平井骸惚此中ニ有リ〜黒猫は白い このページ上の文章は転載引用など一切を禁じます。
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ぽつりぽつりと、降り始め。
ざあざあざあざあ、鳴き出して。
どんより分厚い雨雲で。
いったい幾日、お天道様を拝んでいないのかも忘れてしまう雨模様でございます。
大正十二年は梅雨の季節。
東京市十五區は外れの方。坂の町の上の方。
雑木林を背負った日本家屋がございまして。架かる表札には『平井』の字。
その家の二階の一室、四畳半。だらしなくも、大口を開けて昼寝をしている一人の青年が居りまして。彼氏の名を河上太一。
年齢は十九で、エリートの象徴たる、東京帝國大學の学生ではございますが。実年齢を言っても誰にも信じてもらえぬ童顔、背丈も五尺(約一五二センチ)で青年と云うより少年か、と言った具合で。
その上、何を血迷ったのか、この家の主人に弟子入りをして、居候を決め込む書生でございます。
サテ、夢に現のその河上君に何処からともなく聞こえてくる嫌な音。
びりびりびりりと、耳障り。
寝ぼけ眼の河上君が、面倒そうに目を開いて見てみれば。一匹の猫の姿がございまして。
一点の曇りもないほど漆黒のその毛並み。異常なほどに吊り上がったその目付き。一目見ただけでゾクリと寒気を催してしまいそうな、紛うことなき黒猫で。
その黒猫が一冊の本を喰い千切っていたのでございまして。
それを見る見る河上君。眠気も何処へと吹き飛んで。
「なッ!? なにィィィィィィィっ!?」
大声叫んで、身を起こし。慌てて本へと近寄って。黒猫を払いのけると、本を胸へと抱え込んだのでございます。
ところが時既に遅しとはこの事で。
「『無慘』が……。小生の『無慘』がァ……」
彼氏の云う『無慘』とは、主に翻訳者として日本探偵小説界に多大な貢献をされた黒岩涙香先生が、明治の二十二年に発表された、創作探偵小説で。勿論、日本探偵小説史を語る上でも貴重な逸品で。その逸品が正に見るも無惨なお姿で。
嘆き悲しむのも無理からぬこと。
そして、怒り狂うのも無理からぬこと。
「お、おのれェ――!」
熱り立って河上君。この所業の犯人を視線で追ってはみるものの。黒猫は開いた襖の隙間から、スルリと逃げ出してしまっておりまして。
「ま、待てッ! このクソ猫がァ!」
立ち上がって追いかけて。ドタドタ床を鳴らしては、階下へと降りてゆく河上君。
そんな時、彼氏を呼ぶ一言が。
「――太一っ!」
「オヤ、涼さん。お帰りで」
河上君を呼んだのは、平井家のご息女、涼嬢で。
束髪くずしのお下げ髪。矢飛白、袴に大きなリボン。見事なくらいの《はいからさん》の女学生。丸顔、二重の美少女で。
ところが涼嬢は、その美貌が台無しになる程、怒りに顔を歪めておいででありまして。
「あンた、あの猫を見なかった?」
「あの猫と言うと、まさか……」
「そう、その猫よ!」
言いながら、体を震わせる涼嬢の手の中には、なにやらボロボロになった布キレが。
「あのバカ猫、わたしのお気に入りのリボンをこんな風にしちゃったのよっ!」
「分かる。よぉ〜ッく分かりますとも。小生も、大事な『無慘』を台無しにされたところなンだよ。――一階に下りてきたはずなンだけどね」
そんなお二人方の耳に届く猫の声。声のしたのはお茶の間、八畳で。
「そぉこかぁっ!」
鋭く首を巡らし、涼嬢が。バシンと襖を開け放ち。ズカズカ部屋へと入っておいで。
その余りの剣幕は、今の今まで同じ怒りを覚えていた河上君でさえ、思わず及び腰になってしまうほどでありまして。
一方、元凶たる黒猫は呑気に丸まり、欠伸なんぞをあげているではありませんか。
おまけに少女の膝の上。
「――溌子。いい子だから、その猫を姉様にお渡しなさい?」
ぎこちない笑みを浮かべながら、そう言う涼嬢を不安そうに見上げる、こちらの少女。平井家の下のご令嬢で、名を溌子。
御年十の未だ幼嬢ではございますが、涼嬢にもよく似た美貌の持ち主で。とはいえ、線は細く、色白病弱そう。声の響きも弱々しく。
