プロフィール・小林多喜二
名前 小林多喜二
性別
住所
誕生日 1903(明治36)年10月13日
年齢
星座
血液型
出身地 秋田
性格
趣味
特技
好きなもの
嫌いなもの


●多喜二略年譜
小林多喜二−その歩みと作品<年譜>

小林多喜二(こばやし・たきじ 1903(明治36)年10月13日〜1933年2月20
日、秋田生まれ。) 

【学歴】小樽区立潮見台小学校、北海道庁立小樽商業学校、小樽高等
商業学校卒。

【別名】、小林田木治、田奇二、郷利基、郷利樹、辻君子、田口生、古川
大助、伊東継、堀英之助、清水賢一郎、山野次郎ほか。

【職歴】北海道拓殖銀行に、192年〜1930年。以後は著述業。

多喜二の年譜は、多喜二自筆の「年譜」(1931)、多喜二追悼特集『赤
旗』年譜(1933)、ナウカ社『小林多喜二全集』『書簡集』(1935)に付された
もの、当時の各雑誌・新聞の多喜二追悼特集に、主要な年譜にみること
ができる。

戦後は手塚英孝編の手によるものが基本とされた。それは評伝『小林
多喜二』(筑摩版1958初版 新日本版1973で定稿)さらに『定本小林多喜
二』(全15巻 69)に結実され、その成果は『小林多喜二全集』(全7巻 新
日本出版社 1983 追補新装版1993)に引き継がれている。以後は、小笠
原克『新潮日本文学アルバム 小林多喜二』(新潮社 1985)「年譜」(『作
家の自伝(51)小林多喜二』 日本図書センター 1997) が、澤地久枝「小
林多喜二への愛」などで明らかになった地下活動期の情報を織り込み、
倉田稔『小林多喜二伝』(2003)は、小樽時代を豊富な資料を猟保して充
実させている。

その後も、森熊猛『マンガ100年 見て聞いて』(2004)などが注目される。
また、テキスト関係の発見も、「大熊信行宛書簡2通」(白樺文学館多喜
二ライブラリー蔵)、「工場細胞」直筆原稿の発見(薩摩川内まごころ文学
館蔵)、など、また大田努「未発掘の『赤旗』短編小説のこと」『民主文学』
(83年2月号)で指摘されるように、当時非合法で発行されていた機関紙
掲載のものは全集未収となっている。

全集編集時掲載誌紙が確認できず、原稿帳から全集に収録されたもの
も多い。また、小林多喜二の作品は、発表当時、大量の削除・伏字で発
表せざるを得なかった事情にあり、その復元のためには自筆原稿との
校合を必要とするという課題もあり、今後の研究が期待される。(※「 」
作品名『 』書名< >は筆名 執筆日)


1903(明治36)年
10月13日、秋田県北秋田郡下川沿(しもかわぞい)村川口(現在の大館
(大館)市川口)の農家に次男として生まれた。父・未松(すえまつ)、母・セ
キ、兄・多喜郎(たきろう)、姉・チマ、継祖母・ツネがいた。戸籍上は12月
1日。小林家は8反歩(約80アール)の自作兼小作。

1904(明治37)年 1歳
11月11日、継祖母・ツネ死去。

1905(明治38)年 2歳
1月22日、第一次ロシア革命。日本は日露戦争で勝利、ポーツマスで講
和。

1907(明治40)年 4歳
1月4日、妹・ツギが生まれる。
10月5日、小樽区新富町51番地の伯父・慶義(1859.10.10〜1931.6.20)方
で兄・多喜郎が病死。12月下旬、慶義にすすめられて一家は小樽へ移
住。


1908(明治41)年 5歳
1月、小林家は、小樽南端の若竹町に住居をさだめ、両親は伯父が経
営していた三星(みつぼし)パンの支店をひらく。5月、小樽港築港の第2
次築港工事が若竹町を起点に始まる。

1909(明治42)年 6歳
12月12日弟・三吾が生まれる。



1910(明治43)年 7歳
4月、小樽区立潮見台小学校に入学。秋田弁がめずらしがられ、いじめ
られた。
5月25日、「大逆事件」検挙始まる(11年1月、幸徳秋水らの死刑執行)。8
/22韓国併合条約。『白樺』創刊。

1914(大正3)年 11歳
7/28 第一次世界大戦始まる。

1916 (大正5)年 13歳
3月24日、潮見台小学校卒業。4月、伯父・慶義の援助で北海道庁立小
樽商業学校に入学、新富町の伯父の家に住みこみ、パン工場の手伝い
をしながら通学。7月、妹・幸(ゆき)が生れる。

1917(大正6)年 14歳
小樽庁商の友人、嶋田正策、斎藤次郎ら庁立小樽商業生数人と学内サ
ークル「小羊会」をつくり、水彩画を描きはじめる。その一方で詩、短歌、
小品などを書きはじめる。
「今は昔」(『尊商』12月発行第1号)
3/12 ロシア2月革命 11/7ロシア10月革命成立。
有島武郎「カインの末裔」(『新小説』7月)

1918(大正7)年 15歳
7/23 米価が大暴騰。米騒動 8/2シベリア出兵。

1919(大正8)年 16歳
「呪われた人」(校友会誌『尊商』3月発行第2号)
4月、『尊商』の編集委員にえらばれる。『文章世界』にコマ絵を投稿、
秋、小樽市稲穂町の喫茶店「千秋庵」での庁商短歌会などに出席。
11/1、2日 小樽区稲穂町の中央倶楽部で開催の、小羊画会展に水彩
画出品。

1920(大正9)年 17歳
『尊商』3月発行第3号に詩「秋の夜の星」、「秋が来た!!」、小品「病院の
窓」「電燈の下で」を掲載。

4月、嶋田正策、蒔田栄一、斎藤次郎らと回覧文集『素描』を創刊(第7集
まで)。

5月29、30日、中央倶楽部の「第2回洋画展覧会」に水彩画3点、9月18、
19日の白洋画会(小羊画会を改称)に水彩画5点を出品。

『文章世界』に投稿、詩「北海道の冬」、「冬から春へ」を『文章世界』5月
号に。詩「春」を『中央文学』6月号に投稿し、掲載される。 

9月下旬、慶義に絵をやめさせられる。

『尊商』21年3月発行第4号のために、「喜び!!」「私の揺籃」〈10.1〉
「運命のアイロニー」、小品「石と砂」〈田奇二10.5〉、「晩春の新開地」〈10.
20〉、「霜夜の感想」、「編輯余感」を書くとともに、『文章世界』掲載の詩
「冬から春へ」を転載★。

小樽で催されたオリーブ短歌会に参加。

1925(大正14)年 22歳
『キング』創刊、梶井基次郎ら『青空』創刊、中野重治ら『裸像』創刊

2月発行『クラルテ』第4輯に、小説「彼の経験」〈1・14〉、感想「赤い部屋」
「仲間雑記」発表。編集後記に多喜二の創作「駄菓子屋」への志賀直哉
の評を紹介。
田口タキへの書簡(3/2)「闇があるから光がある」


3月、東京商科大学を受験。不合格。
茅ケ崎に行き、南湖院第七病棟第一号室に入院中の旧師大熊信行を
見舞う。
4月、銀行員の安易になりがちな生活態度を反省。「龍介の経験」「曖昧
屋」を書く。
4/22 治安維持法公布 5/5普通選挙法公布。
「『生れ出ずる子ら』について」感想〈6月〉原稿帳
「田口の『姉との記憶』」<4.5〜6.9> 

7月 青野季吉「『調べた』芸術」、細井和喜蔵『女工哀史』
「ある病気のお話」(『小樽新聞』7/13付)

8月 小樽総労働組合創立。
1月から「龍介の経験」にとりかかり〈8・15〉に脱稿。『極光』26年7月号に
掲載の際に加筆訂正。



10/15 小樽商科大学に軍事教練反対の闘争が起き、全国に広がる。
小説「曖昧屋」〈11・19〉原稿帳 

12月、田口タキを、身請け。タキは、長橋の実家に帰り、二ヵ月後小樽
郊外の奥沢に住んだ。
1
2/6 日本プロレタリア文芸連盟創立。
※淫売婦(葉山嘉樹・『文芸戦線』11月号)



1926(大15・昭元)年23歳
1月 志賀直哉「山科の記憶」、葉山嘉樹「セメント樽の中の手紙」(『文芸
戦線』1月号)、川端康成「伊豆の踊り子」(『文芸時代』1月号)

「ぼくは小樽高商の所謂「軍教反対問題」に関係した友人からマルクス
やレーニンの著作、当時評判だった福本和夫の著作を読むことをすす
められた。なおその上に、山本懸蔵の立候補、諸種の研究会、あの
「三・一五」事件等々が、そのぼくの傾向を決定的なものにした。ぼくは
又プロレタリア芸術理論や葉山嘉樹などを貪り読んだ。」(自筆「年譜」)

『クラルテ』第5輯終刊号のため、小説「師走」〈1・28〉(翌年改作されて
「最後のもの」となる)、感想「赤い部屋」「仲間雑記」を書く。

「此頃ドストエフスキーのものを読んでいます。「虐げられし人々」「死の
家の記録」「貧しき人々」「二重人格」今のところこれだけを読みました。
ストリンドベルヒあたりが持っていない、そして私の内心で、とても要求し
ているものゝあるのを知って、今年一年は徹底的にドストエフスキーのも
のばかりを読もうと思っています。」


3/5 日本労農党創立。

4月末田口タキを若竹町の自宅に迎える。母・セキは赤飯を炊いて祝う。
5月26日「折々帳」(日記)を書きはじめた。
『下女』と『循環小数』」 (『新樹』5月号) 
日記(6/1)「今日、彼女が美しく見えた」チェーホフ全集を読む。 
評論「ジュードとアリョーシャ」(6・17)原稿帳 
小説「And Again!!」原稿帳(「龍介の経験」改作〈7月〉)
「師走」改作小説(8・10)原稿帳 
「父の危篤」小説(8・4)金沢で発行されていた同人雑誌『原始林』(9月版
第16輯)に中司哲也のゆかりで投稿。改作稿を『読売新聞』に投稿した
が没。
小説「酌婦」〈8・10〉原稿帳「曖昧屋」改作


