序文



 黒い太陽のような、光の柱、その麓。
 そこに、黒く変貌した、妹が居た。

「―――桜」
「?」

 ゆっくりと振り返った妹の顔からは、表情というものが抜け落ちていた。
 
「さくら―――」
「ああ。姉さん。なんだ、姉さんじゃあ、ないですか」

 にたりと、口元だけで微笑う。
 その豊かな笑みには、静かな、静かな狂気があった。

 ―――誰だ。

 ―――こいつは、誰だ。

「…あんた、衛宮君を、どうしたの」
「衛宮君?君…クン…くん…、ああ、衛宮先輩ですか?ああ、あの可愛らしい、衛宮先輩ですね?」

 先輩、先輩、と。
 噛み締めるように、数度、口に含め。

「…うんと、先輩は…どうしたんでしょうか?」
「…とぼけないで」

 どこにも、衛宮君の姿はなかった。
 山頂にも。
 中腹にも。
 麓にも。
 どこにも。
 姿も。
 形も。
 血痕も。
 死体すら、残さずに。
 小さく、華奢になってしまったその姿を、隠すように。

「だって、先輩が裏切るんだもの。私のこと、裏切るんだもの」
「…誰のせいだと思ってんのよ、あんた…!」
「えっ?誰のせいなんですか?そんな悪い人、いるんですか?」

 可愛らしく、小首を傾げる。
 白い髪で。
 赤黒い瞳で。
 血に濡れたように艶めかしい、唇で。
 まるで、私の妹みたいな、すがたかたちで。

「でも、でもね、姉さん。私、そんなこと、どうでもいいんです。心底、どうでもいいわ」
「どうでも、どうでもいいですって…!?」
「ええ、姉さん。一番大事なのは、もう私は先輩に愛してもらえない、それだけ」

 桜は、泣いていた。
 泣きながら、笑っていた。
 笑いながら、怒っていた。
 怒りながら、呆れていた。
 呆れながら、絶望していた。
 ただ、絶望していた。

「だからね、先輩は食べちゃうことにしました。そうすれば、あの人はずっと私と一緒。私の中で、私を愛し続けるの」
「―――もう…もう、いいわ。あなた、喋らないで」

 私の妹のふりをしながら。
 その、汚らしい口を開くな、化け物―――!

「―――くす、先輩、可愛らしい…。今ね、私が間桐の家で体験したことを、一から先輩に教えてあげてるんですよ。だって、本当の意味で愛し合うなら、お互いのことを理解し合わないと駄目でしょう?」
「なら―――!」

 あなたは、知っているのか。
 アイツが、アイツがどれほどに苦しんできたか。
 あなたが、どれほど苦しんできたかを知って。
 アイツが、どれほどに藻掻き苦しんだのか。
 それを、知っているのか。
 それとも。
 そんなもの、取るに足らないと。
 一顧だにする価値はないと。
 そう、切り捨てるつもりか。

「ふふ、やっぱり先輩、処女だったんですね。うん、私、嬉しいです。女の子になって、たった一週間でセックスしちゃうようじゃあ、幻滅ですもの」
「…今すぐ、今すぐ、今すぐ!衛宮君を解放しなさい!たった今、すぐさまに!」

 焼け付くような怒りが、景色を漂白していく。
 妹という存在を漂白していく。

「あは、先輩が、泣き叫んでます。とても、可愛らしい声。ああ、姉さんにも聞かせてあげたいな」

 懐から、剣を取り出した。
 もう、後悔も、同情も、微塵の躊躇もなく、私は目の前のアレを殺すことが叶うだろう。

「ごめん桜、ですって。
 すまない桜、ですって。
 ゆるしてくれ桜、ですって。
 きづいてあげられなくてごめん桜、ですって。
 まもってあげられなくてごめん桜、ですって。
 たすけてあげられなくてごめん桜、ですって。
 本当に、可愛らしい先輩。私は、こんなに愉しいのに。もう、こんなにも手遅れなのに」

 だから、私には見えないし、気づかない。
 目の前のアレが。
 静かに、静かに、嗤いながら。
 静かに、静かに、泣いているなんて。

「だから、姉さんも愛してあげます。私の中で、先輩と一緒に愛してあげます。私の中で、みんなで一緒に愛し合いましょう?」
「…おとといきやがれ、このすっとこどっこい」
「抵抗するつもりですか?ああ、姉さんも可愛らしい。―――そうか、世界は、こんなにも可愛らしかったんですね」

 影の巨人が、覆い被さってくる。
 私は、虹色の短剣を抜き放ち―――。





 天から、伸び来る、果てない鎖。
 そこに繋がれた、腕が二本。
 白い、艶めかしい程に白い腕と。
 赤い襤褸布に巻き付けられた、褐色の腕。
 やがて、その袂は一人の少女に。

 少女。
 少女としか形容のしようがない、少女。
 褐色の腕を移植するまでは、少年だった、少女。

 片目だけの、錆色の瞳。
 片目は、腫れ上がった肉によって塞がれている。
 鼻と、口の端から垂れる一条の赤い線が、その白い頤に血化粧を施す。
 よく見ればそれと分かる胸の膨らみと、歯形の浮いた乳首。
 弱々しい呼吸は、今にも途切れんばかりで。
 肋の浮いた薄い腹は、無数の青あざで彩られ。
 そして、無残にも花開かされた幼蕾。
 太腿を伝い落ちる、獣欲の白濁と破瓜の鮮血。
 それは、少女が数刻前まで、無垢なる存在だったと声高に主張する。
 しかし、それも最早無意味。
 もう、誰も少女の声に耳を傾けない。

「…ご…めん…さ…く…ゆる…し…て……くら…」


 そう、彼女を、除いて。


「…シロウ。やはり、あなたはこうなりましたか」

 鈴を鳴らしたように、涼やかな声。
 ただ、赤毛の少女は、虚ろな瞳で、彼方を見つめる。
 誰の声も、聞こえないふうで。
 黒い騎士は、そんな少女の頬に、手を添える。
 ねちゃりと、粘着質な液体が、騎士の掌を濡らした。
 
「…さ…くら…」
「…もうすぐ、リンもここに来ます。いえ、リンだけではない。世界の全てが、ここに墜ちる。サクラを拒んだ世界が消え、彼女が世界の母となる。彼女は、世界を殺すのです」

 黒い騎士は、少女の口の端についた、誰のものとも知れぬ精液を舐め取った。
 僅かに身動ぎした赤毛の少女は、その時だけは、その時だけは。
 まるで、彼女のかつての主であった、赤毛の少年のようだった。

「そうすれば…そうすれば、きっと、あなたも幸福となることが出来る。それが―――きっと、サクラの願いなのでしょうから」

 かしゃり、と、甲冑の擦れ合う、堅い音がして。
 赤毛の少女は、ほんの少しだけ、微笑った。


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