午後の光
既に我が家も同然に慣れ親しんだグレン・マッケンジー宅二階の寝室でウェイバー・ベルベットは眠りから覚めた。
外はだいぶん日が高い…というよりも、正確に言い表すならば、それは既に傾き始めているいい。橙色に色づき始めた陽光を、まるで親の敵を見るような不機嫌極まる視線で睨みつけながら、ウェイバーは身体を起こす。
どうにも、冴えない目覚めであった。頭の深奥をきりきりと痛めつける厄介事さえなければ、徹夜で論文を書き上げた翌日の少し重苦しい、しかし満足に溢れた目覚めと、そう言えなくもないものであったが、しかしウェイバーの機嫌は頗るよろしくない。
ウェイバーにとって、気に食わないことなどそれこそ無数とあるが、その中でも飛びっ切りだったのが、どうして自分が眠っているのか―――しかも、こんな時間まで、まるで白痴のように―――それが一向に分からなかったからである。
然り、ウェイバーは辺りを見回す。まるで、自分が誰で、何故ここにいるのか分からない、記憶喪失の患者のように。
『―――あれ、おかしいな。確か、僕は一目を覚まして、そして―――』
思い出したのは、昨日の戦い。
人外の宴。
聖杯戦争。
音には、聞いていた。
文では、知っていた。
しかし、それがどれほどのことか。
たった七騎が、一つの景品を巡って争うだけの小競り合い。
しかしその小競り合いには戦争の文字が銘打たれていて、それは誇大広告では決して無い。
太古の英雄、人の理想型。
彼らの力は、それほどに人智を超越しているのだ。
その七騎のうち、五騎が一同に会する大混戦。そのいくさ場の。何と苛烈で、何と凄まじかったことか。
自分は、まるで激流に弄ばれる木の葉だったなと、ウェイバーは回顧した。
―――何も、出来なかった。
己は、天才であると。
それが認められないのは周りが愚劣に過ぎるからだと。
頑なに、そう思い込んできた。
そして、その自負に見合うだけの努力をしてきたつもりだった。
その、天才で、かつ努力家であるはずの自分が、何も出来なかったのだ。
使い魔であるはずのライダーに悉く主導権を握られ、己はまるでその付属物、宛ら金魚の糞のような存在だった。何を為すべきか迷い、逡巡し、結局何も為すことが出来ない。自分の家が燃えているのを眺めながら、右往左往して喚き散らす以外為す術もない凡人、自分はそれと変わるところがなかった。
もしかしたら、自分は天才などではないのだろうか。
珠玉と思った論文を一笑に付したいけ好かない教授の意見こそが、そして、これまで凡愚に過ぎると考えてきた周囲の冷たい視線こそが、本当に正しいのだろうか。
ウェイバーは、真っ白いシーツを握り締めながら、歯を軋らせた。
考えれば考えるほどに無様である。
もう、自分には、如何なる価値も残っていないのか。
じっと一点を見つめる瞳が、水中眼鏡に映った水面のように、僅かに波打ち始める。
歯を、食いしばる。
ここで、涙を流せば。
ここで、嗚咽を漏らせば。
おそらく、今まで積み上げてきた、最も崇高な何かが、砕け散るから。
つまるところ、それは只の意地である。
しかし、ウェイバーにとって、他の何物よりも大切な、ガラス玉だったのだ。
だから、ウェイバーは耐えた。
ぎりぎりのところで、涙はこぼさなかった。
咽喉の奥に込み上げて来る熱い塊を、嗚咽と共に飲み下そうとしたとき。
視界が、薄ぼんやりとした透明な膜で、ゆらゆらと揺らぎ始めたとき。
恐怖と恥辱に身を震わす若き魔術師の脳裏に、野太い、いかにも男臭い声が、蘇った。
『余のマスターたるべき男は、余とともに戦場を馳せる勇者でなければならぬ』
『姿を晒す度胸すらない臆病者なぞ、役者不足も甚だしい』
まるで、遠雷だった。
何か、何処か遠いところで、これから来る偉大な存在を予兆させる、そんな声。
古代に、比喩ではなく世界に覇を唱えようとした征服王の、偉大なる声であった。