3月発行『校友会々誌』第38号に、小説「人を殺す犬」〈8月〉
9月8日付『小樽新聞』朝刊「蟹工船博愛丸に雑夫虐待の怪事件」


9月14日、葉山嘉樹の小説集『淫売婦』に感銘。「志賀直哉氏あたりの表
現様式と正に対蹠的にある。」(日記) 

10/9「志賀直哉の「十一月三日午後の事」「網走まで」「或る朝」「宿かり
の死」「木と木鋸?」などを、フト、これで何度目か、読み返してみた。(中
略)然し、俺は断然、志賀のカテゴリーから出ることだ。」(日記) 

11/5 高畠素之著『マルクス十二講』を読む。

11月11日、田口タキが、だまって家を出て、花園町の小野病院に住み込
み、自活を求める。
「来るべきこと」シナリオ原稿帳 
「シェクスピアよりも先ずマルクスを」を、『小樽新聞』11月17日号に掲
載。これをきっかけに朝野十二氏と『小樽新聞』紙上で論争。朝野への
反論として、「朝野十二氏へ」(11月27日号)、「頭脳の相違」(12月4日号)
を掲載。

小説「無題」 〈12・20〉原稿帳 



12/25 大正天皇死去。皇太子裕仁即位。昭和に改元。

12月改造社の『現代日本文学全集』刊行開始(円本時代始まる)

1927(昭和2)年 24歳
小説「雪の夜」〈1・2〜21〉原稿帳(生前未発表)


「人を殺す犬」改作小説〈1・27〉 原稿帳
4月発行『原始林』第21輯に、小説「万歳々々」〈2・4〜5〉。「何度もホホエ
ミながら作った。こういうことは自分にはなかった気持だ。(ノート原稿末
の言葉)

新井紀一に就職斡旋を依頼。

小樽高商時代の恩師、大熊信行宛に書簡、東京での就職斡旋など依
頼。

「此前『文芸春秋』に、懸賞小説を出したところ、又私のものが二篇(「最
後のもの」「酌婦」)が予選に入りました」「昨年の暮頃から色々東京の知
人に手紙を出して、雑誌社か新聞社のほうに口がないか、をたずねて貰
いましたが、ありませんでした。それから奈良にいる志賀直哉氏とは小
説を時々見てもらったり、手紙を貰ったりしている関係上頼んでみました
が、やはり思わしいところもないとのことでした。心懸けて置いてくれると
云っています。」(全集未収録 大熊信行宛書簡 2月6日消印)

「大熊信行先生の『社会思想家としてのラスキンとモリス』」(『小樽新聞』2
月27日号)
3月5日付『小樽新聞』「四十余名の小作人来樽―磯野氏宅に押かく」
3/6 北海道銀行余市支店・渡辺善之助のあっせんをうけ、余市実科高
等女学校で『クラルテ』同人文芸講演会開催。多喜二は「ノラとモダン・ガ
ールに就いて」講演。

前年9月から腹案の「女囚徒」一幕物戯曲(〈3・8〉『文芸戦線』10月号)を
書き上げ、「『女囚徒』の自序」〈3・13〉を原稿帳に書く。
5月創刊の『山脈』に評論「詩の公式」 〈3・20〉

3月14日 片岡蔵相の失言から金融恐慌始まる 

3月3日〜4月9日、磯野小作争議が、日本で初めての労働者・農民の共
闘でたたかわれた。銀行に勤めながらこの争議の支援をしていた多喜
二は、争議の指導者武内清に依頼され、磯野側の経理内部情報を争議
団へ提供して支援した。このころ乗富道夫・産業労働調査所函館支所
の協力を得て、函館で北洋漁業や蟹工船を取材。
原稿帳に「父の危篤」の改作「Eternal problem」小説〈4・28〉
「マルクスの芸術観」 評論 (5・8)不詳

評論「十三の南京玉」(『小樽新聞』5月23、30日号)

原稿帳に小説「放火未遂犯人」、「その出発を出発した女」長編小説・上
編〈5〜6/15〉
「田口の『姉との記憶』」(『北方文芸』第4号6月) 

5/20改造社主催で開催の「日本文学全集講演映画会」函館に来ていた
芥川龍之介、里見クを小樽に招き、小樽での文芸講演会に150人。映
画は、国木田独歩「各作酒中日記」、徳富蘆花「ホトトギス」。その後、ク
ラルテ同人主催の座談会をひらく。 

5/28、病院に住みこんでいた田口タキが行方を知らせず小樽を去る。



6月19日〜7月4日、小樽港湾の運輸労働者を中心とする争議が起こり、
日本最初の産業別ゼネラルストライキがおこる。多喜二はこの争議に積
極的に参加した。ビラづくりで助けた。評議会の提唱する工場代表者会
議運動の典型として記録される歴史的闘争となった。

7月15日 コミンテルンの「日本問題に関する決議」で山川・福本批判
(1927年テーゼ)
8月、労農芸術家連盟に加盟。

佐野碩、久板栄二郎、来道。
原稿帳に小説「営養検査」〈8・5〉、「築地小劇場来る」〈8月〉 
芥川龍之介7月24日未明、「ぼんやりした不安」を理由に、遺書を残し服
毒自殺。
8月、築地小劇場がクラルテのメンバーの世話を受け、小樽中央座で、
実篤「愛欲

※『キネマ旬報』誌9月号に「最近のソビエト映画界」(モスクワ滞在中の
蔵原惟人によるもの)、現地で見た「戦艦ポチョムキン」を詳細に論じて
いる。多喜二がこの名作を「戦闘艦ポチョムキン」と表記しているのも、
蔵原論文にならったと思われる。
」チェーホフ「熊」を公演。

9月ころ労農芸術家連盟小樽支部幹事。

9月古川友一が主宰する社会科学研究会に参加、労働農民党小樽支
部、小樽合同労働組合の活動家たちとの関係をふかめる。
多喜二の勤めていた拓銀小樽支店の同僚工藤誠吉の住まい近くの売
春窟を題材に、「残されるもの」小説(〈9・14〉『北方文芸』10月発行第5
号) 
原稿帳に「酌婦」改作小説。

※辻君子「酌婦」「最後のもの」(9月)(「師走」改作)を書き、郷利基の名
で『文芸春秋』に応募。予選入選。
「最後のもの」は『創作月刊』2月創刊号に川端康成、片岡鉄兵、小島政
二郎、橋本英吉、秀島彬らの顔触れのなかに掲載された。

10月 芥川龍之介「或る阿呆の一生」「歯車」、志賀直哉「邦子」、中野重
治「芸術に関する走り書き的覚え書」

1幕4場の戯曲「山本巡査」〈10・24〉は、前衛芸術家同盟の機関誌『前
衛』に送られたが、掲載されなかった。12月 小樽映画鑑賞会が創刊し
た機関誌『シネマ』に評論「チャップリンのこと其他」〈10・31〉
小樽映画協会会員名簿には、多喜二とタキの名がならんである。

11月11日に築地小劇場が再び来樽、ゲーリング「海戦」、ローラン「狼」
を公演。ピアノの手配など世話をする。

1927年11月集産党事件。名寄を中心に士別、稚内などで40人以上が逮
捕拘束された国内で2番目、道内では初の治安維持法弾圧事件。第1次
大戦後、名寄駅や機関庫の労働者を中心に多くの文芸誌が発刊され、
70人余で名寄新芸術協会を発足。27年の磯野小作争議と小樽港湾争
議、中国への出兵反対のたたかいに参加した同協会の青年たちは同
年、社会主義をめざす組織として集産党を結成した。

11月12日、労農芸術家連盟の分裂により組織された前衛芸術家同盟に
参加。3月から原稿帳に書きつづけた長編「その出発を出発した女」〈11
月〉を中編でやめる。

評論「『海戦』を中心の雑談」(〈12・17〉『シネマ』28年1月号)
11月21日、小樽市中央座で上演された築地小劇場の演劇、ドイツのプ
ロレタリア作家ゲーリング作『海戦』を見て「自分は幕が下りた時、興奮し
たまま『戦闘艦ポチョムキン』を考えていた。その二つの間に、しかし厳
然として存在している大きな画線について考えた」と書き、「築地の『海
戦』(もう少しだ)」「『海戦』を中心の雑談」、『シネマ』誌1928年新年特輯
号)。対象となった『海戦』が反戦劇であること以上、多喜二は明らかに
自分の制作中の作品を、「戦艦ポチョムキン」とくらべ、「もう少しだ」とし
ている。


12月、「防雪林」を起稿。

1928(昭和3)年 25歳
「種々の研究会、あの「三・一五事件」等々が、そのぼくの傾向を決定的
なものとした。」(多喜二自筆「年譜」)
小説「誰かに宛てた記録」(〈1・1〜3〉『北方文芸』6月発行第6号) 
評論「吹雪いた夜の感想」(〈1・3〉『小樽新聞』1月9、30日号 ) 
評論「とても重大な事」(〈1・19〉『シネマ』2月号)
原稿帳に、戯曲「山本巡査改作」〈1・19〉 

2月 窪川いね子=佐多稲子「キャラメル工場から」、黒島伝治「渦巻け
る烏の群」

2/1 日本共産党機関紙『赤旗』創刊。

2月、普通選挙法による最初の国会選挙がおこなわれ(男子のみ)、多
喜二は、労働農民党から立候補した山本懸蔵を応援して、東倶知安方
面の演説隊に加わる。労農党は19万票を獲得し、山本宣治ら2名が当
選。
評論「さて、諸君!」(〈2・21〉『シネマ』3月号)
「酌婦」を改作した小説「瀧子其他」 (〈3・2〉『創作月刊』文芸春秋社 4月
号) 
旧クラルテの仲間によるガリ版刷文芸誌のため「AからLまで―文学の
階級性と文学青年の方向性」執筆。原稿は失われた(佐貫徳義談)。

3/10 妹ツギ、幸田佐一と結婚。

3/15 組合活動家、社会主義者などを全国で一斉検挙した「3・15事件」。
小樽では2ヶ月にわたって、500人が逮捕、検束、召喚され、多喜二の友
人も犠牲になった。

4/7新井紀一宛書簡、「今度の『創作月刊』の自分の作、時事新報の河
原茂樹という人に、酷評このうえもない酷評を受けました。少しグシャン
としています。」
原稿帳に評論「政治と芸術の『交互作用』」〈4・10〉

