静かなるその瞳に 2
―――――まだ、女王候補生だった頃―――――
とある日の昼下がり、アンジェの部屋に、クラヴィスがストロベリー・タルト持参で尋ねてきてくれたことがあった。
「うわぁ♪ 丸ごとあるぅ♪」
アンジェはサッカーボールほどある大きなケーキをうきうき切り、二切れずつ皿に盛り、自分は紅茶、でもクラヴィスのは頑張ってアイリッシュ・カフェを入れた。
彼と庭園の喫茶店でお茶した時に、クラヴィスが美味しそうに飲んでいたから、その日の夜から毎日本を片手にロザリアを実験台にして練習したのだ。
ただし、ロザリアがいくら≪美味しい≫と太鼓判を押してくれても、クラヴィスの嗜好に合うかは判らない。アンジェは息を止めじっとクラヴィスの挙動を見つめていた。
彼は一杯目を何も言わずに飲み干し、空になったカップをアンジェの手前に掲げた。
「あの……お代りですか……?」
こくり……と、頷いた。
「あの……これ……おいしかったんですか?」
「ああ」
(うわぁい♪)
クラヴィスのカップを大事に抱え、嬉しげに見下ろすと、彼はふっと口角を上げ微笑を浮かべた。
いつも他の守護聖達の前で見せる皮肉な笑みではない。
アンジェはお代りを求められたことよりも、クラヴィスのその笑顔が嬉しかった。
フォークでタルトを崩し口に運ぶ……そんな単純な動作も難しい。片思いの人の前で綺麗に食べようと、屑を零さぬようにやっと一口運び終える。煮崩れた苺が口の中でふわっと広がり、アンジェもほころんだ。
「クラヴィス様!! これ、とっても美味しいです!!」
「そうか」
クラヴィスがアンジェの口端を指で拭った。小さな菓子屑が、白いテーブル・クロスの上に転がり落ちた。
(う……私ったら子供みたい!!)
頬に熱が帯び、恥じ入って俯く。顔が上げられなくなったアンジェに、クラヴィスはやはり無言でぽしぽしと頭を撫でてくれた。
「お前は素直で判りやすい」
カフェのお代りも、二杯目も終え、三杯目もなくなった。
そして何時の間にか時計の長い針も、盤を二周も回っていた。
たわいもない話どころか相槌すらない。けれど二人でお茶を飲む穏やかなひとときは、自分でも信じられないぐらい寛げた。
(クラヴィス様の………驚いた顔って、どんなのかなぁ?)
つい茶目っ気を起こしたアンジェは、クラヴィスの大きな身体の真横に椅子を運び、ちょっこり腰掛け、彼にぴったりと身体を寄り添わせてみた。
てっきり驚くかなにかのリアクションがあると思っていたのに、彼はそのまま悠然と微笑を浮かべている。
嫌がられていないのが判り、アンジェはますます嬉しくなった。
「幸せ。えへへ……これが……闇の安らぎなのかな……」
もたれながらそう独り言を呟いた時、クラヴィスが身じろぎした。
「お前は闇が怖くないのか?」
寡黙なクラヴィスからの問い……それはとてもやさしい響きだった。
見上げれば彼の紫色の瞳に、小鳥を慈しむような微笑が浮かんでいる。
闇が怖い筈がなかった。闇はクラヴィスその人だから。
試験が始まった頃は怖かったが、今は彼が優しいと知っている。だからアンジェは何も迷わなかった。
「はい。私、闇が大好きです。だって、とっても優しいですもの♪」
そうほえほえとアンジェが言うと、クラヴィスは弄んでいたカップを皿に戻し、面白そうに頬杖をついた。
「何故だ?」
「え……? 何故って……クラヴィス様がいるから〜…………えへへへ……え〜っと……」
と言ってから気がついた。これでは暗に≪貴方が好き!!≫と告白しているようなものではないか!!
頬が急に火照ってきた。言葉も段々と掠れていき、最後は口篭もる。
(ああああああ………あたしってば!!)
