聖女


 焼け野原だった。
 その表現は、如何にも相応しい。
 背の高い建物は焼け落ちて、視界を遮るようなものは存在しない。
 いっそ、清々しいほどの、焼け野原。
 瓦礫で出来た、丘の上。
 そこに、一人の女性が、蹲っていた。
 年の頃は、どれくらいか。
 二十歳を幾つも過ぎないような顔立ちであったが、その割には妙に老成した雰囲気もある。ひょっとしたら、子供の一人や二人、産んでいても可笑しくは無いだろう、そんな雰囲気。それでも肌は若々しく、三十を超えているということはあるまい。
 見る人の主観によって、十は年齢に開きのでる、そういう顔立ちであった。
 その女が、蹲っていた。
 一人、焼け野原の中心で。
 ぽつりぽつりと降り始めた、雨の中。
 寒さに震えることもなく。
 瞬き一つ、するでもなく。
 ただ、じっと、蹲っていた。

 戦いがあったのかもしれない。
 彼女が身につけた外套は、それほどに痛んでいた。裾は擦り切れ、所々焼け焦げ、それだけを見るならば、辺りに転がった人の残骸と変わるところは無い。
 襤褸を纏った、聖女。
 女は、さながらそういう風体であった。

 そんな女が、蹲っていた。
 その細腕に、何かを、大切そうに抱き締めながら。
 ぎゅうと。
 もう放さない、そういうふうに。
 それは、子供だった。
 男の子。
 まだ、小さい。
 おそらく、小学校に入るかどうか、そういう年齢だろう。
 煤の浮いた顔には、まだ社会の穢れを知らない幼子だけが浮かべる、無垢な寝顔が。
 そして、もう、目覚めることは無い。
 それ故の無垢、だったのかも知れない。
 神の御許に旅立った魂だけが浮かべ得る、無垢性。寝顔のような死に顔には、穏やかなそれが浮かんでいた。
 彼女は、それを抱き締めていた。
 ぎゅうと。
 少しずつ冷えていく少年の身体、その熱をすら逃がさないように、ぎゅうと。
 無表情に。
 一滴の涙すら流さずに。
 只管に、抱き締めていた。

 戦いが、あったのだ。
 この世のどこにでも起き得る、つまらない戦いだった。
 女は、そこで己の望みを叶えようとした。
 女は、愛した男を生贄に捧げ、己の腹を痛めた子を捨て、それでもその戦いに賭けた。
 そして、女は勝ち抜いた。あらゆる手段を使って、競争相手を出し抜いて。
 そして、勝ち残った。彼女が、勝者だった。
 しかし、敗れた。彼女の望みは、叶わなかった。
 それだけの話だ。
 それ以上の話ではない。
 そして、死んだ。
 たくさんの命が、灰と消えた。
 数え切れないほどの命。
 一つの町。
 それが、彼女の罪によって消え失せた。
 なのに、望みは、叶わなかった。
 人々は、無為に死んだのだ。
 野垂れ死にだった。
 彼女が、殺した。
 無為に、殺した。
 そして、彼女の腕の中で冷えていく、命。
 もう少し、早ければ。
 彼女の脇に置かれた煌びやかな鞘が、無意味な輝きを放っていた。
 それでも、そんなこと、女の視界には映らない。
 女は、ただ、子供の死に顔だけを見つめていた。 
 じい、と。
 降りしきる雨の中、寒さに震えることすらなく。
 じい、と。
 それが、己の罪であるかのように。
 じい、と。
 瞳は、動かない。
 瞬きすらしない。
 ただ、見つめるのだ。
 じい、と。

 どれほどの時間、そうしていたのだろうか。
 短い時間ではない。
 彼女が抱き締めていた子供が、子供の形をした、冷たい死体になった頃合。
 彼女の長い髪の毛が、これ以上の水分を含まなくなった、そんな頃合。
 彼女の背後で、音がした。
 からりと。
 小石を蹴飛ばすような、音。
 彼女は、己の後ろに立つ者が誰か、知っていた。
 それでも、振り返らなかった。
 もし、彼が自分を殺そうとするなら。
 それはそれで、いいかなあ、と。
 私がこの子と一緒になって冷たくなれるなら。
 それは、とても幸福なことなのではないかなあ、と。
 そう、期待して、子供の死に顔を、見つめていた。

「それが、お前の贖罪か」

 女は、顔を上げない。
 男も、それ以上、何も話さなかった。
 ただ、女の銃弾によって穿たれた己の心臓を、愛おしげに撫で摩っていた。
 やがて、彼は、その法衣の裏に縫い付けられたポケットを弄る。
 そこに入っていたものを、蹲る女に投げ渡した。
 何故、そんなものがそこに入っていたのか、彼自身も分からなかった。
 それでも、それを、放り投げた。
 こつりと女の頭に当たったそれは、誰に受け取られることもなく、地面に落ちて。
 ちゃりん、と、澄んだ音色を、静まり返った周囲に響かせた。

「イスカリオテのユダは、銀貨30枚で全能の神を裏切った。ならば、貴様の神を裏切るには、その程度で十分だろう」

 それは、硬貨だった。
 銀色の、小さな、硬貨。
 中央に穴の開いた、銅とニッケルの合金。
 大きな文字が刻まれているようだが、女の濁った眼には、何の意味も無いことだった。

「それで、貴様を買おう。貴様の罪を買おう」

 男は、それだけを言った。
 男は、それ以上何も言わなかった。
 やがて、男は、踵を返す。
 そして、猫のような足音をたてて、立ち去った。
 それでも、女は蹲ったままだった。
 ずっと、ずっと。
 雨の中、一人で。


 冬木には、大きな教会がある。
 外国からの移住者の多いこの町であるから、相当に立派な、格の高い教会である。
 最近、そこの神父が代替わりをした。
 年老いた、如何にも柔和な表情を浮かべた老神父は、先の大火災の混乱の中で命を落としたらしい。
 その後を継いだのは老神父の実の息子とのこと。
 本来であれば相応の軋轢を生みそうなその人事だが、新しい神父は歳の若さに似合わず堂々たる説教をするとのことで、頗る評判はいい。
 最初は違和感のあった彼の顔も、やがては信徒の中に馴染んでいき、いつしか溶け込んだ。
 教会は、いつもと変わらず、迷える子羊にその門を開け放っている。
 ただ、一つだけ変わったこと。
 一人、修道女が、新たに派遣されたようだ。
 もともと、信徒の多いこの教会である。そのことを不思議に思う人間は、誰一人いなかった。
 よく気のきく、優しい修道女だったから、信徒は彼女を敬ったし、女も相応の努力は欠かさなかったようだ。ただ、数多い信徒のうち、誰一人としてその女の笑顔を見た者はいなかったのだが。
 誰一人、名前すら知らない、優しい修道女。
 今も、その女は、神の前で頭を垂れているのだろう。
 人が、言峰教会と呼ぶ、その場所で。


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