宗教戦争と「寛容」

権力分立が自由をもたらす」というモンテスキューの洞察は、国家権力と宗教権力の関係についても一応は当てはまるであろう。しかし宗教的少数者である中世ユダヤ人にとって、皇帝教皇主義(Caesaro-papism)に立つ東方教会下よりも、一応教皇庁と別に神聖ローマ帝国が存在した西ヨーロッパの方が、多少は居心地がよかったものかどうか。

 そのこととはまた別に、権力の少数派に対する寛容度の問題もある。中世イスラム教は、「啓典の民」であるユダヤ教徒とクリスト教徒に一定限度寛容であった。他方国家と教会が協力して宗教的情熱を爆発させた十字軍時代は、苛酷なユダヤ人迫害の時代でもあった。異端審問時代のスペインにおいては、ユダヤ人は殺されるか、追放されるか、改宗を強要されてマラーノ(「豚」の意、改宗ユダヤ人のこと)となるかであった。

 十六世紀の宗教戦争時代は、宗教的狂信の時代で、ユダヤ人は新旧両派から迫害された。即ち宗教の分裂は、さし当って少数派に福音をもたらさなかったように見える。「世俗権力が宗教を決する」(Cujus regio, ejus religio)という地域主権原則で妥協したウェストファリア条約(一六四八年)は、地域内における国家権力と宗教権力の結合であるから、皇帝教皇主義への接近であり、ユダヤ教徒にとっては歓迎すべきものではなかった。

 しかし、クリスト教の分裂は、やはり「権力分立が自由をもたらす」というモンテスキューの法則と無縁ではなかった。なぜなら、各国にクリスト教的少数派が生れ、権利闘争を展開し始めたからである。

 ウェストファリア原則は「見殺し主義」である。宗教戦争時代には、A宗派を奉ずる権力が国内の少数派B宗派を迫害すると、B宗派を奉ずる他国の軍隊が「信仰の友」の救済に現われた。相互にこのようなことを繰り返して、一世紀以上の戦乱を展開した結果、他国で迫害される「信仰の友」を相互に見殺しにする以外に、平和をもたらす方法がない、「悪しき平和も正しき闘争にまさる」という諦念に達して、地域主権原則・内政不干渉主義で合意したのである。

 しかし各国には依然多数で有力な宗教的原理主義者が存在したから、宗教戦争の論理が復活する危険性は常に存在した。そこで各国は、国内の少数者を圧迫して、他国の同信者の介入を誘発し、宗教戦争を再発させることを恐れた。「寛容」という綱領は主としてこのような脈絡から生れた。ユダヤ教徒もまた、このようなクリスト教諸宗派間の政治力学の「おこぼれ」として、一定限度の寛容の対象となった。

 「宗教戦争の克服」という主題は、権力者(政治人(homo politicus))たちの課題であったが、同時に知識人たちの問題でもあった。当時は政治人と知識人の距離は小さく、一流の政治人が同時に一流の知識人であることも稀ではなかった。

 知識人たちは、宗教対立を哲学的に克服することを試みた。そこで彼らが依拠したものが理性と自然、そして経験であり、その攻撃対象が啓示であった。いかなる宗派の信者でも、人間としての理性・自然・経験を共有しており、それによって宗派対立を架橋しようとしたのである。グロティウスが仮に神が存在しなくとも妥当するとした自然法、デカルトの良識(bon sens)、ホッブズが人間界を理解する鍵だとした自己認識、ロックが哲学的認識の出発点としての人間的経験などがそれである。