アンジェはあうあうと俯いて両手をきゅっと握り締めた。
そんな彼女に、クラヴィスはクッと喉を鳴らした。
「闇は優しい……か。ふふふふ……本当にお前という者は……」
彼の笑い声はしばらく続いたけれど、アンジェが笑われているのとは明らかに響きが違う。自嘲する笑い声に、アンジェは自分が責められる時よりも胸がさらにちくりと痛んだ。
「クラヴィス様。何がおかしいのですか?」
「例え他人が気付かずとも自分自身は犯した罪を知っているだろう。
闇のかぐろさは人の醜さだ。淀んでしまった大気は浄化もままならずに滞っておる。
そんな醜い世界を、お前は何故優しいという?」
「そんな……そんな言い方って!!」
アンジェは拳を握り締めて叫んだ。
「クラヴィス様!! 闇はクラヴィス様が司る領域じゃないですか!! どうしてそんな酷いことをおっしゃるんですか?!」
「闇を司るからこそ、私は本質を知っているのだ。人は誰でも『お前は醜い』とつきつけられるのを恐れるであろう。光は全てを曝け出すのではなく、輝きで目を眩ませてしまうのだ。そんな自分の都合の良い面しか見なかった者は、闇を見て自分の醜悪さを知り愕然とする。
だから闇は厭わしく恐ろしいのだ」
「私、馬鹿だから判りません!! クラヴィス様が何をおっしゃりたいのか、まったく判りません!!」
けれど、アンジェにも判るものがあった。
(クラヴィス様は自分が司る闇がお嫌いなんだ……嫌いなものを守らなきゃならない仕事に疲れて苦しんでいる)
疲れているのなら止めてしまえと言えるのならどれ程楽だったか。でも、彼女には何もできない。ただの候補生であるアンジェには、クラヴィスの辛さの一端を理解することもできない。
そんな自分が情けなくて……何もできない自分が悔しくて……喉がだんだんと痛くなってきた。
アンジェは顔を両手で覆った。クラヴィスに涙を見られたくなかったのだ。
なのにアンジェの意志を裏切って、指の隙間からぱたぱたと水滴がこぼれていってしまう。
「何故、お前が泣くのだ?」
「………クラヴィス様が意地悪なことばかりおっしゃるから………」
「そんな私は厭わしいだろう?」
「いいえ!!」
―――――大好きです!!―――――
この人には、辛い顔はさせたくなかった。
幸せに笑う顔もできると知ったのだから。
悲しい顔はさせたくない。
ずっと側にいてあげたい。
私がいることで………少しでも………あの人が笑ってくれるのなら………
ひゅるるるるるるるるる〜――――――!!
薄気味悪い轟音を立て、風が足下から上空へむかって突き抜ける。
「ううううう…………きゃう〜〜〜〜!!」
その度にアンジェのフレアー・スカートは弄ばれ、彼女はチューリップになったように上半身をスカートで包まれる。
誰も見てなくて良かったなどと、呑気に考える余裕など無い。
ふわふわの軽い布地は、只でさえヘルメットのライトで照らされた狭い視界を完全に遮ってしまい、足元を更に危険にするのだ。
かといって、今の彼女の手では、スカートを抑えて歩く余裕もない。
アンジェは銃を振り上げ前方の岩に打ち下ろした。銃頭が乾いた岩板にめり込む。これが楔の代わりだ。めり込ませた銃を頼りに、彼女は岩壁に貼りついて、一歩一歩細い道を上っている。
今アンジェはいつ転落してもおかしくない、一人がやっと歩ける細い道にさしかかっていた。彼女の背後には真っ黒な渓谷が広がり、生暖かい風が吹くごとに岩穴にもぐり込み笛の音のような不気味な音をたてていた。濁流の音もほんの微かに聞こえるが、それは極端に水かさが少ないか、渓谷がかなり深いかのどちらかを証明したも同然だった。
(お……落ちたら……私、やっぱり死んじゃうかしら?)
一度不安を思いつくと、黴と同じでどんどん増殖していく。
そんなアンジェを嘲笑うのか、道は更に細くなり、気がつくとアンジェの靴幅に満たないほどしかなくなっていた。つま先でそろそろっと進むが、風が吹くたびに岩から剥がれ落ちそうになる。
(うっうっうっ………本当に……道、これでいいの〜?)
