ドイッチェ・イデオロギー   カール・マルクス&フリードリヒ・エンゲルス著   リャザノフ編   三木清 訳 ---------------------------------------- 凡例  三木版では省略されている、縦線による消去か横線かを、明示する。縦線での消去を/* */、横線による消去は、< >で括って示す。また、オリジナル原稿第一面のボーゲン番号・頁番号を半角の{}で挿入する。 ----------------------------------------    訳者例言  一、ここに訳出されて岩波文庫に入れられるマルクス・エンゲルスの遺稿『ドイッチェ・イデオロギー』のテキストは、リヤザノフ氏編輯の『マルクス・エンゲルス・アルヒーフ』第一巻二三〇ー三〇六頁に於て、初めて公にされ、同氏自身の校訂にかかる。それは、このテキストの前に附せられ(同書二〇五――二一七頁)、ここにもその翻訳を掲げておいたリヤザノフ氏の『緒言』に示されている如く、『ドイッチェ・イデオロギー』の第一部をなし、主としてフォイエルバッハに関係せる部分を含む。それだからこの『アルヒーフ』では『マルクス及びエンゲルス、フォイエルバッハ論』という見出しになっており、そしてそこにはなおマルクスの『フォイエルバッハに関するテーゼ』(同書二二二――二三〇頁)が加えられている。それに従って、本訳書に於てもこのテーゼを一緒に訳出しておいた。  一、リヤザノフ氏のテキストは著者たちが抹殺せる文字をも掲げている。そしてこの著作の既に存在する二種の邦訳、即ち『我等』に連載された櫛田民藏、森戸辰男両氏のもの及び近頃単行本として現われた由利保一氏のものは、共にこれらの抹殺箇所をも訳出している。これらの抹殺された文字は、多くの場合、マルクス及びエンゲルスによって他の一層適切と思われる文字によって置き換えられているか、若くは完結された文章をなさず、従って今我々にとって意味不明なものであるかであって、一般の読者には必要がないので、この訳書では省いておいた。そうでなくて、置き換えられもせず、繰り返えされてもおらず、且つその意味を理解し得る文章をなしている若干の箇所は、特にこれを翻訳して載せた。六号活字で組まれ<>印の中に這入っているものがそれである。なおリヤザノフ氏によって脚註として附せられたテキスト批評に関する註も、普通の読者には不要であるので、我々の訳書では全部略されている。このような省略は岩波文庫版にとって適当であると考えられたばかりでなく、またこうすることによって、この著作の繙読が一層便利になり、一層多くの普及性をもつに至るということが何よりも訳者の願いであったのである。翻訳については前記二種のものに負うところが多い。記して感謝の意を表する。  一、『フォイエルバッハに関するテーゼ』についても、リヤザノフ氏はそれのエンゲルスによって公表されたテキストとの相違を一々記している。私はこの脚註をも省略したが、読者は既にこの文庫から出ている佐野文夫氏訳のエンゲルス『フォイエルバッハ論』について、もし必要があるときには、それを調べ得るであろう。  一、この著作の成立、その歴史並びにそれの内容上の意義に関しては、リヤザノフ氏の『緒言』がこれを十分に語っている。我々はここではそれ以上蛇足を添える必要を見ない。訳者はこの唯物史観に関する最も貴重な文書が再三再四繰り返して読まれ且つ思惟されることを希望するばかりである。    一九三〇年五月四日 三  木  清   目  次 一、編輯者緒言…………‥………………………………………………………七 二、フォイエルバッハに関するテーゼ………………………………………三一 三、マルクス草案『ドイッチェ・イデオロギー』 への序文……………三六 四、フォイエルバッハ。唯物論的見方と観念論的見方との対立   序 論………………………………………………………………………四〇  A、イデオロギー一般、特にドイツ的イデオロギー……………………四二  B、唯物論的見方に於ける経済、社会、個人及びその歴史……………八八  C、国家及び法律の財産に対する関係…………………………………一二八  D、分業及び財産の諸形態………………………………………………一三五 編輯者緒言       一  ここに我々によって最初に公にされた原稿は、『ドイッチェ・イデオロギー』、即ち、マルクス及びエンゲルスがその中でフォイエルバッハ、ブルーノー・バウアー及びスチルナーなるその代表者たちに於けるヘーゲル以後の哲学並びに『その種々なる予言者たちに於ける』ドイツ社会主義に批判を下したところの著作、の一部分をなしている。  マルクス及びエンゲルスが彼等のこの大作を書きおろして以来、殆ど八十年の歳月が流れ去った、しかもこの著作はなお嘗って完全な形で公にされていないのである。我々はここに若干の言葉を費してこの『不運なる』原稿の歴史を回想しよう。  この原稿のことが初めて公に陳述されているのは、一八四七年四月八日の『ドイツ・ブラツセル新聞』紙上の、マルクスの公開声明書(四月六曰の日附になっている)のうちに於てである。その中でマルクスは、『トリエル新聞』紙上に現われた一通信に対して反駁しつつ、就中次のことを告知している、即ち、自分はカール・グリューンの書物『フランス及びベルギイに於ける社会運動』についての『一年このかた出来上っている詳細な評論』を『ウエストフェーリツシヤー・ダムプブート』に送るであろう、『この評論たるや、フリードリヒ・エンゲルスと自分とによって共同で著された『ドイッチェ・イデオロギー』(フォイエルバッハ、ブルーノー・バウアー及びスチルナーなるその代表者たちに於ける最近ドイツ哲学並びにその種々なる予言者たちに於けるドイツ社会主義の批判)に関する著述の一附録をなすものである。(*)』 * マルクスのこの声明はノイエ・ツアイト第十四巻第二号、三九六―九七頁に於て、フランツ・メーリングの論説『マルクスと真正社会主義再論』の中に再録されている。  それから十年間以上も経てから、この著作のことが再び述べられるに至っている、そして、それはまたそうあるほかあり得なかったように、今度もまた一の――自家告示、即ち、一八五九年、『経済学批判』の序言のうちに於てである。エンゲルスが『ルードウイヒ・フォイエルバッハ』の序文――ここに我々は三度目の自家告示に出会う――の中で言っているように、『カール・マルクスは〔そこで〕、如何に我々二人が一八四五年ブラッセルに於て、「ドイツ哲学の観念的見解に対する我々の見解の」――唯物史観の――「対立を共同で完成することに、実際に我々の以前の哲学的良心を清算することに」着手したかを物語っている。「この意図はヘーゲル以後の哲学の批判の形で遂行された。二巻の分厚な八折本よりなるこの原稿は、諸事情の変化でその印刷が不可能になったという通知を我々が受取ったときには、もうずっと前にウエストファリアに於けるその出版所へ届いていたのであった。我々は我々の主要目的――自己了解を遂げていたので、そのために快くその原稿を鼠が噛って批判するのに委せた。」それ以来四十年以上もの歳月が流れ去った、そして我々のいずれもにこの題目に立ち戻る機会が与えられることなしに、マルクスは死んでしまった。ヘーゲルに対する我々の関係について、我々は所々で我々の見解を発表して来たが、さりとて何処でも包括的な聯関に於てこれをなしたことはなかった。まことに多くの関係に於てヘーゲル哲学と我々の見解との間の中間項を形作っているフォイエルバッハへは、我々は嘗て再び立ち戻らなかったのである。』  エンゲルスのこの叙述に於ける若干の不精確な点については後段に至って指示されるであろう。原稿のことについては、エンゲルスは単に、彼がフォイエルバッハに関する彼の著作を印刷に送り出すに先立って、『一八四五―四六年の旧稿をもう一度探し出して目を通した』ということだけを我々に伝えている。『フォイエルバッハに関する章は完成されていない。出来上っている部分は唯物史観の叙述からなっているが、それは経済史についての我々の当時の知識が如何になお不完全であったかを証明するものに過ぎない。フォイエルバッハの学説そのものの批判はそこには欠けている、それだからそれは当面の目的にとっては役に立たなかった。』  十五年後に至って初めてメーリングはその『マルクス・エンゲルス遺稿』の中でこの原稿についての若干の補足的な資料を提供した。  『ドイッチェ・イデオロギー』に関する著作は、それが出来上っている限り、マルクス及びエンゲルスが遺した諸手稿の間に見出される。これの公表は彼等の全集の刊行まで延ばされなければならぬ。その第一巻はブルーノー・バウアー、スチルナー及びフォイエルバッハの諸見解の批判的研究を含んでいた。『ドイッチェ・イデオロギー』の第二部はドイツ社会主義の種々なる予言者たちに充てられたのである。』(メーリング、遺稿、第二巻、三四六―四七頁。)  疑いもなくメーリングは嘗て『ドイッチェ・イデオロギー』を見たことがなかった筈である。彼はその註釈の中で、マルクス及びエンゲルスの諸見解の発展を跡づけるという課題を自己に課しはしたが、しかも彼はベーベル、むしろ正確にいえば、ベルンシュタインのもとで、マルクス及びエンゲルスの原稿を、よし公表する権利とはゆかないまでも、少くとも利用する権利を、贏ち得ることが出来なかった。尤も、彼がそうした原稿をひとつ受取ったという指示が存在している。これは『ライプチッヒ宗教会議』のことをいうのであって、それについては彼は同じ『遺稿』(九五―一〇二頁)の中で報告している。我々はこの原稿の『秘密』が彼にはどこまでも知られずにいたということを見るであろう。  『遺稿』の第二巻が出てから間もなく、ベルンシュタインは彼の『社会主義諸文書』の中で――一九〇三年一月以降――スチルナーに関する大部なマルクス・エンゲルスの原稿の公表を始めた。彼がこの著作の前に附した解説の中で、ベルンシュタインは、この著作は、マルクス及びエンゲルスがその中でヘーゲル学派の最左翼に属する彼等の以前の戦友たちを『清算せる』ところの一のなおヨリ大部な著作の一部分をなすものであるということを指摘している。〔この原稿〕は『かようなものとして単に一の大なる歴史的興味をもつばかりでなく、また内容的に見ても不朽〔#「朽」は「汚」が木偏になった字体である〕の価値ある多くの箇所を供している。』ベルンシュタインはなお附け加えていう、『この原稿はその真先にローマ数字の?という字を戴いているが、このことだけからでも、それが或る綜合著作の一部分のつもりであったことがわかる。その最初の諸文章に於てそれは、メーリングが先きに擧げた書物の九九頁以下に於て論評しているところの論文『ライプチッヒ宗教会議』に連絡している‥‥‥。』  これによって知られるように、ベルンシュタインは、彼がスチルナーに関するマルクス及びエンゲルスの著作の公表に着手したとき、『全体』――その一部分を彼は彼の『社会主義諸文書』の中で一九〇三年及び一九〇四年に印刷させたが完結するには至らなかった(*)――についてはかなり不明瞭な観念しかもっていなかったのである。 * その後十年して、彼は更に、『ドイッチェ・イデオロギー』のスチルナーの反駁に充てられた部分の一節(『私の自己満足』)をタイプライター複写版の雑報通信、『労働者雑報』クルト・アイスナー編輯、ミュンヘン、一九一三年三月九月の第八号に公表した。  『遺稿』の第二版(一九一三年)への跋文の中でメーリングは、一九〇二年から一九一二年までの間に公表された新しい諸事実をもととして、種々なる補足をしているが、しかし彼はこの公表されたマルクス・エンゲルスの原稿のことにただ単に言及することをさえ必要であると見倣していないのである。  一九一八年に至って初めて、そのマルクス伝の中で、メーリングは再び『ドイッチェ・イデオロギー』のことに関説している。(メーリング著、カール・マルクス、一一五―一一七頁)。ヘーゲル以後の哲学の批判に充てられたる彼等の共同の著作についてのマルクス及びエンゲルスの叙述を再録してそれに附け加えてメーリングは云っている、『ところでまた全く言葉通りの意味で鼠どもがこの原稿を手にかけた、しかしそれから免れて残った諸断片を見れば、著者たちがこの不運についてあまりひどく悲観しなかった理由がわかる。』この言葉たるや、それが『聖マックス』を読んでそれにもとづいて言われているものとする限り、少くとも奇妙に見える。そしてそれは、若し我々にして彼のそのさきの諸論述を読むならば、なお一層わけのわからないものになって来る。  ただひとつのことだけは明白である、即ち、メーリングは、彼がマルクス及びエンゲルスの伝記家として並びに彼等の遺稿の編輯者としてこの原稿についての知識なしにはやってゆくことが出来ないのを知っていなければならなかった筈であるのに、一九〇二年以後に於てもやはりマルクス及びエンゲルスのこの著作を親しく見ることが出来なかったか、それともこれを欲しなかったのである。彼は叙述の仕方の陳腐とか、度はずれの争論の濫用とか、衒学的な措辞や空言贅語とかを指摘しているが、そのいずれのものもこの場合辯解の理由として役立つことが出来ぬ。『聖マックス』に於て、古代哲学の歴史に立入っている余論の如き、世界主義、中世の教権制及び教権制一般に関する、政治的自由主義及びカントに関する、フランス革命に関する、市民階級及びプロレタリア階級に関する、共産主義に関する、人格及び階級、等々に関する、箇所の如き、オアシスを指摘すれば、それでもってメーリングの意見に同意し得ぬことを宣明するには十分である。メーリングはこの場合、実際、行き詰り――マルクス及びエンゲルスの全遺稿をその手に入れることの不可能――を転じて軽々しくも一の『理論』となし、かくして本来マルクス及びエンゲルスの凡てのこれらの著作はなんら格別の重要性をもつものでないという結論に達しているのである。このように、彼の最後の著作に於てもまたメーリングの凡ての歴史的著作の有する原理的な缺陥が現われている、即ち、彼は批評家であり、政治記者でありはしたが、研究家ではなかったのである。  シュヴイツアー伝の著者たるグスタフ・マイヤーは、彼がエンゲルスの伝記に取りかかったとき、メーリングとは違った仕方で彼の仕事に着手した。彼は第一着手として、必要な資料を、先ず印刷された資料を、次にまた手記のままの資料を蒐集し且つ批評することをもって始めた。そしてこの点に於て彼はメーリングよりも恵まれていた、即ち、彼はベルンシュタインから原稿の一部分を手に入れることに成功したのである。マイヤーの書物に於て『ドイツ的イデオロギーの清算』に充てられたる章(*)を通読するだけで、メーリングが、党を通じて――若し党にして苟くも彼にマルクス及びエンゲルスの遺稿を編纂することを委嘱していたのであれば――一切のそのために必要な資料を彼の自由に委せるように要求する権利を放棄したのは、あまりにも軽々しかったという結論に達するに十分である。 * グスタフ・マイヤー著『青年時代のフリードリヒ・エンゲルス、一八二〇年から一八五一年まで。』、第一巻、二三四―二六二頁。  マイヤーが伝えている諸断片の中に於て既に、我々は如何に観念論的立場と唯物論的立場との間の対立がヘーゲルの体系の内部に於て形成され且つ発展したかについてのこの上もなく重要なる諸指示を見出す。そしてまさにそこに於て我々は唯物史観の我々に知られている限りでは最初の定式を見出すのである。  惜しいことにグスタフ・マイヤーは多分『ドイッチェ・イデオロギー』の保存されて残っている全部を手もとにもたなかったものと思われる。エンゲルス伝の起草の当時、彼はなお凡ての原稿の聯関を見通していなかった。彼はその当時なお、『ライプチッヒ宗教会議』――これは、それについてひとはただ臆測をめぐらすのほかないなんらかの不思議な仕方で、ベルンシュタインのもとにある諸原稿から既に一九〇一年に引き離されて、ドイツ社会民主党のアルヒーフの中へ這入っていた、――も同じく『ドイッチェ・イデオロギー』の一構成部分をなすものであるということについてさえも、はっきりしていなかったように見える(*)。その後彼によってその全文が刊行された『ライプチッヒ宗教会議』への彼の『緒言』の中で初めて、マイヤーはこの原稿を『ドイッチェ・イデオロギー』のひとつの『章』として取扱っている(**)。けれどもこの機会に彼は全著作の構造を再構成することを実行しなかったのである。 *  前掲書、二四三―二四四頁、四〇三―四〇四頁。 ** 社会科学及び社会政策アルヒーフ、第四七巻、第三号(一九二一年一〇月)、七七三―七八二頁。  さて私は多大の努力をもってこの我々を関心せしめる原稿のばらばらになった部分の多分凡てを蒐集することに成功した。私は『多分』と云う、というのは私がもっているのは要するに、ベルンシュタインが私に与えてくれたものだけであるに過ぎないからである。我々はエンゲルス自身によって配列されたなんらの目録をももっていない、我々は、人々がエンゲルスの死後その遺された諸手稿を取扱ったやり方の信ずべからざる軽率さにかんがみて、それの厳密な数え上げを遂行するという方策が執られたという保証をもっていないのである。  私はベルンシュタインから受取った原稿の最初の判読の後に私が次の諸部分を手もとにもっていることを確めた。即ち、  一、ローマ数学?と記号のついた『真正社会主義の哲学』に関する原稿。  二、ローマ数字?と番号を附けられそして『聖マックス』に充てられた甚だ大部な原稿。この中からベルンシュタインは、彼が『社会主義諸文書』の中に――大いに省略して――印刷したととろの諸章を取ったのである。半分以上のものはなお印刷されずにある。これは『ドイッチェ・イデオロギー』の最も大きな部分であって、実際その量からみてスチルナーの著作そのものにも劣らぬものである。  三、ローマ数字?をもって記しづけられそして真正社会主義の歴史叙述に充てられた原稿。この部分は既に一八四七年に『ウエストフエーリッシャー・ダンプブート』に印刷され、且つベルンシュタインによって『ノイエ・ツアイト』(第十八年)に再び公表された。これは社会主義の歴史家としてのカール・グリューンに容赦なき批判を下している。  四、ローマ数字?と番号を附げられそして『ホルシュタイン出のゲオルク・クールマン博士または真正社会主義の予言』という表題の原稿。  これらの原稿のほかに私はなおベルンシュタインから『ルードウイヒ・フォイエルバッハ』という表題の大部な原稿を受取った。それを注意深く通覧した結果、ベルンシュタインがそれに通し頁を打った――一から一一六までの――のは間違いであって、彼が二つの原稿をいっしょくたにしたのであることが私に明かになった。その一つの方は実際にフォイエルバッハを取扱っているが、しかしいま一つの方は、『福音書の批判の諸研究』という表題がついていて、これは全くなんら原作でなく、却ってエンゲルスによって――恐らく間違いのないところなお一八四一年に――なされたる、三つの福音書批判の著作――その第一のものはブルーノー・バウアーの『共観福音書記者の福音史の批判』(第一巻、一八四一年)である――からの諸抜粋を含んでいる。  このようにして第一の群のうちにはローマ数字?と記号のつけられている筈の原稿が缺けていた。ベルンシュタインは、そのような原稿が存在していたし且つそれはブルーノー・バウアーについて取扱っていたということ、しかるに彼はそれをメーリングに手渡したが、メーリングはそれを返さなかったということ、を私に確言した。私はメーリングの諸手稿のうちにそのような原稿が存在していないことを確めた後――この確認を私はエドゥアルド・フックスから得た――私は『ライプチッヒ宗教会議』の原稿に細心の研究を加えた。その結果、それがその最後の頁にエンゲルスの筆跡でローマ数字?と記号をつけられており且つなお『ブルーノー・バウアー』というひとつの特別の表題をもっていることが明かになった。  恐らく、メーリングはそれをベルンシュタインから借り受けた後、マルクスの哲学上の学位論文の原稿と一緒にそれをアルヒーフへ返還したものであろう。  かくて我々の原稿は、若し『ドイッチェ・イデオロギー』にしてフォイエルバッハ、ブルーノー・バウアー及びスチルナーに関する部分と真正社会主義の種々なる予言者たちに対して向けられた部分との二つの部分に分割されるならば(*)、次のように配分されるであろう。即ち、『ドイッチェ・イデオロギー』の第一巻は、フォイエルバッハに関する原稿、ブルーノー・バウアーに関する原稿(原稿番号?)及び原稿番号?から組成され、第二巻は、原稿番号?(真正社会主義の哲学)、原稿番号?(真正社会主義の歴史叙述)、原稿番号?(クールマンまたは真正社会主義の予言)から組成される。第二部にはまたクリーゲに反対した宣言(真正社会主義の戦術及び経済学)並びにグリューン及びベックに反対した論説(真正社会主義の詩歌)が加えられる筈のものであったろう。この最後の二つの著作は一八四六年と一八四七年とに『ウエストフエーリツシヤー・ダンプブート』と『ドイツ・ブラツセル新聞』とに印刷された。そのほかに我々はなお、同じく真正社会主義について取扱っているエンゲルスのひとつの原稿をもっている。 * このような分割を普通にメーリング、ベルンシユタイン及びマイヤーは採用している。マルクス及びエンゲルスが、一八四六年に、ワイデマイヤーの手を通じて、彼等の批判を印刷に附する試みをなしたとき、彼等が第一巻の中から単にブルーノー・バウアー及びスチルナーに関する批判だけを送ったということは、殆ど間違いのないところである。  我々のアルヒーフの本巻に於ては、我々は『ドイッチェ・イデオロギー』の第一の、フォイエルバッハに充てられた部分を公表する。         二  我々はここに我々によって印刷に附せられた原稿の意義を詳細に示そうとは思わない。エンゲルスが既に全く正当に指摘したように、その出来上っている部分は唯物史観の最も早期の叙述をなしているとはいえ、それは完結されていないのである。併しながらエンゲルスが、彼の通覧した原稿のうちにはフォイエルバッハの学説の批判は見出されなかったと云っているのは間違っている。読者は、この批判が、惜しいかな遺漏もあり、推敲されてもおらずまた全く完結されてもいないけれども、とにかく提供されているのを見るであろう。なお遺憾なことには原稿の若干頁が紛失してしまっている。更に読者はさきになって、エンゲルスが一八八八年に、即ち、四十五年後に、この原稿は如何に『我々のその当時の歴史的・経済的知識が不完全であった』かを示していると云っているのは、全く彼の謙遜であったことを見るであろう。  尤も我々は――エンゲルスのこのような声明に関聯して――マルクス主義の歴史に於て一つ首要な意義をもつひとつの問題、即ち、如何なる程度まで唯物史観はマルクスの、及び(或る程度までは)エンゲルスの独創的創造の所産であるか、という問題に立ちとどまって論ずることが必要であると考える。  ここに我々によって印刷に附せられた原稿は初めてかくの如き研究に対して一の厳密に確立せる出発点を与える。我々は今や、『哲学の貧困』及び『共産党宣言』の中で述べられたが如き唯物史観がマルクス及びエンゲルスによって定式化されたのは、遅くとも一八四五年の秋より後のことではない、ということを知るのである。  マルクス及びエンゲルスが我々のここに上梓した原稿の中で引合に出しているフォイエルバッハの論説(*)が掲載されたヴイガント四季誌は、一八四五年の春か若くは初夏に発行された。  既にこのことからして、マルクス及びエンゲルスに先行した種々なる思想家たちが唯物史観の創始者としての彼等に対して及ぼしたかも知れない影響を跡づけることをもって目標とするどのような研究も、上に挙げた年月以後に現われたところの哲学、歴史、文化史及び経済史の領域に於ける一切の著作をば、その研究の範囲から除外せねばならぬ、ということは明瞭である。 * 『唯一者とその所有に対する関係に於てキリスト教の本質について。』スチルナーに対するフォイエルバッハのこの答辯は彼の著作集の第七巻に載録されている。  ゲオルク・フォン・ベロウは、マルクス主義がその成立にあたって経済史の領域に於けるドイツの文献と如何なる関係をもったであろうかという点を確定するために、一の甚だ興味ある試みを企てた(**)。彼は――方法論的には全然正しい手続である――如何なる書物がマルクス及びエンゲルスの『読書圏』内に達し得たかを確定しようと骨折っている。そして彼は次のような結論に到っている、曰く、『唯物史観』――このものを彼は歴史に於ける経済的要素の優越についての理論と混同している――は既に当時の雰囲気のうちに存したのであり、マルクス及びエンゲルスの独創性は、既に他の研究者たちもまた到達していたところの諸成果を特に明晰且つ判明に定式化したところにあったのである。 ** ゲオルク・フオン・ベロウ著『解放戦争から現在に至るまでのドイツの歴史叙述』、ライプチッヒ一九一六年刊、一二四―一八〇頁。第二版は『中世史並びに近世史提要』の一篇として出ている。ミュンヘン及びベルリン、オルデンブルク書店、一九二四年発行、一六一―一九四頁。  ベロウはなおまたひとつの他の問題を――これも方法論的には全然正しい――堤起している、曰く、経済史に対する関心がマルクス及びエンゲルスの知らずにいた筈のないドイツの文献のうちに実際既に存在していたという事実が確められ得ることを認めるとしても、この場合なお一層重要なのは、これらの文献が如何なる結果にまで既に達していたか、言い換えれば、マルクス及びエンゲルスは、彼等が『市民的社会』の経済的発展に関する彼等の図式を作り上げるにあたって、何をこれらの文献から学び得たか、を確定するということである。  それはとにかく、ベロウは確かに、彼の気に召さぬマルクス主義なるものが特定の歴史的時期と結びついているということ、マルクス主義にとって本質的な歴史観が或る任意の歴史的瞬間に出現し得たものでないということ、を理解している。彼がロマンテイクの重要性を強調していることによって、彼はそれによって既に、フランス大革命なしには、世界の諸状態の革命的変革のこの試みなしには、この世界の新しい理解は考え得ぬことであろうということを承認しているのである。既にこの理由からだけでも彼は、なお相変らず『剽窃』呼ばわりの旧い立場を代表し、マルクス主義の生成を問題とする代りに、何処からいったいマルクス及びエンゲルスは彼等の見方を『盗んで』来たかということを問題にしているゾムバルトの如き歴史家や『社会学者』よりも限りなく高い見識をもっている。  