サーヴァント・ライダー。
真名、イスカンダル。
雄々しき征服王は、己の牛車に震えながら同乗し、恐怖で身を竦ませて悲鳴すら上げることの叶わなかったマスターを評して、そう言ったのだ。
逞しいその腕で、あまりに儚いマスターの肩を抱きながら、誇り高くそう言い切ったのだ。
勇者、と。
己のマスターに相応しい男である、と。
征服王は、知りうるだろうか。
その一言が、今の今まで一度たりとも他者に省みられなかった魔術師に、どれほどの衝撃を与えたかを。
その一言が、今の今まで一度たりとも他者に省みられなかった魔術師にとって、どれほどの救いであったのかを。
その一言が、今の今まで一度たりとも他者に省みられなかった魔術師の薄い胸に、どれほど熱いものを注ぎ込んだのかを。
ウェイバーは、それを容易に認めようとしない。それが、生来の捻くれゆえなのか、それとも、凍てつくように冷たい侮蔑の視線から自分を守るために着込んだ、自己防衛の毛皮の厚さゆえなのか、それは誰にも分かりえなかったのだが。
しかし、それはそれで、困ったことである。
どうすればいいのか、分からなかった。
その、初めて経験する感情を、どのように扱えばいいのか、若者は知らなかった。産湯のように暖かく、赤子のように暴れるその感情を、如何に宥めたものか、ウェイバーの広汎な知識のどこにも、その正答は載っていなかった。
だから、鼻で笑ってやった。
ああ、扱いにくいサーヴァントだ、と。
それが、ウェイバー・ベルベットの出した結論だった。
ただ、今の今まで零れそうだった若き魔術師の涙は、決壊の一歩手前で増水するのを止めたようだし、その咽喉を塞いでいた、石くれのような嗚咽も、いつの間にやら姿を消していた。
代わりに、その繊細な造型の仏頂面には、吹けば飛ぶような、不敵で、しかし淡く儚い笑みが刻まれていたのだ。
しかし―――。
それとは別に、胸中に込み上げて来る不可思議な感情。
ベッドに腰掛けた格好のまま、ウェイバーはその細首を捻って考えた。
不可思議な、そう、あまりに不可思議な既視感。
胸を掻き毟りたくなるもどかしさ。
そこで、はたとウェイバーは気づいた。
静かすぎるのだ。
普段ならばすぐ横から聞こえてくるはずの大鼾が、今は聞こえない。
そうだ。
おかしい。
それだけ、か?
いや、大鼾が聞こえないこともおかしいが、それよりもおかしいことがある。
ウェイバーの脳裏に、電撃が走った。
―――僕は、今朝、同じことを考えたぞ。
それは、最早確信だった。
―――そうだ。そして、あの大男が、呑気そうに部屋に入ってきて。
「おう、起きたか坊主」
―――そうだ、僕の大切な軍資金で、素っ頓狂なTシャツを買いやがったんだ。しかも、よりにもよって通販で。
「しかし、突然気絶するとは。流石の余も肝を冷やしたぞ」
―――で、その阿呆な格好で街を練り歩くとか言って、服を脱いで。
「あれか。余のいちもつの雄大さに、度肝を抜かれたか。いや、分かる、分かるぞ、その気持ち」
―――あ、あいつ、履いていなかったんだ。よりにもよって、この僕に、あ、あんな下品なものを…。
「…おい、どうした。顔が赤いぞ。目も潤んどるし…もしや、本当に体調を崩しておるのか?」
―――そうか、僕は気を失ったのか。でも、は、はじめてみたんだから、仕方ないじゃあないか。
「どれどれ、熱は………」
―――で、でも、あんな、おっきいんだ。あああんなのが、ぼ、ぼぼぼくの、あああそこに、はは、はははいるのか?でも、いざとなったら、マスターとサーヴァントは…。
ぴとり。
征服王の、まさしく世界を握るに十分なほど大きな掌が、若き魔術師の小さな額に当てられる。
そのざらざらとした、しかし暖かで安心できる感触が、ウェイバーを思考の海から現実に引き戻した。
「うわあぁいっ!?」
「なななんじゃい!?」
驚いたのは、両方とも。