「……いやです。だって姉様、ポオさんにひどいことをなさるおつもりなのでしょう?」
《ポオ》とは、こちらのご主人が名付けた、この黒猫の名前でございまして。
「ひどいことをなさったのは、その猫の方よ。このリボンが証拠なんですからね!」
と涼嬢が鼻息も荒く捲し立てれば、
「その通りだよ、溌子ちゃん。小生も大事な本を喰い破られてしまったンだからね。謂わばこれは躾というヤツだよ」
河上君も加わって。
「……兄様、そんな。でも……」
内気で弱気な溌子嬢。どうにも言葉が続けられませんで。
そんな折り――。
「いい加減にしないか、二人とも」
溜息まじりの呆れ声。声の主はこちらのご主人。
六尺(約一八二センチ)の長身、飛白の着物に身を包み。ロイド眼鏡に銜え煙草の紙巻きで。
涼嬢、溌子嬢のご父君で。河上君が師と仰ぐ探偵作家の先生で。
――その名も平井骸惚。
「二人してつまらない事を言って、溌子を困らせているんじゃあない」
「だって、父様――!」
「そうですよ、骸惚先生。この猫ときたら、小生の『無慘』を台無しにしやがったンですヨ!?」
抗議の声をあげる涼嬢と河上君。ところが骸惚先生、一向取り合わず。
「そもそもは君たちの迂闊さが原因なのだろうが。どうせ河上君は昼寝でもしていたのだろうし、涼だって、そんなに大事なものならしっかりと締まっておけばよかったんじゃあないか」
骸惚先生の見事なご指摘に、思わず《うっ》と口籠もる河上君と涼嬢で。
骸惚先生、そんな二人の様子にニンマリ笑みを浮かべては。
「言っておくが、僕はポオに大事な物を喰い破られたことなんてないよ。自分の愚かさを棚にあげて、ポオに当たるなんざお門違いもいいところさ」
続けざまの口撃に、ついに意気消沈の河上君と涼嬢でございます。
「そ、それにしたってあんまりですよ、骸惚先生。第一、なんだって、よりによって《ポオ》だなンて名前をお付けになるンです」
「おや、気に入らないのかい? 僕はこれほどこいつに似合った名はないと思っているのだがね。僕はこれほど見事な黒猫を他に知らないし、『黒猫』と言えばポオだろう」
ポオとは勿論、《文章の錬金術師》とまで詠われたエドガー・アラン・ポオの事でございまして。『黒猫』は、そのポオ先生がお書きになられた傑作の一編でございます。
「それは、そうなンですが……」
骸惚先生の仰るところを理解はできても、この憎き黒猫を、《探偵小説の父》とまで呼ばれる偉大なる探偵作家の名で呼ばなくてはならないところに、複雑な思いを抱いている、探偵作家志望の河上君でございました。
*
長雨もチョイトばかりの小休止。
とは言え、雲は重たく、空気もなにやらじっとりで。
どうやら梅雨の季節、不快な天気が続くのは、平成も大正も同様らしく。
あれから数日、お仕事中の骸惚先生の書斎を訪ねた河上君。
「骸惚先生。『無慘』をお借りできますか?」
『無慘』をポオに台無しにされた河上君。勿論、貧乏書生の彼氏に新たな本を手に入れられる余裕があるはずもなく、骸惚先生にお借りすることに決めたわけでございまして。
「涙香の『無慘』かい? ――持っていたはずだが、ここじゃあないな。裏庭の土蔵を探してみたまえ」
「土蔵ですね? ありがとうございます」
雑木林を背負った平井宅。家屋と林の隙間には、小さな庭。とは云え、庭と云うにはあまりに些細なものでございまして。目立つものと云ったら、小さな家庭菜園に、これまた小さな蔵一つ。書斎に収まりきらない骸惚先生の蔵書を収めておく土蔵でございます。
骸惚先生の言葉に従って。裏庭に赴いた河上君。すると、菜園には涼嬢のお姿が。
「オヤ? 涼さん」
「――太一? どうかしたの?」
「いや、小生は土蔵に用事が。――涼さんはお野菜ですか? と言うことは、今夜は涼さんのお料理で……?」
この年まで十五年余り。料理をしたことがなかった涼嬢ではございますが、何を思ったか一念発起。このところ料理に精を出す様になりまして。もっとも、まだまだ初心者。上達には今暫くの時間が必要なようではございますが。