ベロウは彼の研究を単にドイツの文献のみに制限した、しかるにこの彼の精通せる領域に於てさえ、彼は遺憾ながら一列の甚だ重要なる諸著作を逸した。それにも劣らず重要なのは、ドイツの文献に相応するフランス及びイギリスの文献を討究することである。マルクスは既に『神聖家族』の中で、彼等の唯一の知識の源泉――シュタインの書物『今日のフランスの共産主義と社会主義』――がイギリスの諸体系については沈黙しているというただそれだけの理由から、イギリスの諸体系(ここでは社会主義的諸体系のことをいっているのである)についてはまるで何も知らない『批判家』たちを嘲笑している。  既にパリに於てマルクスは、フランスの歴史の勉強と同時に、イギリスの歴史及び経済学の勉強にかかっている。『独仏年誌』及び『フォルヴェルツ』に現われたエンゲルスの論説は彼にこの方面に於てひとつの新しい衝撃を与えている。ルーゲに反対せる論説――同じ『フォルヴェルツ』に於ける――の中で既に、マルクスはイギリスの政治史及び社会史の中の諸事実を引き出して論じている。  一八四三年及び一八四四年の間のマルクスの『読書圏』については、この時期に出来た彼の諸論説のみならず、彼のノートブックがまたここかしこで我々に指示を与える。  特に興味のあるのは、マルクスがパリへの旅立の準備をし且つヘーゲルの法律哲学の批判に従事していた一八四三年の夏にかかわる諸指示である。我々はフランスの歴史に関する書物――そのうちにはシュミット、ワックスムート、シャトウブリアン、ラクルテルがある――、イギリスの歴史に関する書物(就中リエンハルト、ラッぺンベルク、ラッセル)、ドイツの歴史に関する書物(ランケ)、政治学説の歴史に関する書物、メエゼルの『愛国的空想』、マキャヴェリ、ルッソオ、モンテスキューからの抜き書きを見出す。パリに於てマルクスは、フランスの歴史についての勉強を継続した、そしてそれのみか一時は、国民議会の歴史を書こうとさえもくろんだのであった、しかも同時にまた彼は合衆国及びイギリスの歴史についても多くを読み、社会主義者たちや経済学者のリカルドオ及びマツカロックを勉強した。  我々はルーゲを通して、如何にみっしりとマルクスがパリに於て勉強したか、を知っている。エンゲルスは、彼が一八四四年の九月にマルクスと一緒にブルーノー・バウアーに対する反駁論文への序言を起草した時分には、マルクスがその論文を一冊の纏った書物に変えてしまおうということ、そして彼等二人がこの序言の中で強調したところのかの『現実的ヒューマニズム』がその書物そのものの中ではひどく影の薄いものにされようということ、は考えていなかった。そしてマルクスが、彼の労作の過程に於て、如何なる程度までフォイエルバッハを超越するに至ったかは、『神聖家族』の中の次の箇所がこれを示している、『或いは、批判的批判は、自然に対する人間の理論的並びに実践的態度、即ち自然科学と産業とを歴史的運動から除外しながら、歴史的現実の認識に於て単に端初にだけでも達したものと信じているのか。或いはそれは、例えば或る時代の産業、即ち生の直接的な生産の仕方そのものを認識することなしに、この時代を実際に既に認識したものと考えているのか。』(『神聖家族』二三八頁。)  一八四五年の四月にエンゲルスが、パリから追放されたマルクスの移り住んでいたブラツセルにやって来たとき、彼は直ちに、彼の友達が断然『現資的ヒューマニズム』と絶縁していたという事実を確かめた。後に、一八八八年に、エンゲルスによってマルクスの古いノートブック(*)の中に再び発見されたフォイエルバッハに関するテーゼは、この時期のものである。 * エンゲルスが『綴り』といっているのは不正確である。  このノートブック――私はそれをラフアルグ家に紛れ込んでいたマルクスの諸手稿の間に発見することに成功した――の中にはなお、マルクスが読むつもりでいた若くは手に入れるつもりでいた書物の若干の内容目録が見出される。これはその大多数が経済学、社会主義及び歴史に関する書物である。期待される筈のことでもあったが、マルクスは、彼がブラツセルの図書館に於て彼を関心せしめる諸問題に関して見出すことの出来た凡てのものを知り且つ読破しようと努力した。しかも彼の注意の中心点には経済学、経済史及び政治理論が立っている。我々はマルクスが既にその当時経済理論並びに政治理論の歴史を書くことをもくろんでいたのを知っている、――これはエンゲルスもそうであって、エンゲルスは丁度『イギリスに於ける労働階級の状態』に関する彼の書物を印刷に渡して、イギリスに於ける社会運動の歴史を計画していた。一八四五年の夏、二人はイギリスへ赴き、そこに彼等は――主としてマンチェスターに――六週間逗留した。この時期のもので保存されて残る若干の綴りを見ると、マルクスがマンチェスターに於てソムプソン、コベット、シーニョア、クーパー、エドモンゾ、トウク、リカルドオ、マツカロック、ウェード、エーデンを読んだということがわかる。  かくて我々の引き出し得る結論は次の如くである、即ち、マルクスは、そして彼と一諸にエンゲルスは、彼等が一八四四年の終に、産業の知職なしに歴史的現実を理解し得べきなんらの可能性も全く存しないという結論に到達して以後、彼等にその当時知られていた全部の文献を渉猟したのである。マルクス及びエンゲルスが彼等の唯物史観をば誰か或る一人の、ただ彼等だけが知っているにとどまった歴史家乃至経済学者から剽窃したなどと信ずるのは、歴史的感覚の全然缺如しているのでなければ出来ないことである。  最近に於てこの種の試みをなした者にゾムバルトがある。彼は経済史及び社会主義の歴史に関して数巻の書物を書き上げているのだが、しかも今日に至るまでなお観念の歴史的被制約性についてまるで理解するところがないのである。それだからこそ彼は、なんらの危惧もなしに一の与えられた観念体系をばその歴史的根柢から切り離して、これを一の他の時代へ移し込むことが出来るのである。そして事実、若しもマルクス及びエンゲルスの学説にして、フランス大革命も、イギリス及び大陸に於ける産業革命も、ブルジョアジーとのプロレタリアートの闘争も、ヘーゲルも、フォイエルバッハも、リカルドオも、オーエンも、フーリエも知らぬひとりの人間の頭脳の中にしかく容易に飛び出して来ることの出来るような観念の一体系を現わしているとするならば、その場合にはもちろん、マルクス及びエンゲルスがしかく巧妙に剽窃したところのかの秘密の著者を発見するということは結局に於て可能でなければならない、と結論するのは難しいことではないのである。  幸運の巡り合せで到頭ゾムバルトは、永い間の探求の果てに、『唯物史観を発見する必然性は決して十九世紀に存在していたわけでなかった』ことを既に一七七一年に於て示した著述家を見出すことが出来た。否、それにとどまらない。ゾムバルトが遂に見出した書物の内容は、彼の意見に従えば、『種々なる文化領域への唯物史観の嘗て存在する最も完全な適用』を示しているのである。この発見はゾムバルトが彼の論文『社会学の発端』(*)の中でなしたところである。マルクス及びエンゲルスが、恐らく、それを永久に埋没させた忘却の闇から、ゾムバルトによって引き出された事物というのは、グラスゴウ大学法律学教授ジョン・ミルラア著、『社会に於ける等級の差別に関する考察』ロンドン一七七一年刊、である。 * マツクス・ウェーバーに捧げられたる二巻の記念論文集『社会学の主要問題』の中で発表された。  ゾムバルトの引用せる唯一つの引用文でさえもが、ミルラアが単にモンテスキューの学派を卒業した十八世紀後半の無数の『文化史家』の一人であるに過ぎないことを示している。このような事柄に精通しているのを誰も否むことの出来ないところのクーノーは、ミルラアをばリングエよりもずっと低く評価している。彼は書いている、『ミルラアは社会階級なる概念を一般になお知っていない。彼は単に等級及び身分の差別について知っているにとどまり、且つこれらの差別を、たとひ彼は彼の書物の若干の箇所に於て富の等級的地位に及ぼす影響について語っているにせよ、旧い図式に従って、ヨリ強い社会成員のヨリ弱い社会成員に対する物理的優越に帰しているのである。階級構成の経済的基礎を彼は見ていない。(*)』 * クーノー著『マルクスの歴史、社会並びに国家理論』第一巻一一九頁。  マルクスは彼が、ミルラアからの二三の引用文を書き込んでいた綴りを湮滅しておくのを忘れたほど不用意であった。彼は、疑いもなく、この書物を通読したのであるが、しかしそれは全然他の聯関に於てであり、且つなお彼が『ドイツ的イデオロギー』の批判を書いてから多くの年を経た後のことであった。一八五二年八月、ロンドンにて、と日附の書かれた特別の綴りの中に我々は、婦人の歴史(ユング、セギュール、マイネルス、トーマス、アレキサンダー)及び一般文化史(アイヒホルン、ワックスムート、ドウルマン)を取扱った一ダースの書物の間に、ミルラアを見出すのである。そして事実、ミルラアの書物の三分の一は種々なる時代に於ける婦人の地位について論じている(第一章)。後段に至ってミルラアは家長の裁判権と強力、種族の成員に対する酋長または長老の強力、主権者の強力及び奴隷並びに奴僕の地位を取扱っている。大体に於て彼はこれまたはかれの制度を説明せずして単に記述し、そしてそれらの制度のうちに『人類の自然権と自由との侵害』を認めているのである。十八世紀に発足する『文化史』なるものは人間の歴史が単に君主の征略と英雄的行為にのみ存するものでないことを立証するところの沢山な事実を蒐集した。単に大量の事実――その中には、この文化の諸要素の一つとして、経済的諸関係、生産及び商業の歴史からの諸事実も含まれていた――を提供したに過ぎぬ一般『文化史』のほかに、産業及び商業についての特殊な歴史が斯界に現われ始めた。けれども経済史はどこまでもそれだけのものであり、そしてその他の『文化』諸現象もまた同様にどこまでもそれだけのものであった。それはとにかく、経済的諸関係のこれらの最初の歴史家たちは既に、マルクス及びエンゲルスによって利用されたところの大量の資料を蒐集したのである。そして一八八八年にエンゲルスが、一八四五年から四六年に属する彼及びマルクスの著作は、彼等の当時の歴史的・経済的知識が如何に不完全であったかを示している、と認めたとき、この缺陥というものは時代の缺陥であったのである。それだからベロウが、かの時代の歴史的・経済的知識の発達の水準を確定することが大切である、と云っているのは全く正当の言である。  それ故に、マルクス研究の任務の、一つはまた、イギリス、ドイツ、フランス及びイタリアに於ける一八四五年以前の『文化史』及び経済史に関する文献の討究である。マルクス主義の根源をドイツの歴史的・経済的文献のうちに跡づけようとするベロウの試みは、本質的な缺陥をもっている。そこで彼はマルクスが屡々引用しているヘーレン及びギュリツヒを忘れた。ギュリツヒからの抜き書を含むところの偶然に保存された綴りは、如何に入念にマルクスがギュリツヒを勉強したかを示している。ベロウはただヒュルマンのことを指摘しているが、この人のドイツ諸都市の歴史及びギリシアの商業の歴史に関する諸首要著作は、マルクスが実際よく通じていたところであった。マルクスはまたそれに劣らぬ熱心さをもって工藝学及び機械建造についての著名なドイツの歴史家ポッペの諸著作からも抜き書をした。一八四五年の秋に至るまでにマルクスは既にまたチイエリー、ギゾウ、ミニユエの如き王政復古時代の歴史家たちは言わずもがな、フランスの産業の歴史に関する諸首要著作にも同様によく通じていた。マルクスのノートブック及びエンゲルスの書物の中に於て我々は、イギリスの歴史的・経済的文献中のあらゆる重要な著作、即ちマクファソン、アンダーソン、エーデン、ウエイドについての諸指示を見出す。注意を惹くのはこの原稿のうちに既に、後年『資本論』の第一巻の中で繰り返されているところの諸関説及び諸指示が見出されるということである。そしてただ『ドイッチェ・イデオロギー』から出発することによってのみひとは、何をマルクス及びエンゲルスが彼等の先行者たちに負うているか、誰が彼等に最も沢山な資料を彼等の歴史的・経済的図式の構成のために提供したか、を最大可能の精確さをもって確定し得るであろう。  我々がここに印刷に附する原稿は、マルクス主義の哲学的発展のあらゆる科学的研究にとって重要ないまひとつの事実を確定する可能性を与える。我々が反デューリング論から知っている結論は、既にフォイエルバッハに関する原稿の中で定式化されている。曰く、事物及び知識の一般的聯関についての特別な科学としての、一切の人間的知識の諸総計の総計としての、哲学は余計なものになる。以前の凡ての哲学のうち残存するものはただ思唯の諸法則についての科学、即ち形式論理学と辯証法のみである。  この結論にマルクス及びエンゲルスがフォイエルバッハに対する批判を通じて到達したということは疑いない。そしてこの批判が主としてマルクスによって遂行されたということも、同じく疑いなきことである。  既に『神聖家族』に於てマルクスはフォイエルバッハの弟子としてよりもむしろヨリ多く彼の発展者として立ち現われている。このことはフォイエルバッハについてのマルクスとエンゲルスとの言説を総括して比較分析することによって最もよく証明される。  マルクスは、彼が『神聖家族』を書き終ったとき、既にフォイエルバッハ主義者であることを――哲学に於ても――やめていた、と云われることが出来る。それ故に彼にとってはフォイエルバッハとの絶縁を為し遂げることはいとも容易であった、この絶縁をエンゲルスは既に一八四五年の春に、成就された事実として見出した。『神聖家族』の後に出た『イギリスに於ける労働階級の状態』がずっと多分に『現実的ヒューマニズム』の地盤の上に立っているのもこれがためである。マルクスは、盟友としてのフォイエルバッハになお望みを嘱していたエンゲルスを、自分と一緒に引き摺っていった。  フォイエルバッハに関するマルクスの有名なテーゼは、『ドイツチェ・イデオロギー』の最初の、フォイエルバッハの批判に結びつく部分への最良の手引をなしている。エンゲルスはこのテーゼを全く精確に再現せずしてそれに若干の変更を加えているので、私は冒頭にこのテーゼのテキストを直接に原文から即ちマルクスのノートブックから掲載する。その際エンゲルスによって公表されたテキストとの相違は全部再現しておこう(*)。  『ドイッチェ・イデオロギー』の原稿に親しく接したおかげで、私がローラ・ラフアルグから貰って持っているひとつのマルクスの原稿の秘密を解くことが出来た。それはその当時私には知られていなかったマルクスの一著作の第一巻への序文の草案をなしている。今にして初めて、そこに述べられている『出版物』(**)が未刊の『ドイッチェ・イデオロギー』のことにほかならぬということが私に明かになった。フォイエルバッハに関するテーゼの後に、私はまたこの断片に終った草案をも凡ての抹殺箇所をくるめて載録する(***)。                              D・リヤザノフ。 *  訳者註、この翻訳については訳者例言を見てほしい。 ** 訳者註、我々の訳書の三七頁一行目を見よ。 ***訳者註、我々の訳出の仕方については訳者例言を見てほしい。   フォイエルバッハに関するテーゼ     フォイエルバッハに         一  従来の凡ての唯物論(フォイエルバッハのも含めて)の主要な缺陥は、対象、現実、感性が、ただ客体または直観の形式のもとに捉えられて、感性的・人間的活動、実践として捉えられず、主体的に捉えられていないということである。そこで活動的方面は、抽象的に、唯物論とは反対に観念論――それはもちろん現実的、感性的活動をそういうものとして知らないのである――から展開された。フォイエルバッハは感性的な――思想的客体から現実的に区別されている客体を欲する、けれども彼は人間的活動そのものを対象的活動として捉えていない。それだから彼は、キリスト教の本質の中で、ただ理論的な態度のみを真正に人間的な態度と見ており、これに反して実践は、ただその穢いユダヤ人的な現象形態に於てのみ捉えられ、固定されている。それだから彼は『革命的な』、実践的・批判的な活動の意義を把握していないのである。         二  対象的真理が人間的思惟に到来するか否かという問題は、なんら理論の問題でなく、却って一の実践的な問題である。実践に於て人間は真理を、即ち、自己の思惟の現実性と力、その此岸性を、証明せねばならぬ。思惟――実践から游離されている思惟――が現実的であるかそれとも非現実的であるかについての論争は、全くのスコラ哲学的な問題である。         三  環境と教育との変化に関する唯物論的学説は、環境が人間によって変化され、また教育者自身が教育されねばならぬ、ということを忘れている。従ってこの学説は、社会を二つの部分――そのうち一つは他を超越する――に分たねばならないのである。  環境と人間的活動との変化の合致或いは自己変化は、ただ革命的実践としてのみ捉えられ且つ合理的に理解されることが出来る。         四  フォイエルバッハは宗教的自己疎外、即ち一の宗教的なものと一の現世的なものとへの世界の二重化、の事実から出発する。彼の仕事は宗教的世界をその現世的基礎に解消することに存している。併しながら、現世的基礎が自分自身から浮き上って、一の独立の王国として雲界に定着するということは、ただこの現世的基礎の自己潰裂と自己矛盾とからしてのみ説明さるべきである。それ故にこの現世的基礎そのものが、それ自身に、その矛盾に於て理解されねばならぬし且つ実践的に革命されねばならぬ。それ故に、例えば、地上の家族が神聖家族の秘密として発見された後は、今や前者そのものが理論的に且つ実践的に絶滅されねばならぬ。        五  フォイエルバッハは、抽象的思惟をもって満足せず、直観を欲する。しかし彼は感性を実践的な人間的・感性的活動として捉えていない。        六  フォイエルバッハは宗教的本質を人間的本質に解消する。併しながら人間的本質はなんら個々の個人に内在するところの抽象体ではない。その現実に於ては人間的本質は社会的諸関係の総体である。  この現実的な本質の批判に立入らぬフォイエルバッハは、それだから余儀なくも、  一、歴史的過程から抽象して宗教的情操をそれだけとして固定し、且つ一の抽象的・孤立的・人間的個体を前提している。  二、本質はそれだからただ『種』として、内的な、暗黙な、多数の個人を自然的に結合する普遍性として、捉えられ得るにとどまっている。        七  フォイエルバッハは従って、『宗教的情操』そのものがひとつの社会的生産物であるということ、そして彼が分析せる抽象的個人が一定の社会形態に属するということ、を見ていない。        八  一切の社会的生活は本質上実践的である。理論を神秘主義に致すところの一切の神秘は、その合理的な解決を、人間的実践のうちに且つこの実践の把握のうちに見出す。        九  直観的唯物論、即ち感性を実践的活動として把握しない唯物論が到達する最高のものは、個々の個人及び市民的社会の直観である。        一〇  旧き唯物論の立場は市民的社会であり、新しきそれの立場は人類社会または社会的人類である。        一一  哲学者たちは世界をただ種々に解釈して来ただけだ、世界を変化することが問題であろうに。   マルクス草案  『ドイッチェ・イデオロギー』への序文     [序文]  人間は従来つねに、自分自身に関して、即ち、自分が何であるか若くは何であるべきかについて、間違った観念を抱いて来た。神とか規範人とか等々についての彼等の観念に従って、彼等は彼等の諸関係を律して来た。彼等の頭脳から生れ出たものは大きくなって彼等の手に負えなくなった。彼等の被造物の前に、創造者たる彼等は、身を屈して来た。我々は彼等を、彼等がその軛のもとで萎縮せるところの幻想、観念、独断、空想的迷妄から解放しよう。我々は思想のこのような支配に対して叛逆しよう。我々は彼等に、これらの空想をば人間の本質に相応せる思想と取り換えることを教えよう、とひとりの者は云い、それらの空想に対して批判的態度をとることを教えよう、と他の者は云い、それらの空想をば脳裡から追い払うことを教えよう、と第三の者は云う、そうすれば――現存する現実は崩解するであろう。  このような罪のない、子供らしい空想が最近の青年ヘーゲル派の哲学の核心をなしているのである。この哲学はドイツに於て、単に一般公衆から驚愕と畏敬の念をもって迎えられているばかりでなく、また哲学的英雄たち自身によって、世界を顛覆する危険性をもち犯罪的な無遠慮をおかすものだという仰山な意識をもってふれ出されているのである。本出版物の第一巻の目的とするところは、自分を狼と見做しまたそのように見做されているこれらの羊どもの正体を暴露し、如何に彼等がドイツ市民たちの諸観念に対してただ哲学的に吼えついているに過ぎないかということ、如何にこれらの哲学的解釈家たちの大言壮語がただ現実のドイツの諸状態の惨めさを反映しているに過ぎないかということを示すにある。それは、夢想的で愚鈍なドイツ民族の性に合っているところの現実の影を相手とする哲学的闘争の弱点を暴露し、その信用を奪い取るという目的をもっている。  昔或る感心な男が、人間が水に溺れるのは、ただ彼等が重力の思想に憑かれている故である、と想像した。もしも彼等にして、例えばこの重力の表象は迷信的な表象であるとか、宗教的な表象であるとかと宣言することによって、そのものを脳裡から追い払ってしまうならば、彼等はあらゆる水の危険を超越しているであろう。一生涯彼は、その有害な結果についていずれの統計もが彼に新たな無数の証明を供したところのこの重力の幻想と闘争した。この感心な男というのが新しいドイツの革命的哲学者たちの典型であった。  /* ドイツの観念論はひとつの特殊な差異によってあらゆる他の民族のイデオロギーから区別される。後者もまた、世界を観念によって支配されるものとして、観念及び概念を規定的原理として、一定の思想を物質的世界の哲学者たちにとって近づき得る神秘として、考察している。*/  /* ヘーゲルは実証的な観念論を完成した。彼にとっては全物質的世界が一の思想世界に、そして全歴史が一の思想の歴史に転化したばかりではない。彼は思想的事物を登録することをもって満足しない、彼はまたその生産活動をも叙述しようと努めた。*/  /* ドイツの哲学的批判家たちは<共同の敵、即ちヘーゲルの体系をもっている。この体系こそ彼等がそれと闘争するところの世界である。彼等の理論的前提をなしていると同時に彼等がそれを絶滅しようと努めているところの――ヘーゲルの体系>一人残らず、観念、表象、概念がこれまで現実の人間、世界を支配しまた規定して来たということを、現実の世界が観念的世界の一の生産物であるということを、主張している。そのことはこの瞬間に至るまで行われている、しかしそのことはそうあってはならない筈だ。彼等は、如何に彼等が、彼等の意見に従えば自分自身の自由な思想の権力のもとに呻吟しつつある人間世界を、救済しようとするかの仕方に於て、互いに相違している。彼等は、何を彼等が自由な思想であるとして宣言するかという点に於て互いに相違している。彼等は、この思想の支配に対する信仰に於ては相一致している。彼等は、彼等が彼等の孤立せる思惟活動をもって十分なものと見做しているにせよ、それとも一般的意識を獲得しようと欲しているにせよ、とにかく彼等の批判的な思惟活動が現存するものの没落をもたらすに相違ないという信仰に於ては相一致しているのである。*/  /* ドイツの哲学者たちは、彼等のヘーゲルの思想世界をどう考えていいかに迷うたはてに、彼等の見解によれば、即ち、ヘーゲルの幻想に従えば、従来、現実の世界を生産し、規定し、支配したところの思想、観念、表象の支配に対して抗議する。彼等は抗議を申し立ててそしてくたばってしまう*/〔‥‥‥〕  /* ヘーゲルの体系に従えば、観念、思想、概念が人間の現実の生活を、彼等の物質的世界を、彼等の実存的な諸関係を生産し、規定し、支配した。彼の叛逆的な弟子たちはこの点を彼から受け取っている*/〔‥‥〕 第一篇      フォイエルバッハ  唯物論的見方と観念論的見方との対立 {1}  ドイツのイデオローグたちの告げるところによれば、ドイツは最近数年間に於て一の比類なき変革を経験した。シュトラウスに始ったヘーゲルの体系の分解過程は、あらゆる『過去の諸権力』がその渦中に引き込まれているところの一の世界的動乱にまで発展した。この一般的な渾沌のうちに、強大なる諸王国が形成されたかと思えば、忽ちにしてまた没落し、諸英雄が立所に現われ出たかと思えば、ヨリ大胆にしてヨリ強力な競争者たちによって再び闇黒の中へ投げ返えされた。それは一の革命であった、それに比してはフランス革命も兒戯に等しい、それは一の世界的闘争であった、それの前にはデイアドコスたちの諸闘争も見窄らしく見える。前代未聞の目まぐるしさをもって、諸原理が互いに推し除け合い、思想の英雄たちが互いにひしめき合った。かくて一八四二年から一八四五年に至る僅かな歳月の間に、ドイツに於てはいつもなら三百年の間に於けるよりも一層多くのものが清算された。  凡てこれらのことは純粋思想の中で起った筈のものとされている。  げにも事は一の興味ある出来事、即ち絶対精神の腐敗過程ということにかかわっているのである。この偉大なる解放戦争の残滓として結婚式招待通知人や葬儀通知配達人の缺けている理由はなかった。この髑髏の種々なる構成要素は最後の生命の火花の消滅の後に解体して、新しい結合を結び、新しい実体を形成した。従来絶対精神の搾取によって生活して来た種々なる哲学的産業家たちは、今やこれらの新しい結合に没頭した。いずれの者も彼のものに帰した部分の売捌を出来るだけ大きな商売で経営した。これは競争なしにすむわけにゆかなかった。競争は最初のうちはかなり市民的に且つ堅実に行われた、後に至って、ドイツの市場が供給過剰になり、しかもあらゆる骨折にも拘らず世界市場に於てちっとも売行が良くないとなるや、商売はいつものドイツ流儀に従って、工場式生産及び仮装生産、品質の劣悪化、原料のごまかし、空取引、空手形使用、及びいつものドイツ流儀のあらゆる現実的基礎を缺ける信用制度によって、不堅実にならしめられた。