雨に似ている 中編
皿にナイフとフォークを揃えて置く。口元を作法通りにナプキンで拭い、食事を終えたイザークは大きく息を吐いた。
食材は、1週間に一度入り江から届けられる。それをキラが調理するのだが、彼女が作る物は、いつも失った故郷を思い起こさせるような家庭料理ばかりだった。
(……全く……ニコルめ……本気で殴るぞ!!……)
結局、イザークが食事を終えてもキラは帰って来なかった。真向いに準備された彼女の食事は、気の毒にもすっかり冷えてしまっている。
ニコルが慰めを欲しくてキラを手元に置きたがるのも解る。誰だってこんな不安な毎日を送っていれば、気が狂いそうになるのは仕方がない。
イザークは書棚の隅に置いてあるチェスボードを見た。キング二つにクイーンが一本、そしてルークが数本乗っている。
対戦できる相手がいなくなったため、今ではカレンダーの代わりに使われている。
こんな三人だけの生活も三ヶ月以上になる。
(最初は……五十人以上いたのにな……)
イザークとニコルがここに来てから既に半年。捕虜は一人も補充されないまま次々と連れ出され、今ではキラ一人になってしまった。
(『ロゴス』は俺達をどうするつもりなのか?)
もう一度、仲間の一員として迎え入れてくれるならいい。
だがもし反逆者と決定されれば最後、毒薬の実験台か、後輩達が暗殺技術を習得するための、生きた標的にされるかのどちらかだろう。
≪……必ず助けてやる……≫
父は、イザークとの約束をたがえたことはない。自分達が殺されることは無いと信じているが、これほど長くなると………。
長く閉ざされた不気味で無意味な時間は、悪戯に不安感ばかり掻き立てる。
「お待たせイザーク。遅くなってごめん」
キラがぱたぱた戻ってきた。彼女が現れただけで、不思議とイザークの重苦しかった心が浮上する。
彼女は椅子にもつかず、真っ直ぐにかまどに駆け寄ると、吊るしておいた鉄鍋から木匙で湯をすくい、木をくり貫いて作ったカップに注いだ。
イザークの鼻を、レモンの酸味の利いた香りが擽る。
彼女は貴重な蜂蜜を惜しげも無くたっぷりと入れてかき混ぜ、レモネードをイザークに差し出した。
「はい。温まるよ」
『ニコルばかりをかまっているわけではないんだよ』と主張する代わりか、ちゅっと額に唇が押し当てられる。
六年前までは、毎日母から貰っていた優しいキスに、イザークの心もほこほこと暖かくなる。
彼女はそのまま、イザークの右肩の包帯を解き出した。それは左手一本で無造作に巻いたため、結び目がゆるくて解けかかっていた。
何も言わないまま自然に……まるで自分がやるのは当たり前だというように、キラは家族のように、母のように、恩着せがましくも無く、媚びることも無く自分達を気遣ってくれる。
(……変わった女だ……)
思い返せば、彼女は初めからこうだった。
イザークとニコルがこの塔に来た当初、二人をただの子供と侮り、捕虜の男八人が結託して、数に任せて襲いかかってきたことがあった。
二人の鬱積としたストレスのはけ口となった彼らは不幸だったといえよう。
イザークは、その場で五人の片目をナイフでくり貫き、身悶える彼らを地下牢に蹴り戻した。そして三日間、様々な剣の切れ味を試して男達の体中を切り刻んで遊んだ。ニコルも残り三人の足の腱を切り、逃げ出せなくしてからやはり新作の毒を試し続け、とうとう植物状態にまで追いこんでしまった。
『生かし続けること』は命令されていたが、五体満足でという命令はうけてはいない。
だが、人間は死んだ方がマシな場合もあるのだ。
それを目の当たりにし、身の危険を察知した捕虜達は、二人に対し不必要なまでに従順になった。
まるでメイドや下男のように、先を争って二人の世話を買って出た。
やがて老いた男女達は『将来、私が自由になった暁には……』と、莫大な財産や娘を差し出す口約束を発しだし、財を持たない若い貴族の女の一人が『夜の慰めに』と、自分の身体を差し出してくると、それを真似た女達が次々と二人の寝室に侍るようになった。
だがキラだけは違った。
生かしておいた貴族や富豪らのように、二人だけに媚びたり、おべっかを使うことは全く無かった。ただ嬉々として、二人を他の捕虜達全員と同じように面倒を見たのだ。
捕虜と自分達とは一切の分け隔ては無かった。全く無かった。
キラは化粧っ気も全く無いし、髪も短く色気も何にもない。
しかも普段着が擦り切れくたびれた服にエプロンなのだ。
だからイザークはてっきり、キラを下働きの下女と間違えた程だ。それが列強国と肩を並べる富国のうちの一つ……オーブ首長国の現国王、ウズミ・ナラ・アスハの正統な第二王女と知った時は耳を疑った。
双子で生まれてしまったため、忌み子としてへその緒を切られた直後に王宮から出され、遠く離れた場所でしかも人目を欺くために男として育てられてきたそうだが、仮にも年頃で、また堂々と王女と名乗れる身分に返り咲いたのなら、それなりに装って欲しいと思うのは間違いなのだろうか?
