平井骸惚此中ニ有リ〜令嬢日記 このページ上の文章は転載引用など一切を禁じます。
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昭和二年十二月一日
暦が変わり、極月になりました。今年も後ひと月かと思うと、一年というのは本当に早いものです。
今月の二十五日には、大正天皇がご崩御なされてちょうど一年になります。年が明ければ、昭和も三年目。わたしなどは、《昭和》という年号に未だに馴染めないというのに、月日の移り変わりの速さには、本当に驚かされてしまいます。
月日の移り変わりと言えば、今日、地下鉄道というものを知りました。今月の末に上野・浅草間で開通されるのだそうです。地面の下を電車が通るだなんて少し不思議ですけど、これが新しい時代というものなのかとも思います。
わたしも馴染めないなどと言っていないで、もっと努力しなくてはいけませんね。
「……ふぅ」
わたしは書きかけの日記を閉じると、小さく溜息を吐いてしまいました。
どうしてわたしはこうなのでしょうか。誰に見せる文章というわけでもないのに、良い子ぶって心にもない言葉を……。
いいえ。心にもないというのは言い過ぎかもしれません。けれど、わたしにとって新しくなっていくこと、変わっていくことというのは、不安を感じることでもあるんです。どうして、今のままじゃいけないんでしょうか。
そんな風に感じてしまうわたしは変なのかもしれません。現に、兄様に相談した時は、
「溌子ちゃんは保守的だねェ」
と、笑われちゃいましたし、姉様に相談した時も、
「年寄りくさいこと言わないでよ」
と、呆れられてしまいました。もしかすると、訊いた相手が良くなかったのかも知れません。なにしろ、兄様や姉様は今まさに変わっていこうとしている最中なのだから。
お父様やお母様の意見も訊いてみたいのですけど、そうすると、わたしの抱えている本当の不安とか、それ以上のことまで、すべて見透かされてしまいそうで、少し怖いです。
やっぱり、わたしって変なのでしょうか?
「にゃあ」
物思いに耽っていたわたしを我に返らせたのは、猫の鳴き声でした。見れば、文机の上に黒猫が座り込み、わたしを見上げています。
「わっ。ぽ、ポオさん!? だ、だめっ。だめです」
わたしは慌てて、文机の上の日記帳を胸に抱え込みました。
この猫はポオという名前の我が家の飼い猫です。もっとも、半分くらいは野良猫みたいなものなんですけれど。
ポオさんは紙や布を破ってしまうという、ちょっと困った癖を持っているので、つい咄嗟にさっきみたいな行動をとってしまったんです。日記帳を破られるのは、やっぱり困りますから。
でも、ポオさんを全然信用していないようで、少し気が咎めてしまいます。
同じことを思った……のかどうかは分かりませんけれど、ポオさんはわたしを見上げながら、
「……にゃあ」
と、もう一度鳴きました。どこか、不服そうな声のような気もします。
「ぽ、ポオさんがいけないんですよ。こういう時には、日頃の行いがものをいうんですっ」
わたしはそう叱ったんですけど、ポオさんは耳の裏を掻いたりなんかして、まったく聞いている様子がありません。本当、困ってしまいます。
「にゃあ〜」
その時、わたしの後ろから別の鳴き声が聞こえてきました。ポオさんの声より、少し柔らかい声です。
我が家に住む猫は、ポオさんの他にもう一匹、真っ白な猫がいます。名前をクロといいます。白猫なのにクロという名前なのには、少し訳があるんですけど、それはまた別のお話ですね。
わたしは声に誘われて、クロさんの方を振り向きました。すると――
「たっ、大変!」
わたしは驚きに目を丸くして、思わず声を荒げてしまいました。
ポオさんが紙や布を破ってしまうように、クロさんにも困った癖があるんです。それは、人様の家の物を勝手に持ち出してきてしまうこと。今も、足下に履物――編み上げブーツを置いて、どこか誇らしげにわたしを見上げています。まるで、戦利品を見せびらかしているみたいです。
「クロさんっ! そういうことしちゃだめっていつも言ってるじゃないですかっ」
