『以尺報尺』の諸解釈

長尾龍一

 

西洋流水戸黄門

  王(Duke)は留守居役に国政を委ね、旅に出た。かねてより王の、良く言えば寛容、悪く言えば放漫な政治運営に批判的意見をもっていたらしいその男は、留守中箍を締めなおそうとして、王が適用しなかった法律をびしびし適用する。その第一号として、十数年間適用されなかった「私通 (fornication)禁止令」を適用して、売春宿を取り締まり、許婚者を妊娠させた男に死刑判決を下す。

  その男には、修道女になろうとして、女子修道院に入門したばかりの妹がおり、彼女に助けを求める。妹は留守居役を訪れ、慈悲を求めるが、彼は法の尊厳を楯にとって受け付けない、――ように見えたが、実は彼はその妹に恋してしまい、「彼女の貞操と引き換えなら兄を許してもいい」と言い出す。

   妹は獄中の兄を訪れ、事情を話した上で、「貞操を棄てる訳にはいかないから、死んでくれ」と言う。兄は「何としても命が惜しいから、貞操を棄ててくれ」と懇願するが、妹は受けつけない。そこへ一僧侶が登場し、「この件は私に委せてくれ」と言う。僧侶の作戦は、妹に留守居役と一夜を過ごすことを約束させ、留守居役がかつて棄てた元許婚者に代りに行かせるというベッドトリックである。彼女は今でも自分を棄てた男を恋し続けているのだという。二人はこの策略を受け容れ、作戦は露見せずに実行される。

   ところで実はこの僧は変装した王で、旅には出ずに、留守居役の国政を観察していたのである。彼は留守居役に、「急に帰国することにした」という手紙を送り、出迎えに出て来た彼をその場で裁く。妹や元許婚者が証言し、「本来なら私通禁止令違反として、お前が彼女の兄に適用した規範(measure)と同一の規範(私通禁止令)で死刑に処すべきところだが、罪は許すから、旧許婚者と結婚せよ」と命令する。最後に王がその妹に求婚するが、返事のないままに劇は終る。

 シェークスピアの問題劇『以尺報尺』(Measure for Measure)は、西洋流水戸黄門物語で、はらはらさせながらも最後はすべてまるく治まる喜劇のようにも見える。ラム姉弟(Mary Lamb(1764-1847) & Charles Lamb (1775-1837))の『シェークスピア物語』は、その結末を次のように結んでいる(1)

イサベラ[]の有徳で崇高な行為がヴィンセンシオ[]の心を捉え、彼は彼女に求婚した。彼女はまだ正式に修道女となっていなかったから、結婚する自由を有しており、謙虚な修道僧に身を窶して危急から救ってくれた崇高な王の求婚を、彼女は感謝と喜びをもって受けた。彼女は王妃となり、ウィーンの若き女性たちの模範となる。その結果、クローディオ[]もジュリエット[兄の許婚でやがて妻]も心を改め、以後彼等のようなふしだらな行為をする者もなくなった。こうして慈愛深い王とその最愛の妻イサベラとは、長く国を治め、二人は最高に幸福な結婚生活を送った。

 二人が結婚したというこの部分はラムの創作である。しかしグスタフ・ランダウアー(Gustav Landauer, 1870-1919)なども、二人は模範的夫婦となり、補完し合いつつ、国を穏和な人類愛をもって治めていくだろう、などと言っている(2)

  法律家たちは、私通禁止令は法の道徳や私事への不当な介入ではないか、悪法も法か、長期間適用されなかった法を突然適用することが許されるか、法と慈悲(mercy)や衡平(equity)との関係、法適用における厳格性の限度、脛に傷もつ裁判官の裁く資格等々、この劇のもつ法的問題点を色々論じてきた。ポズナー(Richard Allen.Posner, 1939-)は、王は「法は抑制的に適用さるべきだという思慮ある中庸(prudent mean)」を実現したと言い(3)、コーンスタイン(Daniel J.Kornstein, 1947-)も、王の法観念は「リアリズム、政治性、衡平、慈悲、正義、思慮、弾力性によって緩和された穏和(moderate)な法観念である」と言っているように43)、概して法律家たちは、王の態度を支持している。