(……本当に、キラといると調子が狂う……)
左手に持っていたレモネードを一気に飲み干すと、木のカップの底から溶けなかった蜂蜜の固まりが喉に滑り落ちてきた。その熱くてドロッとした甘味が、イザークの喉に疼くような痒みをもたらす。
今の自分には、この蜂蜜がキラに思えた。
ドロドロに甘いことが、逆に刺激的で居心地の悪さを感じるのだ。
暗殺家業に身を置いた今、人から畏怖され嫌われ続ける自分達を、ただ人と同じように接してくれる存在はものすごく稀有だ。同業者以外では希少価値とも言える。
その奇跡のような女がここにいるのだ。自分の目の前に。
そんな母にも似た慰められる存在も、いつかはここから出ていくのだろう。
自分を置いて。
ニコルを置いて。
どんなにキラにここにいて欲しいと願っても、それは叶えられない希望だ。
彼女は、イザークやニコルの捕虜じゃない。二人には何の権限もない。
彼女は、『ロゴス』の所有する捕虜なのだから。
「で〜きた♪ ねぇイザーク、きつくない?」
キラは『少し動かしてみて欲しいなぁ』と、言わんばかりにイザークの右腕をすりすり撫でる。そんな気心の知れた者の行う振るまいが、イザーク自身を自分の喉と同じように、居心地のわるいむず痒さをもたらした。
イザークは知らず知らずのうち、深くため息をつく。
「貴様はどうしてそういつも能天気に笑っていられる? 自分が今後どうなるのか考えたことはないのか?」
イザークのくぐもった声に彼女は怪訝げに首を傾げると、怯えるどころか彼のおでこに自分の手を当てた。
「う〜ん……熱はないような……あるような。もしかしてニコルの風邪、うつっちゃったのかな?……イザークも結構濡れたしねぇ……」
その無邪気な仕草が、イザークのただでさえ低い沸点を酷く刺激した。
「馬鹿か!! 貴様が攫われてきて一体どれぐらい経つと思っている? もう八ヶ月だぞ!! なのにお前の家族は、一向に身代金を払う気配もない。このままじゃ、お前は娼館に叩き売られるか、奴隷になる。どっちも結局は競り市だ。船着場の広場に組み立てられたやぐらの上で全裸に剥かれ、知らない男達に品定めされて、牛馬同様に値段つけられる!! 王女のくせに不安はないのか!!」
「う〜ん……そうなったら、困るなぁ」
彼女はネックレスとしていつも身に付けていた金細工の小さな鳥の護符を手繰り寄せた。羽を広げた意匠の小鳥は自由を意味しており、幸福を祈願する護符として一般に普及しているものだ。
人差し指の半分しかない程小さな護符を、彼女は大切に左手で包み込むと、空いた右手で一通りの女神に祈る聖印を指で刻んだ。
そしてその後は、何事も無かったように「イザーク、ブランデー入りの紅茶でもいれようか? 体温まるし」と聞いてくるのだ。
「馬鹿者!! 貴様、他に言う事はないのか!!」
キラは待ってましたといわんばかりに、にゅっと右の手の平を突き出してきた。
「ならイザーク、ナイフ貸してよ。料理用の包丁だとね、切れ味鈍くて狼の毛皮が剥げないんだ♪」
ぷるぷると拳が震えてくる。
どうしてこいつとは、言葉が通じないのだろう?
「違う!! 俺の言いたいのは……!!」
「君の言いたいことはわかってる。わかっているから」
キラは穏やかな紫水晶の瞳でイザークを覗き込み、ぽしっと彼のまっすぐに梳られた髪を撫でてくる。
「でも、今は僕の意志でどうこうできる立場じゃないでしょ。だったら、今ここで、今できることで、僕は君たちと快適に過ごしたいと思うんだ。ねぇ、君が仕留めたあの狼、本当に綺麗な毛皮だよね。きっと良い敷物になる。暖炉の前がいいかなぁ? それとも折角だからイザークの寝室に置く?」
真剣な眼差しになったのも束の間、彼女は目をうっとりとさせながら、いまだ捨て置かれたまま床に横たわった狼を眺めている。イザークは虚脱感に目眩を起こした。
「……良く切れるから、使うときは気をつけろ」
イザークは左手を背に回すと腰帯に挟んである愛用のナイフを鞘ごと引き抜き、彼女に向かって無造作に放り投げた。
キラは「ありがとう」と嬉しそうに受け取ると、スカートのポケットに仕舞い込み、またぱたぱたと暖炉に走り、彼に暖かい酒入り紅茶を注いだ。その後やっとテーブルにつき、すっかり冷めたくなった食事を美味しそうに食べ始める。
キラを見ていると、あれやこれやと悩んでいる自分が、妙に馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「お前、本当にアスハの王女なのか?」
「変?」
「当然だ。大体王女が冷めた不味い飯を食うか? 例え貴族の令嬢だとしても、仕留めた獣の毛皮を自分で剥げる姫君など、初めて聞くぞ」
「そうなんだ。でも、僕がいた修道院じゃ、当たり前の仕事だったから」
「貴様は一体どんな所にいたんだ?」
貴族の娘や上流階級の娘が、信仰と学問の箔を付ける為、もしくは花嫁修行で刺繍やレース編み、礼儀作法を学ぶために、幼い頃から修道院で育つことはよくある。けれど毛皮剥ぎは……普通はやらせる筈がない。
キラは楽しそうにくすくす笑った。
「僕を育ててくれた所は、山辺の貧乏な修道院だったんだ。食べるために猟師さん達に仕事を回してもらって……他にも色々やったよ。川に行って漁を手伝ったり、魚を開いて干物にしたり、村人の服を繕ったり洗濯したり。それから修道院の畑で育てた野菜を村で物々交換したり、売り歩いたり……」
「ちょっと待て。お前、もしかして……貧乏だったのか!!」
「うん。君も知ってると思うけれど、僕本当だったら、忌み子で殺されていてもおかしくなかったんだ。それを宮廷医師だったハルマという人が、我が子をしきたりとはいえ殺さなくてはならない王妃様と、後から生まれてきただけで殺されていく僕を哀れんでくれて……、こっそり逃がしてくれたんだ。
でも、託した人があんまりよくない人だったみたいで、王妃さまから下賜されたお金は持ち逃げし、僕を山里の村役場に捨てていったらしくて。あんまり裕福でない村だったから誰も引き取り手がない。となると、乳飲み子でも引きとってくれる所って、いくらでも働き手が必要な所しかないでしょ?」
てへっと、キラは頭を掻いた。
イザークは今度こそ貧血でぶったおれそうになった。
アスハ家の王女といっても、キラの身元引受人は名も無い貧乏修道院!! どうりでいつまで待っても身代金が届かない訳だ。工面する金などどこにも無いのだから!!
