倫敦の休日[前編]
ぜえぜえと、濁った音が響く。
ざくざくと、草を踏み分ける音がする。
それだけ。
それ以外、何も聞こえない。
何も、聞こえなく、なった。
銃声も、悲鳴も、ヘリのローター音も。
無音。
ほとんど、無音。
宴は、終わった。
血と、硝煙と、断末魔に満ちた宴。
終わった。
ならば叫びたい。
問いかけたい。
『誰か、誰か生きていないのか!?』
それは、痛切過ぎる、心からの叫びだった。
会いたい。
皆。
さっきまで、笑っていた。
一緒に、飯を食ってたんだ。
嘘だ。
こんなの、嘘だ。
信じられなかった。
だから、無言。
無言で、走る。
星が、明るい。
まるで、クリスマスのイルミネーションのように、きらきらと輝いている。
もう、遠い遠い、過去の話。
あれは、冬木の、ヴェルデだった、だろうか。
思い出せない。
でも、どうでもいい、か。
天の明るさは、地上の暗さと反比例だ。
要するに、それほどまでに暗いのだ。
森の、中。
それも、例えば森林公園のような森ではない。
原始林。
悪魔のような、木々の群れ。
おそらく、有史以来人が足を踏み入れたのが初めてではないか、そう錯覚してしまう。
腰まで生えた、丈の長い草。
巨木の広がった枝、それの作り出す影絵が、悪夢染みた化け物に見える。
それでも、見えるだけマシだ。
足元は、何も、見えない。
黒だけが、見える。
そこを、走っている。
走っている?
泳いでいるの、間違いかも知れない。
感覚が、酷くあやふやだ。
とにかく、俺の主観としては、走っていた。
それがどれほど危険なことか、理解したまま。
もし、大きな石に蹴躓きでもしたら、即、命に関わりかねない。
足が折れれば、捕虜となって死。
倒れたところに鋭い木の枝でもあれば、突き刺さって死。
頭を石にぶつけても、やっぱり死。
それでも、走る。
時折、思い出したように聞こえる銃声は、森の中を反射して、その位置を掴ませてくれない。
どこだ。
どこにいる。
視界を、ゆらゆらとした、透明な幕が覆っていく。
既に、重装備の類は捨て去った。
身につけているのは、強化済みの皮鎧と、二振りの短剣のみ。
その姿は、まるで、あの弓兵のように。
それで、走る。
仲間を、生きている仲間を助けるために。
―――頼む、誰でもいい、生き残っていてくれ。
頼む、頼むから…
そう、願ったとき。
ふぅわりと。
足元から、地面の感覚が、消失した。
空虚な失調感は、当然の如く落下へと変異し。
「うわあああぁぁぁ!」
無様な声が、中空に響き渡る。
浮遊感。
風を切る音が、俺が落下していくことを教えてくれる。
ごつり、ごつりと、岩肌に打ち付けられる。
意識が、遠のいていく。
ばしゃん、と。
凄い音が聞こえ
―――
――
―
「………か!?」
聞きなれない、声。
「―――…―――を、もってこい!」
何だろうか、この声は。
「……だ、……きっと…!」
酷く、慌てている。
もう、指一本動かすのも、億劫だけど。
ゆっくりと、瞼を持ち上げる。
想像以上に、明るい世界。
一瞬、顔を顰める。
どうやら、夜は明けているらしい。
ならば、俺は、敵の手に落ちたのか、それとも味方に救われたのか。
「…―――…、おい、しっかり…―――!」
異国の言葉が、脳の中で濾過できない。
でも、どうやら、敵地ではないらしい。
手も、足も、拘束されていない。
ただ、少し、寒かった。
がたがたと、四肢が無様に震えていた。
きっと、河か沼かで溺れたのだろう、体中が濡れている。
「おい、大丈夫か!?俺の言葉が分かるか!?」
やっと、理解できた、一言。
ああ、どうやら、助かったらしい。
そのことに、何よりも安堵した。
そして、思ったのだ。
果たして、あと何人が、生き残っているのだろうか、と。
苛烈な攻撃だった。
あまりにも正確に配置された、敵勢力。
