「赤いリンゴに唇寄せて、黙って見ている青い空、リンゴは何にも言わないけれど、リンゴの気持ちはよくわかる・・・」
サトー・ハチロー作詞、万城目正作曲、並木路子歌うこの「リンゴの唄」が、焼け跡の終戦直後に大流行した。その頃、この「リンゴ」は天皇を指すのだという風説がささやかれた。事実はともかく、この風説には「神話的真理」ともいうべきものが含まれている。
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実際、当時の日本の庶民には、天皇の気持ちがよくわかったのだ。天皇は、対中侵略政策にも、ファシスト的傾向にも、日独伊三国同盟にも、仏印進駐にも、対英米戦争にも消極的であった。しかし火中の栗を拾い、身を挺してそれを防ぐことはせず、一旦それらが決定されると、既成事実の場の中で行動し、国の破局まで状況に追随した。そして屈辱の中でマッカーサーに謝罪し、余り格好のよくない生をながらえた。
これは大部分の日本人が、戦後自分についてもった、あるいはもつことを欲した自己認識そのものなのである。戦後の天皇は敗戦国民の象徴であり、それ故天皇が痛々しく不格好であればあるほど、国民の同情と共感を獲得した。敗戦が忘れられた世代には、何故親たちが、天皇にあのような愛情をもつか、理解できない。
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天皇の病臥以来、戦争責任問題が内外で再燃した。もちろん天皇に戦争責任はある。天皇が、戦争防止に可能なあらゆる手段をとったならば、防止が可能であったか否かはともかく、歴史の進行は変わったであろう。結果責任と心情責任という観点からすれば、政治的人間の倫理は結果倫理であり、心情や状況によって言い訳をしても、結果として政治目的が達成されなければ、政治家としては失格である。結果倫理となれば、目的達成のために「手を汚す」ことも「悪魔との取引」も必要となる。
ところが天皇は、その性格においても、その帝王学においても、心情倫理の非政治的人格であった。昭和15年、ナチ・ドイツがフランスを占領した時、軍部はその虚に乗じて仏印を占領しようとした。
天皇はそれに対し、「フリードリッヒ大王やナポレオンのような行動、極端にいえばマキャベリズムの様なことはしたくないね」と言った(『木戸日記』)が、結局軍部の仏印進駐を「国際信義上ドウカト思フガマア宜シイ」と裁可した。マキャヴェリズムを阻止するための戦術という思想がないのである。まことに軍国主義国家の主権者にふさわしからぬ人格であり、それが天皇の人間としての悲劇でもあった。
天皇が戦後、軍事裁判の訴追を免れ、皇位に留まりえたのは、米国が天皇を利用したからだといわれる。しかしそれは一面の真理に過ぎない。天皇が心情倫理の人間であり、かつその心情が軍国主義とは逆の方向のものであったことは、連合国の関係者の間では、広く知られていた。
昭和10年、蒋作賓大使に対し、天皇が「蒋介石に済まない」という趣旨のことを言い、会見後牧野侍従長が、大使に「この天皇の発言は、内緒にして欲しい。そうでないと私は切腹せねばならぬ」と懇願した。大使はこのことを蒋介石だけに告げた。終戦後蒋介石が天皇に示した好意には、このことが関わっているといわれる。
日中戦争開戦翌年(昭和13年)の歌会始に、天皇は「静かなる神のみそのの朝ぼらけ、世のありさまもかかれとぞ思ふ」との歌を寄せた。これが天皇が対中戦争を欲しないことの表れとして、日本で秘かに語られた。このことは、当時のベスト・セラーであるジョン・ガンサー『アジアの内幕』(1939年)によって世界に伝えられた。米国の駐日大使ジョセフ・グルーが天皇が親英米的穏健派である旨を、本国政府や米国世論に繰り返し訴えたことは周知のことである。天皇のこの心情倫理は、戦後マッカーサーを動かし、対日政策を穏和なものとすることに貢献した。戦前の日本に禍いしたこの心情倫理は、その責めの一部を償ったのである。
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地位と性格の乖離に悩んだ昭和天皇の事例を見るにつけ、憲法学者の間で論議されてきた「天皇の人権」という主題を思わざるを得ない。天皇は、自らの意思で選んだ訳でもなく、必ずしも自らの適性に合わない地位を、宿命として割り当てられ、その宿命に堪えつつ生涯を送らねばならぬ。戦後民主主義の中で育った我々から見ると、こんな無権利状態の人間を作ってよいものだろうかと感ずる。
こうなった一理由は、明治政府が天皇を政治的に利用しようとしたところにある。天皇が一生のうちの何年かを、儀式と伝統の保存者として送り、やがて弟や子に譲位して、悠々自適の生活を送った江戸時代の天皇制への復帰を、今や真剣に考えるべき時ではないか。故小島和司教授の研究(『明治典憲体制の成立』木鐸社)によると、明治憲法の成立する二年前まで、草案に天皇退位の規定が存在したのである。(「読売新聞・夕刊」1989・1・12)