こいつは競り市場行き決定じゃないか!!
「なんでそんな女を『ロゴス』が誘拐してくるんだ……ちくしょう!! 何処の馬鹿だ!! お前攫った奴は!!」
このぼけぼけした女が裸に剥かれ、見知らぬ男達に散々品定めされた挙句に売られていく姿なんて、想像しただけで怒りがふつふつと沸いてくる。勘違いでも酷すぎる。こんな明らかな庶民。身代金目的で誘拐した奴の目を疑いたい!!
「で……でもねイザーク、僕、昔は超貧乏だったけれど、今はホントにお金持ちになったの。だってほら、僕アスハの第二王女。僕ってば、確かにウズミ様に認められたんだ。だから」
「だったら何故ウズミは金を払わない? オーブはお前のことを必要と思ってないのか?」
キラは、激昂したイザークを安心させようとして、あわあわと言葉を綴る。
「ウズミも王妃さまもオーブの民も、きっと僕の事は必要だと思うの。だって、僕の双子の姉に縁談が来たんだけれど、カガリは跡取りの王女だから国から出せなくて。でも国が戦争になっちゃったら困るから僕が…、政略結婚で第二王女が嫁ぐことになったから」
(結婚? こいつに結婚相手なんていたのか!!)
イザークの頭に、更に血が上る。
「貴様!!そいつに会ったことはあるのか!!」
「……う〜ん、ない……」
「なんだそれは!!」
鈍い彼女は言葉を紡げば紡ぐ程、どんどんイザークの怒りを煽っていることに、全く気付いていなかった。
「で……でもね、……ウズミさまと王妃さまが決めたことなんだから……きっといい人だと……思うよ」
「憶測で物を言うな!!」
「あ…あぅ……えっと、じゃ、『いい人だといいね〜♪』」
「………馬鹿者!!」
イザークはテーブルを殴りつけた。
「お前の父や母は、おまえの修道院に、一度でも来たことがあったのか!!」
「う……うう、ウズミさまは僕のこと知らなかったし、王妃様も僕が何処にいるかわからなかったし……」
「だが探せたのだろう。カガリ王女の代わりにとお前を思い出して宮廷に呼びもどしたのだろう? やろうと思えばいつだって迎えは寄越せた筈だ!!」
「うううう、でも、今は会えたからいいじゃない〜!!」
「貴様はやっぱり馬鹿だ!!」
イザークは、怒り心頭に達し、テーブルを蹴りたくって倒した。
「ひゃう!!………ああああ!!……僕のごは〜ん!! 酷い〜!!」
彼女は床に這いつくばって、散らばったパイとサラダを恨めしそうにかき集めた。彼女の美しい紫水晶のような大きな瞳にうっすらと涙が滲み出しているが、きっとイザークの言葉に傷ついたわけでは無く、腹に入らなかった食事を惜しんでのことだろう。
その姿にますます力が抜ける。
イザークはもうあきれ果て、どっかりと椅子に腰を下ろして頭を抱えた。
「俺にはお前がわからない。お前は腹が立たないのか?
親の都合で捨てられ、今度は身勝手にも会ったこともない男に嫁がされるんだぞ。大体こんな結婚が決まったから、お前はのこのこ修道院から出てきて、『ロゴス』の人間に捕まったんだろ。
何故怒らない? どうして自分の運命を呪わない? 父母を恨まない? お前には、自分の意志がないのか!!」
ぐしゃぐしゃと左手で髪を掻きまわしていくうちに、自分の腹もいらただしさにふつふつ滾っていくのがわかる。
キラの優しい手が、ぽしっと彼の髪をゆっくりと撫でる。
イザークが顔を上げると、自分を見おろすキラは、幸せそうに微笑んでいた。
「……貴様、何をへらへら笑っている?……」
「えへへ。イザークが、僕の為に怒ってくれるのが嬉しいんだ。幸せだな〜って♪」
高揚していた気分が、一気に盛り下がる。
全く話にならないとはこのことを言う。
だが、話しても無駄だとは思うけれど、イザークは言わずにはいられなかった。
「貴様は生きてて楽しいか?
人に、自分の人生全部を都合良いように利用され……貴様は一体何のために生きている? あまりにも寂しすぎると思わないのか!!」
キラは、やはり幸せそうに微笑みながら中腰になると、ぎゅっと包み込むようにイザークを抱きしめてきた。ふくよかで暖かな胸が丁度彼の頭に当たる。
イザークは自然頬が赤く染まっていった。
「馴れ馴れしく触るな!!」
「イザークは、本当に優しい子だよね」
「貴様!! 何を馬鹿なことを!!」
この5年間で殺した人間は軽く3桁に届くし、欲望のまま犯した女も数えきれない程だ。
それなのに子供扱いなんて……!!