ウェイバーは弾けるようにその身を起こし、ライダーは熱いものに触れたかのように手を引っ込める。
もし、この光景を他のマスターが除き見をしていれば、魔術師とは思えぬと呆れ返るか、組し易しと侮るか、そのいずれかだろう。
しかし、当人達にそんな余裕はあるはずも無く。
ただ、驚愕の表情を浮かべたお互いを、為す術もなく見遣るだけ。
「おい、どうした、小僧。先程もそうだったが、何か悪い夢でも見たか?」
「寄るな触れるな近付くな!この、野獣でかぶつ征服王!今出て行け、すぐ出て行け、即座にこの部屋から出て行けー!」
「…今、余は罵倒されたのか?」
ベッドの片隅で身を震わし、シーツで身体を覆い、今にも目覚まし時計を投げつけんばかりのウェイバー。
首を傾げるライダーは、やれやれとばかりに腰を上げる。
まったくもって余人の目からは、傍若無人の生きた標本のように映りがちな彼だが、それでも最低限の礼儀というか、作法は心得ている。如何に形式とはいえ己の上に立つ者、それが目の色を変えて退去を命ずるのだ。おそらく何らかの事情があるに違いないと察する程度の気遣いは、十分に廻る男である。
ベッドの横にどっしりと座っていたライダーは、すっくと立ち上がる。それだけで、ウェイバーの矮躯は、限界まで軋んでいたベッドのスプリングに押し返され、僅かに浮きあがった。
征服王イスカンダル。
座しても天を突くような巨漢であるが、立てば一段とその威容に目を見張らざるを得ない。
その両肩に原寸大の地球儀を担いでも、しかし微笑いながら佇んでいるに違いない、巨大さ。
その逞しい上半身を飾るのは、まるで山脈の如く隆起する筋肉と、安っぽくプリントされた世界地図。
そして、彼の下半身を飾るものは。
ぶらぶらと、自由奔放に振舞う。
まるで大蛇の如く巨大で艶かしい。
男の、分身、が。
「う、うわあああ!か、かくせ、それ、いますぐかくせ!」
「…それとは、何のことだ?」
「それだ、それ!その、お前の股間にぶら下がってる、芋虫みたいなそれだ!」
ただでさえ赤かった顔を、まるで茹で上がった蛸のように赤くしたウェイバーが、悲鳴と共に声を上げる。
こうなると、征服王の首は、更に急角度で曲がっていく。まるで初々しい生娘が如き己のマスターの反応は、少なくとも彼の理解に収まるものではなかったのだ。
「…何を、そんなに慌てることがある。女のようになよなよしい体つきではあるが、お前さんにも付いているものだろうが。そりゃあ、余の雄大さを前にして恥じ入る気持ちは分からんでもないが…」
「馬鹿を言え!そんな汚らしいもの、付いてるわけないだろうが!大体、実物を見たのだって初めてだ!」
ぴしり、と。
その言葉は、部屋の空気を、一瞬にして凍らせた。
液体窒素もかくやという程の冷気は、まず征服王の思考を凍らせ、次に発言者の思考を凍らせた。
そして、解凍されたのも、全く同じ順序。まず、征服王の頭が正常に回転しはじめ、次に発言者の頭が、ぐるんぐるんに暴れまわった状態で、無様にきりもみ回転し始める。
ウェイバー・ベルベットは、先程まで、猿の尻の如く赤く染めていた顔を、青褪めさせた。自分が致命的な一言を口にしてしまったと気付いたのだ。
「い、いや、違うんだ、ライダー、これは…」
「ふむう、面妖な。我が治世から遠く離れたこの時代。いちもつを持たぬ男というのもおるものなのか?」
にやりと、底冷えのするような笑みは、おそらく全ての事情を察したものだけが浮かべるそれだ。
その、何と残酷で、酷薄で、薄情で、恐ろしいこと。
少なくともウェイバー・ベルベットはそう感じながら、ベッドの片隅で身を堅くして、仔兎のように震えていた。
ふいに、その小さな体が、深く沈んだ。
同じベッドの上に、明らかにスプリングの耐荷重量を越える巨体が、悠々と圧し掛かってきたからだ。
