軍隊教育

 

   私はナショナルのFS4700というワープロを使っている。世話になりながらからかうのもなんだが、噴き出すような滑稽なことも多い。

   「ふんそう」と押すと「粉争」と出てくるのは、作った人が1970年頃の大学紛争期に学生だったからかも知れない。あの頃は「粉砕」という言葉がはやり、そのせいで学生たちの答案の多くに「紛争」を「粉争」と間違えるものがあった。紛争のほとぼりがさめると、段々この間違いも少なくなった。

   熟語変換で「きょうさんしゅぎ」というのを押すと、「協賛主義」しか出てこないのは、共産党の強い大阪の政治的風土の中で、共産主義の影響を会社の壁の外までで食い止め、中では「協賛主義」でやっている会社の様子を思わせる。「右派」があって「左派」がなく、「白人」があって「黒人」がない。

   「円高」というような、財界に切実な時事用語は入っているが、学問に関するものには不思議なことが多い。「てつがくしゃ」と押すと、まず「哲学社」が出て、二番目に「哲学者」が出る。学部については、「経済学部」「工学部」「文学部」などはあるが、「法学部」「理学部」はない。大学では「早稲田大学」「中央大学」は出るが、「慶応大学」は出ない。官学は「千葉大学」「埼玉大学」「福島大学」「静岡大学」「群馬大学」「茨城大学」など新制大学まで入っているのに、私学は上記の二校だけのようで、官尊民卑の臭いもする。このワープロを作った人は非宗教的な人であるらしく、宗教用語は殆どない。「神官」「僧侶」「牧師」「神父」などもなく、「神社」「寺院」はあるが「教会」「修道院」はない。「讃美歌」「洗礼」「宣教」などキリスト教用語は全然ない。

   全体の保守的色彩にも拘らず、「天皇」も「陛下」もない。「皇族」や「皇室」があるのだから、うっかり失念したのかも知れない。平和国家のワープロとして、軍事用語が極端に少ない。戦争体験の風化の故に、「戦前」も「戦後」もない。どういう訳か「陸軍」はなくて「海軍」「空軍」はある。「自衛隊」もない。「戒厳」「占領」「陣地」「大砲」「爆撃」「爆弾」「空襲」などはない。「突撃」だけは不思議にある。「散華」とか「玉砕」とか「特攻隊」とか「靖国神社」などがあるはずもない。

   このワープロの熟語表を作った人ないし人々については、1950年頃生れ、工学部出身で、大学時代に大学紛争を体験したが、就職後はすっかり企業人になりきり、歴史にも宗教にも左翼イデオロギーにもあまり関心をもたない現世主義者といった人間像が浮かび上がってくる。

 

   戦後に育った世代が軍事に無知なのは、長い平和の作り出した喜ぶべき結果である。それはともかく、私たちより少し上の人たちはどんな教育を受けたのだろう。先日私は大阪梅田の古本屋街で、大本営陸軍報道部推薦・陸軍予科士官学校監修『振武台の教育』(昭和19年10月刊)という書物を入手した。以下それを通じて、終戦直前に陸軍の教育機関が行なっていた教育の一端を紹介して見よう。

   昭和18年12月9日、天皇は現在の自衛隊朝霞基地にあった陸軍予科士官学校を訪問した。その朝生徒たちは、心身を浄める禊として、各々冷水30杯を浴びた。天皇は愛馬白雪の馬上から生徒隊を閲兵し、その後塩野教官の授業を参観した。塩野教官は、ミッドウェーで戦死した山本五十六、アッツ島玉砕の際の山崎保代中将、ガダルカナル玉砕の際の若林東一大尉などの逸話を語り、例えば若林大尉が「僅かの手兵を率いてよく健闘し、自らは身に重傷を負ふて尚陣地を捨てず、当番兵に背負はれて大隊長のもとに報告に赴き、大隊長から切に後退治療の勧告を受けたるにも拘らず大義の為に中隊の兵と生死を倶にせん」としてそれを断ったエピソードなどを話した。夕方天皇が去った後、生徒たちは全員暮色迫る校庭に集合して、「海ゆかば」を合唱した。「海ゆかば」は、山でも海でも天皇のために死ぬことを歌った大伴家持の歌で、信時潔作曲のこの曲は、戦時中は玉砕を伝える大本営発表のテーマ音楽であった。

   この日のことを記した生徒の日記に「『捧げ銃』、忽ち下る号令に唯無我夢中に捧げ銃をすれば、間近に拝し奉る馬上の御英姿。この一瞬、感激措く所を知らず。遂に感極まって肢体震ひ、感涙とめどなく頬を伝ひ、握り締むる銃も動もすれば動揺せんとす。胸の鼓動は止むる術もない」とある。父を戦場で失った他の生徒は「父母の写真を抱きつつ咫尺の間に陛下を拝し奉り、父の霊に対し必ず御跡を慕ひて靖国の杜に還らんことを誓へり。予は昭和の正行公たらむ。昭和の正行公たらむ」と記したが、これは親子二代戦死の決意を述べたものである。

