トーマス・ベルクマン『訴えてやる!』(Thomas Bergmann, Giftzwerge: Wenn der Nachbar zum Feind wird, 1993)(中野京子訳)
旧西ドイツだけで、一年に40万の隣人訴訟があったという。法廷に表われたこの症状から、その奥に潜む攻撃性をあぶり出そうという、一種の精神分析的方法が、著者のアプローチといえよう。「この本は法律の専門書ではない。むしろドイツ人の魂を旅する短いオデュッセイアであり、闘争潜在能力の民族学である」「問題は、はけ口と犠牲を求める抑圧された攻撃性にある」とは、「まえがき」の中の著者の言葉である。
隣家の子供が廊下を走る、泣く。隣人がレコードをかける、時々パーティーをする。犬が吠える、糞尿をする。木の枝が張り出してくる、葉が落ちる。雑草を生やしっぱなしにしている・・・。こうしたことが、中産階級・上層階級の紳士淑女たちを、隣人を被告にした長期・高額の訴訟に駆り立てる。暴力沙汰・殺人事件さえも稀ではない。
「まさにドイツ的?悪づれした典型的ドイツ人?その通り、我々はそんな民族だ。裁判狂の民族?まあ、その第一級の資格はある」と著者はいう。確かに日本の隣人訴訟とはだいぶ桁も違うようだ。したがって本書から、日本人とドイツ人がいかに違うか、彼らはいかに訴訟好きか、を読み取ることもできる。これを「第一の読み方」と呼ぼう。他方、隣人関係はいかに難しいか、隣人間の潜在的・顕在的対立はいかに根深いか、という普遍的な問題の書として読むこともできる。これを「第二の読み方」とよぶことにする。
「第二の読み方」は、我々自身の隣人関係を反省させる。我が家の例では、毎土曜日の午後、隣家で親類縁者が集まってカラオケ会を開く。もう一軒の隣人は、雪が降っても道路の雪掻きをしない。だが我が家の犬はしつけが悪く、しょっちゅう吠える。家族の多忙を理由として、夏になっても裏庭の草刈りをなかなかしない。独身時代にはアパートの一室で、「音が鳴るからオトナリだ」としばしば呟いた。隣人のラジオ・テレビ、友人との会話、さらには恋人を連れ込んだりして、なかなか寝つけないことも多かったが・・・。
しかし日本人は、「すみませんがちょっと静かにして下さい」とか、「うるさいぞ」とか言われると、多少は謹慎し、我慢できる程度になって、一応収まることが多い。これが欧米人との対人関係・法文化の違いであろうか。こうして「第二の読み方」は「第一の読み方」に移行していく。
思うに、欧米的法原理は、基本的に短期的人間関係を基礎として成り立っていて、家族・隣人・終身雇用制企業などの長期的人間関係にそれを持ち込んでも、あまりうまくいかない。生半可な法学生などは、長期的人間関係の中に西洋的法原理を持ち込み、「利口馬鹿」と陰口される。しかし彼らもやがて大人になり、かつてのムラから現在の日本型企業に至る長期的人間関係の伝統に慣らされて、近隣訴訟のような空しいことに時間とカネと労力を浪費しなくなる。もとより、本当にムラと闘う必要が出てくることもあるが。(『法学セミナー』1994年5月号)
[原題は「毒小人:隣人が敵となる時」で、出典はまだ調べていないが、毒矢で射てくる小人というような意味であろう]