レオ・シュトラウス問題
長尾龍一
「近代」批判とドイツ・ユダヤ人
イノヴェーション競争によって不可逆的・加速度的に変化する「近代」は、前近代の安定した静的秩序と対比されて、危惧と不安の対象となってきた。しかし天文学的タイム・スパンから見れば、アミーバから人類に至る地球上の生命の歴史、旧石器時代・新石器時代・青銅器時代・鉄器時代と推移した前近代社会の歴史もまた急激で不可逆的・加速度的な変化の過程であった。「万物は流転する」のである。老子など古代思想家たちも、そのことへの危惧の念を表明している。
しかしヨーロッパにおいて、「近代」の危険を劇的な形で示し、思想界の枠組みを激変させたのは、第一次大戦であった。大戦中において既に、「自由に意欲する者の共同体」(シュタムラー)という普遍主義的理念は愛国ヒステリーに取って代られたが、特に「近代」の代表者である英仏、更に米国と戦って敗北したドイツにおいては、苛酷な講和、破滅的インフレ、社会的混乱の中で、「近代」批判は旧敵国に対する憎悪と連動し、やがてファシズム的諸運動からナチ革命へと連なっていく。
メンデルスゾーンやマーラーの音楽が基本的にドイツ音楽であるように、ドイツ・ユダヤ人の思想もまた基本的にドイツ思想の脈絡の中にあり、新世代のユダヤ系知識人の思想もドイツ思想界における「近代」批判の潮流の中にあったが、彼等には独特の問題も存在した。「解放」によってゲットーを出て、公的には良きドイツ国民、個人としては良き市民社会の一員になろうとする同化主義は、十九世紀末先進国フランスにおいて生じたドレフュス事件の挑戦を受け、反同化主義のシオニズムとの間での激しい論争を交わしていた。
戦時の愛国熱はユダヤ人を「よそ者」として排斥する反ユダヤ主義を激化させ、彼等を同化に対する絶望へと向わせた。特に兵士として参戦したユダヤ系青年たち(愛国の実を示そうと志願した者も少なくない)が軍隊で体験した露骨で粗野な排斥は、多くの青年をユダヤ的アイデンティティーへの回帰、シオニズムへと駆り立てた。もっとも彼らのシオニズム運動も、ワンダーフォーゲルなどドイツ青年運動の模倣という性格をもち、シオニストの同化主義・啓蒙主義批判は、ドイツ思想界の「近代」批判の強い影響下にあった。
青年レオ・シュトラウス
レオ・シュトラウス(一八九九〜一九七三)は正統派的なユダヤ教徒の家に育ち、大戦中十七歳で「政治的シオニズム」運動に参加した(やがてユダヤ的アイデンティティーの拠点は聖書の啓示であるとして距離をとる)。戦後諸大学で哲学等を学び、スピノザやカントの啓蒙主義的宗教論を批判した論文で博士号を取得、また初期には「神々の相争う現実に理性者として堪える」というウェーバーに感銘を受けたが、ハイデガーに接して哲学的転向を体験する。一九二五年ユダヤ学研究所研究員となり、聖書を人間的書物とするスピ
ノザの宗教批判を、近代知性の偏向として批判する著書を発表した(一九三〇年)。
この著書にカール・シュミットが着眼し、シュトラウスのためにロックフェラー財団留学奨学金の推薦文まで書いた。彼はパリに留学し、近代的知性を批判する拠点として、中世ユダヤ教思想家マイモニデス及びその先行者としてのイスラム思想家たちを研究した。その間ドイツでナチ政権が成立して帰国できなくなり、ナチに身を投じたシュミットとも絶縁する。エルサレム大学への就職を試みるが実現せず、渡英してホッブズ研究に専心、宇宙の理性的秩序との適合というストア学派の人間論・倫理学から、情念的人間観に移行したホッブズ政治哲学を批判的に分析する『ホッブズの政治学』(一九三六年)を刊行した。
米国とシュトラウス
一九三八年米国にポストを得た彼は、四九年よりシカゴ大学教授として、主としてユダヤ系知識人青年たちに取り囲まれて、一種のカリスマとなる。