「これでも、余はこの世を統べる王ゆえな、可能な限りその見聞を広げておく必要がある。どうだ、小僧。余のマスターとして、その責務に協力してくれぬか?」
「ち、ちがうぞ!僕は、只の男だ!さっきのは…そう、熱だ!熱に浮かされていたんだ!いやあ、まいったな、は、はは!」
「そうか、さっきのは、只のうわ言か…」
「うん、そう!うわ言以外の何物でもない!ああ、僕は聡明なサーヴァントをもって幸せだよ!」
そんな、絶望的な会話を繰り広げながら、ウェイバーはやはり絶望していた。
ベッドの上に圧し掛かる巨躯の男の瞳が、明らかな嗜虐に歪むのを確認したからである。
まるで、弱った獲物を捕捉した虎のような表情を浮かべたライダーは、正しく屈強な四足獣のような姿勢でじりじりとウェイバーとの距離を詰めていく。余人が見るならば、それはもはや狩といって差し支えない光景だっただろう。
―――今、このタイミングで動けば、喰われる。
その、被捕食者としての確信が、ウェイバーの細い身体から動きを奪った。
それを見越しているかのように、微笑いながら獲物に近付くライダー。そもそも、壁に背を預けるような姿勢でいた獲物に、逃げ道などなかったのだが。
「よ、寄るな!僕は、お前のマスターだぞ!お、男だぞ!お前、そんな趣味があったのか!」
「余の生きた時代は、この時代ほど性意識が発達しておらなんだからな。男色など当たり前、小姓を手篭めにする者も多かった」
「ま、まさか、お前も…?」
「さて、どうであろうな?」
もはや、ウェイバーとライダーの距離は、その吐息が交わるほど。これが実際の狩ならば、肉食獣の爪は哀れな草食動物の尻に食い込んで、その狩の成功を誰もが疑わない、そういう状態である。
ウェイバーの顔は、死人もかくやというほどに青くなっている。
それを、にこやかに見つめる、ライダーの瞳。
「…そ、それ以上近付くな!それ以上近付けば―――」
「令呪を使うか?」
ウェイバーは、確かに恐れていた。
ただ、何を恐れていたのか、それは彼女自身にも分からなかった。
己の真実を、この男に知られることだろうか。
この、己の細腕とは比べ物にならぬほどに太く逞しい、男の腕を、だろうか。
それとも、己と違う性、男という性そのものを、だろうか。
そんなウェイバーの内心を知るふうでもなく、ライダーは無造作に彼女に近寄る。一切の躊躇いも無く、じゃれかかる猫が如く。
「そ、その通りだ!う、嘘じゃないぞ!僕が使うって言ったら、使うんだからな!」
その言葉には、本当に嘘は無かった。
彼女は、本当に令呪を使っても、己の秘密を守るつもりであった。
しかし―――。
「使わぬよ、お前は」
目の前の男の、瞳。
優しく、雄大で、包み込むような、瞳の、光。
「ど、うして…?」
「お前は、余が勇者と認めた器量だからな。部下を従わすなどという瑣末ごとに、令呪を使うはずがない」
その言葉に。
少女の、普段は勝気な、黒い瞳から。
大粒の、涙が溢れ―――。
「捕まえた」
「あ」
その細い肩は、従者の逞しい掌に、がっしりと。
抱き締められるように。
「―――■■■」
「…な、にを?」
尋ねるその声は、既に男性のそれではなかった。
それは、透き通るような、少女の声。
その声に一番驚いたのは、少女自身だった。
「なん、で…?」
「なに、軽い厄除けのまじないみたいなものだ。この国でもあるだろ。痛いの痛いの飛んでいけー、とな」
―――そんなもので、僕の、擬態の魔術を。
「お前さんの魔術は繊細だな。そのなりに似合って線が細い。余もそれほど呪術には馴染まぬが、それでもこの通りだ」
―――嗚呼。
その一言に。
―――まただ。
彼女の従者が発した、その一言に。
―――また、馬鹿にされた。
初めて己を認めてくれたはずの人間が発した、その一言に。
―――やっぱり、か。
か細い少女は、混乱し、激昂し。
―――やっぱり、お前も―――!
