悲しき玩具
「はたらけどはたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざりぢっと手を見る」とは、律儀に働きながら報われない庶民の心情を表した歌として有名であるが、啄木の生活が楽でなかったのには、懐に金のある限りは瞬く間に使ってしまう彼の浪費癖もあずかって力があったように思われる。『ローマ字日記』によると、明治42年3月25日に勤め先の朝日新聞社から25円の給料を受け取ったが、これを上司の佐藤慎一編集長への借金の返済にあて、一文も手にすることはできなかった。翌4月の25日に、前借18円を差し引かれて、7円を手にしえたのは進歩というべきであろう。其の夜は金田一京助と吉原を散歩して牛丼を喰ったのみであったが、翌朝、友人の並木武雄より、借りた時計の催促の手紙が来た。ところがこの時計は入質中である。彼は死にたくなって朝湯に入り、夕方は金田一と浅草で活動写真を見て、酒を呑み、それから淫売婦を抱いて3円を浪費した。翌27日は金田一らと飲食して最後の3円を費消。28日の電車賃で残りは5厘。電車賃がなくなり、かくて29、30両日は欠勤。
5月1日、早くも5月分給料を前借、煙草の借り1円60銭を返す。宿銭の借り20円と並木の時計請け出し代との両方は払いきれないため苦慮。しかし「行くな!行くな!」という内面の声にも拘らず、足は浅草に向い、牛丼を食べ、活動写真を見、「とろけるばかり暖かい」若い女の肌を抱く。2日に20円の宿戦を払う。それからずっと社を休み、本を売ったり、羽織を質入れしたりして糊口をしのぐ。6月1日、岩本実に手紙を持たせて、社より6月分給料前借り、佐藤編集長よりの借金5円を返して20円を手にするが、下宿料13円を払い、それから浅草で活動写真を見、西洋料理を喰い、続けて二人も売春婦を買い、雑誌を5、6冊買い、既にして残るところは40銭!
彼は「一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと」と呪いつつも、「実務には役に立たざるうた人と我を見る人に金借りにけり」ということを繰り返した。追い詰められれば嘘もつく。
もう嘘はいはじと思ひき――
それは今朝――今またひとつ嘘をいへるかな
このような生活状態が「石ひとつ坂を下るがごとくにも我けふの日に到り着きたる」という没落感、「何処(いずく)にか行きたくなりぬ何処(いずこ)好けむ行くところなし今日も日暮れぬ」という閉塞感を生むのは当然である。「予はなんということもなくわが身のおきどころが世界中になくなったような気分におそわれていた」(『ローマ字日記』)。ここに「世におこなひがたき事のみ考へるわれの頭」は、現世からの奇蹟的な逃避への願望に向う。
高きより飛びおりるごとき心もて
この一生を終るすべなきか
何かひとつ不思議を示し
人みなのおどろくひまに消えんと思ふ
日露戦争後の「国運の興隆期」で、大正デモクラシーの前夜にあたるこの時期を、彼が「時代閉塞の現状」としてとらえたのは、何よりもこの私生活の投影であろう。
青年時代が貧乏であった点では、福沢諭吉も啄木に劣らない。彼は無一文で長崎に行き、また旅費がないために船賃を踏み倒して大阪に出て蘭学を学んだ。啄木は「今日もまた酒のめるかな!酒のめば胸のむかつく癖を知りつつ」と歌ったが、福沢も「俗に云ふ酒に目のない少年で、酒を見てはほとんど廉恥を忘れるほどの意気地なし」であった(『福翁自伝』)。しかし「火をしたふ蟲のごとくにともしびの明るき家にかよひ慣れにき」というようなところは福沢にはなかった。彼は淋しがり屋ではなく、自室で酒が飲めればそれで満足し、「唯独りでブラリと料理茶屋に這入て酒を飲むなどと云ふことは仮初にもしたことがない」。独身時代の性欲も、はけ口を必要とするようなものではなく、遊里に足を向けないことに格別の無理な禁欲を必要としなかった(結婚後は九人の子を儲けた)。彼は「私は一体金の要らない男」といっている。それ故借金も質屋通いもしたことがなかった。
この彼は、厭な人間に頭を下げることもなく、一生を自己流で押し通し、オプティミストとして生き、オプティミストとして死んだ。「大勢は改新進歩の一方で」「日清戦争など官民一致の勝利、愉快とも難有いとも云ひやうがない」「自分の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快なことばかりである」とは、『福翁自伝』の末尾の言葉である。
翻って現代の日本を考えるならば、諭吉型の人物よりも啄木型の人物の培養に適した土壌であることは明らかである。幼時よりの豊富な消費生活、甘やかしの家庭教育は、欲求水準が高くかつ克己心に乏しい青年を大量に社会に送り出している。そして苛酷な現代国家は、こうして作り出された克己心なき民衆を破滅させることを、公然たる政策として行なっている。競輪、競馬等の公営ギャンブルがそれである。この苛酷さは「何処(どこ)やらに沢山のひとがあらそひて鬮引くごとしわれも引きたし」と啄木が歌ったかつての宝籤などの比ではない。こうして啄木と同様の暗澹たる絶望感を抱きながら、多くの民衆は外れ馬券という「悲しき玩具」を手にして身を滅ぼしていく。
ところで古来、知識人や学者は甘やかされて社会生活に適さなくなった青年たちの進出する領域である。そこでは常にペシミズムと突拍子もないラディカリズムとが繁殖する。
友も、妻も、かなしと思ふらし――
病みても猶、革命のこと口に絶たねば
現代知識人の「悲しき玩具」は月刊誌か?
(1979年)
[月刊誌もあれから随分変った。私は諭吉より啄木にずっと近い性格の持ち主で、この雑文も自嘲の産物といえよう(Nov.3, 2008)]