そもそも米国は、その存在そのものが近代啓蒙主義の産物で、「建国の父」たちは奇跡を否定する理神論者、自由競争と民主主義の使徒である。二十世紀前半の米国はエディスンにライト兄弟、フォードにハリウッドの国であった。この国では第一次大戦も「近代」に対する思想的衝撃とは無縁で、むしろ「近代」のチャンピオンとしての自負を強め、大戦を世界にアメリカニズムを拡大する契機とした。
この米国でシュトラウスは何を考えたか、これが「シュトラウス問題」で、この主題をめぐっては、シュトラウス信者の間でも非信者の間でも対立がある。何しろ青年時代の彼は、ドイツ思想界における近代啓蒙主義を侮蔑の言葉で語る潮流の一員であり、やがてナチの旗を振ったハイデガーやシュミットと深い精神的結びつきをもっていたのであるから。
この主題についての最も好意的で無難な解釈は、「彼はもとより米国的民主主義と自由の支持者であるが、ワイマール体制瓦解の体験より、現在の米国の中に危機の徴候を見て、それに警告しているのだ」というものである。その徴候とは相対主義的寛容を意味し、ワイマールはそれによって滅びたとする。そこから米国的民主主義を妥協なく世界に宣布するという彼の弟子たち(ネオコン)の思想と行動が導き出される。
アラン・ブルーム
シュトラウスには「エルサレムとアテネ」という二つの魂があり、何れが彼の「本質」であるかをめぐって論争がある。娘のギリシャ学者ジェニー・クレイなど「アテネ派」も存在するが、ユダヤ系の論者たち(シュトラウスを論ずるのはそれが大部分である)では「エルサレム派」が優勢である。
ベストセラー『アメリカン・マインドの終焉』(一九八七年)の著者アラン・ブルームは、その中で「アテネ派」の代表者といえよう。彼はアメリカ建国をヨーロッパ精神史の承継としてとらえ、亡命者たちがもたらしたフロイトやヴェーバーなどのドイツ語圏啓蒙思想家の影響でその理念が相対化されたこと、それが六〇年代におけるマイノリティーの挑戦に対する知識層の無原則な寛容を生み、アメリカ精神を終焉に向かわせていることを辛辣な諦観をもって叙述する。なかんずく彼が慨嘆するのが、大学カリキュラムにおいて、プラトンやシェークスピアなどの西洋古典講義を黒人学や女性史などに代置する動向である。
シュトラウスは、「徳」を人間性の中心に据える古代倫理学に対して、マキャヴェリやホッブズが情念的人間を中心に政治哲学を展開したことを堕落として描き出したが、ブルームはスウィフト『ガリヴァー旅行記』の小人国・ラピュタ国を近代人の世界、大人国・フウィナム国を古代人の世界と解釈する形で近代批判を展開する(『巨人と小人』(一九九〇年))。
シャディア・ドゥルーリー
しかしシュトラウスの「本心」はアメリカ民主主義に敵対的でないかという疑惑は、批判者たちから繰り返し提起されている。それにはドイツにおける彼の思想的前歴や、あくまで啓示信仰を擁護する宗教的立場、寛容に対する否定的姿勢、そして彼の弟子たちのリベラル派に対する闘争的敵対性などが関わっているが、特にカナダの政治思想家シャディア・ドゥルーリーは、彼の思想的真摯さそのものに疑惑を提出している。
1. 彼女はまず、シュトラウスの「顕教・密教使い分け」論を問題とする。十世紀のイスラム思想家アル・ファラビについて論じた論説の中で、彼は哲学と社会の間には相剋があり、社会は哲学する権利を承認しないから、哲学者は真理探究を内輪の議論に留め、社会に受け容れられる「顕教」という鎧で自らを保護しなければならない、と言っている(『迫害と著作術』)。これが彼のアメリカにおける身の振り方そのものだというのである。