「ふざけるなキラ。いい加減に、舐めた真似は止めろ。俺は気に食わない奴なら殺すぞ。ライトナー公爵の一族がどうなったか……お前は知っているのだろ?」
「うん。君は大切な家族を殺した人達が許せなかったのでしょう?」
「―――――――――!!―――――――――貴様、本当に俺の話を聞いていたのか――――――!!――――――――――!!」
キラは、絶叫し、力尽きて硬直したイザークに構わず、ぽしぽしと彼の頭を撫で続けてくれる。
彼女の暖かく、柔らかな腕に抱かれている内に、イザークの目尻から涙が滲んできた。
(――――母上―――――)
エザリアはジュール公爵家の跡取り姫だったにもかかわらず、ムウという傭兵と身分違いの恋をした。その後彼女は定められていた王族の婚約者との結婚を疎み、約束された未来全てを捨てて家から飛び出した。
実家から勘当された彼女は、祖父から受け継いだ遺産の荘園に移り住み、女手一つでつつましくイザークを育ててくれた。夫のムウは決まった主君を持たない特殊な家業だったから、当然表立って結婚できる筈もなく、母は一人で切り盛りしていた。
言い寄る男を片っ端から袖にし、キラのように短く髪を切り、男装し、でも一人っ子で父が年に一〜三回しか家に戻らないにもかかわらず、イザークは寂しい思いをしたことはなかった。母親の愛情は彼が独り占めしていた。彼女は本当にイザークを溺愛してくれたのだ。
「母上が死んだのは……俺のせいだ……」
無意識の内、しゃべった言葉に、イザークは愕然とした。
ずっと、心に蟠っていたこと。重く、もやもやしていた感情を、開けるのを躊躇い封印していた疑問が、彼の口からほとばしる。
「母上は俺に、父上の仕事内容を決して教えてくれなかった。あの人はずっと、小さな鄙びた荘園でひっそりと………俺を……女手一つで育ててくれて……」
≪……ムウ……もう一度……会いたかった……≫
断末魔の痙攣前、彼女が最期に会いたいと望んだのは父だった。
それ程会いたかったのに。
なのに、彼女はムウと離れて暮らしていた。
「『ロゴス』にくれば、遊撃部隊『エンディミオンの鷹』の隊長夫人として、望みうる全ての豪奢な生活が保証されていたのに!! 母上をないがしろにし、家督を奪ったジュール本家のやつらだって実力で見返してやれた。なのに母上は、俺を父上と同じ職につかせたくなかった。だから、父上と離れて暮らしていた。父上と一緒にいれさえすれば、決して死ぬことは無かったのに。身分も栄光も全てを捨てて得た恋なのに、そのたった一つの恋を諦めて、俺に尽くしてくれた母上なのに……ずっと、死ぬ間際まで、父上に会いたがってたくせに!!
母上だって馬鹿だ!!
『ロゴス』にいれば………虫けらのように知らない奴に射殺されることだってなかった!!……俺だって結局は暗殺者になった……母上は自分の恋を犠牲にしたのに……結局無駄死にではないか!!
母上だって貴様と一緒だ。一体なんの為に生まれてきたんだ!!……」
「イザークは、暗殺者になったことを後悔しているの?」
勿論否だ。彼はふるふるかぶりを振った。
「俺は俺の犠牲になってくれた母上を……殺した奴らが許せなかった。絶対復讐を遂げたかった。後悔してない。マイウスを焼いた奴らを皆殺しにしたかった。そうさ……願いは叶えたんだ……」
ただ、心に思いつくまま言葉を発すれば、自分の心の中も段々と整理されていく。
「そうさ。俺は後悔なんかしたことはない。ただの爵位無しへの貴族でいるよりも、恐れられて生きる方が俺の性に合う。けれど……けれど……俺は…」
イザークは、キラの背中に腕を回し、ぎゅっと力一杯しがみついた。
「上層部の奴らは……俺達をどうする気なんだ? 俺達は命令以上に殺してしまった」
≪命令違反者には死≫
それが『ロゴス』の絶対の不文律だった。
十歳のあの頃よりも遥かに立場が悪い。
あの時は、海に出れさえすれば、父ムウ・ラ・フラガに会えると知っていた。彼にさえ会えれば、自分達が助かると解っていた。
けれど今は、父の駆け引きしか縋るものはない。
『ロゴス』の標的になったら最後、いくら刺客を倒し続けていても、無尽蔵に送り込まれ続ける。そしていつかは殺される。それも見せしめを兼ねて惨たらしくだ。
イザークは肌で知っているし、何人も殺された同僚を見てきたのだ。
「もう、さっさとけりをつけてくれ!! 俺達は処刑か? それともまだチャンスはあるのか?