ただ、絶望した。
「ああ、そうだ!悪いか!」
先程まで少年の振りをしていた、少女は。
ベッドの上ですっくと立ち上がり、己の身を覆い隠していた装束を、剥ぎ取るように脱いでいく。
ワイシャツのボタンは千切れ飛び、その下に身につけていたサラシのようなものが露になる。
ウェイバーは、震える手で、それを取り去る。
はらりはらりと舞い落ちる、細長い布地。
それが、最後まで取り払われたとき。
そこには、雪のように白く、そして雪のように儚く小振りな、少女の乳房が、あった。
「どうだ、これで満足か!ああ、そうだよ、僕は女だ!女で何が悪い!」
色々な事情が、あったのだろう。
他家への面目として、男を装わされたのかもしれない。
女だと舐められる、そんな意地もあっただろうか。
もしかすると、己の身を守る一つの手段という可能性も捨てきれまい。
それは、如何に賢明な征服王にも、分からない。
ただ、彼に分かっていたこと。
それは、痛々しくつぶれた、少女の乳房と。
その頬を濡らす、大きな涙だった。
「どうせ、魔術に疎いお前のお呪いにだって及ばない、無能の魔術師だ!どうだ、笑えよ!それとも嘆くか!?この僕をマスターとした自分の不運を、嘆き悲しむか!?」
口角泡を飛ばすような、少女の狂態。
しかし、征服王は、ただじっと少女を見つめる。
彼は、理解したのだ。先程の、何気ない己の一言が、この少女をどれだけ傷付けてしまったのか。
「ああ、そうだ!気に入らないなら、殺せばいい!そして、新しいマスターを見つければいいんだ!なんなら、推薦状を書いてやろうか!一人、知り合いのマスターがいるんだ!僕と違って優秀な人だからさ、精々上手くやってくれよ!」
「…悪かった。そういう意図ではなかったのだ。だから―――少し、黙れ」
そう言って。
泣き喚く、幼子のような少女の身体は。
男の、逞しい胸板に、包まれた。
少女の鼻腔を、まるで獣のような体臭が擽った。
本来不快であるはずのそれは、今、この瞬間だけは、少女の震えた体に僅かばかりの安心を与えてくれたのだ。
「…は、なせ」
「言ったであろう。余のマスターたるべき男は、余とともに戦場を馳せる勇者でなければならぬ、と」
「僕は、女だ」
「女武者というのも、風情があって良いものだ」
「僕は、ただ震えていたんだ。震えて、悲鳴もあげられなかった。そんなの、勇者じゃない」
「いや、違うな。お主は、確かに勇者たる素質を持っておる」
「―――どこが!こんな初歩の擬態の魔術も使いこなせない、こんな僕のどこにそんな資格があるんだ!」
「余が、認めたからだ」
少女の身体から、呪いのようだった強張りが、少しずつ解けていく。
征服王の巨躯は、その柔らかさを、確かに感じ取った。
「女である?魔術が拙い?では、男であって魔術に達者ならば勇者と?ふふん、そんな瑣末ごと、如何程の価値があるか。それよりなにより重要なのは、余が認めるか否かだ。かつて、どれほどの勇者を蹂躙し、そして従えてきたと思っておるか。この身は世界征服を目指す覇者だぞ」
「…ああ、お前、そんなに偉い奴だったんだ」
辛うじて、不敵な声。
或いは、不敵さを装えた、声。
それが、限界だった。
少女は、泣き叫んだ。
声も限りに、泣き叫んだ。
まるで、生まれたばかりの赤子のように、一生分の泣き声をあげた。
男は、無言だった。
何も言わなかった。
ただ、少女を抱き締めた。
ぎゅう、と、力強く、しかしこわれものを扱うように、優しく、優しく。
彼の上半身を包む白いシャツが、少女の涙に濡れていく。
その綺麗な染みが、シャツに新たな柄を描いていく。
それを見て、男は微笑んだ。
―――おお、世界が広がったわ。
それは如何にもこの男らしい、能天気な感想であった。
はあはあと、獣のように荒々しい吐息が、決して広くはない空間を満たしている。
そんな己の呼吸を目覚ましに、少女はようやく意識を取り戻した。
股間を貫く、僅かな鈍痛。
全身を痺れさす、倦怠感。
今も口中に残る、男の、濃厚な体液の味。
少女が経験した、初めての逢瀬。
桃源郷のような甘い恍惚を振り払ってみれば、そこにはにやりと笑みを浮かべた男の顔が。
「どうだ、思ったより痛くなかったであろう?」
少女は、
ウェイバーは、赤くなった顔を隠すように、枕を自分の顔に押し当てた。
それでも、その美しい裸体を隠そうとしなかったのは、彼女の後詰の甘さゆえか、それとも男への信頼からか。
はてさて、見事なるは征服王。
少女の身体の其処彼処に、彼が覇を唱えた痕跡が、ありありと。
赤く痣となった、口づけの跡。
唾液で濡れた、桜色の乳首。
しかしその最たるは、破瓜の血に染まった、白いシーツだろうか。
彼は、満足そうに、あたかも戦利品のようにそれらを眺めながら、言うのだ。