 

水戸黄門の化けの皮

 しかしキートン(George Williams Keeton, 1902-1989)は言う。

   作者は色々問題を設定したが、彼がそれに対して示した解決は、読者にとって不満足で、奇異に感じられるものである。イサベラは自分の貞操を護るために兄の生命を犠牲にしようとした。しかもそのために、過去にアンジェロに棄てられたマリアナとアンジェロ(留守居役)を結婚させるという疑わしい企みに加担する。王も、大した理由もないのに、統治の責任をアンジェロに委ね、潜伏して告げ口を聞き集めた上で、戻って彼の正体を暴いたのみならず、(相思相愛とは全然見えないのに)イサベラと結婚しようとする!筋書きに合理性がないし、作者が結局どういう結論を出そうとしているのかも分らないままである(5)

 ハロルド・ブルーム(Harold Bloom, 1930-)は、そもそも王やイサベラを善玉とする解釈を問題とする。

王との関係で彼が重視するのは、クローディオの友人ルーシオ(Lucio)である。彼は貴族(gentleman)で武士(soldier)らしいのだが、性病で頭が禿げており、女郎屋の常連である。彼は死刑判決を受けたクローディオに頼まれて、修道院にイサベラを呼び出しに行き(一幕二場)、彼女が兄の助命嘆願のためアンジェロのもとに行く際も同行する(二幕二場)。国家機密に通じており、王の国外旅行なるものが、嘘であることを知っている(一幕四場)。僧に身を窶した王に、(恐らくその正体に気がつかないふりをして)性は飲食と同様禁止不可能なもので、アンジェロの政策は非人間的であると言い、それに対し王の女遊びは相当なもので、今度の王の旅行の本当の目的もいかがわしいものだ、王の正体は「うわっ調子で非常識で無分別(superficial, ignorant, unweighing)(平井正穂訳)だが、仮に戻って来たら、粋なはからいをしてくれるだろう、と言う(三幕二場)。また僧に変装した王の面前で、イサベラに対し「悪所の帝王(duke of dark corners)」(王のこと)がいてくれれば、兄も死刑などにならないのだが、と言う(四幕三場)。最後に正体を現わした王によって、王を冒涜した罪で、彼が孕ませた売春婦と結婚するという罰を受ける(五幕一場)。

ブルームは、この馬鹿げきった喜劇(absurdest comedy)の中で、このルーシオだけが理性的で人間的な登場人物(rational and sympathetic character)であり、彼の発言こそ真実を語っていると言う(6)。そうだとすれば、王は女を誘惑しようとして街に出て、見初めたイサベラをものにしようとしたばかりか、彼より先に彼女に恋したアンジェロを陥れ、愛してもいないマリアナを彼に押し付けたのである。ヴィンセンシオとイサベラの結婚も、アンジェロとマリアナの結婚も、幸せになるはずはなく(7)、この劇の結論はニヒリズムであると言う(8)

他方、アンジェロとイサベラが、性に対する病的潔癖さという点で瓜二つであることは、既に指摘されているが(9)、ブルームによれば、過剰抑圧の背後には強烈な性欲があり、実はイサベラは、その謹厳な外見の下で、聖女を犯したいという男の神聖冒涜への欲望を刺戟し、「職業的誘惑者クレオパトラも及ばない」性的刺戟を発散している(sexually provocativeである)。例えば二幕四場、アンジェロが貞操の代りに兄の生命を許すと申し入れたのに対し、イサベラは「もし私が死刑の宣告を受けているのでしたらルビーを身につけるように烈しい鞭の痕も喜んで身につけましょうし、久しく待ち焦がれた寝床につくように裸になって死の床にもつきましょう。しかし・・・」(平井訳)と言って申し入れを拒否するが、「ルビーを身につけるように烈しい鞭の痕」とは、男のサド=マゾヒズムを刺戟すること、サド(Donatien Alphonse François, Marquis de Sade, 1740-1814)も及ばない表現力ではないか。観客は、遊郭で新米修道女(novice nun)という言葉が、新米娼婦(novice whore)を意味することを、意識していたはずだ、と言う(10)