俺は自分で選べない未来が怖い。怖いんだよ!!」
「……イザーク、落ち着いて、ね」
「俺はお前みたいに能天気じゃない!!」
「イザーク、八つ当たりは止めよう。君の矜持が傷つくだけだよ?」
「誰が八つ当たりしてる!!」
「君が僕に対してだよ。もう解っているでしょ? 僕は決して傷つかないから。君が僕を罵倒したって、結局君自身に跳ねかえってくるだけなんだよ。自分で自分を傷つけたって君が哀しいだけ。そうでしょ?」
「俺は……そんな……」
「いい、聞いてイザーク。確かに見えない未来は不安だよ。でもね、怖いと思うのは自分の心でしょ。ならイザークに聞くけれど、今の君に何を怖がるものがあるの? この塔にいるのはニコルと僕だけしかないんだよ。君の心を苦しめる『ロゴス』の人は一人もいない。君を殺せる人なんて誰一人いない。何も心配いらないじゃない?」
「貴様な!! そう簡単に言うけど、未来は……」
「そうだね、今君に与えられてる選択肢は二つだけよ。心を病んで自滅するか、心身を健やかに保ってチャンスを待つかでしょ? ほら、何も悩むことないじゃない」
イザークが、虚をつかれて見上げると、キラはにこにこと笑っていた。
いつもと変わらない笑みを。
「キラ?」
彼女は本当に、イザークのぶつけた言葉に傷つきもせず、彼を安心させるような心からの笑みを浮かべていた。
「俺……俺は……」
彼ははっきりと、自分自身が抱えていた理不尽な怒りを理解した。
キラの境遇に同情するふりして、自分の不安をぶちまけていたのだと悟った。
自分自身が不安で押しつぶされそうになっている今、彼女に起こった出来事を餌にして、自分と同じように全く不安がらない彼女に対して憤り、同じ不安を、恐怖を抱かせようとして煽っていたのだ。
はっきりと自分がしていた醜い行為に、イザークは自分自身の矜持を、確かに傷つけていたことを悟った。
「………すまなかった………俺は、貴様に奴当たりしていた……」
情けなかった。自分が溜まらなくちっぽけで卑小に思えた。
虫けらになりたくないと願って強くなってきたつもりでいたのに、結局虫けらだと小馬鹿にしていたキラの精神に、強靭さが劣っていた。
それを認めたくなくて、腹ただしくて、彼女を同じレベルに落とそうとして、彼女の気分を害そうとたきつけていたのだ。
「俺は……本当に情けない……」
「どうして? イザークは立派だよ」
ちゅっと、また優しいあやすようなキスが、イザークの頬に押し当てられる。
イザークは忌々しげにキラを見上げた。
「貴様は、どうしてそんなに強いんだ?」
「ほぇ?」
どうして彼女が平気なのか。こんなに悟り切っているのかを知りたい。
今までただの大呆けとしか思い、召使代わりに侮っていたが、急にキラが聖堂の聖母見たいに神々しく思える。
じっと彼女を見上げ続けていると、キラはちょっと困った顔をした。
「う〜ん……僕ね……強いかどうかは本当に解らないけど……、修道院を出て行くことが決まった日、親友と約束したんだ。絶対に幸せになるって。僕はどこにいっても何があっても幸せになるって。僕が幸せになればなるほど、僕のことが大好きな親友…アスっていうんだけれど、僕が幸せならアスも幸せになるからって。アスは、僕の幸せを本当に望んで修道院から送り出してくれたから、だから僕は絶対に幸せになるんだ」
癖なのか、キラは胸元の鳥のペンダントを引っ張り出し、ぎゅっと握り締めている。
「だから僕は、水滴でいいんだ」
(はぁ?)
イザークはまたもや耳を疑った。けれどキラ自身は両手の拳を握り締め、凄く真面目な顔をしている。
「貴様、今どこから話を持ってきた?」
「え、何が?」
こっくり首を傾けるキラは、本当に何もわかってはいない。彼女は馬鹿ではないが、愚かだと勘違いされるのはきっと、こんな風に会話途中で話が吹っ飛んでいくせいだろうとイザークは思った。
「何故幸せになることが水滴に繋がるのだ? 俺に判るように説明しろ!!」
キラはしばし考えに耽り、気まずげに頭を掻く。
「うーんとね、なんて言っていいのやら……ねぇ、イザーク、絶対に僕の言う事笑わない?」
「さっさと言え」
もじもじする彼女を、一言でばっさりと切る。彼女は諦めてため息を吐いた。
「あのね、僕ってば、霧雨ってとっても好きなの」
(はぁ?)