ひょっとしたら、裏切りでもあったのかもしれない。
それも…、今となっては、どうでもいいのだろうか。
敗残兵が、生き残ったのだ。
それだけでも、神に感謝しなければなるまい。
そして、生き残った者には、為すべきことがある。
それだけの、話である。
「おい、大丈夫か、返事は、出来るか!?」
見上げた顔は、薄暗がりのお化けのようで。
それでも、どうやら俺が生きていることくらいは伝わってくれたようだ。
ほとんど、うめき声を上げる以外の機能を放棄した咽喉で、何とか声帯を震わしてやる。
「…う……」
擦れた、声がした。
それが、自分のものとは、思えなかった。
「おい、こっちは助かるぞ!この女性から、まず運び込め!」
そうだ。
まず、女性から、助けないといけない。
なんたって、子供が産めるんだ。
それだけで、壊すことしか出来ない男なんかよりも、遥かに価値がある。
だから、俺は、後でいい。
なのに。
なんで、俺が真っ先に、運ばれていくのだろうか。
不思議だなぁ、と。
そこまでが、俺が覚えている、最後の記憶だ。
爽やかな秋風が、頬を弄る。
イギリスの、秋。
赤く、色づき始めた街路樹の葉と、分厚くなり始めた人々の衣。
最近は少し冷え込むことが多くなってきた。
オープンテラスのカフェでアフタヌーンティーを楽しむ、そんな贅沢が味わえるのも、今年はこれで最後だろうか。
湯気の立つ香り高いアッサムと、焼きたてのスコーン。それを彩る、各種のジャムに、クロテッドクリーム。
文句のつけようの無い、倫敦の午後。
『イギリスに行ったら、イギリス料理を食べるな』
格調高い諧謔ではあるが、それは一部の隙も無い、純然たる事実。
何度も、挑戦した。
何度も、評判の店を訪れた。
そして、その数だけ玉砕したのだ。
結論―――ありゃあ、人の喰うもんじゃあないわね。
あまりにも失礼な感想かもしれないが、少なくとも私の舌は、それを是としている。
とりあえず、イギリスの料理はどこかで進化の方向を間違えたのだ。きっと、マンモスとかサーベルタイガーみたいに。
だからといって、この街の日本食レストランが美味いかといえば、そうでもない。力いっぱい、堅さを競って作る泥団子みたいにガチガチに握られた、寿司っぽいもの。黒焦げになって、生薬と見紛うほどに黒い、焼き魚だったもの。パン粉をまぶした天麩羅なんていう、絶望的なものも存在した。
要するに、この国の食文化は、なっちゃあいないのだ。
そんなことを私の教授に言ったら、
『ファック!これだから、日本人は嫌いなんだ!』
とかいって、長々と、自分が日本の喫茶店で経験した超常現象を語り始めたのだけど。
だから、最近のお気に入りは、中華料理とベトナム料理。これは、そこそこのレベルのものが多い。特に、中華料理のレベルは、高い。『世界中、どこに行っても性病持ちと中国人はいる』、なるほど差別的ではあるがよく言ったものだ。おかげで、美味しい中華料理を食べられるし、仲のよいチャイニーズも多い。華僑のバイタリティ、恐るべし。
そんなことをつらつら考える。
つらつら考えながら、熱い紅茶を一口。
ほう、と、思わず漏れ出す満足の吐息。
流石はアフタヌーンティ発祥の地。
紅茶はどの店も高いレベルのものを淹れてくれるし、スコーンとか、フィッシュアンドチップスとか、軽く摘めるものはけっこう美味しい。
でも、そういうものほど肥満のお友達なので、中々お手軽に食べられないのが辛いところ。
それでも、今日ばかりは、太る太らないは無粋だ。
右手に、スコーン。
左手に、クロテッドクリームの小瓶。
バターナイフでたっぷり掬って、思う様に塗りたくる。
だって、半年間苦労させられた論文が完成したのだから。
散々嫌みな教授に扱き使われて、時折厄介事に巻き込まれて、ここ一週間はほとんどデスマーチで。
やっと完成した、珠玉の論文。