「これでも、この世のありとあらゆる美女を抱き尽くしたのだ。生娘の扱いなど、両手の指の数程の歳のときに憶えたわ…ぶっ!」
「何でお前は、こういうときに、そんなことを!この、この、この!」
少女は、いや、女は手にした枕で、己の初めてを奪った男の顔を、強かに殴りつけた。
何が何やら分からずに慌てる、ライダー。
目に涙を浮かべながら、彼を殴り続けるウェイバー。
「こういう!ときは!もっと!気の効いた!甘い!ことを!囁く!ものだろう!!?」
「なんだ、綺麗であったとか、可愛らしかったとか、そういうことを言ってほしかったのか?」
「ああ、そうだ!悪いかよコンチキショウ!」
女は、そう言いながら、微笑っていた。
男は、それを眺めながら、高らかに笑った。
「なるほど、道理よ。しかし、戦いに生きた者の感性の貧しさ故、一度では、主の良さは味わい尽くせなんだ。どうよ、これより二度三度と」
にやりと、少女は微笑う。
「ああ、いいぞ。お前が音をあげるまで付き合ってやる。なんたって、僕はお前のマスターなんだからな」
噛み付くような、二人の笑み。
再び、二人の体が交わる。
まずは、唇と唇が。
そして、舌と舌。
指と指が絡み合い。
女は、己を組み伏し蹂躙する、男を見上げる。
まるで恋人のように、愛おしげに。
やがて、女の太腿の間に、男の巨躯が割り込む。
一瞬強張った女の体は、男の太い笑顔によって、解きほぐされる。
交わされるのは、勝気な視線と、勝気な視線。
ならばこれから始まるのは、恋人同士の甘い営みではなく、主たる女と僕たる男の、誇りを賭けた一騎打ち。
二人は、それを理解していた。
そうして、ベッドの中で小さな戦争が起きかけようとした、正にその刹那。
女は、僅かに眉を顰めながら、口を開いた。
「…何だ、今のは…東の方角か?」
それは、新たな戦いの始まりを知らせる、号砲。正確に言うならば、猟犬を走らせるための笛の音。
ウェイバーは、その細く美しい体を、己が破瓜の血で汚れたシーツで隠し、窓際に駆け寄る。その様子を見守るライダーの表情、その不機嫌なこと。まるで餌を横取りされた、虎の如きそれである。
「…全く、後朝の語らいもさせぬとは、無粋なことではないか」
そうして彼は、己が女にした少女の背を、見つめるのだ。
そして、思う。
―――あれは、まだまだ磨けば光る。
―――それは、女としても、戦士としても、おそらくは魔術師とやらとしても。
―――何より、戦場を馳せる、無二の勇者として。
未だ完成にはほど遠く。
しかし、未完成の美、それは他の何よりも彼の好むところであった。
「あの方角って、たしか…冬木教会のある辺りだよな」
「あれは我々に関わりのあるものか?」
「そうと言えなくもないんだが、どうしたものかな…」
征服王は、確信している。
戦いが、始まるのだ。
その、舞い上がる血煙にも似た鉄臭さを、彼の嗅覚は確かに嗅ぎ取っていた。
果たして、勝ち残れるか。
勝って、世界を手中にするための、肉の身体を得ることは叶うのか。
勝負は時の運。百戦錬磨の彼である、そのことくらいは百も承知。
ならば、敗れることもあるだろう。
それでも、この女と共に戦う戦場は、愉快を極めるに違いない。それが、例え負け戦であったとしても。
だから、彼は微笑った。
今、ここにいる主のために。
そして、彼は微笑うのだろう。
彼を失って、泣き濡れる主を慰めるために。
それとも、その予想は、彼の誇るべき主に対する侮辱になるだろうか。
彼女は、最後まで微笑い続けることが出来るだろうか。
おそらくそうだろうと確信して、彼はやはり微笑った。
「…なんだよ、にやにやして、気持ちが悪い」
「何、坊主の尻が、あまりに小さかったのでな。それでよく余のいちもつを受け入れられたと…」
ずどむ、と、ライダーの顔に、ウェイバーの拳が突き刺さる。
鼻を押さえて悶絶する征服王を、堂々と胸を晒した若き女魔術師が見下す。
「お、お、お…。坊主、拳闘の世界で身を立てるつもりはないか?頂点を極めえること、余が保障しよう」
「馬鹿なこと言ってないでさっさと着替えろ!戦いだ!」
二人の戦争が、如何なる形で終るのか、それは彼らには分からない。
それでも、最後は笑って終わることが出来るのではないか。
勝っても、負けても。
その確信が、二人の胸の内にあった。
しかし、彼らはそれを話さない。
恥と思ったのではなく、相手も同じことを思ってくれていると確信しているから。
暮れ行く太陽が、二人を照らす。
女は、男に手を伸ばし。
男は、女の手を取った。
女の瞳に何時からか棲み付いていた、卑屈な暗さは、もはや無い。
そこには、己と、己以外の誰かを信じる、侵しがたい輝きだけがあった。
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