当ならいろいろしてさし上げたいのですが、偉い方々がたくさん見送りに見えているので、降りたい袖も我慢しているのです)という歌に応えたものである。旅人は非常な愛妻家でもあった。

         妹として二人作りしわが山斎(しま)は木高く繁くなりにけるかも(3・452)[在りし日の妻と一緒に作ったこの庭は、木も大きく繁ってきたなあ]

   これは亡き妻を追憶した歌であるが、大官の彼が妻と一緒に庭作りなどしたこともわかる。先の児島は、恐らく妻を失った寂しさを慰めてくれた女性と思われる。

   旅人に随行して太宰府に行った山上憶良が「妻子(めこ)見ればめぐし愛(うつく)し」(5・800)と詠んだマイホーム主義者であったこと、貧困と闘いながら必死になって家族を守ろうとした人物であったことは、よく知られている。

         をのこやも空しかるべき万代(よろづよ)に語りつぐべき名は立てずして (6・978)

   だが千年後の我々は、憶良の名を語りついでいる。妻子を愛した「をのこ」として。「ますらを」は、女性の人格を尊重し、愛に基づく協力関係を作り出そうとした男たちであって、「日本男児」とは全然違うのである。

   「ますらを」という言葉の語源は不明だが、少なくとも軍事的語源ではないようだ。

         韓国(からくに)に往きたらはして帰り来むますらたけをに御酒(み)たてまつる(19・4262)

   この「ますらたけを」は朝鮮に平和的外交使節として赴任しようとしていた。(1992年)