あの、マスター・Vが、何の手直しも加えなかったのだから、その出来たるや押して知るべし。まあ、同じタイミングでルヴィアも論文を完成させたらしい、というのが気になるが、あれほど出来のいいものを書ききれたとは思えない。
あの、高慢ちきな鼻っ柱が真っ二つにへし折れる様子を想像して、暗い笑みが浮かぶ。
ふっふっふ、見てなさいよ、ルヴィア。今年の時計塔主席の座は譲らないんだから。
だから、今日は前祝。
カロリー計算や体重計の目盛の記憶なんて、無粋も無粋、因果地平の果ての果てまで飛んでいってしまうくらいに関係ないのだ。
たっぷりのクロテッドクリームと、これでもかと甘酸っぱいジャム。
もう、スコーンを食べてんだかジャムを食べてんだか、分からないくらい。
ぱくりと一口、その芳醇な味に、思わず笑みが零れ落ちる。
そんな、午後。
口の端についたクリームを舐め取りながら、辺りを見回す。
無表情に前を見据える、人々の群れ。
皆どこに向かうのだろうか、行き先を決めた足達が、忙しなく行き交う
そんなに急がなくてもいいのになあ。
きっと、何だかんだ言っても学生の身分だから思うこと。
本当に偉いのは、魔術師でも魔法使いなんかでも無いと思う。
毎日、革靴の底をすり減らしながら、家族のために働くお父さん、お母さん。
それが、きっとこの世で一番偉いんだ。
そう考えると、わが身のなんと恵まれたこと。
ここ二、三日徹夜が続いたとはいえ、それでも今日はのんびりと午後のお茶会。
それはそれは、優雅な一時。
何となく、恥ずかしくなる。
そんな、午後だった。
そんな午後に、私は。
「…あれ…?」
一組の、親子を見つけた。
それは、奇妙な親子連れだった。
そもそも、あれは親子連れなのだろうか。
繋がれた手と、二人の年齢差を考えるならば、彼らは間違いなく親子である。
しかし、それ以外の外見的要素は、その推論を真っ正面から否定する。
母親とおぼしき女性は、長い、銀色と灰色の中間みたいな長髪を、無造作に後ろで括っている。
皮膚は、浅黒い。ブラックかとも思ったが、それほど彫りの深くない顔立ちはアジア系のものなので、そうではないようだ。
女性にしてはがっしりとした体格に、身に纏ったのは皮のコートと編み上げブーツ。
まるで、今から戦場に向かうような重装備と、鋭く周囲を警戒する視線。
戦士。
あれは、きっと戦士だ。
息子…それとも、あれは娘か?目深に被った帽子からは、その性別を判定するのが難しい。
それでも、ざっくりと着込んだ、あまり見栄えのよろしくない服の隙間から見えるのは、明らかに白色人種の肌の色だったし、帽子の裾から恥ずかしげに顔を出しているのは、少し癖のある金髪だったりする。
小さな、紅葉の葉のような掌が、母親とおぼしき女性のそれをぎゅっと握り、決して離そうとしない。
時折、女性の方を見上げては、何事かを喋り、楽しそうに笑っている。その笑顔は、まるで汚れを知らない天使のようだと、陳腐な感想を抱いた。
父親は、見当たらない。
それでも、まるで父親の代わりのように、女性がいた。
それとも、我が子を守護する雌獅子のように。
だから、あれはきっと親子なのだろう。
そんな、親子連れだった
一目見て、我が目を疑った。
そっくり、だった。
あの戦争、たった二週間で終結した、たった八組の男女が殺しあった、戦争。
その中で、私が呼び出した、名も知れぬ英霊。
アーチャー。
彼だと、思った。
もし、肩幅がもう少し広くて、胸に大きな錘を二つぶら下げていなければ、私は声をあげていたに違いない。
それほどに、似ていた。
そして、間違いなく極上の美人。
きりりと引き締まった眉。
視線は、まるで鷹のように。
ぐいと結ばれた唇は凛々しさの生きた見本で、今まで一度も綻んだことがないよう。
首は、驚くほどに細い。
よく見れば、僅かに丸みを帯びた身体。