ずっと一本道を辿ってきたのだ。迷うわけが無い。
かといって、今更不安だからと引き返すのも辛い。体力も限界だし、銃を持つ右腕も熱を帯びてきている。
なんせ彼女はここまで銃頭を杖代わりに突き刺して歩きつづけてきたのだ。毎回銃を力一杯岩にたたきつけていたため、手も痺れて痛くなってきている。
(頑張るのよアンジェ……クラヴィスだってここを通ったんだから!! あの大きな人が通れて私が行けない訳ないじゃない!! ここの岩を越えたらきっとクラヴィスに会える。きっと会えるんだから……)
平坦な道はすぐ側だ……楽になるから……もう直ぐクラヴィスの元に辿りつける……。
そう自分自身を言葉巧みに騙し、励ましてきたが、いつもアンジェの期待は裏切られ続けてきた。
思い描くゴールも、先が見えないなければ、進む足取りも鈍るものだ。
それに左手に持ち続けていた糸巻きの糸も残り少なくなってきていた。
(ううう……どうしていないの〜)
疲れても、リュックから水を取り出すゆとりもなければ、座って休む場所すらない。
(ねえ……私……クラヴィスの部屋に入った筈よね……。どうしてこんなに広いの? 聖地にこんな場所、あったかしら?)
「クラヴィス……クラヴィス……もう、何処にいるのよぉぉぉ」
冗談じゃ済まない程怖い。
(ううう……もしかして私、もう二度と生きてもどれないかも……)
女王が守る聖地で遭難する筈はないと思いつつも、、一度頭の中を横切った不安はどんどん肥大していった。自分自身が転落したらどんな死に様になるか……頭から血を流して倒れている自分を想像した途端、じわりと双眸に涙が溜まってきた。
だが、こんな状況で泣くなど命取りだ。
視界がぼやけ、ライトの光に目が痛くなる。アンジェは溜まらなくなって糸巻きを持つ左手の甲でぐしぐし目を擦った。
そんな時に、ひゅるるるるる〜と突風が吹く。
「きゃ!!」
アンジェのスカートが、また捲り上げられ、顔全体にばさっと覆い被さった。
平衡間隔を失い、足がもつれて体があお向けに傾ぐ。
「きゃう!!」
銃頭が、アンジェの重みに耐えきれず、岩棚から剥がれた。
慌てて手をわきわき伸ばすが、乾いた岩壁には掴まることのできる木も草も何も生えていない!!
(うそぉぉぉぉぉぉ!!)
ガシッ!!
アンジェは、背後から真っ暗な渓谷に落ちる筈だった。
糸巻きがからからと鳴りながら、渓谷の奥へと落下していく。木が、岩にぶつかりながら小さくなっていく音を聴きながら、アンジェは、この渓谷がかなり深かったことを知った。
(……私……も……落ちてた……?)
彼女を背中で支えてくれる者さえいなければ。
ドクンドクンと、心臓が早鐘を打っている。
今更だが、全身から冷や汗がにじみ出てきた。何が自分を救ってくれたのかは判らないが、アンジェは命拾いしたことだけは理解できていた。
「……あ……ありがとう……」
誰だか判らないが、取り合えずお礼をきちんと言っておこうと思ったのだが……なんか、感覚がおかしい。
自分を落下から救ってくれた物達は、何故かどれもが固くひんやりと冷たかった。それに、アンジェの背中と言わずに腕にも足にも首にも後頭部にも、わきわきと支えている。
ヘルメットのライトが照らす先には、そびえたつ岸壁と光も飲み込む深淵しかない。
しかし、仰向けに倒れかけたアンジェの背中と腰には、誰かが支えてくれているわけで……。
アンジェはこくりと息を飲んだ。
そして、恐る恐る捲れあがったスカートを右手で下ろし―――――その隙間からちらりと見た!!
手首からしかない無数の手を。
しかも肉が冷たくて固いなら死肉だ!!