4/10 小樽合同労組、労農党、無産青年同盟小樽支部解散させられる。
4月26日、前年12月から執筆していた「防雪林」を原稿帳に完成。(生前
未発表)
評論「『ヴォルガの船唄』其他」 (〈4・27〉 『シネマ』5月号) 
※同月25日、前衛芸術家同盟と日本プロレタリア芸術連盟か合同し、戦
前最初にして最後の統一戦線(それはアナキストから社会民主主義者、
マルキストまで結集した)である日本左翼文芸家総連合を結成し、『戦争
に対する戦争』を発刊するなどして小林多喜二ら青年文学者に大きな影
響を与えた。ナップ機関誌『戦旗』が創刊された(5月号)。同誌に発表し
た蔵原惟人の「プロレタリア・レアリズムへの道」は、多喜二らに創作方
法など大いに啓発した。
伊藤信二、風間六三らとナップ小樽支部をつくる。評論「『第七天国』」
(〈5・12〉『シネマ』6月号)


5月中旬、10日間の予定で上京、新橋の自宅に評論家・蔵原惟人を訪
ね、以後親交を深めた。5月24日、多喜二は蔵原へ「創作月刊の私の
『最後のもの』、『滝子そのほか』をお読み下さい」と書簡。



原稿帳に「人を殺す犬」を改作の小説「監獄部屋」〈5・27〉
5月26日、「一九二八年三月十五日」を起稿、8月17日完成、『戦旗』11、
12月号に発表。その間の7月、為替係から調査係へ配置がかわる。

6/4 関東軍が張作霖の列車を爆破。6/29 治安維持法が、最高刑を死
刑に改悪。

6月 志賀直哉「暗夜行路 後篇」7/3 特別高等警察課を設置。中野重
治「春さきの風」(『戦旗』8月号) 、貴治山治「ゴー・ストップ」、蔵原惟人
「芸術運動当面の緊急問題」
蒔田栄一が、多喜二の文章を英訳し『上級英語』(9月号)「一日一題」欄
に掲載。全集未載。

9月5日、選挙ルポ「東倶知安行」完成(文芸春秋社『創作月刊』に送る
も、没原稿となる)。
「三・一五」事件で中断していた社会科学研究会を再開。

10月6日 共産党書記長渡辺政之輔、台湾で警官に追われ自殺

10/14「防雪林」の改稿に着手するも中断。
1
0/18『読売新聞』「よみうり抄」欄、『時事新報』「文芸消息」欄で「一九二
八年三月十五日」が紹介される。

10/24 ニューヨーク株式市場大暴落。世界恐慌始まる。

10月28日、「蟹工船」を起稿。
10/30 『戦旗』(28年11月号)蔵原惟人「『一九二八年三月十五日』につ
いて」、『文章倶楽部』(11月号)山田清三郎「注目すべきプロレタリアの新
人」掲載。
10/31 新井紀一宛書簡「「三・一五」が戦旗に載りました。色々な欠点を
御教示願えたら、幸甚と思います」
評論「口語歌人よ、マルクス主義を!!」〈11・6〉『新短歌時代』12月号 

11月10日 昭和天皇即位の礼

11/28 新井紀一宛書簡 「自分の作は、実際予想した以上の賞賛を、殆
ど全文壇から(というよりは勿論プロ文壇)から受けたといっていい程でし
た。」
11月末から多喜二は、小樽海員組合の北方海上属員倶楽部発行の
『海上生活者新聞』の文芸欄を担当。
評論「映画には顕微鏡を?」(〈12・3〉『シネマ』29年1月号 )

「自分の中の会話」(『文章倶楽部』29年新年号 略歴、顔写真つきで掲
載)
・『都新聞』(28/12/17)蔵原惟人「プロレタリア文芸の画期的作品―小林
多喜二の『一九二八年三月十五日』―」

12/25 ナップが再組織され、全日本無産者芸術団体協議会(ナップ)が
成立。山本宣治代議士、来樽。

1929(昭和4)年 26歳
1/9「時々特高におびやかされている」
15日、葉山嘉樹宛書簡「「郷利樹」というのは私の時々使うペンネームで
す。私はご存じかどうか知りませんが、『戦旗』11/12月号に「一九二
八・三・一五」を発表したことがある者です。」
原稿帳に「馬鹿野郎!!」〈1・24〉
「推奨する新人」(アンケート 『創作月刊』29年1月号)

1月5日発行『海上生活者新聞』第創刊号に、「海員は何を読まなければ
ならないか」で、葉山嘉樹「海に生きる人々」を推薦。葉山より礼状が届
き、文通が始まる。
「略歴と作品その他」(『読売新聞』1月5日号)

2月10日、日本プロレタリア作家同盟が創立(藤森成吉委員長)され、中
央委員にえらばれる。伊藤信二らと小樽支部準備会をつくる。

2月14日発行『海上生活者新聞』第2号に、「『殺され(・・・)』たく(・・)ない
(・・)船員(・・)へ(・)」 。

3/5 山本宣治刺殺される。

3/10 斉藤次郎宛書簡「『東京朝日』の文芸時評で、平林初氏「柳氏の
工芸美論」というのがある。・・・在来の二科、春陽、帝展の絵画の、美学
的生命に、致命傷を与えるものかもしれない」
3月22日発行『海上生活者新聞』第3号に、『寄(ヽ)らば(ヽヽ)切る(ヽヽ)ぞ
(ヽ)!』。
前年10月28日に起稿した「蟹工船」が3月30日完成。

3/31蔵原惟人宛書簡 「蟹工船」の執筆意図について。

「形式主義文学理論を如何に観るか」(アンケート〈4・8〉『文芸レビュー』5
月号) 

4月16日、「4・16事件」。小樽で約40名が検挙される。この影響で、多
喜二も20日、小樽警察に拘引・家宅捜査された。

4月 島崎藤村「夜明け前」

5月14日、2年ぶりに田口タキと再会。
5/16 タキへ書簡「僕のしている仕事、しようとすること、そういうことに対
してどういう考えをもっているか知らせて貰いたいと思う。」

「蟹工船」が『戦旗』5、6月号に発表される。

5/23 蔵原への書簡。杉本良吉が「蟹工船」の脚本を望まれているという
話ですが、もちろん喜んで、承諾申し上げます。」

『朝日新聞』(5/7) 平林初之輔「日本のシンクレーア」、『新潮』(6月号)文
芸時評「「蟹工船」他」加藤武雄/「「蟹工船」―後半読後直後」小宮山明
敏、『新潮』(7月号) 勝本清一郎「「蟹工船」その他」と大きな反響。
徳永直「太陽のない街」(『戦旗』6月号)

6月評論「プロレタリア文学の『大衆性』と『大衆化』について」 (〈6・2〉『中
央公論』7月号 ) 
小説「『カムサッカ』から帰った漁夫の手紙」 (〈6・8〉『改造』7月号) 
評論「こう変っているのだ。」(〈6・9〉『北方文芸』6月発行第7号)

7/1 広津和郎宛書簡「わざわざ御鄭重な御手紙を下され、有難く思いま
す。」

7/6 「不在地主」起稿。

7月26〜31日、帝国劇場で「蟹工船」を改題した「北緯五十度以北」(高
田保、北村小松増補脚色土方与志演出5幕12場)が新築地劇団の手で
帝国劇場上演。その劇場パンフレット『帝劇』7月号に「原作者の寸言」
〈7・14〉。
宮本顕治「『敗北』の文学」小林秀雄「様々なる意匠」(『改造』8月号)
8月23日、全小樽労働組合創立、準備活動に参加し、内部の協調的見
解とたたかい「組合綱領」を起草。

9月10日、調査係から出納係へ左遷された。

このころ、蔵原惟人日本共産党に入党。

「断片を云う」(感想『文学時代』10月号) 
評論「プロレタリア文学の大衆化とプロレタリア・レアリズムに就いて」
(〈9・28〉『プロレタリア芸術教程』第2輯)

9月25日、「一九二八年三月十五日」を収めた処女作品集『蟹工船』戦
旗社版が刊行されるものの、即日「安寧禁止処分」に付され、発売禁止
になる。
7月6日に起稿した「不在地主」が9月29日完成(『中央公論』11月号に発
表)。

10月、幾春別炭鉱を見学。

10月24日 ニューヨーク株式市場大暴落、世界恐慌始まる

「頭の蠅を払う」評論(〈10・11〉 『読売新聞』10月20日号) 
「来年は何をするか」 アンケート〈11・1〉
小説「暴風警戒報」(10月30日脱稿11月3日加筆完成)『新潮』30年2月号
を書く。
同月16日、「不在地主」が直接の理由で拓殖銀行を解雇された。

「不在作家」感想(〈11・6〉『文芸春秋』12月号)

『蟹工船』改訂版〈定本日本プロレタリア作家叢書〉(戦旗社 昭和4年11
月8日 装幀 浅野方夫)が発売された。「後記」に「「三月一五日」そのも
のが、現在の検閲制度治下では発売頒布を禁ぜられるものとなってい
る。」とある。昭和5年2月15日安寧禁止処分に付された。

10月20日発行の『勤労界』創刊号に、「前頁の文を読みて」(北方勤労社
 全集未収録)

10月 雨宮庸蔵宛書簡「削除部分の発表のことは、如何でしょうか。蔵
原氏は「戦
旗」12月号に出すよう話してみるとのことです。」
『中央公論』で削除された不在地主の12〜15章を「戦い」と題し、(『戦
旗』12月号で発表。

「来年は何をするか」(〈11・1〉『文学時代』12月号)

「『蟹工船』と『不在地主』」『新潮』12月号

「小林多喜二君の昨今」12/3付『小樽新聞』

「『蟹工船』支那訳の序文」〈12・7〉 30年4月潘念之訳本 

小説「救援ニュースNo.18.附録」 (〈12・7〉『戦旗』30年2月号 松山文雄の
挿絵4枚、「誰かに宛てた記録」の改作)

12月20日発行『松竹座パンフレット』第1集に、評論「無鉄砲過ぎる期待
だろうか?」
「私の顔」(『新文芸日記』30年版)
「岩藤雪夫」(『改造』1月号) 
「葉山嘉樹」(『新潮』1月号) 