長い手足が、猫科の猛獣みたいにしなやかな筋肉に包まれている。
要するに、戦士だったのだ。
見る人が見れば、はっきりと分かる。
あれは、銃弾飛び交う戦場を生き抜いた、戦士だ。
よく見れば、その所作の一つ一つに隙が無い。
できるだけ、背後に人を置かない身の置き方。
視界は広く、いたるところに目を配りながら、しかしその動きが少しも不自然ではない。
子供と手を繋いだ、その反対側の手は、常にポケットの中に。
おそらく、そこには短銃か何かが入っているのだろう。
「全く、捕まるわよ、あれじゃあ…」
昨今の国際事情、そして忌まわしいテロ事件の数々。
ご多聞にもれず、この国だって銃とか何かには厳しいのだ。
あんな格好で街中をうろついてたら、間違いなく職務質問。
そして、即刻ブタバコに。
そうなっても、文句の言いようの無い格好だ、あれは。
そして、思い出した。
確か、ルヴィアが最近、ボディガードを雇ったらしい。
銀色の髪の女性で、酷く腕が立つ、とのこと。
ああ、なるほど、きっとこいつだ。
言われてみれば、僅かに魔力を感じる。
きっと、余程用向きのある相手以外、注意を集めないようにする暗示。
ならば、警察官如きには、彼女を認識することは叶うまい。
しかし、まぁ、どうでもいいかと思い直す。
彼女が何者で、何故ここにいるのか。
そんなこと、路傍の石と同じくらいに、私には関わり合いが薄い。
ならば、そんなことに脳細胞を働かせるのは、不当労働以外の何物でもなく。
私は、再び、クロテッドクリーム塗れのスコーンに、勢いよくかぶりついたのだ。
何とはなしに、空を見上げる。
まるで、故郷と同じ色のような、空。
霧の都を覆い尽くすスモッグの靄も、今は晴れて久しいらしい。
「…あいつ、今、どこで何やってんのかな…」
自分の呟きに自分で絶望して、そして赤面した時。
「ここに座ってなさい」
おや、と、隣りの席を見る。
そこには、何と、先ほど見かけた親子連れがいた。
二人掛けの小さなテーブル。
彼女と、彼女が連れた子供が、向かい合わせに座る。
女性はコートを脱いだ。
コートの下には、薄いシャツ。その更に下には、蛇のようにうねる、鍛えこまれた肉体が。
子供は帽子を脱いだ。
帽子の下には、猫の毛のように柔らかそうな、癖のある金髪の毛。
皮膚の色は、白人のそれ。瞳の色だけが、エメラルドみたいな緑だった。
よくよく見てみれば、彼女が連れた子供は、女の子だった。
くりくりとした可愛らしい瞳、熟した桃のようにふっくらとした頬。
それだけで分かる。
きっと、この子は大きくなれば、美人になる。
そう考えて、何とはなしに、にやけてしまった。
子供というものは、いいものだと思う。
その、成長した姿を想像しただけで、大人に幸せを味わうせてくれるのだ。なるほど、子供は神がくれた最高の贈物、というのも強ち間違いとは言えないのかもしれない。
少し椅子が高過ぎるのか、子供の足がぶらぶらと揺れている。その様子は微笑ましくて、私は気付いていない振りをするのに苦労した。
「注文してくるから、待ってるんだぞ」
それは、驚くべきことに日本語だった。
しかも、生粋の、はっきりとした発音。そんなもの、長いこと倫敦で生活しているが、一度か二度くらいしか耳にしたことが無い。
珍しいこともあるものだと、紅茶を一口啜る。
「うん、パパ」
今度こそ、私は口に含んだお茶を噴出しかけたが、何とか我慢する。
だって、相手は認識阻害の暗示を纏っている。
ならば、それに気付きうるのは、よほど勘のいい人間か、私のような魔術師のみ。あのルヴィアが雇うような、おそらく凄腕のボディガード。それと揉め事を拵えるというのは、優雅なアフタヌーンティーには些か相応しくない。
それにしても、パパ?
あれは、間違いなく女性だった。
性転換手術をした、男性?