わたしはクロさんの足下からブーツを取りあげると立ち上がりました。クロさんは「フなあっ」と唸り声をあげてわたしの足に飛びついてきましたけれど、聞く耳なんて持ちません。だって、クロさんが悪いんですもの。
わたしはそのまま部屋を出ると、階段を降りました。お茶の間に飛び込むと、折良く、お父様が卓袱台の前に座り、お茶を飲んでいるところでした。
「あっ。お、お父様。ど、ど、どうしましょう。また、クロさんが……」
わたしが慌ててお茶の間に飛び込んだものですから、お父様も少し驚いた様子でした。けれど、わたしがブーツ片手におろおろとしていると、すべての事情を察したかのようにひとつ頷いて、
「今度の戦利品はブーツというわけかい?」
苦笑を浮かべながらそう仰いました。
「……はい」
わたしは頷いて、お父様にブーツを差し出しました。そうしなければならないわけではなかったのですが、そうするのが一番安心できると思ったんです。
「ふうん……」
お父様はそう呟きながら、ブーツを色んな角度から眺めています。
その編み上げブーツは新しいものではありません。使い古された……とでもいうのでしょうか、所々色褪せていたり、ほつれ傷があったりします。けれど、大切に扱われているのもよく分かります。このブーツの持ち主の方にとっては、とても大事なものなのかもしれません。
まったく、クロさんったら、そんな物を持ち出して来てしまうなんて、本当に困ってしまいます。
「……おや?」
不意にお父様がそんな声を上げると、ブーツをさかさまにしました。するとそこから、ころりと転がり落ちてくるものがあったんです。きらきらと光る小さな――
「ほ――宝石!?」
転がり落ちてきたのは、綺麗な宝石でした。その宝石には金属の輪がついていて――いわゆる指輪です。
「ふむ……金剛石というやつかな」
狼狽えた声を出すわたしとは正反対に、お父様はその宝石をつまみ上げながら落ち着いた声でそう言いました。
「お、おと、おとと、お父様! た、大変ですっ。クロさんったら、なんてことを――!」
余所様のお宅から宝石を持ってきてしまうなんて、とんでもないことです。一つ間違えれば……いえ、間違えなくとも泥棒です。
「とりあえず、落ち着きなさい。そうすればまだ慌てる必要はないことが分かる」
お父様はゆったりとした口調でそう言います。けれど、落ち着けと言われて落ち着くのって難しいです。でも、頑張ってやってみます。
わたしは何度もゆっくりと深呼吸をしました。やっぱり、落ち着くことは難しかったのですが、それでも頭に上っていた血が、だんだんと冷めていくような気もします。
「どうだい?」
「な、なんとか……」
状況からすれば、クロさんが指輪を盗ってきたのではなく、クロさんが持ってきてしまったブーツの中にたまたま指輪が入っていたと考えるのが妥当です。指輪のような高価な物をそんなところに入れておく理由も見当たりませんので、多分、持ち主のひとも指輪がブーツの中に入っていることを知らないのでしょう。まして、つい先程のことです。ブーツがなくなったことは分かっても、指輪のことまでは持ち主のひとも分かっていないかもしれません。だとしたら、まだそれほど大事にはなっていないのかな、という気もしてきます。
「だ、だとしてもクロさんが余所様の物を勝手に持ち出して来ちゃったんですから、早くお返ししないと……」
「ふむ。それもそうだね」
お父様が腰を浮かせかけたその時、ガラガラと玄関扉が開く音がしました。
「只今戻りました」
玄関の方から、少しかん高い、でも柔らかく響く声が聞こえてきます。兄様です。
わたしはすぐに立ち上がり、お出迎えに行きました。
「お帰りなさい、兄様」
「やあ、溌子ちゃん。ただいま」
兄様は本当の兄様ではありません。お父様のお弟子さんであり、住み込みの書生さんです。兄様が我が家に来たのは、もう五年近く前のことになるでしょうか。その頃のわたしはまだ幼く、本当の兄様が出来たようで嬉しかったんです。その当時は本当にただそれだけでした。けれど、やっぱり兄様は本当の兄様ではなくって……。
「ん? どうかしたのかい、溌子ちゃん?」
