水沢周『青木周蔵』  

  18世紀末のポーランド文革の結果、同国はロシア、プロイセン、オーストリアの支配下に置かれ、幾度もの叛乱も鎮圧されて、悲嘆のうちにあった。岩倉使節団の一員として渡欧し、帰途明治6年に木戸孝允が見たのも、同国のそのような状況であった。帰国直後の演説で、次のように言っている(現代語訳)。

       「プロイセンからロシアへの車中でまどろんでいた時、悲しげな笛の音で夢が破られた。ガラス戸の外を見ると、ポーランドである。土地の人々が楽を奏し、旅客に金銭をねだっているのである。かつて栄えたこの国の現状を思い、以後ずっと涙を禁じえないでいる。ああ、政規と典則がしっかりしていなければ、どんな国でもこうなる恐れがあるのだ」(『明治編年史』(2)p.76)

  著者(水沢氏)によれば、「涙を禁じえない」のは、躁鬱質の木戸が、躁状態で活躍した桂小五郎時代と異なり、維新以後鬱状態で涙もろくなっていたからで、金銭をねだったのはポーランド人でなく、ジプシーの旅芸人の一段であろうと、言われてみればまことにもっともである。「政規」は憲法、「典則」は法律で、木戸は憲法制度に基づく法治体制が国家繁栄のカギだと、この旅行中に痛感した。帰国後大阪会議で憲法制定を主張し、明治8年4月の「立憲政体の詔勅」から、元老院の憲法起草作業への道筋を作った。

  この列車に同乗していたのが青木周蔵で、彼こそ憲法の重要性を木戸に吹き込んだ張本人である。青木は医学研究の名目で長州藩からドイツ留学に派遣され、政治学に転向した。岩倉使節団に、兵学に偏した留学生政策の是正を力説。木戸に依嘱され、憲法案「大日本政規」を起草した(家永三郎他編『明治前期の憲法構想』冒頭に掲げられている)。彼はやがてドイツ公使となり、ドイツ貴族の娘と結婚。父の医業を継ぐものと信じていた養家の娘テルは、裏切られてやがて狂死する。

   明治14年の政変により日本がドイツ流憲法を制定することが決まると、彼が張り切ったのは当然で、明治15年憲法調査のため訪独した伊藤博文らを接待し、グナイストやモッセの講義の通訳を務める。ところが伊藤と彼は肌が合わない。条約改正作業のため井上馨外相に呼び戻されて、やがて外務次官になっていた彼を、伊藤は憲法起草グループからのみならず、憲法を審議する枢密顧問官からも外してしまう。

  彼が明治24年松方内閣の外務大臣となるや否や、大津事件が勃発し、閣僚でもない伊藤が事件の処理をわがもの顔に左右した。「事毎に容嘴して殆ど一身に外務・内務両大臣の職権を兼帯する如き観ありしかば、予は心甚だ平らかならず」、しかも最後には彼は責任をとらされて辞任を強いられ、中央政界から脱落してドイツに戻る。

  資料を広く、深く、鋭く読み、徹底的な調査の結果を、俳人ならではの見事な文章で綴ったこの明治前期史の傑作は、来春中公文庫に収録されるとのことである。(『法学セミナー』1997年1月号)*

*水沢氏は2008年6月7日逝去。