「……なにか、不満がありそうね?」
ご自分でも分かってらっしゃるのか、眉を顰めて河上君を睨む涼嬢でございまして。
「不満だなンてとんでもない! 涼さんの料理は食べれば食べるほど味の良くなるおもしろい料理だヨ」
「……人の料理を珍味みたく言わないでもらえる?」
怒る気力も消え失せて、最早呆れ顔の涼嬢で。
この場にいては状況が悪くなる一方だとでも悟ったのか、河上君。足早に土蔵の方へと向かおうとした、その時に――。
「えっ!? ね、猫がっ!」
小さく、か細く、それでもはっきり叫び声。
間違いなく土蔵の方で。間違いなく溌子嬢の声で。
一瞬、顔を見合わせて、土蔵へ向かって駆け出す涼嬢と河上君。少しだけ開いていた、土蔵の扉を開いては、中を覗いて見てみれば。
溌子嬢がおいででありまして。
「――溌子ちゃん!? どうかしたのかい!?」
「え!? あ! ……兄様。それに姉様も……」
お二人方の登場に、びくり身を固くする溌子嬢。
「い、いえ……その、ちょっと、びっくりしただけです……」
「猫がって声が聞こえたけど、猫がどうかしたの?」
「猫が、い……いたんです。その……真っ黒で、目の吊り上がった……。だから、溌子びっくりしてしまって……」
「真っ黒で! 目の吊り上がった猫! ――ど、何処に!?」
「あの……もう、いなくなってしまいました」
「ポオかしら? 溌子、ポオだったの?」
「そんな猫がそうそう他にいてたまるモノかい。ポオに決まっているじゃァないか」
一も二もなく決めつけるのは河上君。勿論、《真っ黒で目の吊り上がった》猫と云えば、彼氏にとってはポオ以外にいないわけでございまして。
「そうは言うけど、溌子はポオを嫌っているわけでも、怖がっているわけでもないのよ? 見ただけでびっくりするなんておかしいじゃない」
「こんな暗がりであんな猫を見つけてびっくりしない人間の方がおかしいヨ」
《ポオが悪い》と決めつける河上君の態度に、溜息一つ。相手にしても仕方がないとお考えになったのでございましょう涼嬢は、くるりと溌子嬢に体を向けまして。
「ねえ、溌子。あなた、なんでこんなところにいたの?」
「もちろん、わたくしが用事を頼んだからですよ」
そんな時、聞こえてきたのは凛とした声。響くは正に鈴の音のよう。
土蔵の入り口に立っていたのは、骸惚先生の細君、澄夫人。
すらりとした立ち姿。艶やかなるかな、その美貌。左目の下には泣き黒子。
良妻賢母の手本の様なご婦人で。ところが骸惚先生すら、頭の上がらない程の御仁でもございまして。
「――母様? 母様が溌子に用事を?」
「ええ。土蔵に締まっておいたお料理の本をとって来るように頼んだのですよ。戻りが遅いから心配になって来てみたのですけれど……。皆さんで集まってどうかなさいました?」
「猫がいたらしいのよ」
「ポオですよ! ポオ!」
「まだ、ポオだと決まったわけじゃないでしょう!?」
「他に誰がいるッて言うンだい!?」
とまァ、ぎゃんぎゃん口論を続ける河上君と涼嬢を尻目に、チョイト小首を傾げた澄夫人。
「まあ、猫が入り込むくらいのことはあるのではありませんか? 灯り採りの窓もありますし、入り込めないわけでもないと思いますよ。――でも、それがなにか?」
澄夫人の言葉にはたと我に返る河上君と涼嬢で。
「それが――? ……なんだったかしら?」
「つ、つまり、ですなァ……。ポオに被害を被っている我々としてはですナ、ポオがまた悪さをしているのじゃァないかと――」
何やら言い訳がましく、しどろもどろに語っていた河上君でございましたが、喋っている内に何かに気づいた様子で口調を強くしましては。
「そうだ、奥様! 本ですヨ、本。そのお料理の本というのは、ちゃんとありますか?」
「え? さ、さあ。どうですかしら?」
溌子嬢を窺う澄夫人ではございますが、溌子嬢は無言の儘、首を振るだけで。
それを見た河上君は、鬼の首でもとったかの勢いでございまして。
