杉浦克己さんを偲ぶ

 

杉浦さんと私は、同じ一九五七年文一入学(当時は法経進学が文一、文教進学が文二)だが、クラスが違うため、学生時代につきあいはない。しかし彼は「有名人」だったから、私の方は彼を知っていた。

大学に入って驚いたことの一つに、自治会幹部などによる「前座」というものがあって、大教室講義の前に、米国の原水爆実験とか勤務評定とかを非難する、アジ演説をぶつことである。杉浦さんはやがて自治会副委員長か何かになって、演説にやってきた。イデオロギーが違うから、内容には感心しなかったが、とつとつとして、パンチの欠けた話し方には、人間的好感がもてた。

杉浦さんが、相原茂先生の後任として法政から移ってきたのが一九七〇年十月一日で、四年後には横浜国大から西部邁氏がやってきた。こうして、佐藤誠三郎、公文俊平両氏と併せて、六〇年安保のリーダーたちが、社会科学科に揃ったことになる。すっかり思想を変えてしまった他の三人と杉浦さんとの関係は緊張に富んだもので、その行き着いた先が西部=中沢事件ということになる。

この背景としては、二つのことに思い当たる。

一つは、佐藤氏がある時期に自民党を「発見した」ことである。いつぞや江田五月氏も言っていたが、六〇年安保世代の知識人青年にとって、自民党などというものは、口にするのもけがらわしい愚かで醜い存在であった。また、佐藤氏の出身母体である東大法学部政治学科は、社会党と縁が深く、某教授が「自民党など、(敗戦の経験から)何ものも学ばず、何ものも忘れずだ」と言っているのを聞いたことがある。

その佐藤氏が、恐らくは社会科学科の先輩たちに媒介されて、政府周辺の人々と接触する機会をもち、そういう自民党認識がまったく誤っていることを「発見」した。政・官・財界のエリートたちは、英会話も堪能、創造的な知性、国際的視野と行動力の持ち主で、成長を続ける日本経済を背景に、世界に雄飛している。「それに比べて、大学の連中は何だ、大学で支配している社会科学のパラダイムは、古いばかりでなく誤っている」という訳で、大学改革の組織的努力を、村上泰亮・公文・西部などの諸氏(以下「改革派」とよぶ)とともに、まず足もとの社会科学科から始めようということになった。

もう一つの背景は、「相関社会科学」の発足である。(早くよりシニア・コースをもっていた国際関係論以外の)教養学部社会科学科のスタッフは、一・二年の概説講義と、本郷大学院の講義を担当していた。彼等は法経文三学部出身者の混成部隊で、各々本郷研究室の準会員といった地位にあり、心理的にも半分以上本郷研究室に帰属している者が多かった。

しかし毎日顔を合わせていれば、共同体性も生まれてくる。七〇・八〇年代には、先に名を挙げた人々に加えて、玉野井芳郎、内田忠夫、中村隆英、林周二、城塚登、折原浩、見田宗介など、日本の学界を代表する独創的な学者たちを擁して、意気が大いに上がっていた。玉野井先生がしばしば、これらの人々の名を挙げながら、「何とすばらしい諸君が揃ったものだ」と詠嘆しておられる姿を思い出す。

そこで大学紛争後しばらくして、この共同体を基礎に、社会諸科学の相関により、資源問題・南北問題・環境問題・先進国問題などの現代的問題群に取り組むコースを創設するという構想が生まれ、一九七八年シニア・コース、八三年には大学院コースが発足した。構想の実質上の中心に立ったのが内田・村上・佐藤などの諸氏で、彼らのいう「改革」の具体化でもあった。もっとも当初は、中村隆英・城塚登というような人々をできるだけ表に立てるなどの配慮をしていたようで、杉浦さんや私などの周辺的人物も、学際的社会科学というこの構想には、相応の意欲と協力の姿勢を有していた。

新たな学問的試みを支えるものは何といっても人材であるから、優秀な若手を養成するとともに、全国からすぐれた人材を招聘することが必要である。そのために、法学・政治学・経済学・統計学・社会学・社会思想史というジュニア教育の単位が自治的に人事を行なっていた従来の慣例を改め、シニア・コースの必要に基づいて人事を行なうという「シニア・優先原則」が決定され、それを実効化するために、シニア・コースの主任が人事委員長を兼ねることとした。ジュニア・コースの主任が任期二年であるのに対し、シニアの方は任期四年とされ、村上・公文・佐藤の各氏がこれを歴任した。