12/18「工場細胞」執筆着手。舞台となった北海製缶は、当時北洋漁業
を独占していた三菱系の日魯漁業の子会社で800人の従業員を持つ当
時最も近代的工場だった。工場の取材には、長年この工場で働き、全
小樽労働組合の書記をしていたナップ小樽支部の詩人、伊藤信二が協
力した。多喜二は工場の実地調査、生産工程なども詳しくしらべ、原稿
帳に調査記録をまとめた。 
評論「北海道の『俊寛』」(〈12・21〉『大阪朝日新聞』30年1月9日号)

年末、札幌松竹座が新築開場したときの「松竹座パンフレット」第一集に
「我等の観点から1930年以後の松竹映画に望む事」のアンケートに答
え、当時の日本映画が人気小説の映画化に夢中になっている状況を批
判、「『不壊の白珠』の代りにゴールキーの『母』であったらどうだろう。
『斬人斬馬剣』の代りに『戦闘艦ポチョムキン』ならどうだろう」と書いて、
さらに「何も外国に例をとらなくても」と葉山嘉樹の『海に生くる人々』と並
べて『蟹工船』『不在地主』の名前を挙げている。『斬人斬馬剣』は多喜
二が期待する伊藤大輔監督が時代劇の形を借りて反権力のテーマを試
みた力作だ。

1930(昭和5)年 27歳
1月20日 小説集『不在地主』日本評論社から刊行。1941年6月4日安寧
禁止処分に付された。
※夏衍は「崔若沁」名で、「関于"蟹工船」を『拓荒者』創刊号(1930/1月
号)に掲載した。王任叔(巴人)は、雑誌『現代小説』1月号に「小林多喜
二底『蟹工船』」を掲載した。

評論「宗教について」(『中外日報』1月9日号)
評論「プロレタリア文学の新しい文章に就いて」(『改造』2月号)
「総選挙と『我等の山懸』」(『戦旗』2月号 )
評論「プロレタリア文学の方向に就いて」 (〈1・5〉『読売新聞』1月14、15、
17日号) 
評論「『暴風警戒報』と『救援ニュースNo.18.附録』に就いて」 (〈1・21〉『読
売新聞』2月1日、4日号 

※夏衍は「沈端先」名で、2月発行の『拓荒者』第二期に「小林多喜二的
"一九二八年三月十五日"」

評論「宗教の『急所』は何処にあるか?」〈1・23〉『中外日報』2月2、4、5、
6日号 
評論「『機械の階級性』について」(〈1・23〉『新機械派』(武田暹主宰同人
誌)3月発行第1号)
「プロレタリア短歌について」(感想『新短歌時代』4月号) 
「銀行の話」(〈1・26〉『戦旗』4月号)
前年12月18日に起稿の小説「工場細胞」が2月24日完成。書留小包で
送る。(『改造』4、5、6月号に連載) 

1月30日、「田口の『姉との記憶』」を改作した、小説「同志田口の感傷」
完成。(『週刊朝日』4月春季特別号 永田一脩のカットと挿絵) 

3月『蟹工船』(戦旗社 改訂普及版 装幀大月源二)が発行された。半
年の間に3万5000部を売りつくし、当時としては記録的な発行部数となっ
た。
3
月未、小樽から上京し、東京市外中野町(現中野区)上町に下宿。近在
の橋本英吉、鹿地亘らと親交を深める。作家同盟主催の多喜二歓迎会
が、新宿・白十字で開かれた。
4/6 本郷・仏教会館での作家同盟第2回大会に出席、挨拶。
「同志林房雄」序文(〈4・7〉『鉄窓の花』)
童話「健坊の作文」(〈4・9〉『少年戦旗』5月号 松山文雄挿絵)
白揚社発行『プロレタリア文学』6月創刊号に、評論「プロレタリア・レアリ
ズムと形式」〈4・11〉 

田口タキ、4/10ごろ上京。多喜二と3週間ほど同居。

4月蔵原惟人「『ナップ』芸術家の新しい任務」

・4月、中国・上海で戦旗社版を底本とした『蟹工船』(潘念之中国語訳)
上海大江書鋪が刊行される(国民党政府、ただちに発禁処分)。

「現行映画検閲制度に就いて」(『新興映画』5月号)
「感心した作品・その理由」(『プロレタリア文学』6月号) 
「プロレタリア大衆文学について」(『世界の動き』6月号)
評論「プロレタリア文学の『新しい課題』」(『読売新聞』4月19、22日号) 
評論「『報告文学』其他」(『東京朝日新聞』5月14〜16日号) 
「傲慢な爪立ち」(『時事新報』5月19日号) 
評論「『シナリオ』の武装」(『プロレタリア映画運動の展望』)
小説「市民のために!」(〈5・17〉『文芸春秋』7月増刊・オール読物号 吉
田謙吉挿絵1枚) 

・5月小説『一九二八年三月十五日』(戦旗社)★

夏衍は「沈端先」名で『大衆文芸』第2巻第3期に、沈端先名で「一九二九
年の日本文壇」を書く。
5月20日 共産党シンパ事件で三木清、中野重治、平野義太郎、山田盛
太郎ら検挙

5月、「戦旗」防衛巡回講演のため、江口渙、貴司山治、片岡鉄兵らと京
都(17日)、大阪(18日)、山田(20日)、松阪(21日)をまわった。京都では山
本宣治の遺族を訪ね、墓参。
6月「救援ニュースNo.18.附録」収録、『日本小説集』(6)新潮社

5月23日、大阪で日本共産党へ財政援助の嫌疑で逮捕され2週間拘留さ
れ、拷問を受ける。6月7日いったん釈放された。大阪から6/9付斉藤次
郎宛書簡「ひどい拷問をされた。竹刀で殴ぐられた。柔道でなげられた。
髪の毛が何日もぬけた。何とか科学的取調べを三十分もやらせられ
た」。先に逮捕されていた中野重治を、妻原泉とともに滝野川警察で面
接。24日立野信之方で、立野とともに、ふたたび逮捕された。
7
月4日小説集『工場細胞』を戦旗社から出版。

7月19日、多喜二と山田清三郎(『戦旗』編集長)は、東京区裁判所検
事局によって『蟹工船』の表記が「不敬罪・新聞紙法違反」にあたると起
訴された。
8月21日、治安維持法違反で起訴、豊多摩刑務所に収監された。以後5
ヶ月の未決生活。
 中野重治の妹で、詩人の中野鈴子は留置場から豊多摩刑務所まで毎
日、多喜二への差し入れに奔走する。母セキは多喜二にあてて手紙を
書くため字を覚えようとした。

9/4付「田口瀧子宛書簡」

10月4〜13日、小野宮吉、島公靖脚色「不在地主」(〔4幕11場〕、佐々木
孝丸演出、市村座で東京左翼劇場公演)

11月、ハリコフで開かれた国際革命作家第2回国際会議の日本文学委
員会でも、高い評価を得た。

多喜二は獄中から、志賀直哉に宛てて手紙を出す(12/13)。

11月14日 浜口首相、東京駅で撃たれる。

宮本(当時中條)百合子10月ロシアを立ち帰国。12月作家同盟に加盟。
*米価暴落、農村の困窮深刻化

1931(昭和6)年 28歳
片岡鉄兵「愛情の問題」(『改造』1月号)
★1月『市民のために!』(『戦旗三十六人集』収)改造社、「蟹工船」「不
在地主」「救援ニュースNo.18.附録」



1月22日、保釈出獄。壷井栄らが出迎える。市外杉並区成宗88番地 田
口守治方に下宿。

1月23日、新宿・不二家で宮本百合子たちと会う。
1月23日 松岡洋右代議士が「満蒙生命線」論を主張


25日、「『市民のために!』」収録の『戦旗三十六人集』発売。

同25日、2月発売予定の「『市民のために!』」を収録の改造社版現代日
本文学全集第(62)編『プロレタリア文学集』のため自筆「年譜」。

2月上旬、立野信之釈放。
「工場細胞」の続篇、「オルグ」を起稿。
★2月、ロシアから蔵原惟人帰国。共産党アジプロ部員として活動を始
める。

3月3日「オルグ」ノート稿脱稿。

田口タキにプロポーズするが、その申し出をタキは退ける。

評論「わが方針書」(〈3・10〉『読売新聞』3月24、25、27、28日号)

・3月16日、投獄されている間の家族を支えなくてはならない事情から、
当時作家同盟書記長だった西沢隆二らからすすめられ、「一九二八年
三月十五」以前の作を含んだ小説集『東倶知安行』(新鋭文学叢書)を
改造社から出版。

3月21日 評論集『プロレタリア文学論』(立野信之との共著)天人社から
刊行。

3月中旬、神奈川・七沢温泉に投宿。「オルグ」執筆。4月6日完成させ、
『改造』5月号に発表。

このころ、帰国していた蔵原惟人と連絡。以後、行動をともにする。

同月、「文芸時評」(〈4・8〉『中央公論』5月号)。

小説「壁にはられた写真」(〈4・17〉『ナップ』5月号) 

「壁小説と『短い』短篇小説」(評論〈4・20〉『新興芸術研究(2)』 肉筆原稿
は貴司山治の遺族により日本近代文学館に寄贈)

「小説作法」(〈4・30〉『綜合プロレタリア芸術講座』第2巻)

・5月「蟹工船」(徳永直「太陽のない街」、中野重治「鉄の話」) 改造社
『良き教師』(推薦文『ナップ』6月号)※全文は『総合プロレタリア芸術講
座』パンフレット。
「指導部のセクト化に対する同盟員の不平から怒った作家同盟の内紛
解決のための諸種の会合に出席する。」

5/15「独房」掲載の件で改造社へ行く。

5/24 作家同盟第3回大会に出席。「内紛が解消せざるため、混乱して役
員の選出未了のままに閉会。(貴司年譜)
評論「階級としての農民とプロレタリアート」〈6・5〉『帝国大学新聞』6月8
日発行第388号 

6月8日 多喜二は志賀直哉に書簡。『蟹工船』を送り、「私は自分の仕
事の粗雑になっていることに気付き、全く参っています。」と批評を求め
る。

小説「独房」(〈6・9〉『中央公論』7月号・夏季特集号)

評論「四つの関心」(『読売新聞』6月11、12、13、15日号) 
評論「文戦の打倒について」(〈6・20〉『前線』7・8月合併号)
壁小説「プロレタリアの修身」(『戦旗』6・7月合併号) 