   天皇の前で剣術を演じた生徒の日記によると、彼はこの12月の未明冷水を浴び、「御民我生ける験あり」と口ずさみ、試合を待った。「万世一系の天皇陛下が自分の拙い剣を天覧遊ばされると思へば、死を以てぶつからうと心が決まる。剣術は終った。陛下は玉座にはもうおはしまさぬ。が私の眼にはまだいますやうだ。神様だ、神様だ、絶えず私の頭の中に湧いて来る。もう何の望みもない。至誠尽忠で御奉公しやう。水火も厭はず喜んで死のう」という。

   死への教育は、戦争末期のこの学校の基本的な教育目標の一つであった。校長の訓話の中に、「先般名誉の戦死を遂げた第四十九期生の故梅田中尉が幼年学校に入学した弟に送った手紙の中に『幼年学校は立身出世をして大臣大将になる為の学校ではない。死ぬことを教へる学校だ』」とある、という言葉がある。

   本書の解説も「抑々八紘一宇の皇に殉ずる信念の養成とは、本校に於ては之を語を換へていへば、死生観の確立といふことに帰着するのであるが、此の事は将校生徒教育が他の教育機関の教育に比して異なってゐる重大な特色」だと言っている。

  

   当時の海軍教育の様子を伝える史料として、以前四国宇和島の古書店で入手した旅順方面特別根拠地隊予備学生教育部『第五期兵科予備学生・第二期兵科予備生徒訓示録』(昭和20年2月)という書物がある。海軍は陸軍ほど極端には死の覚悟を強調しないが、「烈々タル神風トナリ身ヲ爆薬トシテ敵艦ニ突撃」した「諸神ハ後ニ続ク者アルヲ信ジ、己先ヅ先頭ヲ切ラレシナリ。後ニ続ク者ノ中最モ嘱望サレ居ル者ハ誰ゾ。諸子ニ非ズヤ。諸子ハ生キテハ皇国の華タル青年将校タルベキ身ニシテ、戦ニ死シテハ正ニ靖国ノ杜ニ神鎮マル日本青年中最も選バレタル人間ナリ」という訓示も見られる。

   駈足競技への講評の中に、「第五分隊田中生徒ハ途中喀血ヲ見タルモ屈セズ、克ク最後マデ頑張リ決勝点ニ入リタル後殆ンド意識ヲ失ヒタルモ尚駈ケ出サントス。其ノ旺盛ナル気力ハ以テ範トスルニ足ル。斯クノ如キハ克ク海軍伝統精神ヲ顕現セルモノト言フベシ」というのがある。可哀そうに、この田中氏は精神主義の犠牲となって、終戦を待たずに結核で他界したであろう。

   盗み喰いを叱った訓示もある。「単ナル口腹ノ慾望カラ人ノモノニ手ヲ懸ケルトハ浅間シキ限リデハナイカ。昔カラ『武士ハ食ハネド高楊枝』ト言ハレテヰルシ、芝居デモ『侍ノ子ハ腹ガ減ッテモ飢ジウナイ』ト言ハレテヰルデハナイカ。口腹ノ慾位ニ打克ツ事ガ出来ズニドウシテ強敵ヲ破ルコトガ出来ヤウ。・・・訓練デ腹ノ減ルコトハ我々ハ身ヲ以テ体験シテ来テ良ク分ッテヰル。御前達ガドンナ現状ニアルカモ充分承知シテヰル。我慢ノ出来ヌ程度デハ決シテナイ。又仮令我慢ガ出来ヌ程度ニシテモ、武人ハ他人ノ物ニ手ヲ懸ケルヨリ餓死ヲ選ブベキデアル。カカルサモシイ根性ノモノヲ御前達ノ仲間カラ出シタコトニ対シ猛省ヲ促シタイ。シカモ岩田学生ノ場合ハ酒保員ヨリ制止ヲ受ケテヰル。将来下士官、兵士ヲ監督セネバナラヌ身デ以テ何事ナリヤ。次ニモウ一言加ヘテオク。聞ク所ニヨルト食卓番ニ非ザル者ガ炊烹所ニ入リアレコレ云フ者ガアルサウデアル。コレモ甚ダサモシイ心情デアル。台所ヲ見テ通ラヌノガ士ノ作法ト聞イテヰル。決メラレタ役員以外ハ何故ニカカル場所ヘ出入スル必要アリヤ」と。

   こういう教育が骨の髄まで染み通った青年たちが、突如として価値観の激変に遭遇したところから、現在六十歳前後の人々の戦後史は始まったのである。(1987年)