  一九八七年秋より八八年春にかけて、西部=中沢問題が起こった時期は、二七年生まれの城塚氏の定年直後で、二九年生まれの谷嶋喬四郎、三〇年生まれの菊地昌典、三一年生まれの村上・塚本健、三二年生まれの佐藤、三五年生まれの公文・折原、三七年生まれの見田・平野などの諸氏に、同年生まれの杉浦さんといったところが年長者で、それに三八年生まれの私、三九年生まれの西部氏と続いていた。

  問題は、「改革派」がシニア優先原則を楯にとり、城塚・谷嶋・塚本三氏の後任人事を、ジュニア教室の自治でなく、自分たちの手で行なおうとしたことによって生じた。その背後には、転向者のもつ、かつて自分たちが棄てたパラダイムを維持し続けている人々に対する激しい敵意と軽蔑があり、また無能と彼らがみなす同僚たちに対する侮蔑があったと思われる。

  佐藤人事委員長の会議運営は、喧嘩腰ともいうべき闘争的態度と、国会委員会の議事を思わせる規則づくめのリーガリズムの結合物であった。人事の公開のためとして委員会に人事委員以外の誰でも出席できるというルールが彼らのイニシアティヴで作られており、「改革派」の人々は出席率がよかった。若手を組織するために水曜日に「昼食会」が催され、「改革」への教育が行なわれていたこともある。

  批判的意見が出ると、学生運動以来鍛えられ、遭遇戦的論争に強い彼らが、集中的に叩き潰した。「そのことは□月□日の委員会で決定された既決事項です」という佐藤委員長の言葉も頻繁に聞かれた。特に杉浦さんに対しては聞く耳をもたぬという態度で、何かいうと、佐藤委員長が叱りつけるような口調で反撃した。

  城塚教授の後任を、社会思想史教室が推薦する山脇直司氏に決定することには、谷嶋・西部両氏の長い折衝の末、何とか合意ができたが、それは翌年三月退職する谷嶋教授の後任に、西部氏が推薦する中沢新一氏を採用することとの交換条件であった。

  仮に、ここで提案されたのが、スタイルや方法においてはオーソドックスで、理論内容において根源的・独創的であるような人物であったならば、結果は違ったかもしれない。ジュニア教室からポストを召し上げる人事の第一号に、学問上誰もが感心するような候補者を出さなかったことが彼らの作戦の失敗で、ギリシャ悲劇流にいえば、傲慢(ヒュブリス)のなせる業であった。私は、オルグに来た松原隆一郎氏に『チベットのモーツァルト』という本を読まされた時、「僕は頭が古いから、このようなものを評価する能力がないが、中沢氏ほどの才能のない若い人たちがこういうスタイルを真似するのは歓迎できないな」と言った。

  このスタイルがコントロヴァーシャルなものであり過ぎたことが、日頃の議事運営や、「改革派」の中曽根政権との密着等に対する反感とあいまって、強烈な反対運動の引き金を引かせることとなった。その先頭に立ったのは菊地・谷嶋両長老教授であった。その後の経過は西部氏の諸著書に委ねることにするが、「改革派」をもてはやして「大学の体質」を非難したマスコミの態度は、田中真紀子氏をもてはやして「外務省の体質」を非難した態度と好一対である。

  有能で著名な人々に去られた後、社会科学科をどのように立て直すかが、残留者たちの大きな課題であった。学際的社会科学の試みをやめようという者は誰もいなかったが、もう少し地味な仕方でこれを再建しようというのが、大体の合意であった。私は「相関社会科学なんて新しいものじゃ全然ないよ。諸学の関連づけはアリストテレス以来の哲学の中心主題だし、歴史学なんかまさしく相関社会科学じゃないか」と言い続けたが、若い人たちはついてこない様子であった(この事件については長尾『純粋雑学』(信山社)参照)。

  残留者たちの社会科学観を代表するものの一つに折原氏の大著『ウェーバーとデュルケーム』(一九八一年)があり、これは社会科学の古典が、まさしく相関社会科学的なものだということを示したものともいえよう。しかし杉浦さんの著書『コミュニケーションの共同世界』(一九九三年)こそ、社会の深層を「かたち」と「構造」に求め、初期マルクスと(シュッツなどの)現象学的社会哲学を架橋しようとする、社会哲学の野心的試みであった。この社会哲学は、それ以後彼が展開した市場論の基礎をなすもので、私の見るところでは、この着想の背後には、西部氏のハイエク論の刺激が潜んでいる(実際杉浦さんは、教授会で西部氏教授昇進の推薦を担当したが、それは好意にみちたもので、そこでの市場の自生的性格の叙述は、杉浦さん自身の「構造」論を思わせるところがあった)。