「ほら、今日みたいに建物の中にいると音も立たないからね、降ったことも上がったことも気がつかない雨が好きなの。そうだ。ちょっと見て!!」
「おい!!」
キラは戸惑うイザークの手を取ると、ぐいぐい引っ張って扉に向かった。
仕方なく、彼女に付き合って入り口の扉を開いて外を眺めると、丁度イザークの眼前で、錆色の雲の間から、一筋の光が差し込んできた。
雨の雫を一杯含んだ草木の絨毯が、一斉にみずみずしく輝き始める。小路のわきに生えていた赤い野薔薇も、黄色く鈴なりになっていた木苺も、光りの滝に打たれて輝き出す。
まるで命の煌きだ。
「綺麗でしょ? ただの水滴だけど、いつもとは違った風景に見えると思わない?」
キラの言葉に、声を無くしていたイザークは、つい頷いた。いつも見慣れた筈の世界が、こんなに綺麗とは全く気がつかなかった。
「ただの水滴みたいに無力な存在でもね、草木の糧にもなり、世界を美しく彩ることができる。未来に何が起こるかは、きっと神様しかご存知ないけれど、生きてる限りはきっと、僕は誰かの役に立ててるの。だから僕、今とても幸せなの」
「キラ?」
彼女はにっこり微笑んでいた。
「もし、レイ・ザ・バレル王弟殿下と結婚して嫁いでも、オーブとの関係が修復されない限り、僕はきっとどっかに幽閉か軟禁されてたよ。開戦になればきっと殺されてるだろうし。でも其処の人達はきっと、僕をオーブの王女として扱ってくれるかもしれないけれど、僕自身のことはきっと、知ろうともしなかったと思う。けれど君たちは、僕を含めた捕虜を地下牢から出してくれた。おかげで僕は、この島がとても美しいって知ったし、イザークやニコルが優しい子だって知った。君たち二人は僕の手料理を美味しそうに食べてくれる。ふふ、僕もう幸せすぎて、数え切れないぐらいだよ。
とにかく、君達が笑ってくれる度に『ああ、僕でも役にたててるんだぁ』って嬉しくなるよ。生きてて良かったって。幸せで幸せで胸が一杯だよ」
「……キラ……」
彼女は照れ照れして、ほんのりと頬を染めた。
「君達が大好きだよ。誘拐されてここに連れてこられなければ多分一生会えなかった。どんなに感謝してもし足りない……ありがとう……」
彼女の微笑みは、あまりにも幸福そうで、イザークは目頭が熱くなってきた。
「キラ……お前やっぱり変だ……」
もう我慢できなかった。イザークは熱くなった目頭を隠す為に左手で顔を押さえ、身を二つに折って爆笑した。
「ああもう…笑わないってお願いしたのにぃ……」
そう彼女の呟きが耳に届いたが、イザークは止められなかった。自分で気が狂ったように笑いつづけた。
止めたら泣いてしまいそうで!!
(何故、こんな人間が、この世にいるんだ?)
(こいつ、絶対に、寝惚けて地上に落っこちてきた、ドジな天使に違いない!!)
「もう、いつまで笑ってるの?」
キラの手が、イザークの左手を引っつかむ。手が外されて見下ろせば、彼女は気持ち頬をふくらませて、恨めしそうに自分を見上げている。
イザークは身を屈め、彼女の唇にキスを落とした。
「!!」
びっくりして身を強張らせている彼女から、自分の左手を奪い返し、今度は彼がしっかりとキラの細い腰を掴んで抱き寄せた。
「い……イザーク!!」
「俺は、お前が好きだ」
「……え……ええええ!!……」
彼女の顔は見る見るうちに真っ赤に染まった。イザークは、彼女の頬に唇を這わせ、また何度も何度も彼女の柔らかい唇を貪った。
「あ……あのねぇ、イザーク……冗談は駄目!!」
嫌々と首を振る彼女の唇を、イザークは執拗に追いかけた。
「お前を失いたくない。誰にも……絶対に渡したくない……」
こんな女、きっともう二度とめぐり合えない。
「ちょ……ちょっと、イザーク!!」
「俺の女になれ!!」
「ちょっと……落ち着いて!! ちょっと待って!! 待とうよ!!」
彼女の両手が力一杯突き出される。それは見事にイザークの顎にヒットした。
急所に直撃を食らい舌を噛む。ぎろりと見下ろすと、彼女も半泣きで彼を見上げてきた。
「あのね、僕は3つも年上だよ?」
「それがどうした」
「結婚相手が決まってて」
「そんなもの知るか。貴様はどうせ浚われた身だ。ほっておけば自滅する話だろう」
「止めてよ!!」
キラはふるふる首を横に振った。
「それにね、僕が嫁がないと父やカガリ王女に迷惑かかっちゃうし」
「なら俺が話をつけてやる。がたがた言うならレイ・ザ・バレルという奴も殺してやる。結婚相手がくたばってしまえば一発で片がつくだろう」
「でも……でもね!!」
「そんな先の話はいい!! 俺は今の貴様の気持ちが聞きたい!! 俺が好きか?それとも嫌いか?」
「だって……だって僕は…年上すぎて……!!」
「俺が好きか? 嫌いか?」
「あ……あの……僕は……わからないよぉ……」
顎を手繰り寄せて顔を上げさせるが、キラの美しい紫水晶の瞳が、おどおどと伏せられていた。先ほどの自信に満ちた眼差しは何処にも無い。けれど、素直な彼女は、その態度と身体で心の気持ちを如実に伝えていた。
彼女の心臓はばくばくと鼓動を早め、体温をみるみる上昇させていく。
イザークは確信していた。自分を好きでなければこんな反応はしない。
「俺は、お前が好きだ。お前は違うのか?」
果たして、彼女の唇が、切なそうに震え出した。
「……僕も、多分イザークが……好きだよ。でも、君の想いは受け入れられない……」
ぽつりと震える声……掠れて聞き取りにくかったが、イザークは聞き逃さなかった。
彼は慌てて左腕を振りほどいた。
「何故だ!! キラは今俺が好きだと言ったばかりだろう。相思相愛なのに、何故俺が断られなきゃならない!!」
キラは目を伏せていた。そして切なそうに身を震わせている。
「君に幸せになって欲しい。僕は君の足手まといになりたくない。だから駄目なんだ」
「何が理由だ? 言え。生半可なことで、この俺が引き下がると思うな」
「……僕は……売られてくかもしれない……」
「見つけるさ。何年かかったって、迎えに行く」
「でも……その時は……君でない他の男に……」
きっと抱かれている。言葉を濁しても、その未来は推測できる。
「それがどうした。お前のせいじゃない」
使えぬ右肩がもどかしい。イザークはもう一度、彼女の細腰を抱き寄せて、深く唇を重ねた。
「俺だって情けないさ。惚れた女一人守ることもできない。キラ、貴様はこんな男をどう思う?」
切なげに見つめると、彼女は見上げながらふるふると首を振った。
「イザークだって、仕方ないもん。人生、自分一人じゃどうしようもない時だってあるんだから!!」
「なら、お前だって何を恥じることがある?」
「だって……僕、魅力ないし、年上だし、胸ないし、男の人と付き合ったことないし……綺麗で移り気なイザークを繋ぎ止めておく自信ないもん……」
「はぁ? 何を根拠に俺が移り気って……」
「だって……ベアトリーチェに、リズ、マーガレット、アリエル、エリーズ、マリア、ルイーズ、キャサリン、フランソワ、アン、ステファニー。カリン、ロザモンド……」
次々とキラが挙げる名前に眩暈がする。彼女達は身代金目当てに誘拐され、ここにいた女達だった。ちなみに最年長は75歳のベアトリーチェで、のこりも50代40代ばかりである。イザークが許容範囲と感じた10代〜20代は、キャサリン、フランソワ、アン、ステファニー、ロザモンドの5人だけ。
濡れ衣もいいところである。
「お前は誤解している!! 俺は彼女達とはなんでもない!!」
「でもね、ステファニーとロザモンドは嬉しそうに君と一夜過ごしたこと自慢してたもん。ニコルも、イザークは奥手のふりしたちゃっかり者だから、彼の口説き言葉だけは信用しちゃ駄目だって。イザークの場合、顔重視でやらせてくれる女なら誰でもいいんだって」
(あの鳥の巣頭!! 一人だけいい子ぶりやがって!!)