はっ。
いけません。最近のわたしは、つい物思いに耽る癖がついたみたいです。怪訝そうに顔を覗き込む兄様に、笑顔を向けながら首を振りました。ぎこちなくなっていなければいいのですけれど。
「い、いえ。なんでもないです」
「そうかい? それならいいけどサ……」
あまり上手く誤魔化すことができなかったようで、兄様はまだ訝しげです。でも、丁度その時に、お茶の間からお父様の声がしました。
「河上君。ちょっといいかい?」
「はい? なんですか、骸惚先生」
返事を返すと、兄様はお父様の待つお茶の間へと向かいました。わたしも、内心安堵しながらその後に続きます。
「おや? その靴はどうしたンです?」
お茶の間に入るなり、目聡くブーツに目を付けると、兄様はそう訊ねます。
「ああ。実はね――」
そして、お父様が先程までの事情を説明しました。
クロさんのこと。ブーツのこと。そして、指輪のこと。
それらを聞くと、兄様の頬がほころびました。とても愉快そうです。やっぱり弟子だから、ということなのでしょうか、近頃の兄様は段々とお父様に似てきているような気がします。
「そりゃァ、ホームズみたいな話じゃァないですか」
「ホームズ? ……ああ、『青い紅石』か」
ホームズくらいはわたしにも分かります。お話の中の名探偵さんのことです。確か、『青い紅石』というのは、ホームズさんの所に落とし物の帽子と、宝石が届けられることから始まる一編だったはずです。
確かに、今の状況と少し似ているかもしれませんね。
「残念ながらこの指輪の宝石は、国宝級というわけにもいかないだろうがね」
お父様はそう言って笑っています。
「しかし、ならばホームズの向こうを張って、このブーツからなにがしかの推理を働かせてみるというのはどうだい?」
「小生が、ですか?」
指名されて少しおどろいたようでしたが、それでも兄様はすぐに乗り気になって、先程お父様がしていたように色々な角度からブーツを眺めました。
「このブーツは、どこにでもあるようなものと言っても差し支えないと思いますねェ……。丁度、チョイト前の女学生がよく履いていたようなものですか。確か、涼さんも似たようなのを履いていたンじゃァなかったかなァ」
矢絣袴に編み上げブーツというのは、少し前まで《はいからさん》なんて言われて、女学生の代名詞でした。その頃女学生だった姉様もやっぱりその格好をしていて、わたしも憧れたものです。今ではわたしも女学校に通っていますが、そこでの制服はセーラー服なので、矢絣袴姿になることがないのが、残念といえば残念です。
「さほど高価なものじゃァありませんね。言ってみれば、一昔前のありきたり。言い換えるならば、流行遅れの品ッてことになりますか。――勿論、若いご婦人の物としては、ということですが」
「なかなか良い調子じゃあないか」
「いやァ。なんのこれしき」
お父様が誉めると、兄様は相好を崩してニヘラっという感じの笑顔を作りました。よく、姉様などは「だらしのない顔」と言いますが、わたしは兄様のそういった表情を見るのは嫌いではありません。なんだか、こちらまで心が温かくなるような表情なんです。
「えッと、それから……。使い古された様子はありますが、さほど汚れている風でもないので、これは今現在使われている物というよりは、かつて度々使用していた物と考えるべきでしょうね。猫が持ってこられる場所にあったことからすると……今日はいい天気でしたし、しまい込んでいた履物を天日干しにでもしていたンじゃァないでしょうか」
「では、そのブーツの持ち主はどんな人物だと思うね?」
「え? そうですねェ……。かつて女学校に通っていて、今では既に卒業している、十代後半から二十歳くらいの女性。後、嫁入り道具に編み上げブーツがあるとは思えませんので、ついでに言えば、未婚ッてところでしょうか」
「それだけかい? それじゃあ、せいぜい《可》といったところなんだがね」
「なかなか厳しいですね。なら、《優》や《良》を頂くためにはどうすればいいンです?」
「そりゃあ、持ち主の指名をずばり指摘することさ」
「へ? いくらなんでも、このブーツだけでは、それは無理じゃァないですか?」