「やっぱり! ポオが盗っていってしまったンですよ、奥様!」
「あ、あンたねぇ……。短絡的思考にも程があると思うわよ……」
呆れ返って、開いた口が塞がらないといった体の涼嬢で。
「そんな単純な思考をしてて、よく探偵小説を書こうとか思うわよね?」
こうまで云われてはさすがの河上君も、カチンとくるものがあるようでございまして。
「そこまで言うなら、冷静に事実を並べていッてやろうじゃァないか。――第一にこの土蔵には料理の本があった。第二に今現在、その本は土蔵にはない。第三に溌子ちゃんがつい先ほどポオをこの場で目撃している――」
「ポオと決まったわけじゃないわよ?」
涼嬢に話の腰を折られ、面白くないといった表情を浮かべた河上君ではありますが。
「……わかったよヨ。――先ほど猫がこの場で目撃されている。この猫が何者かは不明だが、目撃証言から、ポオである可能性が高い。――これならいいだろ?」
「……まあ、無難なところね」
「第四に有力な容疑者と思われるポオには、本に悪さをしたという前科がある。――ここまで事実が揃えば《ポオがこの土蔵から本を盗って逃げ出した》と考えても無理はないと思うンだけどね」
河上君の意外にもしっかりとした論理展開に、咄嗟に反論の言葉が思い浮かばず涼嬢は、口籠もっておしまいで。
傍で聞いていた澄夫人なども、
「改めてそう言われますと、確かにポオが持って行ってしまったようにも思えますわね」
「でしょう、奥様! 小生もナカナカの名推理だと思っているンですヨ!」
喜色満面、河上君。デヘヘなんぞと笑って、実にしまりのない顔付きで。
「名推理はいいけど!」
それに水を差したのは、やはり涼嬢で。
「ポオが犯人だとして、どうするつもり?」
「捜して捕まえるサ。すぐに見つけることができれば、奥様の本だって無事かもしれないしね。――その上で、今度こそしっかりと躾をしてやるンだヨ」
「あの……兄様。あまりひどいことをなさらないで下さいね」
か細くも、それでもしっかり溌子嬢。
「溌子? まだそんなことを言って……?」
飽く迄ポオを擁護の溌子嬢に、呆れ半分の視線を巡らせた涼嬢は、妹君の奇妙な様子にお気づきになりまして。
「――あなた、何を隠してるの?」
「え? い、いえ!? な、なにも」
とは言いながらも、慌てて手を後ろに隠してしまうあたりが、正直者の溌子嬢と申しましょうか。
涼嬢はそんな彼女に近寄って。手をとり両手を差し出させ。
「――なによ、何も持ってないじゃな……!? ちょ、ちょっと溌子、この傷どうしたの!?」
涼嬢が驚いたのも無理ないことで。なにしろ溌子嬢の両の手には、平から甲から真っ赤な蚯蚓腫れの線が幾本も。
「引っ掻き傷ですわね。……おそらく、猫の」
続いて溌子嬢の手をのぞき込んだ澄夫人の言葉で色めき立ったのは河上君で。
「まさか、ポオですか!? あの性悪猫め、本や布じゃァ飽きたらず、溌子ちゃんにこんな酷い怪我をさせるとは……! いよいよもって許しちゃおけませんよッ!」
顔は真っ赤で唾飛ばし。そんな河上君とは反対に澄夫人は些か表情を和げておいででありまして。
「見た目は派手ですけれど、それほど酷い傷じゃありませんよ。手は痛みますか、溌子さん?」
「ちょっと……ひりひりするだけです」
ひとまずホッと一安心。胸を撫で下ろした河上君でございますが、溌子嬢の前に屈み込んでいた涼嬢が、ポツリ漏らした一言は。
「……許せないわ」
その上、勢いよく立ち上がっては振り返り。土蔵の出口へ向けてスタスタと歩いていくではありませんか。
「――太一っ! 行くわよ!」
視線を向けることすらなく、河上君に投げかける声の響きは、正に怒号、憤懣やる方ない様子。
「涼さん!? 行くッて何処に!?」
「もちろん、あのバカ猫をとっ捕まえに行くに決まってるでしょう!」
突然の涼嬢の変節に目を白黒させるばかりの河上君。とは申してみても、
「――早く来ないと置いてくわよ!」
こうまで言われれば、《ハイハイ》答えて涼嬢の跡を追うしかない彼氏でございました。