蔵原惟人「プロレタリア芸術運動の組織問題」

夏、蔵原の指導のもとで文化団体の党グループの活動に従事している
手塚英孝と初めてあう。

壁小説「テガミ」(〈6・30〉『中央公論』8月号 )
壁小説「飴玉闘争」(〈7・4〉『三・一五、四・一六公判闘争のために』室順
治の挿絵1枚) 

志賀直哉の多喜二宛書簡「お手紙も『蟹工船』もちゃんと頂いていま
す。」(7月15日)

感想「『一九二八年三月十五日』」(〈7・17〉『若草』9月号)
7月、作家同盟第4回臨時大会が開かれ、第1回執行委員会で常任中央
委員、書記長にえらばれた。東京に居住することに決め、一端帰郷後、
同月末、杉並区馬橋一戸を借り、小樽から母をむかえ、弟と住む。

7月18日 小説集『オルグ』(「独房」収録 戦旗社)

・7月「東倶知安行」収録の『明治大正昭和文学全集』(51)が春陽堂から
発売。

7月「市民のために!」収録(『日本小説集』(7)が新潮社から発売。

夏、はじめて蔵原の指導のもとで文化団体の党グループの活動に従事
している手塚英孝と会う(同年12月検挙、40日拘留)。

ショーロホフ「静かなドン」1・2読む。「悠長な小説を書きたい」。

8月、感想「読ませたい本と読みたい本」(〈8・3〉『戦旗』8・9月合併号) 
志賀直哉からの書簡(8.7)

評論「『静かなるドン』の教訓」(〈8・11〉『国民新聞』8月17、19日号)
「新女性気質」『都新聞』(※同紙は『国民新聞』と1942年合併し、『東京
新聞』となる)8月23日〜10月31日号までの69回連載。大月源二挿絵 単
行本では「安子」と改題。

壁小説「争われない事実」(〈8・17〉『戦旗』9月号) 
「北海道の同志に送る手紙」(〈8・17〉『ナップ』9月号)

★壁小説「七月二十六日の経験」国際無産青年デーのために書かれた
もの。掲載誌は『われら青年』(作家同盟発行パンフレット)。

古川大助のペンネームで、「父帰る」小説『労働新聞』(日本労働組合全
国協議会機関紙9月3日号)

9月6日小林多喜二が群馬・伊勢崎に文芸講演会の講師で来た。講師
陣は事前に検束され、講演会場に集まった満員の聴衆は「多喜二を還
せ!」と伊勢崎警察署に抗議。多喜二等の奪還に成功した。

「文芸時評」(『東京朝日新聞』9月26、27、28、30、10月1日号)

9/15  東京地方裁判所で3・15、4・16事件第一回公判を傍聴。

※9月18日 関東軍による南満州鉄道爆破(柳条湖事件)から満州事変
勃発。

9/20 上野自治会館の第2回「戦旗の夕」で講演、検束される。

※9月 蔵原惟人「芸術的方法についての感想」前半(『ナップ』1931/9
月号 8/2執筆)9月、多喜二は長編「転形期の人々」を書きはじめた。

評論「良き協同者」(『時事新報』10月4日号)

「共産党公判傍聴記」(『文学新聞』10月10日第1号)

10月「壁にはられた写真」収録(『ナップ傑作集』改造社)
10月「戦い」収録(『土地を農民へ』新潮社)
小説「母たち」(〈10・11〉『改造』11月号)

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10月、非合法の日本共産党に入党。

ナップ解散。10月24日、日本プロレタリア文化連盟(コップ)を結成。

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10月末「安子」完成。

11月上旬、潜行して奈良に赴き、志賀直哉をはじめて訪れる。

11/9 帰京して、志賀直哉へ礼状。

11.10色紙「我々の芸術は、飯の食えない人々にとっての料理の本であ
ってはならない。」

壁小説「疵」(〈11・14〉『帝国大学新聞』11月23日第408号 鈴木賢二挿絵)
11/15、作家同盟の拡大中央委員会で芸術協議員に選ばれる。
※「蟹工船」「一九二八年三月十五日」(抄訳)が国際革命作家同盟機
関誌『世界革命文学』ロシア語版第10号に掲載された。前後して、英、ド
イツ・モップル出版所、フランス語版に訳載。『一九二八年三月十五日』
がドイツで出版、発禁処分を受ける。

「十二月の二十何日の話」(『婦人公論』32年1月号)
壁小説「母妹の途」(『サロン』12月号) 
評論「プロ文学新段階への道」(〈11・30〉『読売新聞』11月26、27、12月
1、3日号)

評論「我等の『プロ展』を見る」(『美術新聞』12月25日第2号) 
「コースの変遷」(『新文芸日記』32年版)

「故里の顔」(『女人芸術』32年1月号)

壁小説「級長の願い」(〈12・10〉『東京パック』32年2月号) 
「一九三二年に計画する」(『若草』32年1月号)
「一九三二年への抱負」(『近代生活』32年1月号) 

「監房随筆」(〈12・14〉『アサヒグラフ』32年1月20日号)
『プロレタリア文化』(コップ機関誌)創刊

1932(昭和7)年 29歳
『プロレタリア文学』(作家同盟機関誌)創刊

1月28日 上海で日本の海軍陸戦隊が中国軍と衝突(上海事変始まる)
「文芸時評」(〈1・12〉『時事新報』1月10、11、12、15日号)
「『転形期の人々』の創作にあたって」(『短唱』2月発行第2号) 小説「失業
貨車」 (〈1・17〉『若草』3月号)
評論「『組織活動』と『創作方法』の弁証法」(〈1・21〉『読売新聞』1月27日
号) 
鹿地亘に入党を勧誘。

2月、作家同盟は国際革命作家同盟(モルプ)に加盟。
評論「我々の文章は簡単に適確に」(〈2・7〉『帝国大学新聞』2月29日第
421号) 
「『一九二八年三月十五日』の経験」(〈2・7〉『プロレタリア文学』3月号) 
評論「戦争と文学」(〈2・19〉『東京朝日新聞』3月8〜10日号) 

3/1 「満州国」建国。

小説「転形期の人々」(『ナップ』31年10、11月号」『プロレタリア文学』33
年1〜4月号 )
「転形期の人々」執筆を一時うちきる。
「小林多喜二氏より」(『新潮』3月号)

3月「母たち」収(『年刊日本プロレタリア創作集』作家同盟出版部)
評論「『文学の党派性』確立のために」(『新潮』32年4号)を発表。

3月6日 横浜・神奈川会館での文学講演会で講演する。(『横浜近代史総
合年表』)松田解子、大宅壮一、江口渙らと東京からタクシーで行く。

3月8日、中編小説「沼尻村」を完成させる(『改造』4、5月号)。

前年春、ビラはりなどで知り合った伊藤ふじ子が美術サークルの関係で
出入りする大崎労働者クラブを通じ、「党生活者」の舞台となる五反田の
藤倉工業労働者の臨時工解雇撤回闘争を支援する。藤倉の労働者を
組織するため「小林多喜二の小説の話を聞く会」をひらく。

3月24日から5月にかけて、文化連盟を中心にとして蔵原惟人、中野重
治などの検挙が行われる。作家同盟指導部員の大部分が検挙投獄さ
れる。

多喜二は4月上旬、伊藤ふじ子に紹介されて小石川原町21番地 木崎
方で作家同盟第五回大会報告書準備のため、自家を離れていたため
検挙を免れたため、そのまま地下生活に入り、宮本顕治らと文化運動
の再建に献身した。

評論「第五回大会を前にして」(〈3・10〉『プロレタリア文学』4月号) 
評論「『文学の党派性』確立のために」 (〈3・12〉 『新潮』4月号) 
「文芸時評」(『読売新聞』4月1〜3日号) 
報告「プロレタリア文学運動の当面の諸情勢及びその『立ち遅れ』克服
のために」(『第五回大会議事録』)

4/3 宮本家へ。「四月三日の晩、小林多喜二が来た。そして、中野重治
が戸塚署へ連行されたことを話した。」(宮本百合子「一九三二年の春」)

島崎藤村「夜明け前」第二部(『中央公論』4〜10月号)

『プロレタリア文学』5月号に、評論「『国際プロレタリア文化聯盟』結成に
ついての緊急提案」〈4・9〉

4/16〜8/1 第一期革命競争。
同月中旬、以前から交際のあった伊藤ふじ子と結婚。麻布東町に住
む。
「文芸時評」(『中央公論』6月号)

郷利樹の筆名で「ある老職工」(32年4月23日付『赤旗』 全集未収録)

5/11 作家同盟第5回大会 解散させられる。

『プロレタリア文学』6月号に、評論「暴圧の意義及びそれに対する逆襲
を我々は如何に組織すべきか」 〈5・15〉

岩波書店から『日本資本主義発達史講座』刊行開始

5月26日 コミンテルンが「32年テーゼ」

5・15事件(犬養毅首相暗殺)

6月 文化団体党員グループの責任者になる。
『プロレタリア文学』7月号に、評論「『政治的明確性』の把握の問題に寄
せて」<6.15>
清水賢一郎名「戦争から帰ってきた職工ーー八・一(反戦)デー近づく」
(『赤旗』80号6月25日付、81号7月1日付 全集未収録)

7月 日本反帝同盟の執行委員になる。麻布新綱町にうつる。「文化連盟
中央協議会書記長として伊東継の名にて『コップ』に文化運動の指導的
論文を多数発表。また、『プロレタリア文学』に文学運動の日和見主義
的傾向との闘争に関する多くの論文を書く。一方、党のアジプロ部員とし
て赤旗編集局に参加」(貴司)

1932年7月8日、日本反帝同盟の中央執行委員会が開催され、4月の文
化分野への大弾圧以来、地下活動を余儀なくされていた小林多喜二が
文化連盟から派遣された執行委員として加わった。同執行委員会で検
討された課題は、以下の@八・一国際反戦デーの準備と宣言の発表、
Aゼネヴァ反戦大会への代表派遣とともに、B日本帝国主義の満洲侵
略に反対する諸活動に取り組む、という3項だった。


