岩谷建造『津和野の誇る人々』
島根県津和野町は、人口数千という山間の小邑であるが、日本近代史・思想史・文学史上忘れられない町である。たまたま講演という名の雑談のため山口県庁にお招き戴いた機会に、夫婦で訪れた。美術館・博物館などが10ほどもあり、ここでゴヤの闘牛版画や北斎の動植物スケッチのコレクションに出会おうとは思わなかった。町民の支える文化の町である。
そこで入手したのが本書で、26人の著名人が紹介されている。最も有名なのはもちろん森鴎外、続いて西周で、森家は藩の内科医、西家は外科医。二人の生家は川を隔てて5分程度の距離で、何れも当時のままに保存されている。二人は遠縁に当り、鴎外は西にいろいろ世話になって、恩返しに『西周伝』を書いている。
かつて「西周の法思想」という小文を書いたところ、中国史の大家衛藤瀋吉先生から「お前は知りもせんことにすぐ口を出す男だが、こんなことまでやり始めたか」と叱られたことを想い出した。中国古代王朝「せいしゅう」との、先生の勘違いである(同先生には、「娘の部屋にテンチシンリ(天地真理)というすごい名のものがあって驚いた」とかいう話もある)。
芥川龍之介の学友としても知られる法哲学者恒藤恭先生の祖先井川家は津和野藩士。鳥取警察署長などを勤めた父君もこの町の生れで、鴎外と血縁がある。「檀上にこもごもさけぶわかうどら論理のあやに酔えるがごとし」など先生の詩人・歌人としての側面も紹介されている。
藩主亀井茲監は教育に尽力し、(建物が現存する)藩校は、高水準の教育を行ない、地質学の小藤文次郎、初代札幌市長高岡直吉、農業経済の高岡熊雄(直吉の弟)、紡績業の山辺丈夫、鉱山業の堀藤十郎、劇作家・演出家中村吉蔵、童話作家の天野雉彦など、多方面の人材を輩出させた。私の本棚に、昔挑戦して挫折したロシア語学習の「遺跡」、表紙にЯСУГИと記された八杉貞利先生の辞書があるが、その父君は藩から派遣されて東京で医学を学んだ。
『伯父ワーニャ』のアンドレヴィナ、『桜の園』のラネフスカヤなどを演じ、若くして急死した大正期の女優伊沢蘭奢の生涯を劇化した『津和野の女』は、先年佐久間良子が演じて、その劇的生涯が回顧された。彼女は津和野の紙問屋の娘。佐久間さんは、上演に際して津和野を訪れ、「離婚のつらさや女優の苦しさは、実感としてわかる」と語ったという。
津和野は国家神道と深く結びついた町である。「天皇は全世界の正統的支配者だ」と説いた大国隆正は平田篤胤の弟子、脱藩後藩主亀井茲監に招かれ藩校教授となる。その弟子玉松操が岩倉具視に入説し、明治維新を「神武創業への復帰」と性格づけさせたことは有名。東京遷都に反対して京都に留まった玉松に代り、明治初期の神道国教化政策を推進したのが、藩主の懐刀といわれた福羽美静である。幼い彼が曲芸師の綱渡りの真似をして落下し、生涯身長が伸びなかったとは初耳である。(『法学セミナー』1997年11月号)
(本website「森鴎外と津和野」参照。西と森の関係は「恩返し」などというきれいごとでは済まない面をもっていた)