「そうかい?」
困った顔をする兄様を見て、お父様は笑っています。でも、わたしには少し、ぴんとくるものがあったんです。
「あの……お向かいの松下さんのお嬢さん……えっと、由紀さんじゃないですか?」
わたしはつい口を挟んでしまいました。兄様はぽかんとしてわたしを見ています。お父様はと言えば、ますます楽しそうに微笑んでいました。
「それが、僕の求めた答えだね」
「ど、どうして分かったンだい、溌子ちゃん」
「え? えっと、その……ブーツはクロさんが持ってきたものですから……。クロさんはあまり遠くに行きませんし、そうすると家の近くの方なのかな、と。それで、近所で今、兄様が仰ったようなひとがいるのは、松下さんのお宅ですから……その……」
どうやらわたしの言った答えは正解だったようです。でも、そのせいで兄様のお立場をなくしてしまったかもしれません。そう思うと、あんまり嬉しくないです。
「いやァ、やっぱり溌子ちゃんは凄いなァ」
ところが兄様はそんなことは全然気にしていないという風に笑っています。こういうところが兄様の良いところだと思います。
「そういうことなら、チョイト小生が行ってお返ししてきますヨ。先方も困ってるかもしれませんしね」
そう言うと、兄様はブーツと指輪を取りあげて、即座に立ち上がりました。
「あ……」
その行動があんまりにも素早かったものですから、わたしは「一緒に行きたい」という言葉を言いそびれてしまいました。それは、わたしなんかが一緒に行っても仕方のないことなのですけれど……。
なんだか、自己嫌悪に陥ってしまいます。
そんな風にして、しばらく落ち込んでいると、再び玄関の扉が開く音がしました。兄様がお帰りになったみたいです。わたしは我に返って、またお出迎えに行こうとしたのですが……。
「――なんてことがあってね。やっぱり、骸惚先生も溌子ちゃんも凄いねェ」
「て言うか、あンたがだらしないだけなんじゃないの?」
……兄様は姉様とご一緒でした。
お買い物に出ていた姉様と、外でお会いになったのでしょう。
「あンたもさあ、いつまでも探偵作家に拘るのはやめたら? 折角の帝大卒が泣くわよ」
「非道いなァ、本気で言ってるのかい?」
「まさか。あンたが、言って聞くようなひとなら本気になりもするけどね。どうせ、言ったところで聞きゃしないんだから」
「参ったな。涼さんには敵わないヨ」
「あら。敵うと思われたら困るわ」
「やれやれ……」
兄様は笑っています。姉様も笑っています。お二人はとても仲が良くて、それはとても微笑ましい光景です。……そのはずです。
でも。
わたしはどうしても笑えなかったんです。胸の奥をぎゅうっと締めつけられるような気分になってしまって……。
わたしって、嫌な子なんでしょうか。
「おかえり、河上君。どうだったかね?」
兄様たちがお茶の間に入ってくると、お父様はそうお訊ねになりました。
「只今戻りました。いやァ、それがですね。ブーツの方は確かに松下由紀さんのものだったようで、受け取って頂けたンですが、指輪の方は《そんなものは知らん》と突っ返されてしまいまして……」
兄様が困ったような表情でそう仰ると、お父様も少し怪訝そうな顔付きになりました。
「突っ返された?」
「どうも、本当に知らないというよりは、知っていながら受け取りたくなかった、というような印象を受けましたねェ」
「ふぅん。まあ、先方には先方の事情もあるのだろう。それで、どうするね? 警察に届けるか、それとも着服でもしてしまうかい?」
着服という言葉を聞いて、兄様は驚いたように目を丸くしました。けれど、すぐに苦笑を浮かべると、
「いやァ、そういうのは小生には合いませんね。明日にでももう一度伺ってみて、それでも受け取って頂けなかったら、警察に届けてきますヨ」
兄様はまっすぐなひとです。
特に意識したり、肩肘はったりすることなく、まっすぐな選択のできる兄様が、わたしにはとても眩しく映ります。
もしかすると、お父様もそう思っているのかもしれません。
「それが、身の丈にあった判断というものだろうね」
兄様を見て、穏やかに笑いました。