キラ相手に忠告とは笑わせてくれる。
「キラ、言わせて貰うがニコルだってそいつらと一緒に遊んでいたんだぞ。俺を非難するのなら、あやつとて全く同罪だろうが!!」
「あのねぇ、ニコルはそんなことしないよ」
真顔で言い切るキラが憎い。この信頼の違いはなんなのだ?
こんなに騙されやすいから、今捕虜になって孤島に閉じ込められているのだろう。いつまで経って何故気づかないのか?
「……貴様は男を見る目がない。いい加減、人を疑うことを覚えろ!!」
イザークは己の過去を振りかえって頭を抱えた。確かに捕虜の5人とはそれぞれベッドで楽しんだし、三人同時どころかニコルも交えて四人で遊んだこともある。けれどステファニーとロザモンドは自分やニコルに媚を売って、身の安全と待遇の向上というそれなりの見返りや、打算や下心があってのことだ。
「キラ、俺が女を口説いていたことがあるか?」
馬鹿正直な彼女は、真剣に考え込んでくれた。小首を傾げてうんうん唸っているが、記憶の何処をつついても、見つからないらしい。
あたりまえだ。イザークは一度だって自分から、女達をベットに誘ったことはなかった!!
「俺が本当に愛した女は、貴様が最初だ。そして、きっと最後だ」
そう言いきらないうちに、彼自身の顔が火照っていくのがわかる。鏡がないのが幸いした。きっと今ごろ、酒に酔っ払ったように真っ赤に染まっているだろう。
「キラが好きだ。愛している」
「……イザーク……」
彼女を抱き寄せ、耳元に唇を寄せる。どんなに恥ずかしい告白でも、彼女の顔さえ見なければ何とか口説ける。
「例え貴様がどんなに変わり果てた姿になろうと、俺は必ずキラを迎えに行く。この命ある限り、決して俺は諦めないから……。どんなに過酷な未来が待っているとしても、その果てにキラがいるのなら、俺は絶対に耐えて見せる。もう二度と自暴自棄にならない。
だから…だから、俺の愛を受け入れてくれ……」
「……イザーク………」
「例え、お前が娼館に売り飛ばされてもだ。決して死なないと……俺と今ここで約束してくれ。俺は必ずキラを助けに行く。キラが何処の誰の物になっていても構わない。必ず迎えに行く。
何年かかってもいい。生きてさえいてくれたら、必ず……迎えに行く。だから決して、どんな目にあっても死なないと約束してくれ!!」
掠れる声を無理やり引き絞り、イザークは彼女の柔らかい体を抱き寄せたまま、土色の髪に顔を埋めた。
いつか売るかもしれないから、彼女には綺麗な肢体を保たせるため、贅沢な化粧品が与えられていた筈だ。何本も香水も渡してあるにも関わらず、彼女の髪からは石鹸の香りしかしない。何一つ化粧っ気もない。
そんな素朴さがキラらしい。
もどかしげにキラの襟首に左手をかける。利き腕でないので時間がかかったが、緩めた服の中から艶めかしい真っ白の肌が零れている。
イザークは迷うことなくキラの首筋に顔を埋め、きつく吸い付いた。
「……イザーク……ごめん……」
キラはぴしゃりとイザークの頭を叩き、彼を引き剥がす。
上目遣いで見上げる紫水晶の瞳に、迷いは全くない。
「駄目なものは駄目だよ」
「キラ!!」
「本当に駄目なんだ、イザーク。今ここで君に身も心も全部あげられたら、どんなに幸せだろうって思うけれど、僕にはまだアスハの第二王女の役割が残っているかもしれない。嫁いだ王女が生娘でなくては困るんだ。外交問題どころか将来僕が生むバレル家の嫡男まで、出自が疑われる。生まれてくる子供に罪はないのに、父に愛されない子供は不幸だ、そうでしょ?」
それは一体誰のことだろう?