2. 彼の政治哲学の「密教」は、プラトンの「理想国」に描かれたエリート支配で、そこでは統治に当って「崇高な嘘」が容認され、その体制は、国民に「黄金「族」「銀族」「鉄族」があるという階級神話で維持される。ドゥルーリーによると、「正義とは強者の利益に他ならない」という『ポリテイア』冒頭のトラシュマコスの言葉はプラトン自身の思想であり、彼の発言が生き生きとして説得的なのに、ソクラテスの反論がくどくどとして説得的でないのは、「顕教」の中で「密教」を主張する典型的手法であるが、それはマキャヴェリやシュミットに共鳴するシュトラウス自身の思想でもある。
3. 宗教は最も有力な統治の手段で、実はシュトラウス自身もマキャヴェリと同様宗教を民衆操作のための「崇高な嘘」と看做しており、彼自身宗教など全然信じていないのだ、という(『レオ・シュトラウスの政治思想』(一九八七年)、『レオ・シュトラウスとアメリカ右翼』(一九九七年)、『テロルと文明』(二〇〇四年))。
シュトラウスと現代
その内懐に入ったことのない筆者には、シュトラウスの「本心」など知りようもないが、著作に表明されている彼の思想について、その現代的意義ということになると、思想的意義と学問的意義とが区別されなければならない。
思想的意義の第一のものは、懐疑的・非宗教的な近代的知性への批判であろうが、いわゆる「ポストモダニズム」の近代批判が、近代を「大きな物語」として更に解体しようとするのに対し、古代ないし中世の正統主義への回帰を主張する点で、キリスト教世界におけるトマス主義(アリストテレス・トマス的世界観への回帰)運動に対応するものともいえよう。
しかし「啓示への回帰」を主張し、近代的知性を迷蒙(プラトン『ポリテイア』にいう洞窟(彼は近代人の迷蒙を「第二の洞窟」とよぶ)の中の存在)として批判する点では「ポストモダン」の理性破壊運動とも連動するところがある。近年の彼の「人気」は、永き権威破壊に飽きた現代人が、ムード的に権威主義に郷愁を感ずるといった潮流とも無関係ではなく、それは第一次大戦後のファシズム的心情と連なるものであろう。
しかし彼がこの主張を「アンジッヒ」にではなく、スピノザやホッブズやウェーバーなど近代的思想家の内在的理解に基づいて「フュアジッヒ」に展開した点は、その学問的価値に連なる。ホッブズについての、ストア学派の自然的理性を基調とする人間論を情念的人間像によって解体し、「ヴェイン・グローリー」という闘争的情念を抑制する人類の救済者として「死の恐怖」という他の情念を発見したとする解釈は、彼の「思想」への賛否に拘わらず、独創的なホッブズ解釈である。
アリストファネスとクセノフォンを「真剣に受け取る」ソクラテス再解釈も重大な問題提起であり、「アゴラでの談論者」というプラトン的ソクラテス像に対し、存外彼も学園をもっていた可能性があるなどと言われると、ひょっとしてそうかもしれないという気にもなる。哲学する自由の存在しなかった前近代においては、それを「密教」の世界で営むことは哲学者たちの共通の処世であり、ソクラテスの死はそれを「顕教」的に主張した帰結であるという指摘も、彼自身の欺罔性というドゥルーリーの主張の成否に拘わらず、思想史上の重大な指摘である。
筆者はワイマールの第一の病いは寛容でなく偏狭である考え、広い意味で偏狭の潮流に属していたシュトラウスには批判的であるが、ホッブズ論など彼の思想史的業績には、脱帽を禁じ得ないと感じている。
(長尾「レオ・シュトラウス伝覚え書き」「シュトラウスのウェーバー批判」「シュトラウスのフロイト論」(『争う神々』(信山社)一九九八年)、及び「レオ・シュトラウスの『密教』――シャディア・ドゥルーリーの諸著書をめぐって」『日本大学政経研究』四一巻一号(二〇〇四年)参照)