他我と外界
唯我論者の世界
唯我論者において世界とは自分の意識の世界に他ならない。この意識の世界に太陽や月、山や川、親兄弟や友人・他人などが「感覚の束」として存在する。この世界には「我」の意志によって左右し得る部分とし得ない部分がある。後者については、書物という感覚の束の中に、例えば「太陽系はケプラーの法則に従って運動している」というようなことが書かれており、大体そのように太陽や月や惑星は動いているように見える。即ち後者は意志によって左右され得ない法則によって支配されているように見える。才能があり、教師とよばれる「感覚の束」によって訓練を受けた唯我論者は、自分でもそのような法則を発見できるかも知れない。
ところで、「我」の意志によって左右し得ると思われている「内感」についても、心理学とよばれる題をもった「感覚の束」(書物)によると、同様に法則に従っているのだという。例えば唯我論者も過去の経験について「忘れる」ということがあるが、忘却という心理現象も心理学の法則に従って生起するといわれる。
唯我論者も、意識だけが世界であるとは言い得ないところがある。いわゆる無意識の存在である。「記憶のタンク」の存在はその一つで、現在の意識にはのぼっていないが、記憶はそこから必要に応じて意図的に取り出すこともでき、また思いがけず飛び出してきたりする。例えば学生からRousseauについて思いがけず質問されると、昔読んだ『エミール』の一節を記憶から取り出してくる。通り道で「麗峰」という名の店を見かけると、終戦直後に流行した灰田勝彦のヨーデル風の歌が胸に甦ってくる。どのような夢を見るかは、自分の意志では殆ど決定できないが、「記憶のタンク」から出てくることは疑いない。
Freudのいう「意識下」論は、幼時の性的体験が作り出した心の傷が、「記憶のタンク」の中には存在しながら、そのままの形では意識の世界に現われず、しかも意識の世界に支配的影響を及ぼすという現象を指摘したものであろう。
言語
意識の中に言語というものがある。これは「我」が作り出したものではなく、非唯我論的言い方をすれば「社会によって心に植え込まれた」ものである。唯我論者に受け容れられるような言い方をすれば、「『我』が意識をもつようになった時には既にその中に存在していた」。親という名の「感覚の束」に「お前の赤ん坊の頃、言葉を教えたものだよ」などと言われても、その頃の記憶がなく、「自分の意識の中にないものは存在しない」とする唯我論者には、無意味な発言かも知れないが。
ところで言語は、基本的に唯我論的にできていない。「我」の「汝」は互換的で、AにとってはAが「我」でBが「汝」、BにとってはBが「我」でAが「汝」であるという構造をもっている。この言語の世界においては、「我」のみが主体で、他者は意識の中の景色、認識や意欲の客体だとはされていない。双方が主体で、両者の間に「対話」が成立するという構造になっている。
この対話は、例えばAの意識の中の「感覚の束」である「富士山」は、Bの意識の中のそれとが同一物であるという想定のもとで行なわれる。ということは、外界の「富士山」がAの意識とBの意識に反映して共有されているのではないか。即ち言語は外界の実在を前提しているのではないか。
ということは、これを唯我論者から見ると、意識の中で自分の意志で左右できない部分については、その法則(例えば電気に関する諸法則)と附き合わなければ(電灯を点けたり、テレビを見たりする)生活が不可能であるように、他者という「感覚の束」と、あたかも彼または彼女が主体であるかのように附き合わなければ社会生活が不可能であるから、擬制としてそういう行動をとっているということになるであろう。お附き合いとしての、擬制としての他者の主体性の承認である。
このような無理をしてまで唯我論を維持する必要があるのかは問題であろう。
唯我論的生き方・死に方
過激な唯我論者は、世界とは自分の主観的世界に他ならない以上、唯我論的世界観のみが唯一正しい世界観であると主張するであろう。他方には、意識の外にある外界のみが真の世界であって、意識の世界はその反映に過ぎないとする客観主義の世界観がある。その思想を唯物論の立場から主張したのが、Leninの『唯物論と経験批判論』である。
もう一つの立場として、外界の存在を否定する主観的世界観と、主観的世界を客観的世界の一部として位置づける客観的世界観の何れも可能であり、理論的に何れが正しいとは決定できないという立場も可能かもしれない。法哲学者Hans Kelsenはまさしくそのような思想を説いている(Das Problem der Souveränität,
1920)。
その場合、唯我論的世界観に基づいて生きる、それを実践するとはどのようなことであろうか?自己のみが主体で、他者は客体に過ぎないという思想を「階級」の次元で実践し、プロレタリア以外の階級を抹殺しようと試みたのがLeninやStalinであり、民族の次元で実践したのがHitlerであろう。
個人の次元でそれを実践しようとすると、余りにも敵が多く、自滅する他ない。秋葉原事件の犯人などは、こうして自滅した人物といえるかどうか。少なくとも犯行を決意して後には、他者はすべて客体であるという図式に従って行動したように見える。しかし逮捕後は、法という客観的世界の規範に従属を強いられる。自滅して、自らの意識の世界を生命とともに消してしまえば、唯我論的世界観を放棄せずに貫徹したことになる?
他集団を抹殺するという集団的唯我論のついでに、個人的唯我論を貫徹し、個人の次元でも周囲の人間たちを抹殺し続けて、「安らかに生涯を終えた」人物の一人にStalinがいる。