唯我論(solipsism)
ラテン語のsolus(ただ)ipse(自身)が語源。
哲学的にはデカルトの懐疑に出発点があるとされる。彼は自分がもっている諸々の知識や信念を「夢かも知れない」「悪魔に欺されているのかも知れない」と疑った。例えば「昨日十万円入りの財布を拾った」と思っていてもそれは夢だったかも知れない。「今もそれがポケットに入っている」と確認したとしても、(拾得物横領罪だが)それも夢かも知れない。「29×73=2117は何度も検算したから間違いない」と信じていても、悪魔が魂の中に入り込んでそう信じさせているのかも知れない。こうなると何も信じ得るものはないようであるが、しかしこういうことを考えている「我」というものがなにものかであることだけは否定できないだろうと考えた。「我思考す、故に我存在す」(Cogito, ergo
sum)である(ラテン語は主語を明示しないから、この有名な言葉の中に「我」(ego)という単語が出てこない。フランス語で書かれた『方法叙説』ではJe pense,
donc je suis.となっている)。
しかし経験論者から見ると、この推論は問題である。むしろ昨日十万円入りの財布を拾ったと意識したこと、それを今記憶していること、今ポケットに手を入れたら財布の感触があったという意識内の事実こそ疑いのない事実であって、それが夢であっても、そういう夢を見ているという事実は否定できない。むしろ意識の外の外界に財布が存在しているという信念こそ根拠がない。なぜなら人間は意識の外の外界などは原理上知りえないものだからである。もう一つ問題なのは、「我」という神秘な実体が何なのかはっきりしないことである。意識の中でも、見るとか触れるとか考えるとかという過程は存在しても、その主体としての「我」はどこにあるのか分らないからである。バートランド・ラッセルは、「我思考す、故に我存在す」と言う代りに、「意識の中に思考がある」と言うべきだったと言っている。
デカルトが「夢ではないか」、即ち意識と外界が一致しているかどうかを疑ったのに対し、経験論者にとってはそもそも「外界」などというものは人間にとって到達し得ないものである。「存在するものは意識(ショーペンハウアーの用語では「表象」)だけだ」というのが古典的な経験論の立場であろう(経験論が「古典的」でなくなるのは、心の中の無意識、あるいは意識下という領域の存在が自覚されてからである。これはショーペンハウアーの「意志」や仏教でいう阿頼耶識(アーラヤ識)などの問題にも関わる。後述)。
「物は表象の束」だとして、物的世界を心的世界に還元する思想は一種の「唯心論」であるが、「他人も自分の意識の中の表象の束に過ぎない」と考える時、「唯我論」となる。唯我論は突飛な説のように見えるが、基本的事実でもある。自分と他人は違う(日本語で「他人」とは親密圏外の人間のことをいうが、ここでな自分以外の人間のことである)。「私がケーキを食べる」ことと「彼がケーキを食べる」こと、「やけどして私が痛く感ずる」ことと「彼がやけどをして痛いと言っている」こととは全然異なる。前者においては私が甘味や痛さを感ずるのに対し、後者は私には甘くも痛くもなく、彼がそう言っている、そういう風に見えるという私の意識の中の景色に過ぎない。唯我論は「世界とは自分の意識の世界に他ならない」とする思想であるから。
しかし問題なのは、ここで「自分」とか「我」とかといわれているものが何かである。ここにある意識の世界とは別に「自分」とか「我」とかというものがあるのか。即ち感覚や思考の「主体」というものが意識の世界とは別に存在するのか、が問題である。ショーペンハウアーはこの主体を形而上学的「意志」であるとしたが、この意志は(マックス・シュティルナーは世界を自分の所有物であるとよんでいるが)意識の世界のほんの一部しか支配できない情けない存在である。確かに片思いしている女性が別の男と手を組んで歩いているのを「見たくない」と意志すれば、目を閉じたり外らしたりすればよい。しかし彼女を自分の手を組んで歩かせることはできない。「歯が痛い」という意識は、「意志」によってはどうすることもできず、「医師」という感覚の束に助けて貰わねばならない。
もしこの「意志」が「我」であるならば、「我」の他に意識の世界が存在するのだから、自分の意識の世界だけが存在するという思想は「唯我論」ではなくて、「世界は『我』と意識とから成る」という二元論である。そうするとこの「我」とは何かが問題となる。確かに意識の中に悲しいという感情があった場合、「俺は悲しい」と独り言をいったりする(英語で「独り言を言う」はthink aloud、即ち「口に出して考える」と言う)。この「俺」とは何か。
それにはまず意識の中に「言語」というものが存在していることに注目しなければならない。「言語は他者とのコミュニケーションの手段であるから、言語の存在そのものが唯我論の反駁となる」というという主張(Wittgenstein)もあるが、この主張そのものによって唯我論が覆るかどうか分からない。ともあれ経験論者から見れば、言語は意識の中の諸事物・諸事象に言及するシンボルである。例えば「犬」という単語は意識の中に登場するワンと吠えたり尻尾を振ったりする四つ足の生き物であるが、「犬」という単語の意味は、そういう生き物の総称であって、個々のポチとかチビとかという犬はその具体例に過ぎない。言語は意識の中の具体的事物・事象そのものを指すこともあるが(固有名詞、単称命題)、通常はそれとは区別された観念的な「意味」を指示している。意識の世界のなにものも指示していない単語や命題もある。
このような点をめぐっては面倒な様々な問題があるが、ともあれ「我」という単語が意識の中の何を指示しているかが問題である。ジョン・ロックは、「我」の存在は直観(intuition)によって、神の存在は論証(demonstration)によって、その他のものは感覚(sensation)によって知ると言っており、「我」を感覚的経験の世界の外の存在だとしている。これは中世形而上学の尾?骨で、経験論を徹底すれば存在するのは経験的意識だけで、「我」などというものは存在しないという「唯意識論」「無我論」に到達する可能性もある。
この「唯意識論」が正しいかという問いと関連しては、心の中の「意識下」「無意識」の領域の存在という議論もある。フロイトはこの問題を「抑圧された性欲」という問題に限定したが、仏教の阿頼耶識論は、心は前世から現世において積み重ねられた体験の累積で、意識はそのほんの一部が顕在化したものに過ぎないという。「意志」と「表象」を対置するショーペンハウアーの人間学も、「意志」を意識下の存在とするフロイト流の思想に連なっている。
「唯我論は論駁できるか」という問題がある。私にとっては、世界とは自分の意識の世界で、他人(自分を生んだといわれる母親を含めて)とは感覚の束に過ぎず、他人の心とはせいぜい自分の心の類推によって推測されるものに過ぎない。ウィスキーが嫌いな人間にとって、それが好きな人間の味覚が想像し難いというだけではなく、同じく卵焼きが好きな人間同士でも、自分が味わっているそのおいしさと、他人が味わっているのとが同じかどうかは比較のしようがない。「私にとっての世界は私の意識の世界だけだ」と主張する者を論駁することはできないのではないか、と言う。
論駁はできないが、意識の中の感覚の束である他人を、自分と同様の主体であると「解釈」し「承認」することはできるのではないか、という議論がある。ヘーゲルが『精神現象学』で説いたことも、このようなものと解釈することができよう。自分にとって他人が感覚の束であるように、他人にとって自分も同様であり、両者は共通の大きな世界の一員であると「解釈」するのである。こうして社会的世界への道が開ける。
もちろん、そのような解釈を拒否して唯我論的な生き方を選ぶこともできる。しかし先に歯痛の例などで述べたように、自分の意識の世界は、「我」にとってもどうにもならない「所与」なのであり、それを拒否することは自滅に連なるであろう。