竸争は今や我々に世界史的な変動として、最も強大なる諸結果と諸成果との産出者として叙述され且つ構成されているところの一闘争となりはてた。  それの唱道が尊敬すべきドイツ市民の胸のうちにさえ好意的な国民的感情を喚び起しているこれらの哲学上の大言壮語を、青年ヘーゲル派のこの全運動という至って小さな現実の見窄らしさと地方的限局性を、直観的に認識するためには、それを一度ドイツの外部に横たわれるひとつの立場から眺めることが必要である。 {1?b~c}  /*それだから我々はここにこの運動の個々の代表者たちに対する特殊的批判に先立って<ドイツの哲学及び全イデオロギーに関する>若干の一般的論述を行う。<これらの論述は続いてなされる個別的諸批判の理解のために且つその基礎付けのために必要な程度に於て我々の批判の立場を示すに十分であろう。我々はこれらの論述をあたかもフォイエルバッハに向ける、蓋し彼は少くとも一の進歩をなした唯一の人であり且つその思想に我々が真面目に立ち入り得る唯一の人であるからである>これらの論述は彼等の凡てに共通なイデオロギー的諸前提を詳細に闡明するであろう。*/ {2a}   A イデオロギー一般、特にドイツ的イデオロギー  ドイツ的批判は、その最近の努力に至るまで、哲学の地盤を離れ去らなかった。自己の一般的・哲学的諸前提を吟味するどころか、ドイツ的批判の全体の問題さえもが特定の哲学的体系、即ちヘーゲルの体系の地盤の上に生じたものである。単にその解答のうちにばかりでなく、既に問題そのもののうちに一の神秘化が存した。ヘーゲルへのこのような依属こそ、何故に、これらの最近の批判家たちのいずれもが、ヘーゲルを超越している、とどんなに主張していても、彼等の誰もがヘーゲルの体系の一の包括的な批判は単にこれを試みることさえもしなかったか、ということの理由である。ヘーゲルに対する、また彼等相互に対する彼等の論争なるものは、彼等の各々の者がヘーゲルの体系のひとつの方面を取り出して、これを全体の体系に対して、並びに他の人たちによって取り出された別な諸々の方面に対して、対立させるということに局限されている。最初のうちひとは実体や自己意識の如き、純粋な、本物のヘーゲル的諸範疇を取り出した、後になってひとはこれらの諸範疇を、種族、唯一者、人間、等々の如き、ヨリ現世的な名稱によって俗化した。  シュトラウスからスチルナーに至るドイツの全哲学的批判は、宗教的諸表象の批判に局限されている。<この批判たるや、一切の禍から世界を救う絶対的な救世主であろうとする要求をもって現われた。宗教は絶えずこれらの凡ての哲学者たちの気に召さぬ諸関係の究極的な原因として、敵の首魁として目され且つ取扱われた。>ひとは現実の宗教及び本来の神学から出発した。宗教的意識とは何か、宗教的表象とは何か、はその後の経過に於て色々に規定された。進歩の存した点といえば、見たところ支配的な形而上学的、政治的、法律的、道徳的及びその他の諸表象をもまた宗教的若くは神学的諸表象の範囲のもとに包摂し、同様に政治的、法律的、道徳的意識をば宗教的若くは神学的意識であるとなし、且つ政治的、法律的、道徳的人間を、究極に於ては『人間なるもの』をば宗教的であるとなしたことであった。宗教の支配ということは前提されていたのである。支配的な関係はいずれも次第に宗教の一関係であるとされ、そして礼拝に、法律礼拝に、国家礼拝に転化された。到る処ただ教儀が、そして教儀に対する信仰が問題であった。世界は絶えず広まりゆく範囲に於て聖列に加えられ、遂に尊敬すべき聖マックスに至って世界をひとくるめに神聖であると宣し、かくて永久に結末をつけることが出来た。  旧ヘーゲル派の人々は凡てのものを、それがヘーゲルの或るひとつの論理的範疇に還元されるや否や、理解した。青年ヘーゲル派の人々は凡てのものを、それを宗教的諸表象とすりかえるか若くはそれを神学的であると宣言することによって、批判した。青年ヘーゲル派の人々も、現存する世界に於ける宗教の、概念の、普遍的なものの支配に対する信仰に於ては、旧ヘーゲル派の人々と意見を同じくしている。ただ前者は、後者が正統であるとして祝するところのこの支配を簒奪であるとし攻撃するというだけの相違である。  これらの青年ヘーゲル派の人々にあって表象、思想、概念、一般に彼等によって独立のものにされた意識の諸生産物が人間の本来の桎梏であると見られること、あたかも旧ヘーゲル派の人々にあってそれらのものが人間社会の真の紐帯であるとされるのと軌を一にしているからして、論ずるまでもなく、青年ヘーゲル派の人々はまた単に意識のこれらの諸幻想に対して闘争することだけが必要なのである。彼等の想像に従えば、人間の諸関係、その全体の行動営為、その桎梏と制限は、人間の意識の生産物であるからして、青年ヘーゲル派の人々は、首尾一貫した仕方で、人間の現在の意識を人間的な批判的な或いは利己的な意識と取り替え、それによって人間の制限を排除すべきである、という道徳的要請を人間に課しているのである。意識を変化せよ、というこの要求は、畢竟、現存するものを違って解釈せよという、換言すれば、それを或る違った解釈によって承認せよ、という要求になる。青年ヘーゲル派のイデオローグたちは、彼等のいわゆる『世界を震動せしめる』言辞にも拘らず、最大の保守主義者である。彼等のうち最も新進の人々が、彼等はただ『言辞』に対してのみ闘争する、ということを主張しているのは、彼等の活動にとって正しい表現を見出したものというべきである。ただ彼等は、彼等がこれらの空語そのものに空語以外の何物をも対立せしめているのでないということ、また彼等にして単にこの世界の空語に対して闘争するのみであるときには、彼等は現実に存立するところの世界に対して決して闘争しているのではないということ、を忘れているのである。このような哲学的批判の達成し得た唯一の結果は、キリスト教についての二三の、しかもその上に一面的な、宗教史的な解明であった、それのこれ以外の全主張は、このような取るに足らぬ解明をもって世界史的な発見を提供したものであるとする、それの要求に附け加えられた装飾物であるに過ぎない。  これらの哲学者の誰も、ドイツの哲学とドイツの現実との聯関について、彼等の批判と彼等自身の物質的環境との聯関について問うということに想到していないのである。 {1?c~d}      一、イデオロギー一般、特にドイツ哲学        A  /* 我々は唯一つの科学、即ち歴史の科学を知るのみである。歴史は二つの方面から見られて自然の歴史と人間の歴史とに区分されることが出来る。けれどこの二つの方面は分離すべきでない、人間が生存する限り、自然の歴史と人間の歴史とは相互に制約し合う。自然の歴史、いわゆる自然科学は、ここでは我々の問題とはならない、けれども人間の歴史には我々は立入らねばならぬであろう、なぜなら殆ど凡てのイデオロギーは、帰するところ、この歴史のゆがめられた解釈であるか、或いはこの歴史からの全然の抽象であるか、であるからである。イデオロギーそのものは単にこの歴史の諸側面の一つに過ぎない。*/  我々の出発点たる諸前提は、なんら恣意的なものでなく、なんらドグマではない、それは現実的な諸前提であって、このものからはひとはただ想像の上で抽象し得るばかりである。それは、現実的な個人、彼等の行動、及び所与のものとして見出されたる並びに彼等自身の行動によって作り出されたる彼等の物質的な生活諸条件である。それ故に、これらの諸前提は純粋に経験的な仕方で確かめ得るものである。  一切の人間歴史の最初の前提は、言うまでもなく、生きた人間的個人の生存である。<これらの個人の、よってもって動物から区別される所以の最初の歴史的行動は、彼等が思惟するということでなく、却って彼等が彼等の生活資料を生産し始めるということである。> それ故に確かめらるべき最初の事態は、これらの個人の肉体的組織と、それによって与えられたところの彼等以外の自然に対する彼等の関係である。我々はここではもちろん、人間自身の物理的性状にも、また地質学的、風土学的、気候的及びその他の諸関係の如き、人間によって所与のものとして見出されたる自然的諸条件にも、立入ることが出来ない。<けれどもこれらの諸関係は、単に人間の根源的な、自然生的な組織を、殊に人種の差別を制約するのみでなく、また彼等のその後の今日に至るまでの全体の発展乃至無発展をも制約する。>一切の歴史叙述はこれらの自然的諸基礎及び歴史の過程に於ける人間の行動によるそれらの諸基礎の変化から出発せねはならぬ。  ひとは人間を意識によって、宗教によって、その他思いの儘のものによって、動物から区別することが出来る。人間自身は、彼等が彼等の生活資料を生産し始めるや否や、自己を動物から区別し始めるのである、この行動たるや、彼等の肉体的組織によって制約されている。人間は彼等の生活資料を生産することによって、間接に彼等の物質的生活そのものを生産する。  人間が彼等の生活資料を生産する仕方は、先ず第一に、所与のそして再生産さるべき生活資料そのものの性質に依存している。 {2?}  生産のこの仕方は、単に、それが個人の物理的存在の再生産であるという方面に向ってのみ考察さるべきでない。それは、むしろ既に、これらの個人の活動の一定の仕方であり、彼等の生活を表現する一定の仕方であり、彼等の一定の生活の仕方なのである。個人が彼等の生活を表現する仕方はすなはち彼等の存在する仕方である。それ故に、彼等が何であるかは、彼等の生産と、詳しく言えば、彼等が何を生産するか、並びにまた彼等が如何に生産するかということと、合致する。それ故に個人が何であるかは、彼等の生産の物質的諸条件に依存している。  この生産は人口の増加とともに初めて現われる。人口の増加はそれ自身また個人相互の間に於ける交通を前提している。この交通の形態はまた生産によって制約されているのである。 {5a}  そこで事実はこうである、即ち、一定の仕方で生産的に活動している一定の個人は、これらの一定の社会的及び政治的諸関係を取り結ぶ。経験的観察は、各々の個々の場合に於て、社会的及び政治的組織と生産との聯関を、経験的にそして一切の神秘化と思辨とをまじえることなしに、示さねばならない。社会的組織及び国家はつねに一定の個人の生活過程から生れる、けれどもここに謂う個人は、彼等自身の若くは他人の表象に現われるような個人でなく、現実にあるがままの個人、換言すれば、行動し、物質的に生産しているところの、従って一定の物質的な且つ彼等の恣意から独立な諸制限、諸前提及び諸条件のもとで活動しているところの個人である。  <これらの個人が作るところの表象は、自然に対する彼等の関係についての表象か、或いは彼等相互の関係についての表象か、それとも彼等自身の性質についての表象である。これらの凡ての場合にこれらの表象が、彼等の現実的な諸関係及び活動の、彼等の生産の、彼等の交通の、彼等の社会的及び政治的《組織》――《行動》の――現実的なまたは幻想的な――意識的な表現である、ということは明白である。これと反対の見方は、現実的な、物質的に制約された個人の精神のほかになお一の別個独立な精神が前提されるときにのみ可能である。これらの個人の現実的な諸関係の意識的な表現が幻想的であるとしても、即ち、彼等が彼等の表象の中で彼等の現実を逆立ちせしめているにしても、それはまた、彼等の局限された物質的な活動の仕方並びにそれから生ずるところの彼等の局限された社会的諸関係の結果なのである。>  観念、表象、意識の生産は、先ず第一に、人間の物質的活動及び物質的交通のうちに、現実的生活の言葉のうちに直接に織り込まれている。人間の表象作用、思惟作用、精神的交通は、ここではなお、彼等の物質的行動の直接な流出として現われる。ひとつの民族の政治、法律、道徳、宗教、形而上学、等々の言葉のうちに見られるところの精神的生産についても、同一のことが云われ得る。人間は彼等の表象、観念、等々の生産者である、しかしここにいう人間は、彼等の生産力の一定の発展によって、且つその最高の形態に至るまでこの生産力に相応する交通の一定の発展によって、制約されているところの、現実的な、行動しつつある人間なのである。意識とは意識のある存在以外の何物でも断じてあり得ない、そして人間の存在とは彼等の現実的な生活過程である。全体のイデオロギーのうちに於て、人間及び彼等の諸関係が、丁度カメラの暗箱の中に於てのように、逆立ちして現われることがあるにしても、この現象は、網膜の上に於ける事物の倒立が人間の直接に物理的な生活過程から生ずるのと丁度同じように、人間の歴史的な生括過程から生ずるのである。  天上から地上へ降りて来るドイツ哲学とは全然反対に、ここでは地上から天上へ昇られる。換言すれば、人間が語り、想像し、表象するところのものから出発されて、或いはまた語られたる、思惟されたる、想像されたる、表象されたる人間から出発されて、それから肉体をもった人間に到達するのでなく、現実に活動している人間から出発されて、彼等の現実的な生活過程からして、この生活過程のイデオロギー的反射と反響の発展もまた叙述されるのである。人間の頭脳に於ける仮幻的構成物もまた、彼等の物質的な、経験的に確かめ得る、そして物質的諸前提に結びつけられている生活過程の必然的な補足物である。このようにして、道徳、宗教、形而上学及びその他のイデオロギー、並びにそれらに相応する諸々の意識形態は、もはや独立性の外観を保持しない。それらのものはなんら歴史をもたない、それらのものはなんら発展をもたない、却って、彼等の物質的生産と彼等の物質的交通とを発展せしめつつある人間が、このような彼等の現実とともにまた彼等の思惟と彼等の思惟の生産物とを一緒に変化するのである。意識が生括を規定するのでなく、却って生活が意識を規定する。第一の見方に於ては、ひとは生ける個人と見られた意識から出発する、第二の、現実の生活に適応せる見方に於ては、ひとは現実的な生ける個人そのものから出発し、そして意識を単に彼等の意識として見るのである。  この見方は無前提ではない。それは現実的な前提から出発する、それはこのものから如何なる瞬間と雖も離れ去らない。この見方の前提は、なんらか空想的に孤立せしめられ固定せしめられた人間ではなく、却って一定の条件のもとに行われる、彼等の現実的な、経験的に直観され得るところの発展過程のうちに於ける人間である。この活動的な生活過程にして叙述されるや否や、歴史は、彼等自身なお抽象的な経験主義者たちに於けるように、死んだ諸事実の蒐集であることをやめ、或いはまた、観念論者たちに於けるように、空想的な主体の空想的な行動であることをやめる。  かくて、思辨のやむところ、現実の生活にあって、そこに現実的な、実証的な科学、即ち、人間の実践的な活動の、実践的な発展過程の叙述が始まる。意識についての空語はやみ、現実的な知識がこれに代らねばならぬ。独立なものとしての哲学は、現実の叙述がなされるとともに、その存在の媒質を失う。それに代って現われ得るのは、たかだか、人間の歴史的発展の観察から抽象して得られるところの最も一般的な諸結論の総括ぐらいなものである。これらの抽象は、それだけとしては、現実の歴史から切り離されては、全然なんらの価値ももたない。それらのものはただ、歴史的資料の整理を容易にし、それの個々の層の序列を暗示することに役立つことが出来る。併しながらそれらのものは決して、哲学のように、歴史の諸時代がそれに従って切り盛りされ得るような処方箋若くは図式を与えるものではないのである。困難は、反対に、ひとが資料――それが或る過去の時代のものであるにせよ若くは現代のものであるにせよ――の観察と整理に、現実的な叙述に従事するとき、そこに初めて起って来る。これらの困難の除去は、ここに決して挙げられ得ないところの、却って各々の時代の個人の現実の生活過程及び行動の研究の結果を俟って初めて判明するところの諸前提によって制約されているのである。ここでは我々は、我々がかのイデオロギーに対抗して用いるこれらの抽象のうちの二三を取り出し、そしてそれを歴史上の諸事例について解明してみよう。 {6a=8}  現実に於て、且つ実践的唯物論者即ち共産主義者にとって問題なのは、現存の世界を革命することであり、既成の事物に実践的にはたらきかけそしてそれを変化することである。フォイエルバッハにあって時としてこの種の見解が見出されるにしても、それは決して個々別々の思付以上に出でず、且つ彼の一般的な見方に対してあまりにも僅かしか影響をもっていない、従ってそれはここでは発展力を含んだ萠芽としてのほかなんら問題になり得ないであろう。感性的世界についてのフォイエルバッハの見解は、一方ではそれの単なる直観に限局され、他方では単なる感覚に限局されて、『現実的な、歴史的な人間』の代りに『人間なるもの』を立てている。『人間なるもの』は現実に於ては『ドイツ人』である。第一の場合、即ち感性的世界の直観に於ては、彼は退引ならず、彼の意識や彼の感情に矛盾する事物に、彼によって前提されているところの、感性的世界のあらゆる部分の、特に人間と自然との、調和を妨げる事物に、突き当るのである。 (注意。、フォイエルバッハが明白卑近なるもの、感性的仮象を、感性的事実のヨリ精密な研究によって確かめられたところの感性的現実に従属させているのが誤謬であるのでなく、誤謬はむしろ、彼が究極に於て、いわゆる『眼』をもって、即ち、哲学者の『眼鏡』を通してそれを見ることなしには、感性というものを始末することが出来ない点にある。)  そこで彼は、このような矛盾する事物を除くために、二重の直観に、単に『明白卑近なるもの』を直観するひとつの世俗的な直観と事物の『真の本質』を直観するひとつのヨリ高い哲学的な直観との間に、避難せざるを得ない。彼は、彼を取り巻く感性的世界が直接に永遠の昔から与えられた、つねに自己同一な事物でなく、却って産業と社会状態との生産物であるということを理解しない、というのは、彼は、感性的世界が(いずれの)歴史的(時代)に於ても、ひきつづく全世代の活動の結果であり、生産物であって、そしてその諸世代のいずれもがそれに先行する世代を土台にしており、それの産業とそれの交通とを更に発達させ、それの社会的秩序を変化せられた諸欲望に応じて変更したのである、ということを理解しないのである。最も単純な『感性的確知』の対象でさえ、ただ社会的発展、産業と商業的交通によってのみ、彼に与えられているのである。桜樹は、殆ど凡ての果樹がそうであるように、周知の通りようよう数世紀前に、商業によって我々の地帯に移植されたのであり、従ってそれは一定の時代に於ける一定の社会のこのような行動によって初めてフォイエルバッハの『感性的確知』に与えられたのである。とにかく――後段に至ってなお一層はっきりと示されるように――現実に在るがままの且つ生起しているがままの事物についてのこのような見方に於ては、如何なる深遠な哲学的問題も、全く簡単に、或るひとつの経験的事実に解消される。例えば、自然に対する人間の関係に関する重要な問題、但しは、ブルーノーの言う如くば(一一〇頁)(『自然と歴史とに於ける対立』、両者が二つの互いに分離された『事物』であるかの如き、人間がつねに歴史的自然と自然的歴史とを面前に控えておらぬかの如き口吻のこの対立)に関する問題は、それから『実体』や『世界意識』についての一切の『測り難く高遠な著作』が生れているほどのものであるが、この問題は、次のことを、即ち、大評判の『人間と自然との統一』なるものは産業に於て既に以前から成立しており、しかも各々の時代に於て産業の発達の大小に応じて異った程度で成立していたということ、同じように、人間の生産力がそれに適応せる基礎の上に発達するに至るまでは、人間と自然との『闘争』もまたそのようであったということ、を洞察するときには、おのずから消滅する。産業と商業、即ち生活必需品の生産と交換は、一方、分配や種々なる社会階級の構成を制約すると共に、他方、それの経営の仕方に於ては逆に後のものによって制約される、――そこで、フォイエルバッハが、例えば、百年前には紡車と手織機しか見られなかったマンチェスターに於て現在ではただ工場と機械だけを見、或いは、アウグストウスの時代であればローマの資本家たちの葡萄園と別荘以外の何物も見出せなかったローマの平原に於てただ牧場と沼地だけを発見するということがそもそも生ずるのである。フォイエルバッハは特に自然科学の直観について語る、彼は物理学者や化学者の眼にのみ顕わになる秘密について述べている。併しながら産業と商業なくして何処に自然科学があるであろうか。この『純粋な』自然科学でさえ、実に、その目的並びにその材料を商業と産業によって、即ち人間の感性的な活動によって初めて得るのである。  この活動、この絶えざる感性的な労働と創造、この生産こそ、実に、今存在する如き全感性的世界の基礎であって、若し仮りにそれがただ一年間たりとも中絶されたとするならば、フォイエルバッハは、自然界のうちに驚くべく大きな変化を見出すばかりでなく、また全人間世界、彼自身の直観能力、否、彼自身の存在をさえ、忽ちのうちに失うであろう。尤もこの場合外的自然の優越性は依然として存在し、且つまたもとより、このことは凡て、原生的な、種子なしの生殖によって作られた人間にはなんら適用されない、けれどもこのような区別は、人間を自然から区別されたものとして見る限りに於てのみ意味をもっているに過ぎぬ。なおまた、フォイエルバッハがその中に生きているところの、人間の歴史に先行するこの自然は、今日では、新たに生成したオーストラリアの個々の珊瑚島に於てでもなければ、もはや何処にも存在せず、従ってまたフォイエルバッハにとっても存在しないような自然のことではないのである。  尤もフォイエルバッハは、如何にして人間もまた『感性的対象』であるか、を洞察している点に於て、『純粋な唯物論者たち』に比して遥かにまさっている。けれど彼が人間を単に『感性的対象』として把え、『感性的活動』として把えていないという点は別にしても、彼はこの場合にも自己を理論の簡囲内にとどめ、ために人間を、彼等の与えられた社会的聯関に於て、彼等が現に在るところのものに彼等をなしたところの彼等の現在の生活諸条件のもとに於て、把握していないが故に、彼は現実に存在し活動しつつある人間に決して到達することなく、却ってどこまでも『人間なるもの』という抽象体の所に立ちとどまり、わずかに『現実的な、個人的な、肉体をもった人間』を感情に於て認めるところまでしか行っていない。即ち、彼の知れる『人間の人間に対する』『人間的関係』は、性愛と友情のみにとどまり、しかも彼はそれを観念化して見ている。彼は現在の生活諸関係に対してなんらの批判も加えていない。それ故に彼は決して、感性的世界を、それを構成せる個人の総体的な、生ける、感性的な活動として把握するに到らない、そしてそれだから、例えば、健康な人間の代々に腺病の、過労せる、肺癆になった、飢餓に瀕せる無数の人々を見るとき、彼は『ヨリ高い直観』や『種に於ける観念的平等』に逃避せざるを得ない、従って彼は、共産主義的唯物論者が産業並びに社会組織の変革の必然性と同時にその条件を見るところに於てまさに観念論に逆転せざるを得ないのである。  フォイエルバッハが唯物論者である限りのところでは、歴史は彼にあって存在しない、そして彼が歴史を顧慮している限りのところでは、彼はなんら唯物論者でない。彼にあっては唯物論と歴史とが互いに全く分離している、これは、尤も上に述べたことから既に明かである。  /*さてそれにも拘らず我々が歴史についてここで立入って論ずる所以のものは、ドイツ人は歴史及び歴史的という言葉に於て、あらゆる可能なものを表象して、ただ現実的なものだけは表象しない習いであるが故である、それについてはとりわけ『説教張りの雄辯家の』聖ブルーノーが立派な手本を示している。*/  我々は、無前提的であるドイツ人の間にあって、一切の人間的存在の、それ故にまた一切の歴史の第一の前提を、即ち、『歴史を作り』得るためには人間は生きてゆくことが出来ねばならぬという前提を、確認することをもって始めなければならない。しかるに生きてゆくには何はさておき、食うことと飲むこと、住うこと、着ること、その他なお若干のものが必要である。従って最初の歴史的行為は、これらの欲望を満足するための手段の生産、即ち物質的生活そのものの生産である、しかもこれは人間の命だけをつなぐために、今日もなお、数千年前と同様に、日々刻々遂行されねばならぬひとつの歴史的行為であり、日々刻々充足されねばならぬ一切の歴史のひとつの根本条件である。感性が、聖ブルーノーにあってのように、一本の杖に、即ち最小限のものに、縮小されているときでさえ、それはなおこの杖の生産の活動を前提する。かくてあらゆる歴史の理解にあって第一のものは、この根本事実を、それの全き意味に於て且つそれの全き拡がりに於て観察し、そしてそれを正当に評価承認することである。このことをばドイツ人は、周知の如く、決してなさなかった、それだから彼等は嘗て歴史にとっての地上的土台をもたず、そしてその結果嘗て歴史家というものをもたなかった。フランス人及びイギリス人は、たとい彼等はこの事実といわゆる歴史との聯関を単に極めて一面的に把握したに過ぎなかったにせよ――殊に彼等が政治的イデオロギーに囚われていた間はそうであった――しかも彼等はともかくも、市民的社会の、商業及び産業の歴史を最初に書いたことによって、歴史叙述にひとつの唯物論的土台を与える最初の試みをなしたのである。{7a=12}第二のものは、満足された最初の欲望――それ自体が、欲望満足の行動並びに既に獲得されたところの欲望満足のための道具が、新たな欲望に導くということである、――そして新たな欲望のこのような生産は、最初の歴史的行為である。かく見て来るとき、ここにドイツ人の偉大なる歴史的智慧なるものがどのような正体のものであるかが直ちに明かになる。彼等の偉大なる歴史的智慧は、彼等にとって実証的な資料が欠けておりそして神学的なナンセンスも政治的な乃至文学的なナンセンスも並べ立てられないところでは、なんらの歴史も出来せしめないで、却って『歴史以前の時代』なるものを出来せしめる、けれども如何にしてひとはこの『歴史以前』というナンセンスから本来の歴史に這入って来るかの点については、我々に説明するところがないのである、――それにも拘らず他方では彼等の歴史的思辨は全く特別にこの『歴史以前』に熱中している、というのは、彼等の歴史的思辨は、そこでは『生素な事実』によってかきまわされる心配はないと信じているからであり、そして同時にそれは、ここではその思辨的衝動を全く恣にして仮説を千でも二千でも作ったり覆えしたりすることが出来るからである。