 

堕ちたアンジェロ(The Fallen Angelo)

国家の家庭政策・性政策という公的側面からこの作品にアプローチしたものに、ジャッファ(Harry V.Jaffa, 1918-)の論文「政治原理としての貞操」(二〇〇〇年)がある。

ジャッファは、アリストテレスを引用しつつ、国家にとっての家庭の重要性と家庭にとっての貞操の重要性を指摘し、この戯曲を、統治に真面目に取り組まずに売春や私通をはびこらせたヴィンセンシオ王が、反省してアンジェロに規律の粛清を委ねた、という枠組の中で理解する。従って私通者を死刑とする法律は、苛酷すぎるかも知れないが、合理性をもった立法であり、エロスをノモスの支配下に置くという古代政治哲学の観念に一致している。これを厳格に適用しようとするアンジェロの動機も真摯なものである。

それに対し、「慈悲」(mercy)によって兄の赦免を得ようとし、「他の人間も同様の犯罪を犯している」とか、「裁く側の人間もいつか同じ犯罪を犯す可能性がある」として赦免を求める彼女の主張は、法秩序を麻痺させるものである。「眠っていた法を突然適用するのは、最初に適用された者が不公平に罰される」という反論も、どうせ法は誰かが最初に適用されるのだから、そんな論理を認めて法を適用しなければ、法は永遠に適用されないであろう。ジャッファはこのように述べて、イサベラの請願を拒否し続けたアンジェロの態度は一貫しており、法の支配を曲げさせようとするイサベラの方に無理がある、と言う(11)

だが、天使が堕落して悪魔になったように(fallen angel)、アンジェロもイサベラに恋することによって堕落した(fallen Angelo)(12)。即ち彼は、恋を自覚した後の議論の過程で、法の支配の原則からは受け容れられないはずのイサベラの「慈悲」論に説得される。一旦堕落すれば毒喰わば皿で、自分がその死刑に相当する私通を犯し、イサベラと約束した兄の助命も、発覚の恐れから一方的に破毀して、彼の処刑を命ずる(僧=王の策略によって殺されずにすむが)。もっとも最後には、王が、「私通が死刑であるならば、その尺度で自分も裁かるべきだ(measure for measure)」として彼に死刑を宣告すると、「死刑は当然の報いである」(T’is my deserving) 「私は慈悲より死を求める」と述べて、一貫性(integrity)を保ったのは、一応立派である(13)(王はその後彼をマリアナとの結婚を条件に赦免する)。

他方イサベラの方は、兄の生命か自分の貞操か、という選択に立たされて、後者を選択することにより、貞操を絶対視する「私通禁止令」の立場に戻る。「イサベラは、法へ、家族の名誉へ、国家へと突き返された(driven back)」のである(14)

このようにジャッファは、「苛酷な法も法である」(Dura lex sed lex.)として、「堕落」以前のアンジェロの立場を正当化しているように見える。この立場は、『ヴェニスの商人』におけるシャイロックの主張と類似しているが、このシャイロックの主張を支持した論者にイーグルトン(Terry Eagleton, 1943-)がいる。彼は、「シャイロックこそ法の精神の尊重者で、ポーシャは非尊重者である。確かに契約書に一ポンドの肉と一緒に血を取って良いとは書いてないが、それは文面から合理的に推論されるものである。ポーシャの屁理屈は現代の裁判所では問題にならない。(もちろんこの契約が有効だと前提した上での話だが)この訴訟はシャイロックが勝訴するはずのものである」と言っており(15)、同様に『以尺報尺』においてアンジェロがクローディオを罰しないのも、法の「一般性」(generality)を害する不当なものだと言っている(16)