こうなったキラは、絶対に自分の意思を曲げない。彼女は絶対に自分の意思を貫き通す。それは過去、半年一緒に暮らしていて、とても良く知っている。
「……キラ……俺は……」
痛かった。拒絶された手も痛いが、心が千切れそうに痛い。
「本当に……お前が好きなんだ……」
この愛を得るためには、何でもやってのける。絶対に手放せない。この女だけは誰にもやれない。たとえニコルにも……。絶対に渡したくない。
「……あのねイザーク……今は駄目だけれど、未来はどうなるかわからないでしょ?……」
項垂れる自分に、聖母のごとく優しい声が降りかかってくる。
「待ってるから」
イザークは顔を上げた。
見下ろすと、キラは静かに微笑んでいた。
「この島を出たら僕、君が迎えにくるのを待ってるよ。その時は売春宿かバレル殿下の奥方になっているかはわからないけれど、君が沢山の女の子達が選り取りみどりで選べる世界に戻って、それでもイザークが僕を必要としてくれるのなら……来て。そして、僕を浚って。その時は何処だって付いていくから。絶対、僕は君を受け入れるから」
「必ず行く!!」
例え、一筋の希望しか残されてなくても、何もないよりも断然マシだ。
「なら、イザークも約束して。決して自暴自棄にならないって。死なないって」
「約束する!!」
そう答えた瞬間、キラが背伸びしてイザークの唇にキスをしてきた。生まれて初めて、女のほうから唇を奪われた。
(……ああ……キラ……)
彼女の唇は、なんて柔らかくて甘いのだ?
望んで欲してやっと得た愛情は、なんと甘美でくらくらするのだろう。
初めて『愛する』ということを知った気がした。
愛を得た幸福を、初めて知った気がした。
(……一生、キラだけを愛し続ける……)
イザークは何度も何度も、心に刻み付けるように誓いの言葉を繰り返した。
「悪い、取り込み中だったか」
どこか陽気で酷く艶のある低い声と同時に、ニコルの寝室へと続く、廊下の扉が開いた。
イザークはキラを背に庇い、振り向いた。旅用の長く黒いマントを羽織ったムウ・ラ・フラガが、静かに佇んでいた。
「父上!!」
イザークはほっと息を吐き出した。
半年ぶりの再会だった。
彼はいつもの作り物めいた嘲笑まじりの笑顔ではなく、親しい者にしか見せない優しい笑みを浮かべていた。
「どうしてここに?」
「おいおい、勿論お前たちを迎えに来たんだよ。本部からの決定により、イザーク・ジュール及びにニコル・アマルフィ、両名の拘束を本日で解き、ロゴスへの復帰を認める。良く耐えたなイザーク」
「それは、お咎めが無しってことですか?」
「ああそうだ。新たな領主も後ろ暗いことてんこ盛りだったおかげで、奴を殺したい依頼人が直ぐ見つかったことがラッキーだった。大変だったぜもう、依頼日と実行日の辻褄あわせるの。俺ってば、地道な裏工作なんて向いていない実動隊なんだから、もう二度目はないぜ。いくら俺でも次は庇えねーからな」
イザークの心から重苦しさが消え、羽根が生えたように軽くなった。キラが後からとんっと彼の背中をこっそりと小突いた。父に頭をわしわし撫でられている手前、振り向けないから顔はわからないが、おめでとうと確かに伝わってくる。
「イザーク!!」
ニコルがよれよれと赤い顔をしながら、怪しい仮面の男の肩を借りて入って来た。
「貴様は、具合が悪いときは大人しく寝てろ!!」
「そんな、ムウ小父様とクルーゼ小父様が来てるのに、下っ端の僕がベッドで指令を聞くわけにはいかないじゃないですか」
高熱で荒い息を吐いていたが、彼はすっかりいつもの巨大な化け猫を被っていた。
「てことは、もう依頼が?」
「ああ。俺がここに、指示書を預かってきている」
ムウは懐から、紫に染めた一通の小さな書状を取りだし、二人の見ている中で開いた。
「プラント王国にはギルバート・デュランダル王がいるだろう。その弟の細君を殺せ。方法は任せるが、賊に襲われたように見せかけろ。犯そうが回そうが構わないが、最期には惨たらしく全身ナイフで切り刻んで出血死させ、海辺に捨ててくれ」
ムウはそれだけを言うと、口を噤んでしまった。待てども暮らせども、彼は一向にその先を言わない。
イザークは焦れて叫んだ。
「父上!! 獲物の居場所は?」
ムウは一瞬虚をついた。そして首をかしげてイザークを見る。
「お前もな、なかなか天然ボケなのは面白いが、マジで言っているのなら大概にしておけよ。各国の王族チェックは怠るなって、仕事の基本だろう」
今度はイザークが首を傾げる番だった。クルーゼの仮面からはみ出している口は面白そうに歪み、彼に抱きかかえられているニコルは具合が悪いのか、ガタガタに震えている。
「まだわかんねーのか、ほら、そこにいるだろ?」
彼が顎をしゃくった先は、イザークの真後ろだった。彼が振り返ると、果たして、そこには蒼白になったキラがいた。
イザークの心臓が、トクンと音を立てて鳴り響く。
彼の頭の中は真っ白になった。
06.01.06
・・・レイアウトは明日会社からかえってからね(号泣)
あと一歩で終わったのに、結局力尽きました。
読み辛くってすみませんm(__)m
逃亡( ̄― ̄)θ☆( ++)
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