――ここにそもそもの初めから歴史的発展のうちに入り込んでいるところの第三の関係は、彼等自身の生活を日々新たに作る人間が、他の人間を作り始める即ち繁殖し始めるという関係である、――夫と妻、親と子の間の関係、即ち家族がそれである。この家族なるものは、当初は唯一の社会的関係であるが、後になって、欲望の増加が新しい社会的諸関係を作り出しそして人口の増加が新しい欲望を生産するに至るや、一の従属的な関係となり(ドイツに於ては例外である)、そしてそのときには、ドイツに於てなされるのをつねとするように、『家族の概念』に従ってではなく、存在する経験的な所与事実に従って、取扱われ、展開されねばならぬ。尤も社会的活動のこれら三つの方面は、三つの異れる段階として把握さるべきでなく、却ってまさにただ、歴史の端初以来且つ最初の人間以来同時に存在し来りそして今日もなお歴史のうちに自己を主張しつつあるところの三つの方面として、或いはドイツ人にわかるように書けば、三つの『契機』として、把握さるべきである。――ところで生の生産、労働に於ける自己自身の生の生産並びに生殖に於ける他の人間の生の生産は、既に直ちに二重の関係として――一方では自然的な関係として、他方では社会的な関係として――現われる、ここに社会的というのは、如何なる条件のもとに、如何なる仕方に於て、そして如何なる目的のためにであるにせよ、多数の個人の協働が社会的として理解される場合の意味に於てである。ここからして、一定の生産の仕方若くは産業的段楷はつねに一定の協働の仕方若くは一定の社会的段階に結びついており、且つこの協働の仕方はそれ自身ひとつの『生産力』であるということ、人間の支配し得る諸生産力の量は社会的状態を制約し、従って『人類の歴史』はつねに産業及び交換の歴史との聯関に於て研究され、論述されねばならぬということ、が云われ得る。併しながらかような歴史を書くことがドイツに於ては如何に不可能であるかということもまた明瞭である、蓋しドイツ人にはそれに必要な理解力や資料が缺けているばかりでなく、また『感性的確知』が缺けており、且つひとはラインの彼岸では、そこではなんらの歴史ももはや進行していないが故に、これらの事物についてなんらの経験もなし得ないからである。かようにして明かであるように、既にもともとから人間相互の間には、欲望と生産の仕方とによって制約され且つ人間そのものと起源の時を同じうする一の唯物論的聯関が存在している――この聯関たるや、人間をなおこの上に結合するところのなんらかの政治的若くは宗教的ナンセンスが存在することなくとも、つねに新しい諸形態を、従って一の『歴史』を提供する。――上に既に根源的な、歴史的な諸関係の四つの契機、四つの方面を考察して来た後に、今や初めて、我々は人間がまた『意識』をもっているということを見出す。併しながらまたこれももともと、『純粋な』意識としてではない。『精神』はもともと物質に『付かれ』ているという呪われたる運命をそれ自身にもっている、この場合物質は、運動する空気の層の、音の、簡単に言えば言語の形式に於て現われている。言語は意識とその起源の時を同じうする、――言語は実践的な、他の人間にとっても存在し、従ってまた私自身にとっても存在するところの現実的な意識である。そして言語は、意識と同じく、初め他の人間との交通の欲望とその必要から発生せるものである。<私の環境に対する私の関係が私の意識である。>一の関係の存在する場合、それは私にとって存在する、動物は何物に対しても関係せず、一般に関係しない。動物にとってはそれの他のものに対する関係は関係として存在しない。それ故に意識は、もともと既にひとつの社会的な生産物であり、そして一般に人間が存在する限りは、どこまでも社会的な生産物であるのである。意識は言うまでもなく最初には最も手近かな感性的な環境についての単に感性的な意識であり、意識的になりつつある個人の外にある他の人間及び事物との局限された聯関の意識である。それは同時に自然の意識であって、自然は人間に対して初め一の全然外的な、全能な、侵し難き力として対立し、それに対して人間は純粋に動物的に関係し、それによって彼等は恰も禽獣のように威圧される、かくしてそれは自然についての一の純粋に動物的な意識(自然宗教)である――蓋しまさに、自然はなお殆ど歴史的に変化されていないからである、しかも他方に於てそれは、周囲の個人と結合することの必然性の意識であり、彼がとにかくひとつの社会の中に生活しているのだということについての意識の端初である。この端初は、この段階の社会的生活そのものと同様に、動物的である、それは単なる群居意識である、人間はこの場合、彼の意識が彼にとって本能に代っているという或いは彼の本能が意識的なものであるということによってのみ、羊から区別されるに過ぎない。ここに於て直ちにわかるように、――この自然宗教或いは自然に対するこの一定の関係は社会形態によって制約されていると共にまた逆にこれを制約しているのである。ここでも、どこでもと同様に、自然と人間との同一性はなおはっきりと現われているのであって、人間の自然に対する局限された関係が彼等相互の間の局限された関係を制約し、そして彼等相互の間の局限された関係が彼等の自然に対する局限された関係を制約している。この羊意識或いは種族意識は、それの一層の発展と発達をば、生産性の増大、欲望の増加、及びこれら両者の根底に横たわるところの人口の増加によって獲得する。それと共に分業が発展する、この分業なるものは、根源的には生殖行為に於ける分業以外の何物でもなく、次には自然的性能(例えば体力)、欲望、偶然、等々のためにおのずから即ち『自然生的に』形作られる分業であった。<意識は現実の歴史的発展の内部に於て分業を通じて発展する。>分業は、物質的労働と精神的労働との分業が出現する瞬間からして初めて、現実的に分業となる。この瞬間からして意識は、自己が現存する実践の意識以外の何物かであるかの如く、何物か現実的なものを表象することなしに、現実的に何物かを表象しているかの如く、現実的に想像し得る――この瞬間からして意識は、自己を世界から解放し、そして『純粋な理論』、神学、哲学、道徳学等々の構成へと移り行くことが可能となる。併しながらこのような理論、神学、哲学、道徳学等々が現存する諸関係と矛盾に陥る場合にあってさえ、このことはただ、現存する社会的諸関係が現存する生産力と矛盾に陥っているということによってのみ、起り得るのである、――尤もこのことはまた、或る特定の国民的範囲の諸関係の中に於ては、そのような矛盾がこの国民の範囲の中に生ずるのでなくて、むしろこの国民の意識と他の諸国民の実践との間に、換言すれば(現在ドイツに於てのように)一国民の国民的意識と一般的意識との間に、生ずるということによっても起ることがある。――そのときこの国民にとっては、この矛盾が見たところ単に国民的意識の内部に於ける矛盾として現われるが故に、闘争もまたこれらの{8a=16}/*国民的汚物に対してのみに限られるかの如く見えるのである、蓋しまさにこの国民が即自対自的汚物であるからである。*/  尤も意識がひとりで何を始めようとそれは全くどうでもいいことである。我々はこの全汚物の中からただ次のような結論を、即ち、生産力、社会状態及び意識、これら三つの契機が互いに矛盾に陥ることが出来また陥らざるを得ないのは、分業の成立と共に、精神的活動と物質的活動とが、享楽と労働、生産と消費が、相異る個人に帰属するという可能性、いな、現実性が与えられているからであり、そしてそれらのものが矛盾に陥らないという可能性はただ分業が再び廃止されるということのうちにのみ存するからである、という結論を引き出せば足りるのである。然かのみならず『幽霊』、『紐帯』、『ヨリ高い本質』、『概念』、『危惧』なるものが単に、孤立せしめられたる個人の観念論的な精神的表現であり、明かに表象であり、しかも生活の生産の仕方並びにそれと聯関する交通形態がその内部で動いているところの極めて経験的な諸桎梏と諸制限とについての表象であるに過ぎないということは論ずるを俟たないところである。<現存する経済的諸制限のこの観念論的な表現は啻に純粋に理論的にばかりでなく、また実践的意識のうちにも存在する、即ち自己を解放しつつあるそして現存する生産の仕方と矛盾に陥ったところの意識は、単に宗教や哲学ばかりでなく、また国家を形成する。>  これらの一切の矛盾は分業に於て与えられており、そして分業自身はまた家族内に於ける自然生的な分業と個々の互いに対立する諸家族への社会の分裂の上に基礎をもつものであるが、この分業の成立と共に、同時にまた分配が、しかも労働及びその生産物の不平等な量的並びに質的分配が与えられており、従って財産が与えられている、この財産なるものは、そこでは妻や子供たちが夫の奴隷であるところの家族に於て、既にその核子を、その最初の形態をもっているのである。家族内に於けるもとよりなお甚だ粗野にして潜在的な奴隷制は最初の財産であって、しかもそれはこの場合既に、財産をもって他人の労働力に対する処分権であるとするところの近代の経済学者たちの定義に完全に合致している。尤も分業というも私有財産というもそれらは同一のことを表現するものである、――即ち、同じことが、前者に於ては活動に関係して言い表わされており、後者に於ては活動の生産物に関係して言い表わされているのである。――更に分業の成立と共に、同時に、個々の個人または個々の家族の利害と、互いに交通する凡ての個人の共同の利害との間に於ける矛盾が与えられている、しかもこの共同の利害は、『普遍的なもの』として、単に表象のうちに存在するが如きものではなく、却って労働がその間に分割されているところの諸々の個人の相互的依存として先ず現実のうちに存在するのである。  まさに特殊の利害と共同の利害とのこの矛盾に基いて、共同の利害は、現実の個々の及び総体の利害から分離されて、国家として、一の独立なる態容をとる、そしてそれは同時に幻想的な共同性として現われるのであるが、しかしそれはつねに、各々の家族集団及び種族集団のうちに存在する紐帯の、即ち、血肉、言語、ヨリ大規模な分業、及びその他の利害の、――そして特に、後に至って展開されるであろうように、分業によって既に制約されたる諸階級――それはあらゆるこの種の人間の衆団のうちに於て分化するものであり、且つその中の一つが他の凡てを支配する――の利害の、現実的な土台の上に立っているのである。ここからして論結されることは、国家の内部に於ける一切の闘争、即ち、民主政治、貴族政治及び君主政治の間の闘争、選挙権等々のための、一般的にいえば普遍的なもの――共同的なものの幻想的な形態――のための闘争は、種々なる階級相互の現実的な諸闘争がそのうちに於て行われるところの幻想的な諸形態以外の何物でもないということ(この点について、ドイツの理論家たちは、我々が彼等に独仏年誌及び神聖家族の中でそれに対する手引を十分に与えておいたにも拘らず、少しもわかっていない)、そして更に、凡て支配に向って努力しつつある階級は、プロレタリアートの場合に於ての如く、その階級の支配が全体の旧き社会形態並びに支配一般の廃棄を制約する場合と雖も、自己の利害をまた一般的な利害として表現する――いずれの階級も最初の瞬間に於てはかくすべく余儀なくされるのである――ために、先ず政治的権力を奪取しなければならぬということである。個人はただ彼等の特殊なものを、彼等にとって彼等の共同の利害と合致しないものを求めるが故にまさに、このものは彼等にとって『外的な』且つ彼等から『独立な』利害として、一のそれ自身また特殊な且つ特有な『一般』・利害として主張されるのである、さもなくば彼等自身が、民主政治に於ての如く、このような分裂に於て出会わねばならない。ところで他方ではまた、共同の利害若くは幻想的な共同の利害に絶えず現実的に対立しているこれらの特殊利害の間の実践的な闘争は、国家としての幻想的な『一般』・利害による実践的な干渉と制御とを必要ならしめるのである。――  そして最後に分業は直ちに次のことについての最初の実例を我々に提供する、即ち、人間が自然生的な社会のうちに存在している限り、従って特殊の利害と共同の利害との間の分裂が存在している限り、従って活動が自由意志的でなく、むしろ自然生的に分割されている限り、人間自身の行為は彼にとって一の外的な対立的な力となる、彼がそれを支配するのでなく、却ってそれが彼を抑圧するような力となるのである。即ちこうである、労働が分配され始めるや否や、各人は、彼に強制せられそれから彼の抜け出ることの出来ぬ一定の、専門的な活動の範囲をもつ、彼は狩猟者であるか漁撈者であるか、それとも牧者であるかそれとも批判的批判家であるかであり、そして彼が生活のための手段を失うことを欲しない以上、どこまでもそれでいなければならない、――これに反して共産主義的社会にあっては、そこでは各人が専門的な活動の範囲というものをもたず、却ってあらゆる任意の部門に於て修養することが出来、社会が全般の生産を規制するのであるからして、まさにそのために私は、嘗て狩猟者や漁撈者、または牧者または批判家となることなしに、私の気の向くままに、今日はこれをし、明日はあれをし、朝には狩し、午後には漁り、夕には家畜を飼い、また食事を批判することが可能にされる。社会的活動のこのような固定化、我々自身の生産物の、我々の手におえなくなり我々の期待をあてなしにし我々の計算を台無しにするところの我々におぶせかかる物的強力へのこのような固結化こそは、従来の歴史的発展に於ける主要契機の一つである。<そしてそれは、財産――このものは当初は人間自身によって実施された一制度であるが、程なく社会に対してひとつの固有な、その創始者たちによって決して意図されていなかった転向を与える――に於て、何人にとっても、彼にしてかの『自己意識』若くは『唯一者』に頭を突き込んでしまっていない限り、明瞭に看取され得ることである。>  共産主義は我々にとって、作り出さるべきひとつの状態、現実がそれに則るべきひとつの理想ではない。我々は今の状態を止揚する現実的なる運動を共産主義と呼ぶ。この運動の諸条件は今現存する前提から生れる。  社会的な力、即ち分業に於て制約されたる種々なる個人の協働によって生ずるところの倍加された生産力は、この協働そのものが自由意志的でなく、却って自然生的であるために、これらの個人にとっては、彼等自身の、結合された力としてでなく、却って一の外的な、彼等の外に立つ強力として現われる、この強力について彼等は、何処から来て何処へ行くかを知らず、従って彼等はそれをもはや支配することが出来ない、反対にそれは今や一の固有なる、人間の意志と実行とから独立なる、いな、この意志と実行とをあたかも支配するところの一系列の様相と発展段階とを歴進してゆくのである。  このような、哲学者たちにわかる言葉を使えば、『自己疎外』は、言うまでもなくただ二つの実践的前提のもとに於てのみ排棄されることが出来る。それが一の『堪え難き』力、即ちそれに対してひとが革命するような力となるためには、それが人間大衆を全くの『無産』者として生み出し且つ同時にそれを現存する富と教養の世界に対する矛盾に於て生み出すことが必要である、しかるに富と教養なる二つのものは生産力の偉大なる増大――それの高度の発展を前提する――、そして他方に於て、このような生産力の発展(それと共に同時に、既に、人間の地方的な定在のうちに存する経験的存在の代りにその世界史的な定在のうちに存する経験的存在が与えられている)は、次の如き理由からしてもまた一の絶対に必要な実践的前提である、というのは、このような生産力の発展なくしてはただ缺乏が一般化されるばかりであり、それ故に窮乏に伴ってまた必需品を得るための闘争が再び開始され、かくて一切の古き汚物が再び作り出されねばならぬであろうからであり、更になお、諸生産力のこのような世界的な発展があればこそ人間の世界的な交通があるのであり、従って一方では『無産』大衆なる現象をあらゆる民族のうちに時を同じうして生み出し(一般的競争)、そのいずれの民族をも変革の影響を免れぬものとなし、そして終に地方的な個人の代りに世界史的な即ち経験的に普遍的な個人を置き換えたからである。このことなくしては、第一に、共産主義は単に地方的なものとして存在し得るに過ぎないであろうし、第二に、交通の諸々の力そのものは世界的な、従って堪え難き力として発展することが出来ず、いつまでも郷土的・迷信的な『事情』としてとどまっているであろうし、そして第三に、交通のあらゆる拡張は地方的な共産主義を廃棄するであろう。共産主義は、経験的には、支配的な諸民族の行為として一時に且つ同時にでなければ可能でないのであって、それには生産力の世界的な発展及びこれと関聯する世界交通が前提せられるのである。なおまた、無産労働者大衆は――大量的に資本若くは或る僅かの欲望満足から切り離された労働力は――従ってまたもはや一時的なものではないところのこの労働の喪失は、保証された生活の源泉としての労働の競争にもとづくこの純粋に不安定な状態は、世界市場を前提している。それ故にプロレタリアートはただ世界史的にのみ存在し得ること、あたかも共産主義が、それの行動が、ただ『世界史的』存在としてのみ一般に存在し得るのと同じである。それは個人の世界史的な存在、即ち個人の直接に歴史と結びついているところの存在である。  さもなければ如何にして、例えば財産制は一般に歴史をもち、種々なる形態を採り得たであろうか、また土地私有の如き、如何にして、存在する諸前提の相異るに応じて、今日実際に見るように、フランスでは土地細分から少数者の掌中への集中に向って、イギリスでは少数者の掌中に於ける集中から土地細分に向って推し進み得たであろうか。或いは、如何にして、もともと種々なる個人や国々の生産物の交換にほかならないところの商業が、需要供給の関係を通じて、全世界を支配するということが起るであろうか。――この需要供給の関係たるや、イギリスの一経済学者の言える如く、あたかも古代の運命の神と同じように地上に浮動し、見えざる手をもって幸福と不幸とを人間に向って振り当て、国を建てまた国を滅し、民族を興起せしめまた衰亡せしめる――これに反して、その土台たる私有財産の廃止されるや、生産が共産主義的に規制され、それに伴って、人間が彼等自身の生産物に対して立つところの外的関係が撲滅されるや、需要供給の関係のもつ力は無に帰し、かくて人間は交換や生産や彼等の相互に関係し合う仕方やを再び彼等の支配のもとに収めるのである。  従来の凡ての歴史的段階に存在せる諸生産力によって制約されていると共に逆にそれらを制約しているところの交通形態は市民的社会である、このものは、それに先行するものから生れ出る以上、単一家族制や大家族制、いわゆる種族制を自己の前提としてまた基礎としてもっており、それの詳細な諸規定はそれに先行するもののうちに含まれている。既にここに於て、この市民的社会が一切の歴史の真の中心であり舞台であるということ、そして専ら主権者及び国家の仰々しい行動のみを見て、現実的な諸関係を閑却している従来の史観が如何に不合理なものであるかということ、は明かである。  これまでのところ我々は主として、単に人間的活動の一面を、即ち人間による自然への働きかけのみを観察して来た。いまひとつの方面、即ち人間による人間への働きかけ―― ――  国家の起源及び国家と市民的社会との関係。 {9a=20}  歴史というのは個々の諸世代の継起にほかならぬものであって、それら諸世代のいずれもは、自己に先行したる凡ての世代から自己に譲渡されたところの諸材料、諸資本、諸生産力を利用する、従って一方では、伝承された活動を全然変化された諸事情のもとに継続し、そして他方では、旧来の諸事情を全く変化された活動をもって改変するわけである、ところがこの事実が思辨的に曲歪されるに至り、かくて後代の歴史が前代の歴史の目的となされる、即ち、例えばアメリカの発見の基礎にフランス革命の勃発を助成するという目的がおかれるのである、このような仕方によってそのとき歴史はそれの別個独立な諸目的をもたされることとなり、『他の諸人格(というのは、そこには『自己意識、批判、唯一者』等々がある)と並ぶ一人格』となることとなる、しかるに、前代の歴史の『使命』、『目的』、『胚種』、『理念』なる言葉で呼ばれるところのものは、後代の歴史からの抽象以外の何物でもなく、前代の歴史の後代の歴史の上に及ぼす能動的影響からの抽象以外の何物でもないのである。――さてこのような発展の過程に於て、相互に働きかけ合う個々の諸団体がその範囲を拡大すればするほど、個々の諸国民の原始的な孤立性が発達せる生産の仕方、交通並びにそれらによって自然生的に作り出された種々なる国民の間に於ける分業によって、破壊されることが多ければ多いほど、愈々多く歴史は世界史となる、そのために、例えば、イギリスでひとつの機械が発明されるとき、この機械は印度や支那に於て無数の労働者を路頭に迷はせ、これらの国の全存在形態を変革するのであって、かくしてこの発見は一の世界史的事実となる、或いは、砂糖と珈琲とは、ナポレオンの大陸政策によって生じたこの二つの生産物の缺乏がドイツ人を駆ってナポレオンに対して反逆するに到らしめ、もって一八一三年の光輝ある独立戦争の現実の土台となったということによって、十九世紀に於てその世界史的な意義を証明したのである。ここからして結論されるのは、歴史の世界史へのこのような転化が『自己意識』、世界精神、またはその他の或る形而上学的な幽霊のひとつの単に抽象的な行為というが如きものでなく、却ってひとつの全然物質的な、経験的に示され得る行為であるということである、この行為たるや、それに対しては、歩いたり立ったり、食ったり飲んだり、着たりするがままの個人の誰もがその証明を供している。/*聖マックス・スチルナー自身は世界史を背負い廻り、その昔我等の主エス・キリストの肉を喰い血を飲んだように、毎日世界史を食い且つ飲んでいる。そして世界史は、彼を、『彼自身の生産物』であるところの唯一者を、日々再生産する、というのは彼が食い、飲み且つ着なければならないからである。『唯一者云々』の中に於ける諸引用文、並びにヘツス及び他の遠く離れた人々に対する聖マックスの辯駁は、如何に彼が精神的にもまた世界史によって生産されているかを証明している。それ故に結論は、個人は『世界史』のうちに於ても、学生と自由な裁縫女とからなるいずれのスチルナー『協会』のうちに於てと同様、まさに同じ『所有者』であるということになる。*/ 尤も、従来の歴史に於ては次のことも等しく一個の経験的事実であるのは確かである、即ち、個々の個人は、その活動が世界史的な活動にまで拡大するに伴って、愈々益々、一の彼等にとって外的な力のもとに(この力の重圧を彼等はそもそもまたいわゆる世界精神等々の詭計として表象した)隷属させられて来た、この力たるや、絶えずヨリ大量的になってゆきそして最後には世界市場として現われるのである。併しながらまた、ドイツの理論家たちにとっていとも神秘的なこの力が、現存する社会状態の顛覆によって、共産主義的革命(これについては更に後段に述べる)及びそれと同一事なる私有財産の廃止ということによって、解消せられ、そしてそうした場合、各々の個々の個人の解放が、歴史が完全に世界史に転化する程度に応じて、実現されるということも同様に経験的に基礎付けられていることである。個人の現実的に精神的な富が全く彼の現実的な諸関係の富に依存するということは、上述のことによって明瞭である。個々の個人はこれによって初めて、種々なる国民的及び地方的制限から解放せられ、全世界の生産と(精神的生産ともまた)実践的な関係におかれ、そして全地上界のこの全面的な生産(人間の諸創造)に対する享受力を獲得し得る状態におかれるのである。個人の全面的な依存、その世界史的な協働のこの自然生的な形態は、この共産主義的革命によって転化されて、人間の相互作用から生れたものでありながら従来全然外的な力として彼等に威圧を加え且つ彼等を支配し来ったこれらの力の統制、その意識的な支配となる。ところでこの直観がまた思辨的に、観念論的に、即ち空想的に『種の自己生産』(『社会と主観』)として把握され、そしてそれによって相関聯し合う諸々の個人の継起的系列が、自己自身を生産するという不思議を行うところの唯一個人として表象されることがあり得るのである。ここに明かであるように、個人は確かに、物理的にも精神的にも、相互に作り合うが、しかし自分で自分を作るものでない、それは聖ブルーノーのナンセンスに於ても不可能である、このナンセンスに従えば、/*『人格の概念のうちには、一般に、自己自身を制限されたものとして措定し(このことに於ては彼は立派に成功している)、そして、人格が(みずからによってではなく、また一般にでもなく、またその概念によってでもなく)、むしろその普遍的な本質によって措定する――蓋しまさしくこの本質こそは人格の内面的な自己差別の、それの活動の結果であるに過ぎないからである――この制限を、再び排棄するということが含まれている。』八七―八八頁、(ブルーノー君は一ダースまでは作ることが出来ていない。)またそれは『唯一者』の、『作られた』人間の意味に於てもそうでない。*/  最後に、我々はここに展開された史観からなお次の如き諸結果を得る。即ち、一、諸生産力の発展に於てひとつの段階が、そこでは、現存する諸関係のもとに於てただ禍害を惹き起すばかりでもはやなんら生産力でなく却って破壊力であるような諸生産力及び交通手段(機械及び貨幣)が作り出されるような段階が、出現する――そしてそれと関聯して、社会の諸利益を享受することなくしてしかも社会の一切の重荷を負わねばならぬところの、社会から推し出されて、他の凡ての階級に対する最も決定的な対立に追いやられるところの、一階級が作り出される。この階級たるや、それをば全社会成員の大多数が構成し、それからして一の根本的な革命の必然性についての意識、即ち共産主義的意識が出て来る、この意識は、言うまでもなく、この階級の地位を理解することによって、他の諸階級の間にもまた形作られ得るものである。二、一定の諸生産力がその内部に於て充用され得るところの諸条件は、社会の一特定階級の支配の諸条件である、そしてこの特定階級の社会的な、その所有にもとづいて生ずる力は、その時々の国家形態に於てそれの実践的・観念論的表現をもっている、それだからあらゆる革命的闘争は、従来支配し来った階級に対して向けられるのである。