これに対してポズナーは、「アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で強調したように、古来衡平は法の一部をなすもので、法は状況を無視して硬直的に適用さるべきものではない。緩和的原則(meliorative doctrines)は、法の外のものでなく、法の一部である」と反論している(17)

 

この作品の初演(一六〇四年十二月二十六日)は、スコットランドから移って来た新国王ジェームズ一世の前での御前公演で、大陸法であるスコットランド法に存在しない衡平(equity)という観念を新国王に教える帝王学という公的側面をもっている(18)。しかし他方これは、シェークスピアにとって、悲劇期への入り口となるもので、人間不信から絶望の淵に立ちつつあるシェークスピアの私的・内面的状況が顕われている。この戯曲の複雑さ、難解さは、この両面が入り混じっていることに由来するであろう。

ヴィンセンシオ王を罵倒するルーシオが作者シェークスピアの代弁者であるとした場合、ジェームズ新王がこれを許容し、後にもこの劇団を贔屓にしたことは、注目すべきである。ジェームズにはシェークスピアの内面の深みなどは知るよしもなく、ラム的解釈に従って笑って済ませたのであろうか。ひょっとして王は、シェークスピアの心の深い層までを理解したのではないか。ジェームズの母(Mary Stuart, 1542-1587)は、父(Henry Steward Darnley, 1545-1567)の殺害者(James Bothwell, 1530?-1577)とほどなく再婚した。このようなハムレット的境遇に育った彼なら(19)、『ハムレット』の作者の心の深層に立ち入った理解が可能であったかも知れない。

(1)   Charles & Mary Lamb, Tales from Shakespeare, 1807.

(2)   Gustav Landauer, Shakespeare: Dargestellt in Vorträgen, II, 1920, p.47)。アラン・ブルームも、王の立場はピューリタン的禁欲主義と性的放縦の中庸で、用いた手段はマキャヴェリアンだが、結末は関係者全員の結婚、即ち婚姻制度への収斂である、と言っている(Allan Bloom, Shakespeare on Love and Friendship, 1993, p.75)。また「彼の権威は絶大で、結婚申し込みに対するイサベラの返答は劇中に示されていないが、彼女が承諾したのは疑いない」とし、彼はベッドトリックなどを織り込んだ策略を彼女の眼前で展開して、過度に潔癖な彼女を教育したのだという(p.77)。ここでの「権威」とは、権力ではなく、奇跡のように兄の生命と彼女の貞操を救い出した彼の手腕への彼女の讃嘆であろう。彼はまさしく「メシアとして登場した」のだから(p.73)

(3)   Richard A. Posner, Law and Literature: A Misunderstood Relation, 1988, p.104.

(4)   Daniel J. Kornstein, Kill All the Lawyers?: Shakespeare’s Legal Appeal, 1914, pp.33-64.

(5)   George Williams Keeton, Shakespeare’s Legal and Political Background, 1967, pp.371-372.

(6)   Harold Bloom, Shakespeare: The Invention of the Human, 1998, p.370.

(7)   Ibid., p.380.

(8)   Ibid., p.364.

(9)   「二人はともに冷血で堅苦しい道徳狂信者である」(Kornstein, p.57)

(10)H. Bloom, p.365.

(11)Harry V. Jaffa, “Chastity as a Political Principle: An Interpretation of Shakespeare’s Measure for Measure,” Shakespeare as Political Thinker, ed. by John E. Alvis & Thomas G. West, 2000, p.226.

(12)Ibid., p.227.

(13)Ibid., p.228.

(14)Ibid., p.239.

(15)Terry Eagleton, William Shakespeare, 1986, pp.36-37.

(16)Ibid., p.57.

(17)Posner, p.106.

(18)Kornstein, pp.62-63.

(19)Carl Schmitt, Hamlet oder Hekuba: Der Einbruch der Zeit in das Spiel, 1956.邦訳『ハムレットもしくはヘカベ』初見基訳))、長尾『文学の中の法』(新版)2006pp.92-94.参照。