  杉浦さんと私は、相関社会科学再建で協力し、特に九〇年代半ば以後は、教授会の後、いつも高橋満氏と三人で、渋谷煉瓦館六回「長屋門」の夕食兼飲酒を楽しむ習慣となった。三夫婦で一緒に食事をしたこともある。

  一九九八年四月、杉浦さんは帝京大学、私は日本大学と勤務先が変り、会う機会も少なくなった。最後に会ったのは、九八年秋、岩永健吉郎先生のお葬式の帰り、一緒に電車で豪徳寺から新宿に出て、食事をした時である(もうあれから三年以上経ったなどとは信じられない)。他大学に移って、学生の無能を嘆く東大旧同僚の多い中で、杉浦さんは新職場の学生に非常な愛情をもち、分り易い講義をするように努力している様子に感銘を受けた。

  杉浦さんが癌に侵されたことを知ったのは偶然であった。二〇〇一年四月二十八日、妻が北大時代の指導教官降旗節雄先生(現帝京大学教授)を訪問し、「杉浦さんが学部長(学科長の聞き違い)をさせられて苦労している」という話を聞いてきたので懐かしくなって、「本日うちの『奥さん』が降旗邸を訪問、杉浦さんが苦労しておられることをお聞きしました。大変だと思いますがどうかおからだにお気をつけ下さい」というmailを送った。

  ところが翌二十九日夜、「お聞き及びのことかと思いますが、膵臓に癌が見つかり驚いております。かなり進行しており、手術の成功確率も低いので、このまま仕事をしつつ、延命策をとることにしようとしております。あまり強い痛みはありませんが、痛みが持続しているのが苦しみです。授業はできるだけ少なくして、少しずつは仕事をしていきたいと思います。今は検査に忙しく、ゆっくりお話しする機会もとりにくいのですが、いつかチャンスをとらえて三人で議論できる日をもてればと思います」というmailが来た。

  翌朝(今は帝京大学教授で杉浦さんの同僚)高橋氏に電話したが、彼は知らなかった。私は「余りの衝撃で言葉もありません。降旗さんは学部長をやらされていると言ったので、慰労のつもりのmailでした。奥さまもご心痛でしょう。医師とご相談の上で授業を続けられるのかと存じますが、くれぐれもご無理をなさらぬよう云々」というmailを送る。

  五月三日mailがあり、「大変驚かせてしまいまして、ごめんなさい。初めのmailで何かご存じかなと読み込んでしまいました。あなたに隠すつもりはなかったので、打ち明けてしまいました。出来るだけ残りの命を有効に使いたいと願っております。治癒の道は極めて細いようです」という。たまたま別のことで杉浦さんの帝京大学就職に尽力された五十嵐雅子さん(かつて私の大学院ゼミ生)より電話があり、「まわりで止めるんですけど、授業はなさるってきかないんですよ」とおっしゃる。こうして、学科長は辞任したが、週七コマの講義を続けたのである。

  七月早々高橋氏より、「杉浦さんが三人で例の長屋門で会おうかと言っている。□□日はどうだ」という電話があったが、その日の都合がつかない。更にもう一度「肉類が食べられず、長屋門は無理だということなので、どこか探す」という電話もあったが、そのままになってしまった。

  八月八日の朝、妻の勤める静岡文化芸術大学での集中講義のため滞在中の浜松のアパート(妻が賃借)で、高橋氏より杉浦さんの逝去を告げる電話を受ける。ちょうどその日は講義がなく、葬儀の十一日は講義なので、自宅(横浜)の妻に電話し、新横浜で待ち合わせて、昼過ぎにお宅に弔問にうかがった。

  かつて溌溂としておられた奥様は、本当に憔悴しておられ、この何箇月かの苦悩が窺われた。「免疫療法が順調で、秋以後の予定の話などもしていました。二日に吐血して入院しましたが、まだ元気で、採点のため答案をもちこんでいました。六日夜再び吐血し、意識を失って、そのまま翌早朝亡くなりました」ということであった。死に顔は、(以前に末期癌で死んだ知人の、骸骨のような姿とは全く異なり)、かつてと少しも変わらず、眠るが如きであった。

  清らかな心境で、闘病生活を短く切り上げ、我々の模範となる死に方である。もちろん余りに早すぎるけれども・・・。(『杉浦克己と私たちの時代』二〇〇四年所収)