三、従来の凡ての革命に於ては、活動の様式にはつねに手を触れられることなくそのままであって、単にこの活動の或る違った分配が、違った人々への労働の新たな割当が問題であっただけである、これに反して共産主義的革命は従来の活動の様式に対して向けられ、労働を廃除し、あらゆる階級の支配を階級そのものと共に排棄する、蓋し共産主義的革命は、かの階級によって、即ち社会に於てもはやなんらの階級とも見倣されず、階級として承認されず、既に今の社会の内部に於て一切の階級、国籍、等々の解消の表現であるところの階級によって遂行されるからである。そして、四、この共産主義的意識の大量的産出のためにもまた共産主義それ自体の貫徹のためにも、ただ実践的運動に於てのみ、革命に於てのみ起り得るところの人間の大量的な変化が必要である。それ故に革命は、支配階級が他の如何なる仕方によっても打倒され得ないという理由から必要なばかりでなく、また打倒する側の階級がただ革命に於てのみ、一切の古き汚物を払い退け、もって社会の新たなる建設に必要な能力を賦与されることが出来るが故に必要なのである。 {10b=24}  この史観はそれ故に次の点に拠って立っている。それは、即ち、現実の生産過程を、しかも直接的な生活の物質的生産から出発して、展開することであり、そしてこの生産の仕方と聯関しており且つそれによって作り出された交通形態を、従ってその種々なる段階に於ける市民的社会を全歴史の基礎として把握することであり、また市民的社会を国家としてのそれの行動に於て叙述すると共に、意識の種々なる理論的所産及び形態の凡てを、即ち、宗教、哲学、道徳学等々を市民的社会から説明しそして市民的社会の成立過程をそれらのものから跡づけることである。このようにするときには当然にまた事物はその全体性に於て(そしてそれ故にこれらの種々なる方面相互の間の交互作用もまた)叙述され得るのである。この史観は各々の時代に於て、観念論的史観のように、ひとつの範疇を求めることを要することなく、却って絶えず現実的な歴史の地盤の上に立ちとどまり、実践を観念から説明せずして、諸観念形成を物質的実践から説明する、従ってそれはまた次の如き結論にも到達する、即ち、意識のあらゆる形態及び所産は、精神的批判によって、換言すればそれらのものの『自己意識』への解消若くは『妖怪』、『幽霊』、『狂妄』等々への転化によってではなくして、却ってただこれらの観念論的愚論がそれから生れ出ている実存的な社会的諸関係の実践的倒壊によってのみ解消され得るものであり、批判ではなく、革命が、歴史の、また宗教、哲学及びその他の理論の推進力であるのである。この史観の示すところは、歴史は自己を『精神の精神』としての『自己意識』に解消することをもって終るのでなく、むしろ歴史に於ては、そのいずれの段階にあっても、一の物質的成果が、諸生産力の一総和が、自然に対する並びに個人相互の間の歴史的に形成されたる関係が、既に存在しており、それらのものは、各々の世代にこれの先行者から伝えられるのであって、即ち一の大量の諸生産力、諸資本及び諸事情がこれにほかならず、それらのものは一方ではもとより新しい世代によって改変されはするが、しかし他方ではまた新しい世代に対してそれ自身の生活諸条件を指定し、そして新しい世代に一定の発展を、一の特殊な性格を与えるということであり、従って人間が環境を作ると同様に環境が人間を作るということである。いずれの個人、いずれの世代もが与えられた或るものとして見出す諸生産力、諸資本及び諸社会的交通形態のこれらの総和は、哲学者たちが『実体』としてまた『人間の本質』として表象して来たところのものの、彼等が神化しそしてそれと闘って来たところのものの実存的な基礎であり、これらの哲学者たちが『自己意識』としてまた『唯一者』としてそれに対して反逆することによっては、聊かたりとも人間の発展の上に及ぼすそれの作用や影響に於て妨げられることのない実存的な基礎である。種々なる世代のこれらの所与の生活諸条件はまた、歴史に於て周期的に繰り返えされる革命的動搖が、一切の現存するものの土台を顛覆するに足るだけ強力であるであろうか否かをも決定する、そして若しも総体的な変革のためのこれらの物質的な諸要素にして、即ち、一方では種々なる生産力、他方では単に従来の社会の個々の諸条件に対してばかりでなく、むしろ従来の『生活の生産』そのもの、これの土台をなす全活動に対して革命を行うところの革命的大衆の形成にして、存在していないならば、かかる変革の観念が既に百度も宣言されていようといまいと、実践的な発展にとっては全くどちらでもいいことである――あたかも共産主義の歴史がこれを証明している。  従来の凡ての史観は、歴史のこの現実的な土台を全然顧慮せずにおいたか、さもなければ、単にそれを歴史の過程とは全くなんらの関聯をももたぬ一の附隨物と見做して来た。それだから、歴史はいつも、歴史の外に横たわれる規準に従って記述されざるを得ず、現実的な生活の生産が非歴史的なものとして現われ、これに反して歴史的なるものが普通の生活から離れた格別超世俗的なものとして現われるのである。このようにして、人間の自然に対する関係は歴史から除外され、それによって自然と歴史との対立が作り出される。従って、従来の史観は、歴史のうちにただ主権者及び国家の政治的諸行動と宗教的な、一般に理論的な諸闘争とを見ることが出来ただけであり、そして特に、いずれの歴史的時代についてもこの時代の幻想をこの時代と共にせざるを得なかったのである。例えば、或る時代が、『宗教』や『政治』はこれの現実的な諸動機であるものの単に形式であるに過ぎぬにも拘らず、純粋に『政治的な』若くは『宗教的な』諸動機によって規定されていると想像しているときは、その時代の歴史家はこの意見を受け容れる。これらの特定の人間が自己の現実の実践について懐く『想像』、『表象』が転化されて、これらの人間の実践を支配し規定するところの唯一的に規定的なそして能動的な力になる。インド人やエヂプト人にあって行われている分業の粗野な形態が、これらの民族の間に於て、その国家やその宗教のうちにカスト制度を作り出すとき、歴史家は、カスト制度こそはこの粗野な社会的形態を産み出した力である、と信ずる。フランス人やイギリス人は、少くとも、現実とまだしも最も近い関係にある政治的な幻想に執しているのに、ドイツ人は『純粋精神』の領域のうちにさまよい、宗教的な幻想をもって歴史の推進力となしている。ヘーゲルの歴史哲学は、そこでは現実的な利害が、政治的な利害でさえもが問題とされずして却って純粋な思想が問題とされているこのような凡てのドイツ的歴史叙述の最後の、その『最も純粋な表現』にまで持ち来された帰結である。この歴史叙述は次にまた聖ブルーノーにとっても、その一思想が他の思想を食い盡し、かくて『自己意識』のうちに遂には没落してゆくところの諸思想の一系列として現われた、そしてなお一層徹底的には、凡ての現実的な歴史について何事も知らぬ聖マックス・スチルナーにとっては、この歴史的過程は単なる『騎士』の、『盗賊』の、幽霊の歴史として現われざるを得なかったのであって、そのような諸幻覚に対しては、彼は言うまでもなくただ『不信心』によってのみ自己を救うことを辨えている。この見解は実際に宗教的である、それは宗教的人間をば一切の歴史の出発点たる原人として想定し、そしてその想像の中に於て、生活資料及び生活そのものの現実的生産の代りに宗教的な空想生産を置くのである。この全史観、並びにそれの解体及びこの解体から生ずる懐疑と危惧は、ドイツ人の単に国民的な関心事であって、ドイツにとっての地方的な利害しかもっていない、例えば、どうしてひとはそもそも『神の国から人間の国に来るか』という、あの重要な、近頃頻りに議論された問題の如きがそれである、あたかも、この『神の国』は想像の中にでなくそれ以外の何処かに嘗て存在したことでもあるかの如き、そして学者先生たちは、今彼等がそこへの道を尋ねている『人間の国』の中に、自分では気がつかずに、絶えず生活して来たというのでないかの如き口吻であり、またあたかも、この理論的雲霧形成の珍現象を説明するという科学的遊戯――蓋しそれはこれ以上のものではない――というものは、まさに反対に、この理論的雲霧の成立が現実的な地上的な諸関係からして実証されるところに存するのでないかの如き口吻である。一般に、これらのドイツ人にあってはつねに、{11a=27}与えられたものとして見出されるナンセンスをなんらかの他の幻想に解消するということ、換言すれば、この全ナンセンスがとにかく、探り出されねばならぬ一の別個独立な意味をもっていると前提するということが問題になっている、しかるにまことはこれらの理論的空語をば現存する現実的な諸関係から説明することのみが問題なのである。これらの空語を現実的に実践的に解消すること、これらの表象を人間の意識から排除することは、既に云ったように、変化された諸事情によって成就されるのであって、理論的演繹によって成就されるのではない。人間の大衆即ちプロレタリアートにとっては、このような理論的表象は存在しない、従ってまた彼等にとっては解消せしめられる必要もない、そしてこの大衆が嘗て若干の理論的表象を、例えば宗教を、もっていたとしても、これらのものは今では既に疾に諸事情によって解消されているのである。  これらの問題並びにその解決がまがいもなくこの国民独特なものであることはなおまた次の如き点にも現われている、即ち、これらの理論家たちは一生懸命で、『神人』とか『人間』とかいう諸妄想物が歴史の個々の時代を主宰したかのように信じており、――聖ブルーノーに至っては、それどころではない、ただ『批判及び批判家が歴史を作った』かのように主張するところまで行っている――そして、彼等が自分自身で歴史的諸構成に従事する場合には、以前の時代のことは一切最大急行で飛び越えてしまって、『蒙古人時代』からすぐさま本来『内容に充ちた』歴史へ、即ち、ハレ年誌並びにドイツ年誌の歴史及びヘーゲル学派が解体して一般的な喧嘩となる歴史へ、と移ってゆくのである。あらゆる他の国民、あらゆる現実的な事件は忘れられ、世界風俗芝居はライプチッヒの書籍市及び『批判』と『人間』と『唯一者』の相互の間の紛争に局限される。若し理論が恐らく時あって現実に歴史的なテーマを、例えば、十八世紀を取扱うことに従事するような場合には、それは単に諸表象の歴史を、これらの諸表象の基礎に横たわれる諸事実及び実践的な諸発展から切り離して、与えるに過ぎず、しかもこの歴史とても、ただ、この時代をば真の歴史的時代、即ち一八四〇年から一八四四年に至る間のドイツ哲学者戦争の時代のひとつの不完全な前段階として、それのなお局限されたる先駆者として叙述しようという意図のもとに於て、与えられるに過ぎない。ひとりの非歴史的人物及び彼の空想の声価を愈々赫々と輝かしめんがために、以前の時代の歴史を書くというこの目的にとっては、一切の現実的に歴史的な事件、現実的に歴史的な政治上の事件でさえもが、歴史の中で関説されないで、その代りに研究にもとづかず構想と文学的なゴシップ的歴史とにもとづくところの物語が与えられる――丁度聖ブルーノーがこのことを彼の今は忘れられている十八世紀の歴史の中でやっている――ということは、いかにも適ったことである。かくして、あらゆる国民的偏見を無限に遠く超脱していると信じているこれらの高踏的で尊大な思想商人たちは、実践に於ては、ドイツの統一について夢みる月並の俗人たちよりもなお遥かに国民的である。彼等は他の諸民族の行動をば歴史的だとは全然認めない彼等はドイツの中に、むしろドイツという小地域に、そしてドイツのために生きている、彼等はラインの歌を讃美歌に変え、そして、フランス国家の代りにフランス哲学を盗み、フランスの地方の代りにフランスの思想をゲルマン化することによって、エルザスとロートリンゲンを占領する。理論の世界支配に於てドイツの世界支配を宣言する聖ブルーノーや聖マックスに比べてはヴェネデイ君の方がコスモポリタンである。  これらの論述からしてまた、フォイエルバッハが(ヴヰガント四季誌一八四五年、第二巻)自分をば『公共人』という資格のために共産主義者だと宣言し、自分をば人間『なるもの』という一賓辞に転化するとき、従って、現存する世界では特定の革命的な党の所属者を現わす共産主義者なる語を、再び一の単なる範疇に転化し得ると信ずるとき、如何に甚しく彼が思い違いをしているか、ということが明かにされる。人間相互の関係に関してのフォイエルバッハの全演繹は、ただひとえに、人間は相互に必要とし合い、且つつねに必要とし合って来たということを証明するだけに終っている。彼はこの事実についての意識を確立せんと欲する、従って彼は、爾余の理論家たちと同じように、単に、現存する事実についての正しい意識を作り出そうと欲しているに過ぎない、これに反して現実的な共産主義者にとっては、この現存するものを変革することが問題なのである。尤も我々はフォイエルバッハが、まさにこの事実の意識を作り出そうと努力することによって、理論家が一般に、理論家や哲学者であることをやめることなしに、進み得るところの限度まで進んでいるということを完全に承認する。しかるに注目すべきことには、聖ブルーノー及び聖マツクスは、共産主義者についてのフォイエルバッハの表象をばすぐさま現実的な共産生義者に書き換えている、そしてこれは、一部の理由としては既に、彼等が共産主義をもまた『精神の精神』として、哲学的範疇として、同格の敵手として、これと闘争し得んがためになされているのである――そして聖ブルーノーの側からは、それはなおまた実際上の利害からしてもなされているものなのである。フォイエルバッハがなお依然として我々の敵たちと共通にやっている現存するものの承認及び同時に誤認の例として、我々は『将来の哲学』の中の次の箇所のことを指摘しよう、そこに於て彼は、事物若くは人間の存在は同時にそれの本質であるということ、動物的若くは人間的個体の一定の生存諸関係、生活の仕方及び活動は、その個体の『本質』がその中に於て自分が満足させられるのを感じているところのものであるということ、を説述している。この場合明らさまに、いずれの例外も不幸なる偶然として、変更され得ない変態として考えられているのである。それ故に、幾百万のプロレタリアが彼等の生活諸関係の中に於て決して満足させられるのを感じないとき、彼等の『存在』が彼等の‥‥‥‥‥‥とき。 {20b=30}  支配階級の思想はいずれの時代に於ても支配的な思想である、換言すれば、社会の支配的な物質的力であるところの階級が同時にその社会の支配的な精神的力である。物質的生産のための諸手段を支配する階級は、それによって同時に精神的生産のための諸手段を支配し、かくして、それによって同時におしなべて、精神的生産のための諸手段を缺ける人々の思想はこの階級に隷従せしめられることとなる。支配的な思想とは、畢竟、支配的な物質的諸関係の観念的表現であり、思想として把握されたる支配的な物質的諸関係、即ちまさにその一階級をして支配階級たらしめる諸関係であり、それ故にこの階級の支配の思想にほかならないのである。支配階級を構成するところの個人は、就中また意識を有し、それだから思惟する、従って彼等にして階級として支配し、そして歴史上の一時代の全範囲を規定している限り、彼等がこの支配と規定とをその時代の全体に亘って行い、それ故に就中また思惟する者として、思想の生産者として支配し、彼等の時代の思想の生産及び分配を統制するということ、かくして彼等の思想がその時代の支配的な思想であるということ、は自明のことである。例えば、そこでは王権と貴族とブルジョアジーとが支配を争っており、従ってそこでは支配が分割されているような時代及び国に於ては、権力分立の学説が支配的な思想として現われ、それがやがて『永遠の法則』であると宣言されるのである。――我々が既に上に(〔本訳書六二頁#66〕)、従来の歴史の主要な力の一つとして見出したところの分業は、今やまた支配階級のうちに於て精神的労働と物質的労働との分業として現われ、その結果この階級の内部に於てその一部分はこの階級の思想家(この階級の自己自身についての幻想を作り上げることをもって彼等の主要な生業とするところの、この階級の能動的な且つ概念的なイデオローグたち)として出現し、これに反して他の部分はこれらの思想や幻想に対してヨリ多く受動的な且つ受容的な態度をとる、蓋し後者は現実に於てこの階級の活動的な成員であって、自己自身についての幻想や思想を自分で作るためにヨリ僅かな時間をしかもたないからである。この階級の内部に於てはそれのこのような分裂は、二つの部分の間の或る程度の対立と敵対関係とにさえまで発展することがあり得る、けれどもこのような対立や敵対関係は、この階級そのものが危くされるような実践的衝突の場合にはいつでも、おのずからなくなり、そしてその場合にはそもそも、支配的な思想が支配階級の思想でなくそしてそれがこの階級の力とは別な力をもっているかの如き外観も消え失せるのである。一定の時代に於ける革命的思想の存在は既に革命的階級の存在を前提する、この階級の存在の諸前提については既に上に(〔本訳書七三頁#78~79〕)必要なことは述べておいた。いまもしひとが、歴史的過程の把握に際して、支配階級の思想を支配階級から切り離すならば、それを独立化するならば、或る時代に於てこのまたかの思想が支配したと説く立場にとどまってこのような思想の生産の諸条件及び生産者たちのことを顧慮しないならば、従って、思想の基礎に横たわっているところの個人や世界事情をのがすならば、そのときにはひとは、例えば、貴族の支配した時代には名譽、忠節等々の概念が支配し、ブルジョアジーの支配の時代には自由、平等等々の概念が支配した、と云うことが出来る。/*支配階級自身はおしなべて、彼等のこれらの概念が支配したという表象をもっており、そして彼等は、ただこれらの概念を永遠の真理として叙述することによってのみ、これらの概念を以前の時代の支配的な表象から区別する。*//*これらの支配的な概念は、支配階級が自己の利害を社会の一切の成員の利害として叙述するように余儀なくされることが多ければ多いほど、愈々普遍的な且つ包括的な形態をもつであろう。*/支配階級自身はおしなべてこのように想像する。凡ての歴史家に、特に十八世紀以来、通有なこの史観は、必ずや、絶えず益々抽象的な思想が、即ち絶えず愈々普遍性の形態をとる思想が支配するようになって来る、という現象にぶっつかるであろう。言い換えるならば、自己の前に支配していた階級に代って現われるいずれの新しい階級も、自己の目的を貫徹するために既に、自己の利害を社会の一切の成員の共同の利害として叙述するように、即ち、観念的に表現すれば、自己の思想に普遍性の形式を与え、それを唯一的に合理的な、普遍妥当的な思想として叙述するように、余儀なくされているのである。(普遍性は、一、身分に対する階級に、二、兢争、世界交通等々に、三、支配階級の数的に甚大なることに、四、共同の利害の幻想に、照応している。当初はこの幻想は真実であった、五、イデオローグたちの錯覚に及び分業に照応している。)革命的階級は、それがひとつの階級に対立するという理由から既に、階級としてでなく、却って全社会の代表者として元来登場する、それは唯一つである支配階級に対して社会の全大衆として出現する。このことが可能であるのは、当初にはこの革命的階級の利害が、現実になおヨリ多く爾余の凡ての非支配階級の共同の利害と関聯しており、従来の諸関係の圧迫のもとになおいまだ一の特殊階級の特殊の利害として発展し得なかったからである。それだからこの階級の勝利は、爾余の、支配的地位に上って来ない諸階級の多数の個人にとってもまた利益になる、けれどもそれはただ、この勝利が今やこれらの個人をば支配階級にまで向上することが出来るようにする限りに於てである。フランスのブルジョアジーが貴族の支配を顛覆したとき、彼等はそれによって多くのプロレタリアをして自己をプロレタリアートの地位以上に高めることを可能ならしめた、けれどもそれはただ、彼等がブルジョアとなった限りに於てであった。このようにしていずれの新しい階級も、従来支配して来た階級の土台よりもヨリ広い土台の上に於てのみその支配を成し遂げる、その代りにその後に至っては、今度支配する階級に対する非支配階級の対立もまたそれだけ愈々尖鋭に且つ深刻に発展するのである。この二つの事柄によって、この新しい支配階級に対して行われる闘争は、これもまた、従来の凡ての、支配の獲得に努力せる階級がこれをなし得たよりも一層決定的な、一層根本的な{21a=33}、従来の社会状態の否定のために努力する、ということが制約されている。  一定の階級の支配がただ或る思想の支配であるに過ぎぬかの如きこのような全外観は、言うまでもなく、階級の支配が社会的秩序の形式であることを一般にやめるや否や、従って、特殊的な利害を一般的な利害として、若くは『普遍的なもの』を支配的なものとして叙述することがもはや必要でなくなるや否や、おのずからなくなる。。  支配思想にしてひとたび支配的な個人及びわけても生産の仕方の与えられたる段階から生れる諸関係から切り離され、そしてそれによって歴史に於てはつねに思想が支配するという結論が成立した後には、これらの種々なる思想から『思想なるもの』、理念等々を、歴史の中に於て支配しているものとして抽象すること、そしてかくして凡てのこれらの個々の思想や概念をば、歴史に於て自己を発展せしめつつある概念なるものの『自己規定』として把握することはいとも容易なことである。かくて次にはまた人間のあらゆる関係が、人間の概念から、表象された人間から、人間の本質から、人間なるものから導き出され得るということは当然である。このことは思辨哲学がなしたところである。ヘーゲルは自分で歴史哲学の終りに、私は『概念なるものの進展をのみ考察し』そして歴史の中に於て『真の神義論』を叙述した(四四六頁)、と告白している。ひとは今やまたもや『概念なるもの』の生産者たちにまで、理論家たち、イデオローグたち及び哲学者たちにまで溯ることが出来る、そしてそのとき、哲学者たち、思想家たちがかかるものとして、昔から歴史の中で支配して来たという結論に到達する、――この結論たるや、我々が見たように、また既にヘーゲルによって言明されたところのものである。かくて歴史に於て精神の主権(スチルナーにあっては教権制)を立証する全手品は、次の三つの手練の範囲を出でない。  第一。ひとは、経験的な諸根拠にもとづき、経験的な諸条件のもとに於て、そして物質的な個人として、支配する人々の思想をこれらの支配する人々から切り離し、もって歴史に於ける思想若くは幻想の支配を承認せねばならぬ。  第二。ひとは、この思想の支配に一の秩序を齎らし、相継起する諸支配思想の間に一の神秘的な聯関を立証しなければならぬ、そしてこれはひとがこれらの諸思想を『概念なるものの自己規定』として把握することによって成し遂げられる(このことが可能であるのは、これらの諸思想がその経験的な基礎を媒介にして現実的に相互に聯関しているからであり、且つこれらの諸思想が、単なる思想として把握されて、自己差別即ち思想家によって拵えられた差別となるからである。)  第三。この『自己自身を規定する概念』の神秘的な外見を取り除くために、ひとはそれをば一個の人格――『自己意識』――に転化するか、或いは、全く唯物論的なるかに見えるために、それをば歴史に於ける『概念なるもの』を代表する一系列の人格に、即ち『思想家たち』、『哲学者たち』、『イデオローグたち』に転化する、これらの人々は今やまたもや歴史の製造者として、『番人評議会』として、支配者として把握される。このようにしてひとは唯物論的要素を全部歴史から取り除いた、そして今やひとは彼の思辨の駒を安んじて疾駆させることが出来る。  ドイツに於て(そしてその理由は?)特に支配せるこのような歴史の方法は、一般にイデオローグたちの幻想、例えば、法律家、政論家(実際政治家をも含めて)の諸幻想との聯関からして、彼等の実際的な生活地位、彼等の職業及び分業から全く簡単に説明がつくところのこれらの連中の独断的な夢想と曲歪とからして、展開されなければならない。  日常生活に於てはどんな商人でも、或る人が自稱するところとその人が現実にあるところとを区別することを甚だよく辨えているのに、我国の歴史叙述はなおこの平凡な認識にまで達していない。それは各々の時代が自己自身について語り且つ想像するところのものをその言葉通りに信じているのである。 {84a=40}  〔B、唯物論的見方に於ける経済、社会、個人及びその歴史。〕  〔……〕第一のものからは、発達せる分業と拡大されたる商業の前提が生じ、第二のものからは、地方的性質が生ずる。第一のものにあっては個人は連繋されていなければならない、第二のものにあっては個人は与えられた生産要具と並んで自身生産要具として存在する。従ってここに、自然生的な生産用具と文明によって作られた生産要具との間の区別が現われて来る。耕地、(水等々)、は自然生的な生産要具と見られることが出来る。第一の場合、即ち、自然生的な生産要具にあっては、個人は自然のもとに包摂され、第二の場合には労働の一生産物のもとに包摂される。従って、第一の場合には財産(土地所有)もまた直接的な、自然生的な支配として現われ、第二の場合には労働、特に蓄積された労働の、資本の支配として現われる。第一の場合は、個人が、家族であれ、種族であれ、土地そのもの等々であれなんらかの紐帯によって一共同体に結び合っていることを前提し、第二の場合は、彼等が互いに独立的であってただ交換によってのみ結合されていることを前提する。第一の場合に於ては、交換は主として人間と自然との間の交換であり、前者の労働が後者の生産物に対して交換されるところの交換であるが、第二の場合に於ては、交換は主として人間自身の間の交換である。第一の場合には平均的な人智で十分であり、肉体的活動と精神的活動とはなお全然分離されていないが、第二の場合には既に精神的労働と肉体的労働との間の分業が実践的に成し遂げられていなければならない。第一の場合には所有者の非所有者に対する支配は人的諸関係に、一種の公共組織に基礎をおくことが出来るが、第二の場合にはそれはひとつの第三のもの、即ち貨幣に於て一の物的な容態をとっていなければならぬ。第一の場合には小産業が存在するが、しかしそれは自然生的な生産要具の利用のもとに包摂されており、従って、種々なる個人への労働の割当なしに存在するものである、第二の場合には産業はただ分業に於てまた分業によってのみ存立している。  