8月 アムステルダムで文学者の国際反戦大会 

『プロレタリア文化』8月号に、評論「日和見主義の新しき危険性」、「八月
一日に準備せよ!」〈7・11〉

『プロレタリア文化』9月号に、評論「闘争の『全面的』展開の問題に寄せ
て」〈8・14〉

8月25日、小説「党生活者」を完成。『中央公論』は作者が追われている
ことと、その内容から掲載を保留。

8月30日、小説集『沼尻村』を作家同盟出版部で刊行。同年11月4日安
寧禁止処分に付された。

9月下旬、麻布桜田町に一戸建てを借りてうつる。この前後から、林房
雄を代表とする分裂主義的言動への批判に力をそそぐ。

『プロレタリア文化』10月号に、評論「二つの問題について」
『プロレタリア文化』11・12月合併号に、評論「闘争宣言」〈10・24〉
『プロレタリア文学』12月号に、評論「右翼的偏向の諸問題」(3、4、5章)

大森第百銀行事件 
10/30 熱海党集会への弾圧。岩田義道検挙され、11/3虐殺される。

12/9 日比谷公会堂でのハンガリーのバイオリン奏者ヨーゼフ・シゲティ
のコンサートを弟・三吾とともに聴く。

吉祥寺・江口渙宅で、33年5月に上海で開催が予定され(実施は9月とな
った)ている極東反戦会議準備会(出席、江口渙、小林多喜二、小林雄
三、佐々木孝丸ほか)。
『プロレタリア文学』33年1月号に、評論「二つの戦線における闘争」(右
翼的偏向の諸問題第1章)

「蟹工船」が『世界革命文学』ロシア語版第2号に訳載)
『蟹工船』(ロシア語訳)小説(外国語訳)ソ連モップル中央委員会出版所

1933(昭和8)年
1月7日、「地区の人々」を書きあげ、『改造』3月号に発表。このころ伊藤
ふじ子が職場で検挙される。
『プロレタリア文学』2月号に、評論「右翼的偏向の諸問題」(6、7、8、結
び)〈1・10〉
『プロレタリア文化』4月号に、「同志淡徳三郎の見解の批判」(右翼的偏
向の諸問題2章)

1/20隠れ家を襲われ、渋谷区羽沢町国井方にひとりで下宿。

『プロレタリア文化』3月号のため、2月13日、評論「討論終結のために
(右翼的備向の諸問題)」を執筆。
2月20日、正午すぎ、赤坂福吉町で連絡中、詩人で青年同盟幹部の今
村恒夫とともに築地署特高に逮捕され、同署で警視庁特高の拷問によ
り午後7時45分殺さる。検察当局は死因を心臓まひと発表。解剖を妨害
し、22日、馬橋375の自宅での通夜、23日の告別式参会者を総検挙し
た。今村も1936年12月9日、拷問を受けた傷が癒えず死去。

志賀直哉は、多喜二の母・セキに宛て「不自然なる御死去の様子を考え
アンタンたる気持ちになりました」(2.24)と、香典と弔文を出す。

「為横死之小林遺族募損啓」
魯迅の弔詞=同志小林ノ死ヲ聞イテ 

当時26歳の手塚英孝「一労働者」名で、『大衆の友』多喜二記念号外
(1933・3・10)に「同志小林多喜二を憶う」。――「同志小林は、実に断乎
とした撓むことを知らぬ、溢るるばかりの戦闘的熱意とを持った真にボ
ルシェビーキー典型だった。/私が彼に初めて会ったのは一年許り前で
ある。実を云うと私はこの勝れた人物を想像して何か堂々とした紳士
(?)を思い浮べていたのであるが、会ってみると彼は丸切り予想とは違
った小男だった。私は初めは人違いではないかと思ったが、直ぐその事
を話して大笑いをした。」「同志小林は既に居らぬ。併し彼の偉業、彼の
流した血は、幾千万の労働者、農民の血潮となり、プロレタリアの旗にな
るであろう。」と結ぶ。


3/15『赤旗』藤倉工業女工マツの手記。「同志小林多喜二の虐殺に際し
て」

3/27 国際連盟から日本脱退。

・『日本プロレタリア文学集』(国際出版所 33年)。Kobayashi Takiji. The 
Cannery Boat (and Other Japanese Short Stories). Translation 
anonymous. New York: New York International Publishers、 1933.

「地区の人々」(『改造』3月号)106枚のうち、削除と伏字は約180ヶ所、2、
200字。出版予告広告は、多喜二が虐殺される直前に掲載された。

・「討論終結のために」を、『プロレタリア文化』3月号に遺稿として掲載。 
3月15日、労農葬が築地小劇場でおこなわれた。労農葬を記念して『日
和見主義に対する闘争(小林多喜二論文集)』(日本プロレタリア文化連
盟出版部 4月 岩松淳装丁)が出版される。『赤旗』『無産青年』『大衆の
友』『文学新聞』『演劇新開』『プロレタリア文化』『プロレタリア文学』は追
悼と抗議の特集号を発行した。ロマン・ロラン、魯迅をはじめ、内外から
多数の抗議と弔文がよせられた。3月、築地小劇場で新築地劇団により
追悼公演「沼尻村」が上演された。

『中央公論』は、「党生活者」を、貴司山治、立野信之と協議し、多喜二
の遺作として「転換時代」の仮題で4、5月号に発表。削除・伏字は758ヶ
所、約14,000字の多さで、痛々しい姿だった。(「党生活者」原稿は焼失と
つたえられる)

33年に・板垣鷹穂「古い手紙―小林多喜二氏のこと―」(『新潮』4月号)
・宮本百合子「同志小林の業績の評価に寄せて−四月の二三の作品
―」(『文学新聞』3月15日)

・宮本百合子「同志小林の業績の評価に寄せて」(『プロレタリア文化』4
月号)
・宮本百合子「同志小林の業績の評価によせて――四月の二三の作品
――」(「国民新聞』4/6、8〜10)

・3月『不在地主、オルグ』(改造文庫)

・4月『蟹工船、不在地主』(新潮文庫) 

4月『小林多喜二全集 第2巻』(作家同盟出版部 国際書院発売)
夏から秋にかけて全集刊行委員会に基金・前金に300円が集まったが、
刊行は不可能だった。宮本百合子は大熊信行に募金のお願いの手紙
を出した(現在小樽文学館蔵)。

楼適夷は胡風とともに、日本での極東反戦会議に中国代表として参加し
たものの、同会には中国代表者しか集まらなかったので、準備会扱いと
なった。江口渙と懇談したのち、ただちに帰国。

・5月小説集『地区の人々』改造社

・5月小説集『転形期の人々』(国際書院) 
5月小説集『蟹工船、工場細胞』(改造文庫)

「転形期の人々・断稿」(『改造』6月号)

多喜二を虐殺した後、渋谷区羽沢のアジトに特高が踏み込み、捜査資
料として多喜二の大事なトランクを押収した。そのトランクに残されてい
たのがこの「転形期の人々・断稿」49枚の原稿。
コップ党組の責任者、池田寿夫は、胡風から中国左翼文総名で電報を
打ち、日本政府への抗議と哀悼の意を示すことを提案された。電文は
『プロレタリア文化』に掲載された。
・『文学新聞』(6月11日付)宮本百合子「小説の読みどころ」

6月、志賀直哉は『文化集団』創刊号に「小林多喜二君と作品」と題し、
多喜二宛て書簡2通と、母セキへの弔文を掲載。

『プロレタリア文化』(6.7合併号)は「大衆の手による『小林多喜二全集刊
行』を提唱す」。文化連盟書記局8/20「小林全集刊行カムパの意義とコ
ップ各同の任務」にもとづく刊行は、編纂者のあいつぐ検挙と文化連盟
内部の保身的潮流のための混乱から、一巻のみで続刊不能。

6月7日 共産党幹部の佐野学、鍋山貞親が獄中で転向声明。

8月 広津和郎「風雨強かるべし」

8/25 日比谷市制会館で、「極東平和の友の会」(佐々木孝丸議長)創立
大会。

9月21日、宮沢賢治死去。

9月小説集『転形期の人々』(改造社) 

9月30日 上海で極東反帝反戦反ファシズム大会。日本代表参加。

「蟹工船、一九二八年三月十五日」(『世界革命文学日本編』収、ロシア
語訳)小説(外国語訳) 国立芸術文学出版所 

「蟹工船、一九二八年三月十五日」(『世界革命文学日本編』収、ロシア
語訳)小説(外国語訳) ウクラインシキーロビートニク出版所(ハリコフ) 

小説集『蟹工船』(一九二八年三月十五日、『市民のために!』収、日本
短編集、英訳)(外国語訳)インターナショナル出版社(ニューヨーク)、マ
ーティン・ロレンス社(ロンドン)

・『プロレタリア文学』(33/10)「小林多喜二全集刊行会広告」 全10巻を
予定。「この全集の内容は最も完全を期」す計画。二度目の試み。
1963(昭和38)年
・『言語と文芸』.(63.10)= 伊藤信吉、恩田逸夫、北川冬彦、分銅惇作(座
談会)「宮沢賢治と小林多喜二をめぐって」
・楼適夷は「重読『一九二八年三月十五日』―記念小林多喜二殉難三
十周年』(『文芸報』63年3月)
1934(昭和9)年
2月19日 共産党中央委員野呂栄太郎が品川署の留置場で拷問され殺
される。
日本プロレタリア作家同盟解散声明。
5月 村山知義「白夜」、本庄睦男「白い壁」、窪川稲子「恐怖」、川端康
成「文学的自叙伝」 

芥川賞・直木賞設定。

『新潮』編集者・楢崎勤宛1929年11月4日付書簡(『文芸通信』 10月号 
初出)

1935(昭和10)年

転向文学流行。中村光夫「転向作家論」

志賀直哉は貴司山治のインタビューに答え多喜二の文学と人間を語る
(「志賀直哉氏の文学縦横談」)「多喜二君の作品」を収録。

1935年1月15日、貴司山治は中野重治とナウカ社に出向き、大竹社主と
面談。多喜二全集を小説のみ3巻で出すこと。一冊650ページ程度。4/6
版 1円50銭、初版1000部、印税1割。刊行会への申し込み200名、一人
につき第1冊と第2冊を1円20銭に割り引くことなどを決め、その編集に佐
野順一郎を当たらせる。(以上 貴司山治日記より)