それらが、アンジェを神輿のようによいしょよいしょと押し上げていて……
「ひぃぃぃぃ――――――ぎぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
今だかつて挙げた事のない叫び声をあげた途端、手達も驚いたのかぱぱっと消えた。こんな不安定な場所で支えを失ったアンジェは、当然のことながら、今度こそまっさかさまに渓谷へ落ちる。
「きゃあああああああああ!!」
「アンジェリーク!!」
(?!)
愛しい人の声にぱちっと目を開けたアンジェは、落下している自分めがけ、急降下してくる物体をまともに見てしまった。
ヘルメットのライトで照らし出されたのは、博物館にいるような、骨だけの飛竜だ!!
空洞の目には意志など見えない。それなのに、骨は口を大きく開け、今にもアンジェを咥えようとしているではないか!!
「きゃああああああ!!」
骨の竜はアンジェの横を軽々と通り、その背で手綱を握っていたものの腕が、彼女の落下する体を見事にキャッチした。
「……アンジェリーク。私だ。アンジェリーク……」
広く暖かい腕に包まれ、ゆっくりと揺さぶられる。
アンジェはがちがち震えながら目を開けた。
白檀の香りはクラヴィスの匂いだ。彼女は自分が最愛の人のトーガに包まれていることを知った。
「ク……クラヴィスぅぅぅ」
途端、安堵の涙がどっと込み上げてきた。ふぇぇぇっと顔を崩し見上げると、ライトに顎から照らされたクラヴィスらしき青ざめた顔が見え……。
「きゃあああああああ!!」
お化けに見えた!!
恐怖で反射的にじたばた手足をばたつかせてしまった。
「怖い〜……!! クラヴィス……クラヴィス……ふぇぇぇぇぇぇぇん!!」
「………アンジェリークよ………暴れれば落ちるぞ」
ため息混じりに囁く声は、間違いなくクラヴィスのものだ。アンジェは片腕でしっかりと抱かれていたが、怖くて溜まらなかった。
ふるふる震えていると、クラヴィスがぱちんとヘッドライトを消してくれた。
「まったく……お前という者は……」
呆れ、疲れた口調を聞き、アンジェはもう一度彼を見上げた。
ライトのない闇は薄暗かった。
白骨が仄かに淡く輝いていて、クラヴィスの顔がわかる。
飛竜を操る彼は、酷く不機嫌で険しい顔をしていた。
「……クラヴィス………あ……あのね、こ…この骨……私を食べる?」
「これは私の乗り物だ。意志などない」
「……よかったぁ……」
「何がだ? まったく……そなたはとんでもない者だぞ。私は自力でこの山を越えようとした者など、いまだかつて見たこともない」
責める口調だが、彼の腕は更にアンジェを強く抱きしめてきた。
彼の体温がはっきりと感じられる。今度こそもう安心なのだ。そう判った途端、再びアンジェの目から涙が零れた。
「う……うわぁぁぁんあんあん……クラヴィス……怖かったよぉぉぉぉぉ!!」
「……そうか……」
広い胸に顔を埋めている間も、飛竜は速度を増しぐんぐん飛びつづける。
「ねぇ、どうして聖地にこんな世界があるの!! 一体、この部屋は何なの!!」
えくえく泣きじゃくりながら彼の顔を見ると、クラヴィスは前方を見据えながらはっきりと言った。
「私の趣味だ」
「嘘ぉ!!」
「真実だ。ここは私が作った世界―――闇で覆われた完璧な死の世界だ」
アンジェがもう一度見上げると、クラヴィスの顔はいつもの無表情そのものだった。
本当に冗談ではない。
(何なの……この人……)
張り詰めていたアンジェの精神が、ぷちんと音を立てて切れた。
彼の整いすぎた顔が、急に禍禍しく思えてきた。
貧血で、ふらぁっと、意識が遠くなっていく。
「アンジェリーク?」
クラヴィスの抱きしめてくれる腕の力も判らない。
(……私の愛したクラヴィスが……)
(……こんな……変な人なんて……)
――――誰か嘘だといってぇぇぇぇ!!――――
01.08.31
BACK NEXT
贈り物の部屋に戻る
ホームに戻る