これまでのところに於ては我々は生産要具からして出発した、そして既にここに、或る産業上の段階にとっての私有財産の必然性が明かとなった。採取産業に於ては私有財産は労働となお全く合致してる、小産業及び従来の凡ての農業に於ては財産は既存する諸生産要具の必然的結果である、大産業に於て初めて生産要具と私有財産との間の矛盾が大産業自身によって作り出される、これが作り出されるためには大産業は既に非常に発展していなければならぬ。それ故に私有財産制の廃止もまた大産業と共に初めて可能となるのである。  ―― ―― ――物質的労働と精神的労働との最も大がかりな分業は都市と農村との分離である。都市と農村との間の対立は、野蛮から文明への、種族制から国家への、地方割拠から国民への推移と共に始まり、そして文明の全歴史を通じて今日(穀物関税法反対聯盟)に至るまで始終存続している。――都市の成立と共に同時に、行政、警察、租税等々の、約言すれば公共組織並びにそれと共に政治一般の必然性が与えられた。此処に於て初めて直接に分業と生産要具とにもとづくところの、人口の二大階級への分割が現われる。都市は既に人口の、生産要具の、資本の、享楽の、欲望の集中の事実であるに対して、農村はまさに正反対の事実を、即ち孤立と離隔とを展示している。都市と農村との間の対立はただ私有財産制の内部に於てのみ存在することが出来る。それは、個人が分業のもとにそして彼に強要された一定の活動のもとに包摂されていることの最も顕著な表現であって、この包摂たるや、或る者をば局限された都会動物に、他の者をば局限された田舎動物になし、そして両者の利害の対立をば日々新たに作り出すものである。労働はここでもまた主要事であり、個人にかぶさる力である、そしてこの力にして存在する限り、その限りは私有財産は存在せざるを得ないのである。都市と農村との対立の廃棄は、共同社会の第一諸条件の一つであって、この条件たるや、誰でも一瞥してわかるように、それ自身また、単なる意志だけでは充し得ない数多の物質的前提に依存している(これらの条件についてはなお詳論されねばならぬ)。都市と農村との分離は、資本と土地所有との分離として、資本即ち単に労働と交換とにその土台をもつ一財産の土地所有から独立したる存在と発展との端初として、把握されることが出来る。  <今や我々の例に移ろう。>中世に於て、以前の歴史から出来上ったものとして伝えられたのではなくて、自由になった農奴をもって新たに形作られたところの諸都市にあっては、各人が携えて来た僅かばかりの、殆どただ是非なくてはならぬ手道具から成る資本を除けば、各人の特殊な労働が彼の唯一の財産であった。絶えず都市へ流れ込んで来る逃亡した農奴たちの競争、諸都市に対する農村の絶えざる戦争、そしてそれに伴う都市に於ける組織された兵力の必要、一定の労働に対する共同所有権の紐帯、手工業者が同時に商人でもあった時代であるので彼等の商品を販売するための共同の建築物の必要、並びにそれに伴うて生ずる、これらの建築物からの無資格者の閉め出し、個々の手工業相互の間の利害の対立、労力をかけて修業した労働の保護の必要、及び全土の封建的組織、これらが各々の手工業の労働者たちを同業組合に結合せしめるに至った諸原因であった。我々はここでは、その後の歴史的発展によって惹き起された同業組合制の幾重もの改変にこの上立入って論ずることを要しない。農奴の都市への逃亡は中世全体に亘って間断なく行われた。これらの農奴たちは、農村で彼等の領主たちから迫害されて、個々別々に諸都市へやって来たが、そこには組織されたる公共団体が既に存在していて、それに対しては彼等は無力であり、そこでは彼等は彼等の労働に対する需要と都市に於ける組織されたる彼等の竸争者たちの利害とが彼等に指定した地位に服せざるを得なかった。これらの個々別々に流れ込んで来る労働者たちはいつまでたっても一勢力となることが出来なかった、というのは、彼等の労働が修業される必要のある同業組合的な労働であった場合には、組合の親方たちが彼等を自分たちに隷属させて、自分たちの利害に従って彼等を組織したし、そうでなくて、彼等の労働が修業される必要のないものであり、従ってなんら同業組合的な労働でなくて日傭労働であった場合には、彼等は決して一組織をなすに至らずして、いつまでも未組織の賤民層であったからである。諸都市に於ける日傭労働の必要が賤民層を作った。――これらの諸都市は、その個々の成員の財産の保護並びに生産手段及び防衛手段についての世話を倍加するという直接の必要によって生み出されたところの紛う方なき『組合』であった。これらの諸都市の賤民層は、互いに見も知らぬ、個々別々に流れ込んで来た個人から成っており、しかもこれらの個人は、組織された、武装せる、彼等を鵜の目鷹の目で監視する力に対してなんらの組織をもたずに対立していたために、あらゆる力を缺いていた。職人たちと徒弟たちとは、いずれの手工業に於ても、親方たちの利害に最もよく合致するような具合に組織されていた。彼等が彼等の親方たちに対して立っていた家長制的関係は、親方たちに二重の力を与えた、即ち、一方では職人たちの全生活に及ぼす親方たちの直接の影響に於てであり、そして次には、この家長制的関係が同一の親方のもとで労働していた職人たちにとって、彼等をほかの親方たちについていた職人たちに対して結束し、もって彼等をこれらの職人たちから切り離したところの一の現実的な紐帯であったからである。なお最後に職人たちは、自身親方になるという、彼等のもっていた利害関係によって既に、現存する秩序に結びつけられていた。それだから、賤民層は、その無力さのためにいつもなんらの效をも奏しなかったとはいえ、少くとも都市の全秩序に反対する暴動を起すに至ったのに反して、職人たちは単に個々の同業組合の内部での小さい、同業組合制そのものの存在を危くすることのないような反抗運動をなしたに過ぎなかったのである。中世に於ける大きな蜂起はすべて農村から起った、併しながらそれらも何様に農民たちの分散状態並びにその結果としての無訓練のために、いつでも全然無効果に終った。―― ―― ――  これらの諸都市に於ける資本はひとつの自然生的な資本であった、それは住宅、手道具、及び自然生的な、世襲的な取引関係とから成っており、そして交通の未発達と不十分な流通とのために、金に換えられ得ないものとして、親から子へと相伝されねばならなかった。この資本は近代の資本のように、それがこの物に投じてあろうとまたはかの物に投じてあろうと、それにとってはなんら問題でないような、貨幣で評価される資本ではなくて、所有者の一定の労働と直接に結びついてそれから全然分離され得ない、そしてその限りに於て身分的な資本であった。―― ――  分業は、諸都市の中では個々の{85a=44}諸同業組合の間に於て、また諸同業組合そのものの中では個々の労働者たちの間に於て、決して徹底的には行われていなかった。各労働者は労働の一範囲全体に亘って熟達していなければならず、彼の道具をもって作らるべき凡てのものを作ることが出来なければならなかった。狭い範囲に限られた交通と個々の都市間の僅少な連絡とは、人口の不足していたことと彼等の間に於ける需要に限りがあったこととは、ヨリ進んだ分業の出現を許さなかった、従って、親方になろうと欲する者は誰でも彼の手工業全体に熟練していなければならなかった。それだから中世の手工業者たちにあってはなお、自分の専門の労働とこの労働に於ける熟練とに対する関心が見受けられ、この関心は一種の偏狭な藝術趣味というところにまで高まることもあり得た。併しながらそれだからまた、中世の手工業者はいずれも全然自分の労働に没頭してしまい、この労働に対して居心地のいい隷属関係をもち、そして、自分の労働に対して無関心である近代の労働者よりも遥かに多く、労働のもとに包摂されていた。―― ―― ――  分業のその次の拡大は、生産と交通との分離、商人という特殊な一階級の形成であった、この分離たるや、歴史的に伝承された諸都市に於ては一緒に(就中ユダヤ人と一緒に)継承され、また新たに建設された諸都市に於ても忽ちのうちに出現したのである。ここに於て近接した地域以外に及ぶ商業連絡の可能性が与えられた、この可能性の実現如何は、現存する諸交通機関に、政治的諸関係によって制約された田舎の治安状態に(中世全体に亘って、周知の如く、商人は武装せる隊商をなして旅行した)並びに交通の及び得る地域のその時々の文化の段階によって制約された需要の未発達発達の程度に、かかっていた。――交通が特殊な、一階級に組織されるに至ると共に、商人によって都市の周囲の近接地以外へ商業が拡大されるに至ると共に、直ちに生産と交通との間の相互作用が現われる。諸都市は相互に連絡をとり、新しい道具はひとつの都市から他の都市へ持って来られることになり、そして生産と交通との間の分業はやがて個々の諸都市の間に於ける生産の新しい分業を喚び起し、その各々の都市はやがて或る一つの産業部門を専ら開発することとなる。当初の地方割拠の状態は漸次に解体され始める。  一地方に於て獲得された諸生産力、特に諸発明が、その後の発展にとって失われてしまうか否かは、ひとえに交通の範囲にかかっている。直接の近接地以外に及ぶ交通がなおなんら存在していない間は、各々の発明は各々の地方に於て別々になされなければならず、そして蛮族の侵入の如き全くの偶然事、いな、普通の戦争でさえが、発達した生産力と需要とをもった国土を破壊して、もう一度、初発からやり直さねばならぬように立ち至らしめるに十分なのである。歴史の当初に於ては凡ての発明はいずれも日々新たに、且つ各地方地方に於て独立になされねばならなかった。商業が比較的よく拡っている場合に於てさえ、発達した諸生産力の全滅する危険が如何に多いかは、フェニキヤ人及び中世の硝子画術がこれを証明している、フェニキヤ人の諸発明は、その大部分が、この国民が商業から駆逐されたこととアレキサンダーの侵略及びその結果たる衰亡とによって、永い間失われてしまった。同様に中世に於ては例えば硝子画術がまたそうである。交通が世界交通となり、且つ大産業をその土台にもち、あらゆる国民が競争戦に引き入れられた時に初めて、獲得された諸生産力の永続が確保されたのである。  種々なる都市の間に於ける分業が先ず齎した結果は、工場制手工業の成立、即ち同業組合制の手に負えないまでに発達した生産部門の成立であった。工場制手工業の最初の興隆――イタリアに於ける、そして後にはフランドルに於ける――は外部の諸国民との交通をそれの歴史的前提にもった。他の諸国――例えばイギリス及びフランス――に於ては工場制手工業は当初は国内市場に限られていた。工場制手工業は、上に挙げた諸前提のほかにいまひとつ、人口の――特に農村に於ける――集中の並びに一部分は同業組合法にも拘らず同業組合の中に於て、一部分は商人の間に於て、個人の手中に集まり始めたところの資本の集中の進展をその前提にもっている。  よしなお最も原始的な形に於てであるにせよ、元々から機械を前提していた労働は、実に間もなく、それが最も発展力のあるものであることが示された。従来は農村に於て、自分らの必要な衣服を作るために、農民たちによって片手間仕事に営まれた機織が、交通の拡大によって刺戟され発達させられた最初の労働であった。織物業は最初の工場制手工業であり、そしてその後もつねに最も主要な工場制手工業であった。人口の増加に伴うて被服材料に対する需要が増加したこと、促進された流通にもとづいて自然生的な資本の蓄積と可動化とが始ったこと、これによって奢侈の欲望が喚び起され且つそれが交通の漸次の拡大によって一般に促進されたこと、これらは織物業に対して量的並びに質的に勅戟を与え、この刺戟は織物業を従来の生産形態から引き離した。自家用のために機織を営む農民は依然として存続したし且つなお存続しているが、彼等と並んで、諸都市には織物業者の新しい一階級が現われて来た、彼等の織物は全国内市場を目当てにすると共にまた大部分は外国市場をも目当てにしたのである。――大抵の場合僅かの熟練をしか必要とせずしかも程なく数限りもなく多数の部門に細分されたところの労働たる織物業は、その全性質のしからしめるところから、同業組合の桎梏に対して反抗した。従って機物業はまた大柢の場合、村落や小さな市場町で同業組合的な組織なしに営まれたが、それらの地は漸次に都市となり、しかも程なくその国々に於ける最も隆盛な都市となった。――同業組合制に束縛されない工場制手工業の成立と共に直ちにまた財産諸関係が変化した。自然生的な・身分的な資本を超えて進む第一歩は商人の出現によって行われた、彼等の資本は元々から可動的であり、当時の諸関係のもとに於てそのように言うことが出来る限りに於て、近代的意味の資本であったのである。進展の第二歩は工場制手工業に伴うて行われた、工場制手工業もまた自然生的な資本の大量を可動化し、そして一般に自然生的な資本の量に対して可動的な資本の量を増大したのである。――同時に工場制手工業は、以前に同業組合都市が農民に避難所として役立ったように、農民に向って門戸を閉し若くはひどい賃銀しか支払わない同業組合に対する農民の避難所となった。  工場制手工業の初期は同時に浮浪者群の時代であった、この浮浪者群は、封建的従者の廃止、帝王に仕えて諸侯に対抗した寄せ集めの軍隊の解散、農業の改良及び大面積の耕地の牧場への転化によって発生せしめられたものである。この事実だけからしても、如何にこの浮浪者群が封建制の解体と厳密に聯関しているかは明らかである。既に十三世紀に於てこの種の時期がちらほら現われている、一般的に且つ継続的にこの浮浪者群が出現するのは、やっと十五世紀の終り及び十六世紀の初めに至ってからのことである。これらの浮浪者は、なかにもイギリスのヘンリー八世がその七万二千人を絞殺させたというほどに、数多くあったのであるが、彼等が労働するようにするのには非常な困難が伴い、彼等は極度の窮乏に追い詰められて、しかも長い間の反抗の挙句やっと労働するようになった。工場制手工業の急速なる興隆、特にイギリスに於けるそれは、彼等を漸次に吸収していった。―― ―― ――  工場制手工業の成立と共に種々なる国民が一の競争関係に、即ち商業闘争に這入った、この商業闘争は戦争、保護関税及び輸入禁止の形で戦い抜かれた、しかるに、以前にあっては諸国民は、彼等が連絡をもっていた限りに於ては、相互の間に平和な交換を行っていたのである。商業はこの時以来政治的意義をもっている。  工場制手工業に伴うて、同時に、労働者の雇主に対する関係の変化が起った。同業組合に於ては職人と親方との間にはなお家長制的な関係が存続していた、工場制手工業に於てはこれに代って労働者と資本家との間に貨幣関係が現われて来た、この関係たるや、農村及び小都市に於ては依然として家長制的に色づけられていたが、しかしヨリ大きな、本来の工場制手工業都市に於ては既に夙くから殆ど凡ての家長制的色彩を失っていた。  工場制手工業及び一般に生産の運動は、アメリカの発見と東印度への航路の発見とに伴うて出現したところの交通の拡大によって異常なる飛躍を遂げた。かの地から輸入された新しい生産物特に大量の金及び銀――これらは流通界に這入って階級相互の地位を全部変化し、封建的土地所有及び労働者に対して手酷い打撃を加えた――探検隊、植民、及び何よりも、今や可能となりそして日々益々多く実現されて行ったところの、諸市場の世界市場への拡大、これらのものが歴史的発展のひとつの新しい様相を{86a=48}喚び起した、しかしそれについては一般にここではこれ以上立入ることが許されていない。新たに発見された国々への植民によって諸国民相互の商業闘争は新たな営養を得、それに応じて範囲を拡大し且つ激烈さを加えた。  商業及び工場制手工業の拡大は可動的資本の蓄積を促進した、しかるに生産の拡張へのなんらの刺激をも経験しなかった同業組合に於ては、自然生的な資本は停頓したままであったか、さもなければ却って減少しさえした。商業と工場制手工業とは大ブルジョアジーを作り、同業組合の中には小市民層がかたまった、彼等は今はもはや、以前のように、都市に於て支配的位置に立つことなく、却って大きな商人と工業制手工業者との支配の前に身を屈せねばならなかった。それだから同業組合は、それが工場制手工業と接触するや否や、それの衰亡がやって来た。  諸国民の交通に於ける彼等相互間の関係は、我々の論じ来ったところの時期の間に、二つの異った姿態をとった、当初には、金及び銀の流通する量の僅少なためにこれらの金属の輸出禁止が必要であった、そして膨脹する都市の人口に職業を与えねばならぬために必要とせられ、大抵の場合外国から移植されたところの産業は、諸特権なしではやって行くことが出来なかった、これらの特権たるや、言うまでもなく、単に国内の競争に対してばかりでなく、むしろ主として外国の競争に対して保護するために賦与され得たものであった。これらの当初の輸出入禁止に於て、地方的であった同業組合の特権が全国民の上に拡大された。関税は、封建的領主が自分の領内を通過する商人に対して掠奪しない代償として賦課した貢納金から発生したものであるが、この貢納金は、その後都市によっても同様に賦課せられ、そしてそれは近代国家の出現に際しては、国庫にとって貨幣を得るための最も手近かな手段であった。――ヨーロッパの諸市場に於けるアメリカの金銀の出現、産業の漸次の発展、商業の急速なる飛躍及びこれによって喚び起された同業組合的ならざるブルジョアジーと貨幣との興隆は、これらの右に挙げた諸方策に違った意味を与えた。貨幣なしにすますことが日毎に愈々不可能になった国家は、今や、財政上の諸見地からして金及び銀の輸出禁止を継続した、ブルジョアにとってはこの新たに市場に放出された大量の貨幣が暴利獲得の主要対象物であったので、彼等はこれらの諸方策がとられることに完全に満足であった、従来の諸特権は政府にとって一の収入源泉となり、売られて貨幣に代えられた。関税立法のうちに輸出税が現われて来たが、このものは純粋に財政的な目的をもっており、産業にとってはただその進路を阻害するだけであったのである。―― ――  第二の時期は十七世紀の中葉をもって始り、殆ど十八世紀の終りに至るまで継続した。商業と航運とは工場制手工業よりも急速に拡大され、工場制手工業は第二次的な役割を演じた、諸植民地は有力な消費者となり始めた、個々の諸国民は永い間の戦争を通じて、開かれつつある世界市場を分け取りした。この時期は航海条令及び植民地独占をもって始っている。諸国民相互の間の競争は関税率、輸出入禁止、条約によって出来るだけ除去された、そして究極に於ては競争戦は戦争(特に海戦)によって戦われ、勝負を決せられた。海上に於て最も強力な国民、イギリス人が、商業及び工場制手工業に於て優勢を保持した。既にここに一個国への集中が見られる。――工場制手工業は絶えず国内市場に於ては保護関税によって、植民地市場に於ては独占によって、そして外国市場に於ては出来るだけ十分に差別関税によって、保護された。その国自身のうちで産出された原料の加工は保護奨励され(イギリスに於ける羊毛及び麻、フランスに於ける生糸)、国内で産出された原料の輸出は禁止され(イギリスに於ける羊毛)、そして輸入原料の輸出は閑却されるかまたは抑圧されるかした(イギリスに於ける棉花)。海上貿易と植民地的勢力に於て首位に立っていた国民は当然にまた工場制手工業の最大の量的並びに質的拡大を保証されていた。工場制手工業は一般に保護なくしてはやってゆくことが出来なかった、というのは、それは、他の国々に於て生ずる極めて僅かな変化によっても、その市場を失い、衰滅させられ得るからである、工場制手工業は或る国に若干程度の好都合な条件のもとに於ては容易に移植されたが、またまさにその故に、容易に破壊されたのである。工場制手工業は同時に、それが特に十八世紀に農村に於て営まれたような仕方を通じて、多数の個人の生活諸関係と極めて密接に結び合わされているために、いずれの国も自由兢争を許すことによって工場制手工業の存在を賭することを敢てなし得ない。それ故に工場制手工業は、それが輸出をするまでに至る間は、全然商業の拡大若くは制限によって左右せられ、そして商業に対しては比較的に極めて僅少な反作用を及ぼすにとどまっている。十八世紀に於ては、そのために工場制手工業は第二次的な意味しかもたず、またそのために商人は勢力をもっていたのである。他の何人にもまして国家の保護と独占とを迫った者は、商人、特に船主であった。工場制手工業者も固よりまた保護を要求し且つそれを獲得したのではあるが、しかし政治的重要性に於てはいつでも商人にひけをとっていた。商業都市、特に海港都市は或る程度まで文明化され且つ大市民的となったのに、工場都市に於ては依然として最大の小市民風が存続した。エーキン等々参照。十八世紀は商業の世紀であった。ピントーはこのことをはっきりと云っている。曰く、商業はこの世紀の寵兒の役をしている。また曰く、少し以前からというものは、商業、航海及び海軍のほかもはや何も問題になっていない。――  資本の運動は、著しく急速化されたとはいえ、しかも依然としてなおつねに比較的に緩漫であった。世界市場が個々の部分に細分されてその各々が別々の国民によって搾取されていたということ、諸国民相互の間に於ける競争が排斥されていたということ、生産そのものがたどたどしかったということ、及び貨幣制度がその最初の段階を出てやっと発展し始めたばかりであったということ、これらの事情が流通を甚しく阻止した。その結果として小売商人的な汚いけちな根性が出来、この根性は凡ての商人と商業経営の仕方の全体とになおこびりついていた。尤も、工場制手工業者に比較しては、従ってなおさら手工業者に比較しては、彼等は確かに大市民であり、ブルジョアであったが、次の時期の商人や産業家に比較しては、彼等はどこまでも小市民である。アダム・スミス参照。―― ――  この時期はまた、金及び銀の輸出禁止の撤廃、金融業の、銀行の、国債の、紙幣の、株式及び公債の投機の、あらゆる物貨の相場取引り成立によって、貨幣制度一般の完成によって特徴づけられている。資本はまたもや自己になお粘着せる自然生的性質の一大部分を失った。  十七世紀に於て不断に進展せるところの、一国即ちイギリスへの、商業並びに工場制手工業の集中は、この国のために漸次に一の相対的な世界市場を作り出し、そしてそれによってこの国の工場制手工業の生産物に対して従来の産業上の生産力によってはもはや充され得ないような需要を作り出した。生産力の手に負えないほど大きくなったこの需要は、大産業――産業上の目的のための諸自然力の応用、機械及び最も拡大されたる分業――を生み出したことによって、中世以降に於ける私有財産制の第三期を招来したところの推進力であった。この新しい様相の爾余の諸条件――国民の内部に於ける競争の自由、理論力学の発達(ニュートンによって完成された力学は一般に十八世紀に於てフランス及びイギリスで最も人気のある科学であった)等々は、イギリスに於ては既に存在していた。(国内に於ける自由競争でさえもが何処でも革命によって戦いとられねばならなかった――イギリスに於ては一六四〇年及び一六八八年、フランスに於ては一七八九年に。)競争は間もなく、自己の歴史的役割を保持しようと欲した凡ての国々をして、関税方策の改新によってその国の工場制手工業を保護し(旧関税は大産業に対抗してはもはや用をなさなかった)次いで間もなく保護関税のもとに大産業を移植することを余儀なくせしめた。大産業は、これらの保護手段にも拘らず競争を一般化し(大産業は実践的な商業の自由であって、保護関税は大産業にあっては単に一の緩和剤であり、商業の自由の範囲内での一の防禦手段であるに過ぎない)、交通機関及び近代的世界市場を作り上げ、商業を征服し、一切の資本を産業資本に転化せしめ、そしてそれによって迅速なる流通(貨幣制度の完成)及び諸資本の集中を生み出した。それは一般的競争によって凡ての個人をして彼等の精力を極度に緊張させるように余儀なくした。それは出来得る限りイデオロギー、即ち、宗教、道徳等々を撲滅した、そしてこれをなし得なかった場合には、それはこれらのものを一目瞭然たる虚妄たらしめた。それは、それが各文明国及びその内の各個人をしてその欲望の満足に於て全世界に依存せしめ、もって個々の国民の従来の自然生的な孤立状態を打破した限りに於て、初めて世界史を生み出した。それは自然料学を資本のもとに包摂し、分業から自然生的性質の最後の外観を取り去った。それは、労働の内部でそうすることが可能である限りに於て、一般に自然生的性質を絶滅し、一切の自然生的関係を解消して貨幣関係となした。それは自然生的な都市の代りに、一夜のうちに出来上った近代的な大産業都市を作った。それは、それが侵入して行った処では、手工業を、そして一般にあらゆる以前の段階の産業を、破砕した。それは農村に対する都市の勝利を完成した。それの特徴は自働的な組織である。それは大量の生産力を産み出したのであるが、これらの生産力にとって私有財産制は、{87a=52}あたかも、同業組合が工場制手工業にとって、また小さな、農村的な経営が発達しつつある手工業にとって桎梏であったと同様に、一の桎梏となった。これらの生産力は私有財産制のもとに於ては単に一面的な発展をなし、その多数はといえばむしろ破壊力となり、また多量のこのような生産力は私有財産制のうちに於ては全然利用されるに到ることが出来ない。それは一般に、何処に於ても、社会の諸階級の間に同一の諸関係を作り出し、そしてそれによって個々の国民の特殊性を絶滅した。そして最後に、各国のブルジョアジーがなお別個独立な国民的利害を持ち続けている間に、大産業は、あらゆる国民にあって同一の利害を有し且つそれにあっては国籍が既に廃滅されているところの一階級を作り出した、この階級たるや、現実的に全旧世界から自由であり、そして同時にこれに対立せるものである。それは労働者にとって単に資本家に対する関係をのみでなくまた労働そのものをも堪え難きものにする。  大産業が一国の各地方に於て同一の高さに発達を遂げるものでないのは固よりである。けれどこのことはプロレタリアートの解放運動を阻止しはしない、なぜなら、大産業によって生み出されたプロレタリアがこの運動の先頭に立って全大衆を自己と一緒に引き連れて行くからであり、そして大産業から閉め出された労働者たちは、この大産業によって、大産業そのものの労働者たちよりもなお一層悪い生活状態に突き落されるからである。