・3月『小林多喜二全集』(第1巻 ナウカ社) =第1巻 蟹工船 他25篇

4月宮本百合子「乳房」5月中野重治「村の家」7月25日 モスクワで第7
回コミンテルン大会開催。人民戦線を戦術に採択

・5月『小林多喜二全集』(第2巻 ナウカ社)=不在地主、工場細胞、オル
グ、安子 
・6月『小林多喜二全集』(第3巻 ナウカ社) =×生活者、地区の人々、沼
尻村、転形期の人々、一九二八年三月十五日」

「党生活者」は、『中央公論』の校正刷りを底本として、伏字を復元した完
全な校正刷りを数部つくり、別々の場所に分けて保存した。その一部は
中野重治にわたり、現在小樽文学館に保存されている。4部作成された
『中央公論』の校正刷りの1部は徳永家蔵。

・8月『小林多喜二書簡集』(ナウカ社 35年)=付録・年譜
※貴司山治の回想「一九三五年に、私は幸い又自由をとりもどしたの
で、一存でやはりこの『党委託』の仕事をつづけることにきめ、ナウカ社
を発行所として、小林多喜二全集を小説だけ三冊、論文はどうしても出
せそうもないのでのこし、代わりに書簡集、日記各一冊を編さんして、合
計五冊を刊行した。この発行部数合計約二万である。」(「『小林多喜二
全集』の歴史)『小林多喜二全集月報3』(1949/6)

モスクワに滞在中の土方与志、佐野碩編集の日本語版『一九二八年三
月十五日』『蟹工船』『戦い』『飴玉闘争』『壁に貼られた写真』『沼尻村』
がモスクワ外国労働者出版所で出版された。

『社会評論』(ナウカ社3月)創刊号に、「ある役割」再録。

多喜二とともに捕らえられ拷問を受け左足に重い障害を負っていた今村
恒夫はさらに肺・腎臓・膀胱結核を併発、病状悪化により1935年執行停
止で出獄。一時、中野重治宅に身を寄せていたが、本田延三郎に付き
添われて、郷里、熊本・千手村に帰郷。1936年12月9日死去。26歳。


宮本百合子『冬を越す蕾』


1936 (昭和11) 年
斎藤次郎編『小林多喜二日記補遺』(ナウカ社4月) ※日記は、個人的部
分がかなり省略されている。「人を殺す犬」を全集補遺として収載。

★文芸懇話会(松本学主宰) 物故文学者慰霊祭で多喜二を排除する。

2月 北条民雄「いのちの初夜」

『人民文庫』創刊 
2月26日 皇道派青年将校が挙兵し、斉藤実内大臣、高橋是蔵相らを
殺害(2.26事件)東京で戒厳令布告

・『文学案内』(36年2月)中野重治「『党生活者』の中から」

志賀直哉の創作集『萬暦赤繪』に「小林多喜二への手紙」を収録。

・『小林多喜二日記』(ナウカ社 36年)= 日記1926年-1928年初. 小林多喜
二書簡集(補遺) 斎藤次郎への手紙、雨宮庸蔵への手紙、佐藤績への
手紙、 小説「人を殺す犬」

・『文学評論』(36/4) 手塚の手紙が窪川によって公表される。

「小林多喜二日記」(『中央公論』3月号)
『小林多喜二日記』(ナウカ社)

・5月 普及版『小林多喜二全集』(第3巻 ナウカ社) =×生活者、地区の
人々、沼尻村、転形期の人々、一九二八年三月十五日」


1937(昭和12)年
7月7日 蘆溝橋事件から 日中全面戦争突入 

4月 志賀直哉「暗夜行路(終章)」


8月 伊藤整「幽鬼の街」

年末、中野重治、宮本百合子、戸坂潤らは内務省から執筆禁止処分受
ける。

9月25日 『蟹工船・不在地主』(新潮文庫)30版。

1938(昭和13) 年
月3日 岡田嘉子、杉本良吉とソ連へ亡命

3月石川達三「生きている兵隊」(「中央公論」発禁)

『小林多喜二短編集』(蟹工船、工場細胞、オルグ、沼尻村)国立芸術文
学出版所
(レニングラード 38年)

・長尾桃郎編『小林多喜二随想集』(書物展望社 38年)

8月 火野葦平「麦と兵隊」4月、国家総動員法。

文士の従軍さかん1939(昭和14)年7月、国民徴用令。

※11月29日「唯研事件」(「唯物論研究会関係者治安維持法違反被告
事件」)。29日早朝、雑誌『唯物論研究』改め『学芸』にかかわる主要メ
ンバーが一斉検挙されたことに始まる弾圧。このときとその前後に検挙
されたのは、岡邦雄、戸坂潤、永田広志、森宏一(本名、杉原圭三)、伊
藤至郎、伊豆公夫(赤羽寿)、武田武志(沼田秀郷)、服部之総、信夫清
三郎、古在由重ら30余人、映画「母べえ」のモデルとなった新島繁(野
上巌)もその一人。「唯研事件」は、40年1月の第2次一斉検挙(本多修
郎、今野武雄、岩崎昶ら12人)、さらに2、3千部発行されていた雑誌の
購読者にまで数年にわたって追及がつづき、検挙者は総数100人余と
もいわれ、完全にはつかまれていない。唯物論研究会は、30年代のは
じめに科学的社会主義にもとづく文化運動がはげしく弾圧・解体されて
いったとき、唯物論の学問的研究のための幅広い研究団体をめざし32
年10月に結成された。発起人には長谷川如是閑、三枝博音、羽仁五
郎、舩山信一、大塚金之助、住谷悦治ら40人が名を連ねた。月刊誌
『唯物論研究』を発行、『唯物論全書』を出版、研究・講演会をひらくなど
したが、弾圧が必至となった38年2月、会の解散を決議、雑誌名を『学
芸』に変えた。37年7月、日中全面戦争に突入する段階になると、リベ
ラル派、左翼運動の生き残り部分など文字どおりいっさいの進歩的な言
論と運動の圧殺をはかる。事件はこういう状況下でつくりあげられた。裁
判では「…日本共産党ノ目的達成ニ寄与…支援スルコトヲ目的トスル唯
物論研究会ナル結社ヲ組織シ」(控訴審判決)とこじつけ、44年4月、戸
坂、岡に懲役3年、永田に同2年半、森、新島、伊豆、伊藤に同2年の
刑が確定した。戸坂は45年8月9日、長野刑務所で、栄養失調で疥癬
をやみ腎臓を悪化させ獄死。永田、伊藤も獄中の虐待がもとで戦後間も
なく死にました。この事件とは別に三木清は45年、治安維持法違反の
被疑者高倉テルをかくまったとして、豊多摩刑務所に収監され、終戦一
カ月後9月26日、戸坂と同じく疥癬と腎臓悪化で獄死した。

1939(昭和14)年
新潮文庫の『蟹工船・不在地主』45版がでている。しかし伏せ字が多く意
味がとりづらいところがたくさん。
「毎年の例、漁期が終りさうになると、蟹罐詰の『×××』を作ることにな
ってゐた。何時でも、別に××××××××」わけでもなかつた。その
度に、漁夫達は監督をひどい事をするものだ、と思つて来た。―××、
××××××××××××。『××××××××××××××××
×作るものだ。フン、×××××こつたろ。』


1940(昭和15)年紀元2600年行事盛ん。
内務省図書課・警視庁検閲課による出版統制強化。5月 文藝家協会
主催の文藝銃後運動の講演会始まる。

1941(昭和16) 年
太平洋戦争始まる。1月8日 東条英機陸相が「戦陣訓」通達

6月 弟・三吾と浩子結婚。浩子の兄は小樽高商の多喜二の後輩。

12月8日 日本軍の真珠湾奇襲・マレー半島上陸、太平洋戦争始まる。


1943(昭和18)年
『金沙』小林多喜二没後10周年記念特集 鹿地亘「死の日の記録」掲
載。
「欲しがりません勝つまでは」のスローガンが流行。4月18日 アメリカ軍
が東京を初空襲 5月文学報国会結成。シンガポール陥落。

1944(昭和19)年
横浜事件(『中央公論』『改造』などの編集者逮捕)。戦時下の特別高等
警察(特高)が引き起こした大規模な言論弾圧事件。評論家の細川嘉六
氏(戦後、日本共産党参院議員)が雑誌『改造』1942年8月・9月号に
執筆した論文が共産主義の宣伝にあたるなどとして、特高が同氏を検
挙。同氏が富山県で開いた宴会を「共産党の再建準備」などとでっち上
げ、出席した研究者や編集者約60人が治安維持法違反容疑で逮捕さ
れました。このうち拷問などで4人が死亡、30数人が起訴され、終戦後
の45年9月ごろにかけて有罪判決を受けた。

10月25日 神風特攻隊編成。南京で第3回大東亜文学者大会。

※『現地調査書』(昭和19年度)と印刷された報告書。発行は日魯漁業>
内容は操業報告とは無関係のカムチャツカとその近海の現状報告。海
岸や陸地の状況のほか、兵力配置・防備施設・軍の内情・ソビエト軍艦
艇の行動などが、詳細をきわめた統計表や地形図とともに記されてい
る。「帝国哨戒艦(駆潜艇)ソ領海内ニ入リ沈没セル邦船神明丸付近ニ
至リ再ビ公海ニ出タルヲ隊長発見シ之ニ追跡セントセルガ当方ノ妨害ニ
遇ヒ追跡ヲ断念」 という記述や、ソビエト側の 「日本護送船(七〇噸
級)ソ連領海一・八浬ニ侵入約一〇分間領海内ニアリ、該船ハ機銃二
門ヲ装ス。本日海上静穏視界三〇浬」といった記録。『蟹工船』(小林多
喜二)の記述「この辺の海、北樺太、千島の付近まで詳細に測量したり
気候を調べたりする」のが日本の「大目的」なのだを実証。



1945 (昭和20) 年
4月、同盟通信社記者・蒔田栄一が保管してきた多喜二書簡約100通を
焼く。
5月東京の小林三吾宅が空襲で被災。多喜二の残した資料を焼失。大
竹博吉保管原稿も焼失。