確かに、東南アジアあたりでは、本物の女性だってここまで美しくないというほどに美しい元男性も存在する。
でも、それにしては、あの男言葉が妙だ。
だって、男性であることに嫌悪して女性になるのだから、男言葉を使うことは無いだろうし、自分をパパと呼ばせることも無いだろう。
子供の呼び間違いかとも思ったが、その女性が何気なくカウンターに向かったことを考えれば、それは日常のことなのだと推測できる。
ちらりと、子供の方を見る。
足をぶらぶら、所在無く辺りを見回している。
その瞳の色に、どこか記憶の琴線を掻き鳴らすものを感じる。
はて、どこで見たのだろうか。
あれは、たしか―――。
「お待たせ。寒くなかったか」
柔らかい、女性の声。
慌てて目を逸らす。
「うん、パパ。ちっとも寒く無かったよ」
「そりゃあ、よかった」
ぎっ、と椅子が引かれた音。
女性は、音も無く腰掛ける。
「ここの紅茶は美味しいぞ。きっと、アルトリアも気に入る」
「そうなの?でも、パパのいれてくれたお茶が、いちばんすき」
…アルトリアって。
まあ、よくもこんな偶然が重なるものだ。
そうなのだ。
あの瞳の色は、思い出せる。
あれは、セイバーの瞳の色だ。
セイバーとして召喚された、伝説の騎士王の、瞳。
まるで、あらゆる穢れを払い落とすかのような、不屈の緑。
聖緑の、瞳。
そして、アルトリアという、名前。
私は、昔の友人に会ったときのように、心うきうきしてしまった。
そして、思い出す。
一時とはいえ、私の恋人だった男性。
衛宮、士郎。
彼は、今どこで何をしているのだろうか。
確か、最後に消息を聞いたのが、チベットの山奥だったはず。
そこで戦う反政府ゲリラの中に、彼の姿があったらしい。
らしいというのは、そのゲリラが壊滅して、今は確認する手段がないからだ。
ある者からは聖者に例えられ、ある者からは戦争狂と詰られた彼。
そして、魔術師から見れば、明らかに神秘の漏洩を恐れない、厄介者だった、彼。
事実、彼の命にはデッドオアアライブの賞金が懸けられ、返り討ちにあった協会のハンターも一桁では済まない、とのこと。
その彼が、突然に姿を消した。
色んな憶測が飛び交ったのも、当然といえば当然だろうか。
曰く、既にその身柄は協会に捕らえられ、封印指定の檻の中を漂っている。
曰く、味方を逃がすために敵軍の真っ只中に突っ込んで、討ち死にした。
曰く、敵と戦っている最中に味方に捕らえられ、その首は無条件降伏の材料とされた。
曰く、ソマリアの紛争地帯の一番激しいところで、彼の剣製を見た。
どれもが馬鹿馬鹿しくて、でも信憑性のある話ばかり。
それでも、ここ一年ほどで、彼の噂のほとんどは絶えた。
きっと死んだのだろう、そう思っている。
別に、悲しくは無い。
だって、それが彼の望んだ生き方なのだから。
すこし、涙が溢れてきた。
それを、指の先で拭った。
「ねえ、パパ、あのおねえちゃん、ないてるよ」
「アルトリア、そういうことは、口に出すものじゃあない」
軽く嗜める、言葉。
きっと、その言葉も届いていないと考えているのだ。
「お待たせしました」
店員の、声。
彼女はそれに笑顔で応じる。
柔らかな、それでいて芳醇な香り。
これは、ダージリン、だろうか。
「熱いから、気をつけなさい」
「はーい、パパ」
ふーふーと、派手に息を吹きかける音が聞える。
伝わってくる雰囲気は、どこまでも優しい。
知らず心の奥に溜まった澱が、流されていくようだ。
「うん、おいしいね。でも、やっぱりパパのいれてくれた紅茶のほうが、おいしいよ」
「そうか、ありがとうな、アルトリア」
苦笑の、声。
その響きすらも、どこか誇り高く。
「パパはな、昔、紅茶の好きな人と一緒に暮らしてたんだ」
「それって、前話してくれた、こいびとさん?」
「ああ、そうだ。アルトリアは頭がいいな」
くしゃくしゃと、髪の毛を掻き回す音が聞える。
ちらり、と、横を覗く。
そこには、子犬のように心地よさそうに目を細める少女が、いた。
「昔、中国紅茶の春摘みもの…要するに、その子のお気に入りの茶葉を、酷い味で出したことがあってね、そうしたら、殺される寸前までこっぴどく怒られた。それ以来かなあ、紅茶を淹れるのが上手になったのは」
それは、なんとも酷い男がいたものだ。
こんな美人が、自分のためにお茶を淹れてくれたのに、その味が酷いだけで怒るなんて。
全く、男の風上にも置けない。
私なら―――。
…なんか、似たようなことをした気が。
だって、私が、あの戦争の祝杯を挙げるために、食器棚の奥の奥に隠していた、極上の上に極上がつくような、茶葉。
あの男は、それを十分以上も蒸らしやがったのだ。
あの、絶望的に黒く染まった液体の色を、今でも思い出すことが出来る。あんなの、ガンド百連打の刑でも、むしろ軽いくらい、情状酌量しまくりである。
「ふうん、その人、何ていうお名前なの?」
「あれ?アルトリアには、言ってなかったか?」
耳を、欹てる。
人の恋話というものは、どうしてこうも人の心を擽るのか。
「その女の子の名前はな」
…女の子?
「おなまえは?」
…もしかして…。
「遠坂凛っていうんだ」
「はああああああ―――!?」
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