社会的動物

 Zoon politikon

  Aristotelesは人間は本性上zoon politikonであると言った(Politika. 1253a)zoonとは「動物」という意味である。彼は人間を蜂などのzoon agelaion(群居動物)の一種としている。agelaionという言葉はむしろ牛とか羊とかのイメージと連なるようであるが。

 politikonを何と訳すかは問題である。一つの訳に「ポリス的動物」というのがある。Aristotelesの視野は、弟子のAlexandrosが大帝国を作る直前まで、ギリシャの都市国家(polis)体制に限定されていて、それ以外のことは考えられなかったからこんなことを言ったのだ、という。しかしこれは大哲学者の矮小化であろう。

 「国家的動物」という訳はanarchistcosmopolitanのような生き方を否定する国家主義的・団体主義的イデオロギーに引きつけてAristotelesを解釈する傾向と結びつく。

「政治的動物」という訳は、人間界にはもめごとが絶えないもので、その中から秩序を作る営みとしての「政治」は人間の宿命であるというような、現実主義的人間観・社会観を連想させるであろう。

「社会的動物」という訳もある。これは、人間は和気藹々と暮らしていくのが本来の在り方で、争いは非本質的・例外的事態だというoptimismの社会観と連なるものがある。しかしこの訳については、国家と区別された社会の観念が古代に存在したか、ラテン語のsocietasやギリシャ語のkoinoniaはもともとどういう意味であったのか?といった問題もある。Grotiusなどはこう訳して、「人間の本性に基づく自然法」という思想を展開した。

『ニコマコス倫理学』(1097b)においては、人間は「本性的に(physei)politikonだと言われている。自足(autarkeia)は一つの理想ではあるが、人間は一人で生きることはできず、親子・配偶者・友人、更には同朋(同国人たち)とともにあってこそ生きられるのだという。ここでのpolitikonは「共同体的」というような意味のようである。

以上みてくると、zoon politikonは、Aristoteles解釈に関する限り、(Gemeinschaftと対比されたGesellschaftよりもっと共同体的という言葉に近い意味で)「社会的」と訳すのが適当なようである。

 

言語と社会

Aristotelesは、人間は言語をもっている点で、他の群居動物より社会性が強い、と言っている。そして言語は有益なものと有害なもの、正義と不正を明らかにするものである(Politika, 1253a)。これは20世紀の言語哲学史などから顧みて、驚くべき洞察である。

唯我論者の心の中に言語があり、その言語は「我」と「汝」を互換的なものとして扱う非唯我論的なものであることは前に述べた。唯我論者が「他者とは自分の意識の中の感覚の束に過ぎない」といくら頑張っても、意識の中の自分の自由にならない部分については、それを支配している法則に附き合わなければ痛い眼に遭うように(焼け火箸を握れば火傷をするように)、他者という意識の中の感覚の束とも、相互に主体性を認め合う構造をもった言語を通じて交流しないと、憎まれてひどい眼に遭う。従ってすくなくともfictionとしては他者の主体性を認めるかのように行動せざるを得ない。そうなれば、他者の主体性を否定すると言う唯我論のメリット(?)は台無しになるであろう。

かつて言語哲学者たちは、言語について、「ここに犬がいる」というような認識伝達的機能を第一義的なものと考え、他の機能は二次的なものと考えたが、やがてその序列がくつがえされていく。即ち人類史上「痛い!」というような情緒の表明が言語の最初の形態だったのではないか、更には、「善い」「悪い」「合法だ」「違法だ」というような規範言語が言語の本来的機能で、認識伝達的機能はそれから派生したのではないか、と考えられるようになった。赤ん坊は「ダメ」と「お利口」の両概念をまず植え込まれ、何がダメで何がお利口かを習得することによって言葉を学んでいく。まさにAristotelesが二千年以上前に指摘したことである。

Aristotelesは、ポリスは個人より先にある(proteron)と言っている。ここではこのポリスを「社会」と訳しておこう。社会は個人の心に、言語を通じて正不正という規範を個人の心に送り込むのである。独立自尊の唯我論者から見れば、言語はその心に送り込まれる他律的秩序の「トロイの木馬」である。人は特定の言語を植え込まれることによって、その社会の規範的世界に取り込まれるのである。

 

要件と効果

規範的言語という観点からすると、もろもろの単語は規範的要件か効果である。法をモデルとすると、規範とは上位の権威を前提するもののみが念頭におかれ、規範的効果としてはもっぱら違法行為に対する制裁(刑罰・強制執行など)が考えられる。しかし規範概念を広くとれば、賞罰が基本的な規範的効果である。更に、賞罰は上位から下位に加えられる、あるいは授与されるものであるが、対等者間においても規範的関係は存在する。プラスの効果として謝礼、マイナスの効果としては復讐がその典型であろう。「一寸の虫にも五分の魂」で、下位者が上位者に対して復讐することもある(旧軍隊の「ふけめし」など)。

人間は、もろもろの出来事、特に他者の行動を、それに対応してどのような行動をとるべきかという観点から分類し、それに対応して行動しながら暮らしている。教師から見ると、学生の行為は努力・勤勉などというプラスのものから、遅刻・無断欠席・不作法・怠惰、更にはカンニングなどと分類され、それに応じて賞罰(口頭の毀誉)などがなされる。もちろん大部分の行為は中間の価値中立的行為に分類されるであろうが。人間界は、各人がこうして各人の行為を評価し合う巨大なネットワークである。各人は幼時より、このようなネットワークの世界に、言語の習得とともに取り込まれるのである。

革命が言葉の革命を伴うことも、言語の規範性の一つの表われである。明治維新から徐々に「拙者」などという武家言葉も消えていった。「匪賊」とよばれた人々が英雄となり、「忠臣」とよばれた人々が反革命分子となる。日本でも、「勇ましい」という言葉は、戦争中は最大級の褒め言葉であったが、戦後は無謀さへの皮肉の表現となった。