これと同様な仕方で、大産業の発達している国々は、多かれ少なかれ非産業的な国々に対して、後者が世界交通によって一般的な競争戦の中へ引摺り込まれている限り、影響を及ぼすのである。  これらの種々なる形態はそれぞれ労働の、従って財産の、組織の形態である。いずれの時期に於ても、欲望によってそれが必要とされていた限りに於て、存在する諸生産力の結合が行われたのである。  生産力と交通形態との間のこのような矛盾は、我々の見たように、従来の歴史のうちに既に幾度も、しかもなお歴史の土台を危くすることなしに、現われた矛盾であって、それはその都度一の革命となって爆発せざるを得なかった。その際この矛盾は同時に種々なる副次的な姿を採った、即ち、諸衝突の総体としては種々なる階級間の諸衝突の形をとり、意識の矛盾としては思想闘争等々の形をとり、政治闘争等々の形をとった。そこでひとは、一の局限された見地からしては、これらの副次的な姿のうちの一つを取り出してそれをこれらの革命の土台であると見ることが出来る、しかもこのように見ることは、革命の出発点であったところの個人が、自分たちでも、彼等の教育程度と歴史的発展の段階とにそれぞれ応じて、自分たち自身の活動そのものについて諸々の幻想を描いていたために、愈々もって容易である。―― ――  かくて、歴史上のあらゆる衝突は、我々の見解に従えば、その根源を生産力と交通形態との間の矛盾のうちにもっている。尤も、この矛盾が或る一国に於て諸衝突に導くためには、それがこの国自身のうちで極端にまで押し詰められているということは必要でない。国際交通の拡大によって喚び起されたところの、産業的にヨリ発達せる諸国との競争は、産業の発達がヨリ進んでいない諸国のうちに於てもまた同様な矛盾を生み出すに十分である(例えば、ドイツに於ける潜在的なプロレタリアートはイギリスの産業の競争によって顕現せしめられた)。  兢争は個人を結びつけるにも拘らず、それは個人を、単にブルジョアばかりでなく、むしろなおヨリ多くプロレタリアを、相互に孤立せしめる。それだから、これらの個人が結合し得るまでには、この結合のために――それが単に地方的であるべきでない以上――必要な諸手段、即ち大産業都市及び廉価で迅速な交通が大産業によって先ず作られていなければならないということは別としても、長い時がかかり、またそれだから、これらの孤立化された者そしてこの孤立化を日々再生産するような諸関係の中で生活している個人に対立せるあらゆる、組織された力は永い闘争の後にやっと克服されるのである。これと反対のことを望むのは、あたかも、この特定の歴史的時代に競争は存在すべきでないと望んだり、若くは、個人は、彼等が孤立化された者としてはそれに対してなんらの統制をももたないところの諸関係を、脳裡から追い払うべきであると望んだりするのと同じことであろう。――  家屋の建造。蛮人にあっては、各々の家族が、丁度遊牧民の場合に各々の家族の別々の天幕をもっているように、自分自身の穴もしくは小屋をもっているのは言うまでもないことである。このような分立せる家経済は私有財産制のヨリ一層の発展によってなお益々必要にされるばかりである。農耕民族にあっては共同の家経済は、共同の土地耕作と同様に不可能である。都市の建設は一の大きな進歩を意味した。けれども、従来の凡ての時代に於ては、私有財産制の廃止から切り離すべからざるところの分立せる経済の排棄ということは、そのための物質的諸条件が存在しなかったという理由からして既に、不可能であった。共同の家経済の組織は、機械の、自然力の利用の、及びその他の多くの生産力の発展を前提する――例えば、水道、瓦斯点燈設備、蒸気暖房設備等々の発達、都市と農村の排棄の如きがそれである。これらの諸条件なしには、共同の経済なるものはそれ自身また一の新たな生産力であることなく、一切の物質的土台を缺いて、一の単に理論的な基礎の上に立つにとどまり、即ち一の単なる幻想であり、そして高々僧院経済にまで達するに過ぎないであろう。――何が可能であったかは、都市への密集と個々の特定の目的のための共同の家屋(監獄、兵営等々)の建造とに於て示されている。分立せる経済の排棄が家族の排棄から切り離すべからざることは、おのずから明かなことである。 (各人はその全存在を国家によって享けている、という聖マックスに於て屡々出て来る命題は、根本に於て、ブルジョアはブルジョア種族の一事例である、という命題と同じものである、この命題たるや、ブルジョアの階級はこれを構成する個人の前に既に存在していたということを前提するのである)。中世に於ては、各都市に於ける市民たちは、死力を盡して自己を防衛するために、土地貴族に対抗して団結することを余儀なくされていた。商業の拡大と交通の施設とは、個々の都市をして、同一の敵に対する闘争に於て同一の利益を達成したる他の諸都市と相知るに至らしめた。個々の諸都市に於ける多くの地方的な市民層から漸く極めて徐々に市民階級が成立した。個々の市民たちの生活諸条件は、現存する諸関係に対する対立並びにそれから制約された労働の仕方によって、同時に、彼等の凡てにとって共通であると共にそのいずれの個人からも独立であったところの諸条件となった。市民たちは、彼等が封建的結合体から自己をもぎ離した限りに於ては、これらの諸条件を作り出したのであるが、彼等が所与の封建制に対する彼等の対立によって制約されていた限りに於ては、これらの諸条件によって作り出されたのである。個々の都市の間の結合の出現と共に、これらの共通の諸条件は階級の諸条件にまで発展した。同一の諸条件、同一の対立、同一の諸利害は、大体に於てまた何処にも同様な習俗を発生せしめねばならなかった。ブルジョアジー自身は、最初は、それの諸条件と共に漸次に発展し、分業に従って更に種々なる分派に分裂し、そして遂には、一切の既存する財産が産業資本若くは商業資本に転化される程度に応じて、一切の既存する有産諸階級を自己のうちに吸収する、(これと同時に他方ではブルジョアジーは、既存する無産諸階級の大部分及び従来の有産諸階級の一部分をば一の新しい階級、即ち、プロレタリアートにまで発展せしめる)。個々の個人は、彼等が一の他の階級に対して共同の闘争を戦わねばならない限りに於てのみ、一階級を形作る、その余の点に於ては彼等は互いに彼等自身競争に於て再び敵対的に対立する。他方に於て、階級はまた個人に対して独立し、その結果個人は、彼等の生活諸条件を予定されたものとして受取り、階級によって彼等の生活地位とそしてそれと共に彼等の人格的発展を指定して貰い、階級のもとに包摂されることとなる。これは、分業のもとへの個々の個人の包摂と同一の現象であり、そしてただ私有財産及び労働そのものの廃止によってのみ除去されることが出来る。如何にして階級のもとへの個人のこの包摂が、同時に、種々雑多な表象等々のもとへの包摂にまで発展するか、は我々が既に幾度も暗示して来たととろである。  若しひとが歴史的に継起する諸身分及び諸階級の共通の生存諸条件並びにそれと共に個人に押しつけられた一般的諸表象の中に於ける個人のこのような発展を哲学的に考察するならば、ひとは実際容易に、これらの個人に於て種または人間なるものが発展したのであるとか、或いは、これらの個人は人間そのものを発展させたのであるとか、と想像することが出来る。この想像は、それでもって歴史の横面が二三ひどく擲られるというものだ。そのときにはひとは、これらの種々なる身分及び階級を一般的表現の諸特殊化として、種の諸亜種として、人間なるものの諸発展相として把握することが出来る。  特定の階級のもとへの個人のかかる包摂は、支配階級に対してなんらの特殊な階級利益をももはや達成するを要しない一階級が形成されるに至るに先立っては、排棄されることが出来ぬ。  分業による諸々の人格的な力(関係)の物的な力への転化は、それについての一般的表象を脳裡から追い払うことによって再び排棄され得るのでなく、却ってただ、個人がこれらの物的な力を再び自己のもとに包摂し、分業を排棄することによってのみ、排棄されることが出来る。このことは共同社会なしには不可能である。共同社会に於て初めて個人は、{88a=56}彼の素質をあらゆる方面に向って発達させる手段を得る、それ故に共同社会に於て初めて人格的自由は可能になる。共同社会の従来の諸代用物、即ち、国家等々のものに於ては、人格的自由はただ、支配階級の諸関係の中で発達した個人にとってのみ、そしてただ彼等がこの階級の個人であった限りに於てのみ存在した。従来個人が結合して形作っていたところの見せかけの共同社会は、つねにそれらの個人に対して自己を独立化した、そして同時にそれは、それが一の階級の他の階級に対しての結合であったが故に、被支配階級にとっては単に一の全然幻想的な共同社会であったばかりでなく、むしろまた一の新たな桎梏であった。現実的な共同社会においては個人は、彼等の聯結に於てまたそれによって、同時に彼等の自由を獲得する。――個人はいつでも自己から出発した、けれどもそれは言うまでもなく、彼等の与えられたる歴史的諸条件及び諸関係の内部に於ける自己からであって、イデオローグたちの意味に於ける『純粋な個人』からではない。しかるに歴史的発展の過程に於て、そしてまさに分業の内部に於ては不可避的なる社会的諸関係の独立化によって、各々の個人の生活の中に、それが人格的である限りに於ての生活と、それが労働のなんらかの部門及びこれに属する諸条件のもとに包摂されている限りに於ての生活との間に於ける一の区別が現われて来る。このことは、例えば、金利生活者、資本家、等々が人格的存在であることをやめるというが如くに解さるべきではない、むしろ彼等の人格が全く特定の階級諸関係によって制約され且つ規定されているのである、そしてかの区別は最初一の他の階級に対する対立に於て現われ、彼等自身にとっては、彼等が破産するときに至って初めて現われるのである。身分に於ては(種族に於てはなおさら)このことがなお蔽い隠されている、例えば、貴族はどこまでもつねに貴族であり、平民はどこまでもつねに平民である、それは、彼の爾余の諸関係を度外視するならば、彼の個性から切り離し得ぬ性質である。階級的個人に対する人格的個人の差別、個人にとっての生活諸条件の偶然性は、かの階級、即ち、それ自身ブルジョアジーの一所産たる階級の出現と共に初めて現われて来る。個人相互の間の競争及び闘争が初めてこの偶然性を偶然性として産出し且つ発展せしめる。それだから、表象に於ては、個人はブルジョアジーの支配のもとに於ては、以前よりも一層自由である、蓋し彼等にとって彼等の生活諸条件が偶然であるからである、しかし現実に於ては、彼等はもちろん一層不自由である。蓋し彼等はヨリ多く物的な強力のもとに包摂されているからである。身分の差別はプロレタリアートに対するブルジョアジーの対立に於て特に顕著になる。土地貴族に対立して都市市民の身分、職業団体等々が擡頭したとき、彼等の生存条件、即ち動産と手工業労働とは――これらは既に彼等が封建的団体から分離する以前に潜在的に存在していた――封建的土地所有に対して主張された或る積極的なものとして現われ、そこでまたそれは、最初にはそれ自身の仕方に於てやはり封建的形態をとったのである。逃亡農奴が彼等の従来の農奴的地位を或る彼等の人格にとって偶然的なものとして取扱ったことはたしかである。しかしこうしたことによって彼等は、単に、ひとつの桎梏から自己を解放しようとするいずれの階級でもがなすところと同一のことをなしたに過ぎないのであり、そして次に彼等は階級としてでなく、却って個々別々に自己を解放したのである。更に彼等は身分制の範囲から脱出したのでなく、却って単に一の新たな身分を形作ったに過ぎないのであり、且つこの新たな地位に於てもまた彼等の従来の労働の仕方を保持し、そしてそれをば、それの従来の、既に達せられたそれの発展に相応せぬ桎梏から解放することによって、一層発達させたのである。――これに反してプロレタリアにあっては、彼等自身の生活条件は労働である、従って今日の社会の全体の生存条件は彼等にとっては或る偶然的なものとなっており、これに対しては個々のプロレタリアはなんらの統制をももたず、またこれに対しては如何なる社会的組織も彼等のために統制を与えることが出来ないのである、かくて個々のプロレタリアの人格と彼に押しつけられたところの彼の生活条件即ち労働との間の矛盾は、彼その人にとって現われて来る、蓋し特に、彼は既に若い時から犠牲にされるからであり、また彼の階級の内部に於て、彼を他の階級へ移らせるような諸条件に達するという機会が彼に缺けているからである。――  注意。次のことは忘れらるべきでない、即ち、既に農奴は生存せねばならなかったし、また大経済が不可能であってその結果農奴への割当地の分配が行われたために、極めて間もなく、封建領主に対する農奴の諸義務は現物貢納と賦役との平均額にまで軽減されたが、この額というものは農奴にとって動産の蓄積を可能ならしめ、そしてそれによって彼が彼の領主の掌中から逃亡することを容易ならしめ、且つ都市市民として彼が栄達することに対する見込を彼に与え、また農奴の間に段階を生ぜしめ、かくて逃亡するような農奴は既に半ば市民であるという状態となった。この場合、或るひとつの手工業に熟達している農奴的農民が動産を獲得する機会を最も多くもっていたということは、これまた同じく明白なことである。  かようにして、逃亡農奴は単に、彼等の既に存在せる生存諸条件を自由に発展させ且つ承認させようと欲したにとどまり、従って究極に於て単に自由なる労働ということにまで到達したに過ぎなかったのに反して、プロレタリアは、人格として自己を主張するためには、彼等自身の従来の生存条件であると同時に従来の全社会の生存条件であるところのもの、即ち労働を廃棄しなければならない。それだからまた彼等は、社会の諸個人が従来それに於てみずからに一の総体的表現を与えたところの形態、即ち国家に対して真正面から対立する地位に立っており、そして、自己の人格を貫徹するためには、国家を顛覆しなければならない。  すべてこれまで展開して来たところから次のような結論が出て来る、即ち、一階級に属する個人がその中に入り込み、且つ第三者に対する彼等の共同の利害によって制約されていたところの共同関係は、つねに、これらの個人が単に平均個人としてのみ、彼等が彼等の階級の生存諸条件の中に於て生活していた限りに於てのみ、それに所属していたところの共同社会であった、この共同関係たるや、それらの個人が個人としてでなく、却って階級成員としてそれに分与していたのである。これに反して、彼等の及び一切の社会成員の生存諸条件を彼等の統制のもとに引き入れるところの革命的プロレタリアの共同社会にあっては、それが丁度逆である、即ちこの共同社会には個人が個人として参加する。これこそまさに、個人の自由なる発展と運動との諸条件を彼等個人の統制に従わしめるところの個人の結合である(今日発展し来った諸生産力の前提の内部に於けることはもちろんである)、これらの諸条件たるや、従来は偶然に委ねられており、そして個々の個人に対して、まさに個人としての彼等の分離によって、また彼等の必然的な結合――それは分業に伴うて生じ、そして個人の分離によって一の彼等にとって外的な紐帯となるに至った――によって、自己を独立化せしめていたのである。従来の結合は、単に一の決して任意的――例えば『民約論』に述べられている如き――ならぬ、却って、必然的な結合であった(例えば北アメリカの国家の形成及び南アメリカの諸共和国を参照せよ)、これらの諸条件について、これらの諸条件の内部に於てしかるとき個人は偶然性を享受していたのである。或る一定の諸条件の内部に於て妨げられることなく偶然性を享有し得るというこの権利を、ひとは従来人格的自由と名づけた。――これらの生存諸条件はもちろんただその時々の諸生産力と諸交通形態とにほかならないのである。――  共産主義が従来のあらゆる運動から区別される点は、それが従来のあらゆる生産関係及び交通関係の基礎を変革し、且つあらゆる自然生的な前提を初めて意識的に従来の人間の創造物として取扱い、それらのものの自然生的性質を剥奪し、結合せる個人の力に従属せしめるところにある。それ故に共産主義の建設は本質的に経済的である。即ち、個人のこのような結合のための諸条件の物質的な建設であって、これは既存する諸条件をこのような結合の諸条件たらしめる。共産主義が創造するところの現存物こそまさに、個人から独立せる現存物の一切を、この現存物がそれにも拘らず個人そのものの従来の交通の生産物にほかならないものである限りに於て、不可能ならしめるための現実的な土台である。それだから共産主義者たちは従来の生産及び交通によって生み出された諸条件を非有機的なものとして実践的に問題にする、しかもその際彼等は、彼等に材料を給付するということが従来の諸世代の計画若くは使命であったとは想像しないし、また、これらの諸条件がそれを、創造せる個人にとって非有機的であったとも信じないのである。 {89a=60} 人格的個人と偶然的個人との間の区別は、概念上の区別ではなく、却って一の歴史的事実である。この区別は時代を異にするに従って種々異なる意味をもっている、例えば、身分は十八世紀に於ては個人にとって或る偶然的なものであり、多かれ少かれ家族もまたそうであった。この区別は、我々が各時代に代ってなさねばならぬ区別でなく、却って各時代がその時代に存在せる種々なる要素の間に於て、みずからなし、そしてしかも概念に従ってではなく、却って物質的な生活の衝突によって余儀なくされてなすところの区別である。後代にとって、前代とは反対に、それだからまた後代に前代から伝承された諸要素の間に於て、偶然的として現れるところのものは、諸生産力の一定の発展に相応していたところの交通形態である。諸生産力の交通形態に対する関係は、交通形態の個人の行動または活動に対する関係である。(この自己活動の基本形態は言うまでもなく物質的なそれであり、一切の他の精神的、政治的、宗教的、等々のそれはこの物質的な自己活動に依存している。物質的生活の種々なる形状は、言うまでもなく、その時々に於て、既に発展している諸欲望に依存している、そしてこれらの諸欲望の生産並びに充足は共にそれ自身、羊または犬にあっては決して存在しないところの一の歴史的過程である(人間に反対するスチルナーの意地の悪い主要論証)、尤も羊や犬と雖も彼等の現在の姿に於てはたしかに、だが彼等の意に反して、一の歴史的過程の産物である。)個人がそのもとに於て、矛盾のなお出現していない間は、相互に交通するところの諸条件は、彼等の個性に属する諸条件であって、彼等にとってなんら外的なものではなく、そのもとに於て、特定の諸関係のうちに生存するこれらの特定の個人が、ただ彼等のみが、彼等の物質的生活並びにそれと聯関するところのものを生産し得るところの諸条件である、従ってそれらは彼等の自己活動の諸条件であり、且つこの自己活動によって生産されるのである。それだから、彼等がそのもとに於て生産する特定の条件は、矛盾がなお出現していない間は、彼等の現実的な被制約性に、彼等の一面的な存在に相応する、そして彼等の存在の一面性は矛盾の出現によって初めて自己を顕わにするのであり、従ってただ後代の人々にとってのみ存在するのである。そのときにはこの条件は一の偶然的な桎梏として現われ、そしてここに於て、それは一の桎梏である、という意識が前代にも転嫁されるのである。  最初には自己活動の諸条件として現われ、後にはそれの諸桎梏として現われるこれらの種々なる諸条件は、全体の歴史的発展に於て、交通諸形態の相関聯する一系列を形作る、この闘聯たるや、桎梏となった以前の交通形態の代りに、ヨリ発展せる諸生産力並びにそれと共に個人の自己活動の進歩せる仕方に相応する一の新たな交通形態が置かれ、今度はそれがまた桎梏となり次いで一の更に他の交通形態によって代られる、というところに成立している。これらの諸条件は、いずれの階段に於ても、同一時期に於ける諸生産力の発展に相応するからして、これらの諸条件の歴史は同時に、自己を発展させそしてそれぞれ新しい世代によって伝承されたところの話生産力の歴史であり、従ってまた個人自身の諸力の発展の歴史である。  この発展は自然生的に行われるが故に、即ち、自由に結合した個人の総体的計画に従属せしめられていないが故に、それは種々なる地方、種族、国民、労働部門、等々に源を発し、これらのもの各々は最初には他から独立に発展し、後になって初めて漸次に他と結びつくのである。更に、この発展はただ極めて徐々に行われる、諸利害の種々なる階段は、決して完全には克服されず、却って単に勝利せる利害に従属せしめられるだけであって、なお数百年もの間それの側に存続するのである。このことからして、次のような結果が見られる、即ち、一国民の内部に於てさえ個人は、彼等の財産諸関係を度外視しても、全く相違せる程度の発展をもっている、また以前の利害は、それに固有な交通形態が既に後代の利害に応ずる交通形態によって追い除けられていても、なお永い間、個人に対して独立化された見せかけの共同社会(国家、法律)のうちに於て一の伝統的な力を依然として所有し続ける、この力たるや、究極に於てはただ革命によってのみ打破され得るのである。このことからしてまた、何故に、一のヨリ一般的な概括論を許すような個々の諸点に関しては、意識が時として同時代の経験的諸関係よりも一歩先に進んでいるかの如く見えることが出来、その結果、ひとが後の時代の諸闘争に於て前代の理論家たちを諸権威として援用することが出来るか、ということも説明されるのである。――これに反して、北アメリカの如く、既に発展した歴史的時代に於て最初から始めるところの国々にあっては、発展は甚だ急速に行われる。このような国々は、そこへ移住せる個人、しかも彼等の諸欲望に相応しないところの旧い国々の諸交通形態によってそこへ移住する動機を与えられた個人以外にはなんら他の自然生的な前提をももっていない。それだからそれらの国々は旧い国々の最も進歩した個人をもって、従ってこれらの個人に相応する最も発展した交通形態をもって、しかもこの交通形態がなお旧い国々に於て実現され得ない先きに、事を始めるわけである。これは、それが単なる軍事上若くは商業上の根拠地でない限り、凡ての植民地がそうである。カルタゴ、ギリシア植民地及び十一、十二世紀に於けるイスランドがその実例を提供している。これと同様な関係は征服の場合に於ても、もし征服された土地へ他の地盤の上で発展せる交通形態が出来上ったものとして持って来られる場合には、生ずる。その母国に於てはこの交通形態はなお以前の時代からの諸利害と諸関係とにつきまとわれていたのに反して、ここに於てはそれは、征服者たちに永続的な権力を保証するためだけにでも、完全に且つ障害なしに、実現され得、またされねばならない。(ノルマン人の征服後のイギリス及びナポリ、これらの地はこの征服に際して封建的組織の最も完成された形態を得たのである。)  この全史観にかの征服なる事実は矛盾するかの如くに見える。従来ひとは暴力、即ち、戦争、掠奪、強盗殺人等々をもって歴史の推進力となして来た。我々はここではただ主要な諸点にのみ限って論じて差支えない、従って我々はただかの顕著なる例、即ち、野蛮民族による奮い文明の破壊及びその後を承けて最初から開始された社会のひとつの新たな組織の形成を例にとることにしよう。(ローマと野蛮人、封建制とガリヤ人、東ローマ帝国とトルコ人。)征服を行う野蛮民族にあっては、戦争そのものがなお、既に上に暗示しておいたように、一の正常的な交通形態であって、このものは、彼等の間にしきたりの且つ彼等にとって唯一的に可能な、原始なる生産の仕方のもとに於て人口の増加のために新たな生産手段の必要が作り出されることの多ければ多いほど、益々熱心に利用されるのである。イタリアに於てはこれに反して、土地所有の集中(これは買い占めや負債責めによるほか、なおまた相続によって惹き起されたのである、というのは、淫風が盛んで結婚というものが稀であったために、旧門が漸次死に絶えて、その領地が少数者の手に帰したからである)と、所有土地の牧場への転化(これは今日もなお行われている普通の経済的諸原因によるほか、掠奪穀物や貢納穀物の輸入及びその結果としてのイタリア産の穀物の消費者の缺乏によって惹き起されたのである)とのために、自由民は殆ど影を没し、奴隷そのものも繰り返し繰り返し死に絶えてつねに新たな奴隷によって補充されねばならなかった。奴隷制が依然として全生産の土台であったのである。自由民と奴隷との間に立つ平民は、嘗てルンペンプロレタリアート以上に出でるに至らなかった。一般にローマは嘗て都市以上に出でず、諸地方とは一の殆ど単に政治的な聯関に立つにとどまった、この聯関がまた再び政治的諸事件によって中断され得たということは言うまでもないのである。  歴史に於てはこれまで問題はただ単に奪取ということにかかっていた、という観念ほどありふれたものはまたとない。野蛮人がローマ帝国を奪取する、とひとは云う、そしてこの奪取なる事実をもってひとは古代的世界から封建制への推移を説明する。併しながら、野蛮人による奪取にあって問題なのは、奪取される国民が、近代の諸民族の場合に於てそうであるように、産業的諸生産力を発展せしめていたか、それとも、彼等の諸生産力が主として単に彼等の結合及び共同組織を基礎とするに過ぎないか、ということである。奪取は更に奪取される対象によって制約されている。証券の形をとって存在する金利生活者の財産は、奪取する者が奪取された国の生産並びに交通諸条件に服従するのでなければ、決して奪取され得ないのである。近代的な産業国の総産業資本についても同様である。そして最後に、奪取はいつでも極めて直ぐに行き詰まる。そしてもはや奪取すべき何物もなくなれば、ひとは生産し始めざるを得ない。このように、生産の必要が極めて直ぐに生じて来る結果、{90a=64}定住する征服者たちによって採用された共同組織の形態は、既存する諸生産力の発展段階に相応せざるを得ず、また若し最初からそういうことでない場合には、諸生産力に応じて自己を変化せざるを得ないのである。このことからしてまた、かの民族移動の後の時代に於て到る処に見られたような事実、即ち、奴隷が主人であり、征服者が被征服者から言語、教養及び慣習を極めて直ぐに採用したという事実、は説明されるのである。