ジーン・ベスキー・エルシュテイン『女性と戦争』(小林史子・廣川紀子訳)(Jean Bethke Elshtain, Women and War, 1987)
いつ終わることもなく続く戦争を、敵国同士のアテネとスパルタの女たちが同盟して、セックス・ストライキでやめさせる――紀元前411年アテナイで上演されたアリストパネス『女の平和』にも、「好戦的男対平和的女」という図式が明確に表明されていて、これに関する「古典学説」ということができよう。
家−戦争−政治−公共性を連鎖的にとらえる政治哲学は、非軍事的・非政治的と想定される女性を、非政治的な私的世界=家庭に閉じ込めようとしてきた。これが今世紀初頭の反女性参政権論の論理である。それに対し「平和主義フェミニスト」たちは、「本性的に平和的な女」を政治的に組織して、「好戦的男たち」を抑え込み、戦争の単位としての国家を克服して、世界平和を樹立しようとする。
両者は対立しつつも、「古典学説」を共通の論拠としており、現代米国の政治哲学者の手になる本書は、それを俎上に乗せる。著者は幼時よりオテンバで、ジャンヌ・ダルクに憧れて断髪し、親に叱られた。その後も従軍記録類を読み漁り、主な戦争映画は殆ど鑑賞した。プラトンからハンナ・アーレントに至る、古今の政治哲学への蘊蓄を傾けつつ展開される論述は、不適訳に満ちたギクシャクした訳文(ダークハイム(p.190)とは誰か?もちろんデュルケームである)を通じてさえも、迫力が伝わってくる。
アリストテレスもいうように、人間は「ポリス的存在」であり、女性とて同様である。著者の読み直した歴史の中では、女たちの多くが積極的に戦争に参加している。五人の息子を失って動揺せず、ただ祖国の勝利を祝福した「スパルタの母」は、歴史の中に繰り返し現れる。古来女は戦う男の鑑賞者であり、臆病な男、兵役忌避者を嘲弄した。戦争に際しては「行け!」と恋人、夫、息子を促すのが古来の女の道であり、南北戦争や二つの世界大戦において、アメリカ女性たちも、女性戦士や従軍看護婦・従軍記者などとして戦争に参加してきた。
著者の議論の基本線は、彼女が学生時代より学んできた、マキャヴェリの系譜を嗣ぐ政治的リアリズムである。「古典学説」の善玉悪玉主義は女性の実像ではない。このような観念的自画像でなく、現代世界の政治的現実認識と、女性の現実的自己認識の上に、政治行動の方向を見出すべきであろう、というのが、結論のようである。
戦後日本においては、「戦前の日本人の愛国的言辞、まして『靖国の母』たちの夫や子の遺骨を毅然として受け取った態度は、本心を偽ったもの」という前提から、旧日本人の行為を解釈してきた。しかし「戦う国家」であることをやめた戦後日本が忘れていた人間像を描いた、「戦う国家米国」の女性のこのような書物に接すると、かつての愛国婦人たちの言動について、再解釈の必要を感じないでもない。フェミニスト史学の先駆者高群逸枝も、戦時には多くの戦争讃美の文章を公にしているのである。(『法学セミナー』1995年5月号)
Golda Meir 1967年Egyptと戦争、勝利
Indira Gandhi 1971年Pakistanと戦争、勝利
Margaret Thatcher 1982年Argentinaと戦争、勝利