※8/15 大日本帝国政府、連合軍に無条件降伏。文学報国会解散 10
/15 治安維持法撤廃

・『朝日新聞』(45/10/16)江口渙「多喜二は虐殺された」

12月 宮本百合子「歌声よおこれ」、

新日本文学会結成 



1946(昭和21) 年
1月1日 昭和天皇の「人間宣言」

1月4日 GHQによる軍国主義者などの公職追放令 

2月、小樽で「多喜二追悼の夕べ」 多喜二水彩画出品(『北海道新聞』
46/2/20付)
宮本百合子「今日の生命」『文学時標』第4号46/3/1)
・平野謙「ひとつの反措定」『新生活』(4〜5月号)
・『一九二八年三月十五日・党生活者』(新興出版社 5月 解説・壺井繁
治)「党生活者」は、『中央公論』の校正刷りを底本とした初の復元テキス
ト。

・『新日本文学』(46年7月号)中野重治「批評の人間性」

・小田切秀雄「小林多喜二問題―『党生活者』をめぐって―」(10月)

・江口渙『作家小林多喜二の死』(書房ロゴス)

・日本共産党北海道地方委員会宣伝部編『小林多喜二著作集』(全3巻
 創建社書房 46.3) 

1947年 (昭和22) 年
民衆書房『党生活者』 ※1933年全集刊行委員会作成の紙型による。

2月、小林多喜二記念の集い(早稲田大学)
手塚英孝は、共産党本部勤務員を辞職し、『小林多喜二全集』編纂に専
心することになる。
6/19『アカハタ』で、小林多喜二全集刊行委員会が「防雪林」のノート原
稿を発見したことを紹介。『社会評論』(ナウカ社 11・12月合併号、48/1
月号に分載)
・伊藤整「小林多喜二の思い出」(『風雪』10月号)
・宮本顕治「小林多喜二の回想」(『前衛』16号)
・手塚英孝「小林多喜二の原稿帳」(『新日本文学』10月号)

1948(昭和23) 年
「監獄部屋」(『労働評論』1月号)
・蔵原惟人、中野重治編『小林多喜二研究』(解放社)年譜・作品年表・
参考資料(小田切 進)
・岩郷義雄「小林多喜二の最期を回想して」(『民主評論』 48年2月)
小説「雪の夜」(『文学時標』48年4月発行第2号)1927年1月2日〜21日執
筆のまま、原稿帳に残され未発表のままとされた作。
・『小林多喜二全集 第2巻』(新日本文学会編 日本評論社発売 9月)
から刊行。全11巻、伝記、研究、別冊2巻の予定で刊行されたが、第9巻
(1949年6月)で中断された。

・手塚英孝「小林多喜二の文学―防雪林について」(『文学』8月号)
勝本清一郎の手で、もとの第一銀行本店の地下室の貸し金庫に保存さ
れていた「一九二八年三月十五日」の原稿は、20年後の1948年第二巻
の底本となった。


「ある改札係」『芸術』(8月号 解説窪川鶴次郎) この原稿は戦争中の
1944年に、軍部の圧迫で改造社が解散させられたとき、原稿類の焼却
の場に偶然いきあわせた西条憲六に発見され、宮城県石巻市の同家に
保存されていたもの。同原稿には、「懸賞短編小説原稿」と記入があり、
作者紹介が添えられていた。しかし執筆年月日などはなく、詳細は明ら
かではない。

川並秀雄編『小林多喜二作品集』(大雅堂)


1949(昭和24)年
第3回 多喜二祭(神田 共立講堂)
※壺井栄「袖ふりあう」(『群像』11巻9号 昭和三一.九.一)に記録あ
り。

『小林多喜二全集』(新日本文学会) 刊行が順調に進み8冊を出したとこ
ろで、版元が変わる。当時のアメリカ軍占領軍が、日本の「民主化政策」
から、日本をアジアの゛反共の砦゛にするという政策へと転換し、日本共
産党員のレッドパージが出版界にも波及し、日本評論社編集局長が追
放されたことによる。全集刊行は一時中断した。
初公開「その出発を出発した女」
・立野 信之「小林多喜二―その時代と人間の影像」(『文芸』11、12月号)


1950年 (昭和25) 年
・『新日本文学』(50/2) 座談会小林セキ、小林三吾、江口渙ほか「小林
多喜二の死とその前後」

1951年 (昭和26)年
※51年6月 「多喜二・百合子研究会」結成。
手塚 英孝「小林多喜二未発表書簡-16通-」(『新日本文学』6月号)
ヴラスタ・ヒルスカ(プラーグ大学日本語科主任教授)訳 『蟹工船』(チェ
コ語、人民図書館)


1952(昭和27)年
没後20周年『多喜二と百合子』の刊行 
8月、富士書房から日本評論社版を底本に『小林多喜二全集』(全9巻)再
刊。
・『小林多喜二全集』(文庫判全12巻 青木書店 12月)第9巻までは日本
評論社版全集の再刊。第9巻に「闘争宣言」を新しく収載。10巻に日記、
小説補遺、11巻に書簡集。12巻に詩、(小品、小説補遺、評論補遺)の3
巻を加え、全集完結。編纂、解題者は日本評論社版と同じ。


1953年 (昭和28)年
多喜二32年8月22日付「小林家のものへ」(32/12/12京橋局消印)発見
(中野重治「新しく発見された多喜二の通信」)
※映画=多喜二原作 山村聡監督「蟹工船」(独立プロ 1953 9/20
 北星系公開)
手塚英孝「未発表 小林多喜二より志賀直哉への手紙」(『文庫』 岩波書
店12月号)


1954年 (昭和29)年
2月 手塚英孝「多喜二全集の完成」
・多喜二・百合子研究会『年刊多喜二・百合子研究第1集』(河出書房 54
年)
青木書店版『小林多喜二全集』。第9巻までは日本評論社版全集の再
刊。新たに3巻を加える。


1955年 (昭和30)年
・『日本文学アルバム小林多喜二』(筑摩書房 55年)
・多喜二・百合子研究会『年刊多喜二・百合子研究第2集』(河出書房 55
年)= 初期改作過程に示唆されるもの(小原元) 「転形期の人々」につい
ての断片的感想(壷井繁治) 「一九二八年三月十五日」の描写について
(金達寿) 「党生活者」をめぐっての感想(西野辰吉) 一つの疑問(佐藤静
夫) 多喜二を越え百合子を越え(中島健蔵)


1958(昭和33)年
小林多喜二没後25周年
2月、手塚英孝は、評伝『小林多喜二』(筑摩書房)を刊行。
多喜二没後25周年NHKラジオ番組「多喜二を偲ぶ」。
・『小林多喜二読本』(多喜二・百合子研究会.三一書房、三一新書)= 付:
小林多喜二研究主要文献目録
・『多喜二と百合子』(58.7) 小林 セキ 他「小林多喜二をしのぶ」
・布野栄一「小林多喜二の遺稿断片 「防雪林」(改作)/「一九二八年村
月十五日」(九章の一部及び十章エピローグ」)資料小考」(『文学』第26巻
9号 岩波書店 10月)
『小林多喜二全集 第1巻』(かすが書房)
楼適夷「傑出的革命作家和戦士」(『人民日報』)


1959(昭和34)年
・『小林多喜二全集 第1巻』(世界名作文庫)(全5巻 小林多喜二全集編
集委員会.青木書店 59)文庫判全集の合本。著作年譜、「防雪林」ノート
断稿、書簡1通を追加。

※一九〇五年の第一次ロシア革命の挿話を映画化したセルゲイ・エイ
ゼンシュテインの名作映画(一九二五年)『戦艦ポチョムキン』(日本には
1926年に一度横浜税関にまで到着しながら、当時の天皇制映画検閲に
よって輸入そのものを禁止され、ソビエト本国に送り返された)は、1959
年2月の非劇場自主上映開始。

1960(昭和35)年
・『多喜二と百合子』(10月号) 卞立 強「小林多喜二論」
10月、小林セキ日本共産党に入党。


1961(昭和36)年
※小林セキ死去(5/10)。88歳。
小樽商科大学図書館で、多喜二が書き込みをしたクロポトキン『青年に
訴る』第十章翻訳・書き込みが発見される。




1964年(昭和39)年
・小樽商科大学同窓会誌『緑丘』小林多喜二特集(小樽商科大学同窓会
緑丘会大阪支部)
「こう変わっているのだ」『位置』(4月号 翻刻・解題大炊絶)


1965(昭和40)年
中野重治、北京・魯迅博物館で魯迅ら「為横死之小林遺族募金啓」(★)
を発見。


1966(昭和41)年
大炊絶「翻刻・『今は昔』『詩の公式』(小林多喜二)」(『位置』 11月)


1968(昭和43)年
土井大助「『蟹工船』の原稿みつかる」『赤旗』2/7付
3月 川並秀雄保存の「転形期の人々 断稿」「地区の人々」原稿が発見
された。
・浦西和彦「葉山喜樹宛小林多喜二島木健作未発表書簡」(『国文学』
(関西大学 3月)
全集編纂委員会編『定本小林多喜二全集』(新書判 全15巻 解題・注
手塚英孝)は、青木書店版につづく戦後2番目の多喜二全集として完結。
1968年1月から刊行され、69年12月全15巻を刊行し、完結した。第15巻
が「多喜二研究」に充てられた。志賀直哉、推薦の言葉を寄せる。補遺・
「龍介と乞食」、8刷までに評論「無鉄砲過ぎる期待だろうか?」、書簡5通
を追加。
尾崎一雄「あの日この日」(『群像』)多喜二の志賀直哉訪問の時期を特
定。
・山下秀之助「『新樹』『クラルテ』『原始林』―小林多喜二のこと」(『文化
評論』 4月号)


1970(昭和45)年
・『小林多喜二読本』(啓隆閣 70年)=小林多喜二とのこと(島田正策) 
「クラルテ」時代(武田暹) 小林多喜二小伝(手塚英孝) 年譜(手塚英孝) 
主要参考文献目録(小林茂夫) 

・手塚英孝『小林多喜二』(新日本出版社 初版71定稿73年)
・手塚英孝「<寄託資料紹介>葉山嘉樹の書簡と小林多喜二「蟹工船」
の原稿」(『日本近代文学館』 9月)



1972(昭和47)年
・蒔田栄一「小林多喜二と英文学」(『英学史研究』4月)
布野栄一「資料翻刻及び解題ーーある病気のお話」(『国語国文研究』第
50号 北海道大学国文学会 10月)

11/15 妹・幸田ツギ死去。
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