――封建制は決してドイツから出来上ったものとして持ち込まれたのでなく、却ってそれは征服者の側に於て、あたかも征服の期間中に於ける軍隊制度の戦闘組織のうちにその起源をもっているのであって、この戦闘組織が征服後に於て被征服諸国のうちに既に存在していた諸生産力の影響を受けて初めて本来の封建制にまで発展したのである。この形態が如何に甚しく諸生産力によって制約されていたかは、古代ローマの諸遺制から発する別な諸形態を実施しようと試みて挫折したという事実がこれを示している(カール大帝、等々)。  大産業と競争との中に於ては、個人の全部の生存条件、被制約性、一面性は、二つの最も簡単な形態、即ち私有財産と労働とに溶解している。貨幣の成立と共に、あらゆる交通形態及び交通そのものが個人にとって偶然的なものたらしめられる。それ故に既に貨幣のうちには、従来の一切の交通は単に一定の諸条件のもとに於ける個人の交通に過ぎないものであって、個人としての個人の交通ではなかった、ということが含まれている。これらの諸条件は二つのもの――蓄積された労働即ち私有財産か若くは現実的な労働か――に還元されている。これらのものが、若くはそのうちの一つが存在しなくなれば、交通は停止する。近代の経済学者たち自身、例えば、シスモンデイ、シェルブュリエ、等々、は、個人の聯合を資本の聯合に対立させている。他方に於て個人たち自身は完全に分業のもとに包摂されており、そしてそれによって最も完全な相互依存関係の中に立たしめられているのである。私有財産は、それが労働の内部に於て労働に対立している限りに於ては、蓄積の必然性にもとづいて発展し、そして当初にはいまだなおヨリ多く共同組織の形態を有しているが、更に発展するに従って絶えずヨリ多く私有財産の近代的形態に近づいてゆく。分業の成立によって既にその当初からまた労働諸条件即ち道具や材料の分割が行われ、これと共に蓄積された資本の種々なる所有者への細分が行われ、これと共に資本と労働との間の分裂が行われ、そして財産そのものの種々なる形態が与えられる。分業が益々発達するに従い、そして蓄積が益々増大するに従い、このような分裂もまた益々鋭く発達する。労働そのものはただこのような分裂の前提のもとに於て存立することが出来る。 (個々の国民の個人の人的エネルギー――ドイツ人とアメリカ人――エネルギーは既に人種の混淆による――それだからドイツ人は馬鹿者だ――フランス、イギリス、等々に於ては、異民族が既に発展していた土地に、アメリカに於ては全然新開の土地に移植された、ドイツに於ては自然生的な住民がそのままとどまっていた。)  かくてここに二つの事実が示される。第一に、生産力が個人から全く独立な且つ切り離されたものとして、個人と並んで存する一の独自なる世界として現われる、このことたるや、あたかもその力が生産力であるところの個人が分裂し且つ相互に対立して存在しているところにその根源をもっている、しかるに他方に於て、これらの力はただこれらの個人の交通と聯関とのうちに於てのみ現実的な力であるのである。それだから一方の側には諸生産力の一総体が立ち、これらの生産力はいわば一の物的姿態をとっており、個人自身にとってはもはや個人の力ではなく、却って私有財産の力であり、従ってただ個人が私有財産所有者である限りに於て個人の力であるに過ぎないのである。過去のいずれの時代に於ても生産力が個人としての個人の交通に対してこのような無縁な姿態をとったことはない、蓋し彼等の交通そのものがなお局限されたものであったからである。他方の側には、これらの生産力に対して個人の大多数が対立する、彼等からはこれらの力が切り離されており、従って彼等は一切の現実的な生活内容を奪われて抽象的な個人となっている、彼等は併しながらそのことによって初めて個人として相互に結合し得る状態におかれているのである。彼等がそれを通じてなお諸生産力並びに彼等自身の生存とつながっている唯一の聯関たる労働は、彼等にあっては自己活動の一切の外観を失ってしまって、ただ彼等の生活を不快ならしめることによって、彼等の生活を単に維持しているに過ぎない。過去の諸時代に於ては、自己活動と物質的生活の生産とはそれらが異れる人間に帰属していたことによって分離されていたのであり、そして物質的生活の生産は、個人自身の局限性のためになお一種の従属的な自己活動の意味をもっていたのであるに反して、今日に於ては両者の分離は、一般に物質的生活が目的として現われ、この物質的生活の生産即ち労働(これが自己活動の今では唯一的に可能な、しかし、我々の見る如く、否定的な形態である)が手段として現わるという姿をとっている。  されば今や個人は、単に彼等の自己活動に達するためにばかりでなく、むしろ一般に彼等の生存を確立するために既に、現存する諸生産力の総体を領有しなければならない状態にまで立ち到っている。この領有は先ず領有すべき対象――一の総体にまで発展し且つ一の世界的交通の内部に於てのみ存在するところの諸生産力――によって制約されている。それ故にこの領有は、この方面からして既に、諸生産力及び交通に相応するところの一の世界的性格をもつのでなければならぬ。これらの諸力の領有はそれ自身物質的生産要具に相応する個人の諸能力の発展以外の何物でもない。この理由だけからしても、諸生産要具の総体の領有は、個人そのものに於ける諸能力の総体の発展である。この領有は、更に、領有する個人によって制約されている。一切の自己活動から完全に除外されている現代のプロレタリアのみが、諸生産力の総体の領有とそれに伴って顕われる諸能力の総体の発展ということに存するところの、彼等の完全な、もはや局限されぬ自己活動を実現することが出来る。過去のあらゆる革命的な領有は局限されていた。その自己活動が制限されたる生産要具及び制限されたる交通によって局限されていた個人は、この制限されたる生産要具を領有したのであって、従って一の新たな制限性を齎したに過ぎなかった。彼等の生産要具は彼等の財産となった。併しながら彼等自身はどこまでも分業のもとに、並びに彼等自身の生産要具のもとに包摂されていた。従来の一切の領有にあっては、個人の大衆は唯一の生産要具のもとにどこまでも包摂されていた。プロレタリアの領有にあっては、諸生産要具の大量は各々の個人のもとに、そして財産は一切の個人のもとに包摂されなければならない。近代の世界的交通は、それが一切の個人のもとに包摂されることによってでなければ、個人のもとに包摂されることは出来ないのである。――  領有は、更に、それが如何に行われねばならないかという方法によって制約されている。それはただ、プロレタリアートそのものの性格にもとづいてやはりまた世界的なものであるのほかない団結によって、且つ革命によってのみ遂行され得るのである。この革命に於ては、一方では従来の生産並びに交通の仕方及び社会的組織の力が顛覆され、そして他方ではプロレタリアートの世界的性格並びに領有の遂行に必要なるエネルギーが発展し、更にプロレタリアートはその従来の社会的地位のためになお彼から去らずにいた凡てのものを脱ぎ棄てるのである。  この段階に至って初めて自己活動と物質的生活とが合致する、このことは個人の全体的個人への発展並びにあらゆる自然生的性質の脱却に相応する。そしてそのときそれに相応して労働は自己活動へ転化し、従来の制約されたる交通は個人としての個人の交通へ転化する。結合されたる個人による総体的な生産力の領有と共に私有財産は無くなる。従来の歴史に於てはつねになんらかの特殊な条件が偶然的なものとして現われたのに反して、今や個人の分離そのものこそ、いずれかの一個人の特殊な私的営利そのものこそ、偶然的となっている。  もはや分業のもとに包摂されていない個人を、{91a=68}哲学者たちは『人間』の名のもとに理想として表象し、そして我々によって展開されたる全過程をば『人間』の発展過程として把握して来た、その結果、各々の歴史的段階に於ける従来の諸々の個人に対して『人間』がすりかえられ、そしてこのものが歴史の推進力として叙述されたのである。かようにして全過程は『人間』の自己疎外の過程として把握されたのであるが、このことたるや、本質的には、後の段階に於ける平均個人がつねに前の段階に推し及ぼされ、そして後代の意識が前代の個人にまで推し及ぼされたことに由来するのである。もともと現実の諸条件を度外視しているところのこの顛倒によって、全歴史を意識の発展過程に転化することが可能であったのである。―― ――  市民的社会なるものは諸生産力の一定の発展段階の内部に於ける個人の物質的交通の全体を包括している。それは或るひとつの段階の商業的及び産業的生活の全体を包括しており、そしてその限りに於ては国家及び国民を超越せるものである、とはいえそれは、他方に於てはまた、外に向っては国民として自己を主張し、内に向っては国家として自己を組織せざるを得ないものである。『市民的社会』という語は、財産諸関係が既に古代的及び中世的共同組織から辛苦して脱け出したところの十八世紀に於て現われて来た。本来の市民的社会はブルジョアジーを俟って初めて発展する。けれども、あらゆる時代にあって国家及びその他の観念的上部構造の土台を形作るところの、直接に生産及び交通にもとづいて発展する社会的組織は、ずっと同一の名称をもって呼ばれて来たのである。―― ――   【C】 国家及び法律の財産に対する関係  財産の最初の形態は、古代的世界に於てもまた中世に於ても、種族財産であって、それはローマ人にあっては主として戦争によって、ゲルマン人にあっては牧畜によって制約されていた。古代の諸民族にあっては、一都市のうちに数多の種族が一緒に居住していたために、種族財産は国家財産として現われ、そしてそれに対する個々の人間の権利は単なる占有、しかも種族財産が一般にそうであるように、単に土地所有にのみ限られたる占有として現われている。本来の私有財産は、古代の諸民族にあっても近代の諸民族にあってのように、動産所有と共に始まる。――(奴隷と共同組織)(市民権にもとづく所有権)。中世から抜け出して前進しつつある諸民族にあっては、種族財産は種々なる段階――封建的土他所有、職業団体的動産所有、工場制手工業資本――を通じて近代的な、大産業と世界的競争とによって制約されたる資本にまで、即ち、共同組織の一切の外観を脱ぎ棄て且つ財産の発展に対する国家の一切の影響を排除したところの純粋な私有財産にまで発展する。この近代的な私有財産に近代的な国家が相応している、この国家たるや、租税を通じて漸次に純粋な私有財産所有者たちに買い取られ、国債制度によって完全に彼等の掌中に落ち、それの存在は取引所に於ける国庫証券の騰落に関係して、全然、私有財産所有者たち即ちブルジョアが国家に与える商業上の信用に依存することになったのである。ブルジョアジーは既に、それが一の階級であってもはや一の身分ではないが故に、自己をもはや地方的にでなく国民的に組織し、そしてその平均的利害に一の一般的な形態を与えるように余儀なくされた。私有財産が共同組織から解放されたことによって、国家は、市民的社会と並んだ且つその外にある一の特殊な存在となった。併しながら国家は、ブルジョアジーが外並びに内に向って、自己の財産と自己の諸利害との相互的保証のために、必然的に自己に与えるところの組織の形態以外の何物でもないのである。国家の独立性は、今日のところただ、そこでは身分が完全に階級にまで発展しておらず、そこでは先進諸国にあっては排除されてしまった身分がなお一の役割を演じており、そして或る混合状態が存在し、従ってそこに於ては人口の如何なる部分もその余の部分に対して支配的地位に立つに至り得ないところの諸国に於てのみなお存在している。これは特にドイツに於てそうである。近代的国家の最も完成せる例は北アメリカである。近代のフランス、イギリス及び北アメリカの著述家たちは凡て、国家はただ私有財産のためにのみ存在する、という風に述べているが、かくもこのことはまた個人の意識の中へも入り込んで行ったのである。  国家は、それに於て一の支配階級に属する個人が彼等の共同の利害を主張する形態であり、且つそれに於て一の時代の全市民的社会が自己を総括する形態であるが故に、その結果、あらゆる共同的な制度は国家によって媒介せられ、一の政治的形態を得るということになる。そこからして、あたかも法律が意志に、そしてしかもその実存的な土台から切り離されたる意志に、即ち自由なる意志に基礎をもつかの如き幻想は生れて来る。しかるときには同じ仕方で権利もまた法律に還元される。  私法は、私有財産と同時に、自然生的な共同組織の解体から発展する。ローマ人にあっては私有財産及び私法の発展は進んだ産業上及び商業上の諸結果を伴わずに終った、蓋し彼等の生産の仕方に凡て変化がなかったからである。封建的共同組織が産業及び商業によって解体された近代の諸民族にあっては、私有財産及び私法の成立と共に、ヨリ一層の発展の可能性をもった一の新たな様相が始った。中世に於て広範囲の海上商業を営んだ最初の都市たるアマルフイは、直ちにまた海商法をも発達させた。先ずイタリヤに於て、後には他の諸国に於て、産業と商業とが私有財産を更に一層発展させるや否や、直ちに発達せるローマ私法が再び採用され、且つ権威にまで高められた。その後ブルジョアジーが大いに力を得て来た結果、王侯がブルジョアジーの手を通じて封建貴族を顛覆せんがためにブルジョアジーの諸利害を認容するに至ったとき、凡ての国に於て、フランスでは十六世紀に於てのことであったが、法の本来の発展が始った、そしてこの発展は、イギリスを除いては、凡ての国に於て、ローマ法典の土台として行われた。イギリスに於てもまた私法をヨリ進んで発達させるためには(特に動産所有の場合に)ローマ法の諸根本命題が取り入れられねばならなかったのである。――(忘れてならないのは、法が宗教と同様自己自身の歴史をもたないということである。)  私法に於ては、現存する財産諸関係は普遍的意志の諸結果として表明される。使用及び濫用の権利そのものは、一方では、私有財産が共同組織から全然独立になったという事実を言い表わし、そして他方では、あたかも私有財産そのものが単なる私的意志に、即ち、物に対する任意的な処分権に基礎をもつかの如き幻想を言い表わすものである。実践に於ては、濫用ということは、若し私有財産所有者にして彼の財産及びそれと共に彼の濫用の権利が他人の手に移るのを見ることを欲しないならば、私有財産所有者にとって極めて限定された経済上の限界をもっている、蓋し、一般に物は、単に私有財産所有者の意志に対する関係に於て見られるならば、なんら決して物であるのでなく、却って交通に於て初めて、しかも法からは独立に、物となるのであり、現実的な財産となるのであるからである。(哲学者たちが観念と名づけるところのひとつの関係。)(関係は哲学者たちにとっては観念に等しい。彼等は単に『人間なるもの』の自己自身に対する関係を知るのみである、それだから一切の現実的な関係は彼等にとっては諸々の観念となる)。――法を単なる意志に還元するこのような法律的幻想は、財産諸関係が一層発展すれば必然的に、或る人が物を現実に所有することなしに、その物に対する法律上の権限をもつことが出来る、といったことにまで進んでゆく。例えば、若し競争によって或る土地の地代がなくされる場合、その土地の所有者はもとより使用及び濫用の権利を含めてその土地に対する彼の法律上の権限をもっていはするが、しかし若し彼にしてなおそのほかに彼の土地を耕作するに足るだけの資本を所有していない場合には、彼はかかる権利だけではどうすることも出来ず、彼は土地所有者として何物も所有していないのである。法律家たちのまさに同じ幻想からして、法律家たちにとってまたいずれの法典にとっても、個人が相互に諸関係を結ぶこと(例えば諸契約)は一般に偶然的であるということ、そして法典にとってはこれらの諸関係はひとが任意に取り結びまたは取り結ばないことが出来{92a=72}且つその内容が当事者たちの個人的意志にもとづくような諸関係と看做されているということ、が説明される。産業及び商業の発展によって新たな諸交通形態、例えば、保険、会社、等々が形作られるたび毎に、法はいつでもそれらのものを財産獲得の諸々の仕方の中に取り容れるように余儀なくされたのである。  分業の諸科学に及ぼす影響。  国家、法、道徳等々にあって圧迫といわれるものに等しきもの。  法律に於てブルジョアは自己に一の普遍的な表現を与え得るのでなければならない、蓋しまさに彼等は階級として支配するのであるからである。  古代国家、封建制、絶対王制に於て見られるが如き共同組織には、この紐帯には、特に宗教的諸表象が相応する。  自然科学と歴史。  政治、法律、科学、等々の、藝衛、宗教、等々の歴史なるものはなんら存在しない。 何故にイデオローグたちは凡てのものを逆立ちさせるか。  宗教家、法律家、政治家。  法律家、政治家(経世家一般)、道学者、宗教家。一つの階級の中に於けるこのようなイデオロギー上の細別に応じて分業による職業の独立化が行われ、各自は自己の職業をもって真の職業であると考える。彼等の職業が現実に対して立つ聯関について彼等は諸幻想を作り上げるが、それは、このことが既に職業そのものの牲資によって制約されているのであるが故に、それだけ益々必然的である。諸関係は法律学、政治学、等々に於ては、即ち意識に於ては諸概念となる。彼等はこれらの諸関係を超越しているのでないからして、彼等の頭脳の中に於けるこれらの諸関係についての諸概念もまた固定せる諸概念である。例えば裁判官は法典を適用する、そこで彼にとっては立法が真の、能動的な起動者の意味をもっている。彼等の商品に対する尊敬がある、なぜなら彼等の商売は普遍的なものを取扱っているからである。  法のイデー、国家のイデー。通常の意識に於ては事物は逆立ちさせられている。  宗教はもともと超越者の意識であり、現実的知識から生れる。ヨリ通俗的な‥‥  伝統、法、宗教、等々にとって、  個人はつねに自分自身から出発して来たし、つねに自分自身から出発する。彼等の諸関係は彼等の現実的な生活過程の諸関係である。彼等の諸関係が彼等に対して独立化するということ、彼等自身の生活の力が彼等に対して圧倒的な力になるということ、は何に由来するか。  一言にしていえば、分業は…その時々の発展段階に於ける生産力に依存する。  土地所有、公共団体財産、封建的な、近代的な。  都市の財産、工場制手工業の財産、産業資本。 {3a}  〔分業と財産の語形態〕  種々なる国民相互の諸関係は、どの程度までそれらの諸国民の各々がその諸生産力、分業及び国内交通を発展させたかということに依存する。この命題は一般に承認されている。併しながら、単に一国民の他国民に対する関係ばかりでなく、またこの国民そのものの全内部構成もこの国民の生産とその国内並びに対外交通との発展段階に依存している。一国民の諸生産力が如何なるところまで発展しているかは、分業の発展の到達している程度がこれを最も明瞭に示している。いずれの新たなる生産力も、それが従来既に知られている諸生産力の単に量的な拡大(例えば所有地の開墾)でない限り、分業の新たなる発達を結果として伴うものである。  一国民の内部に於ける分業は、先ず、産業労働及び商業労働の農耕労働からの分離、そしてそれと共に都市と農村との分離並びに両者の諸利害の対立をもたらす。分業のヨリ一層の発展は商業労働の産業労働からの分離に導く。それと同時に、これらの種々なる部門の内部に於ける分業によって、更に、一定の労働のために協働する個人の間に種々なる部類が発展する。これらの個々の部類の相互に対する地位は、農耕労働、産業労働及び商業労働の経営の仕方(家長制、奴隷制、身分、階級)によって制約されている。これと同一の諸関係が、ヨリ発展した交通の場合に、種々なる国民相互の諸関係の中に現われる。  分業の発展段階が種々異るに従って財産の形態も同じように異なる。換言すれば、分業のその時々の段階がまた労働の材料、要具及び生産物との関係に於ての個人相互の諸関係をも規定するのである。  財産の最初の形熊は種族財産である。それは、一の民族が狩猟と漁撈とによって、牧畜によって若くはせいぜい農耕によって生活するという生産の未発達な段階に相応する。この最後の場合には、それは大量の未開墾地を前提している。分業はこの段階に於てはなお極めて僅かしか発展せず、家族内に存在する自然生的な分業の多少拡大されたものにとどまる。従って社会構成は家族の拡大たるにとどまっている、即ち、家長的な種族の首長があり、そのもとに種族の成員があり、最後に奴隷があるという風である。家族のうちに潜在的に存在する奴隷制は、人口及び欲望の増加に伴い、また戦争にせよ交易にせよ、対外交通の拡大に伴い、初めて漸次に発展する。  第二の形態は古代的な公共団体財産及び国家財産である、これは特に契約若くは征服による数多の種族の一都市への結合から生ずるものであって、そしてこの場合にも奴隷制は依然として継続して存在する。公共団体財産と並んで既に動産私有そして後にはまた不動産私有が発展するが、しかしそれは一の例外的な、公共団体財産に対して従属的な形態としてである。公民はただ彼等の共同社会のうちに於てのみ彼等の労働奴隷に対する支配力を所有しており、そのために既に、公共団体財産の形態に拘束されている。公共団体財産なるものは活動的な公民の共同の私有財産であって、これらの公民は奴隷に対する関係上この自然生的な聯合の仕方のうちにとどまることを余儀なくされているのである。それだから、これを土台とする社会の全構成は、そしてそれと共に民族の力は、特に不動産私有が発展する程度に応じて同じ程度に崩解する。分業は既にヨリ一層発展している。我々は既に都市と農村との対立を、後には都市の利害を代表する国家と農村の利害を代表する国家との間の対立、そして諸都市そのものの内部に於ても産業と海上商業との間の対立を見出す。市民と奴隷との間の階級関係は完全に発達している。  私有財産の発展に伴い、ここに最初に、我々が近代的な私有財産の場合に、ただヨリ拡大されたる規模に於て、再び見出すであろうところのものと同一なる諸関係が出現する。一方では私有財産の集中がそれであって、これはローマに於ては極めて夙くから始まり(リキニウスの耕地法がその証左である)、内乱以来そして特にカイザル治下に於て甚だ急速に行われた。他方ではこのことと聯関して平民的小農のプロレタリアートへの転化がそれである、けれどもこのプロレタリアートたるや、有産市民と奴隷との間に立つその中途半端な地位のために、なんらの独立な発展にも到らなかった。  第三の形態は封建的若くは身分的財産である。古代が都市及びその小領域から出発したとすれば、中世は農村から出発した。大面積の土地の上に稀薄に散在していた既存の人口――この人口は征服者によってなんらの大きな増加も与えられなかった――が出発点のこのような変化を制約した。それだから、ギリシア及びローマとは反対に、封建的発展は、ローマの征服並びに当初それと結びついて行われたところの農業の普及によって準備されたる、一の著しく拡大されたる地盤の上に於て始まっている。没落しつつあるローマ帝国の最後の数世紀及び野蛮人による征服そのものは大量の諸生産力を破壊した、農耕は低下し、産業は販路の缺乏のために衰頽し、商業は弛緩し若くは暴力によって杜絶せしめられ、農村及び都市の人口は減少した。このような既存の諸関係及びそれによって制約されたる征服の組織の仕方は、ゲルマン人の軍制の影響のもとに、封建的財産を発展せしめた。封建的財産は、種族財産及び公共団体財産と同様に、これまた一の共同組織に基礎をおいている、けれどもこの共同組織に対して、直接に生産にたずさわる階級として対立するものは、古代の共同組織の場合のように、奴隷ではなくて、農奴的な小農である。封建制が完全に発達すると同時に、なおこの上に都市に対する対立が加わって来る。土地所有の教権制的構成及びこれと聯関する武装せる従臣は貴族に農奴を支配する力を与えた。この封建的構成は、まさに古代の公共団体財産と同様に、生産にたずさわる被支配階級に対しての一の聯合であった、ただ聯合の形態と直接の生産者たちに対する関係とが違っていただけであった、なぜならそこには違った生産諸条件が存在していたからである。  土地所有のこのような封建的構成に相応して、諸都市に於ては職業組合的財産、即ち、手工業の封建的組織が存在した。{4a}財産はここでは主として各個人の労働に存した。聯合せる掠奪貴族に対抗しての聯合の必要、産業家が同時に商人であった時代に於ての共同の市場家屋の必要、繁栄せる諸都市へ流れ込んで来る逃亡農奴たちの増大してゆく競争、全国の封建的構成、これらのものが同業組合を招来した。個々の手工業者たちが諸小資本を漸次に節約して蓄えたということ、そして彼等の数が人口の増加に拘らず動かなかったということが職人並びに徒弟関係を発展せしめた、そしてこの関係は都市のうちに農村に於けるそれと類似の教権制的関係を成立せしめたのである。  このようにして、封建時代に於ては、主要財産は、一方では、それに結びつけられていた農奴労働を含めての土地所有に存し、そして他方では、職人の労働を支配する小資本を含めての自己自身の労働に存した。両者の構成は局限された生産諸関係――僅少な、粗野な土地耕作及び手工業的な産業――によって制約されていた。分業は封建制度の開花期にはあまり行われなかった。いずれの国も自己のうちに都市と農村との対立をもち、身分の構成はもとより甚だ鋭く現われていたが、しかし農村に於ける王侯、貴族、僧侶と農民の差別、そして都市に於ける親方、職人、徒弟及び間もなくまた日傭賤民の差別のほかにはなんら重要な分割は行われなかった。農耕に於ては分業は零細耕作によって困難にされ、その側ら農民そのものの家内産業が現われ、産業に於ては労働は個々の手工業そのものに於ては全然分割されず、個々の手工業の間にも極めて僅かしか分割されていなかった。産業と商業との分割は比較的古い都市では既に存在していたが、比較的新しい都市に於ては都市が相互に関係を結ぶに至った後の時代に初めて発展した。  比較的大きな国々が封建的な王国に総括されるということは、都市にとってのように土地貴族にとって一の必要であった。それだから支配階級即ち貴族の組織はどこでもひとりの帝王を上に戴いていた。 /{4a} 〔底本〕 岩波文庫   ドイッチェ・イデオロギー       定価 二十錢 昭和五年七月五日印刷 昭和五年七月一五日発行 昭和一二年九月二五日第九刷発行 訳者 三木清 発行所 岩波書店 作成日 2007年4月16日 作成者 石井彰文