
マーシャが厨房で用意された食事を運んで来てニーナの前に並べた。それはいつも通りの朝食だった。しかしスープを飲もうとスプーンですくって持ち上げた時、見慣れない形の具があった。
ニーナは何だろうと見てみるとそれは蝶の死骸だった!
「きゃ――っ!」
ニーナは驚いて立ち上がると、その拍子にパンが入っていたカゴがひっくり返った。
その下にも翅をもがれた蝶の死骸が!しかもそれは昨日の碧い蝶だった。
お茶の準備をしていたマーシャがニーナの悲鳴に驚いて振向いた。
「酷い・・・いつの間に、こんなこと・・・」
厨房は厳重に管理されているから出される食事に間違いは無い筈だった。それにマーシャが直接運んで来たからこんな細工する隙も無い。そうなると間違いない筈の厨房がこんな事をするなら大問題だ。
「姫様、もうこうなったら黙っていられません!王様に言いましょう!」
マーシャは堪らずそう言った。しかしニーナは首を振って自分のハンカチを広げると蝶の死骸をその上に置き始めたのだ。そしてそっと包むと部屋から出て行こうとした。
「姫様!」
「・・・お花がたくさん咲いている・・・ところに・・埋めてあげようと思うの・・この子達はお花が好きだから・・こんな・・姿になって可哀想でしょう」
振向いたニーナは何時もの平気という顔をしていなかった。自分にされた仕打ちよりも蝶の死を悼んでいる感じだ。部屋を出て行く彼女にマーシャは慌てて付いて行った。
ニーナが向った先は昨日の庭にある花園だった。その端に座り込むと花と花の間の土を素手で掘り出したのだ。その湿った土に涙がぽとぽと落ちた。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・ごめ・・・もっと飛びたかったでしょう・・・」
まだ早朝で誰もいないその庭に、ニーナの謝りながらすすり泣く声だけが聞こえていた。
そして掘った土の中に蝶の死骸をハンカチごと埋めた。
「姫様・・・」
マーシャは彼女の行動を止める事も出来ず呆然と見ているだけだった。
ニーナの様子が余りにも悲痛で動くことが出来なかったのだ。痣が出来るぐらい自分が危害を受けても平気と微笑んでいたニーナが、蝶の死骸に涙するのが信じられなかった。
グレンはその二人の様子を物陰からじっと眉をひそめて窺っていた。
ニーナの様子は逐一報告させている。早朝に彼女が部屋を飛び出したと聞きそれが何故か気になり急ぎ後を付けて来たのだ。昨日もグレンが投じた一石でニーナは集団で暴行を受けたと報告を受けていた。彼女が泣いている理由は昨日の一件に関わるだろうと予想出来た。
しかしこの花園で何をしているのか分からなかった。
彼女達が去った後、その場所を掘り返してみると白いレースの縁取りが付いたハンカチが現れ、その中から蝶の死骸が現れたのだ。予想外の事にグレンは目を見張った。しかも・・・
「スープ?パンくず?」
グレンはハンカチに付いたそれらに気が付いた。
「まさか食事に混入?」
グレンもマーシャと同じく食事に細工するような真似が出来る筈が無いと思った。
それが事実なら大問題だからだ。それが出来るとなれば毒でも簡単に盛ることが出来るだろう。
これがもし蝶では無く毒だったらニーナの生命は消えていた。
グレンは自分の行動で彼女が生命の危険に晒されるかもしれないとは思っていた。
だからそうならないように細心の注意は払っていたが・・・
度重なる虐めに肝心のニーナは一度もグレンにその旨を洩らすことが無かった。
彼女は本当にみんな仲良く≠実践しようとしているらしい。直ぐに泣きついてくると思っていたものが外れて計画の修正をしなくてはならないところにきていた。
ふいにニーナが泣きながらここで土を掘っている姿がチラついてきた。
そして彼女がしゃくり上げながら言っていた言葉も過ぎる―――もっと飛びたかったでしょう。
昨日この場所で共に眺めた蝶を思い出した。あんな風にゆっくりと蝶を眺めた記憶は今まで無いし、これからも無いだろう。あの時間は何故か心休まる思いがしていたのだ。
あの日ジャラが言っていた言葉も心を過ぎった―――
「自分で謀 ったものに心を痛めぬようにと言ったであろう?」
いきなり後ろから湧いてきた声にグレンは振向いた。
したり顔のジャラが何処からともなく現れていたのだ。ジャラはいつも見られたく無いところに現れる。しかもこういう時の魔神は全てを見透かしている感じでグレンは苦手だった。
「企みは上手くいっているのか?」
グレンは諦めたように溜息をついた。この魔神に色々隠しても無駄なようだ。
「いいえ―――オルセンの王女達とは相性が悪いようですね。今回も思うように事が運びません」
「相性?そういう言い方もあるのだな。くっくく・・・そなたの手の上で踊ってもらえぬとは愉快、愉快」
「いいえ、無理にでも踊ってもらいます」
ジャラが、にやりと嗤った。
「無理に?そなたの方が無理している感じではないか?まあ何れにしても探しものが早く見つかると良いな」
グレンは、はっとすると声を殺して聞いた。
「貴方はどこまでご存知なのですか?所在を知っているのなら教えて下さい」
「我はそなた達が信じて祀るような神では無いのだから何もかも分かるものでは無い」
「私は人々が祈る神を信じたことはありません・・・荒れ狂う海で貴方を見た時から貴方が私の唯一の神です―――全てを知っているのでしょう?」
「嬉しいことを言ってくれる」
ジャラは薄っすらと微笑みながらそう言っただけだった。
彼は知っているのかもしれないし、知らないかもしれない。魔神の心はグレンには量れなかった。
「・・・・失礼しました。貴方は興味があるものだけに動かれるというのを・・・つい失念しておりました。お許し下さい・・・」
グレンの探しているもの・・・それは連れ去られた父親。
先王ダドリーはシーウェル王国の歴代の王の中でも最悪の部類に入る王だった。王に媚びへつらう臣を重用し、狂乱の宴が繰り広げられる宮廷は腐敗して民衆を苦しめ続けた。その中でも志しを高く持つ息子が頭角を出し始めると、自分の地位を危ぶみ我が子でさえも殺そうとしたのだ。
グレンは彼を主君と仰ぐ臣と共にこの父親を排斥して王位に就いた。
王は幽閉されたが対外的には病死となっている。虎視眈々としている諸外国に国が疲弊している上に国政の中枢が王位を巡って争っているという弱みをみせる訳にはいかなかったのだ。大国シーウェルは内側から崩れようとしていたのだった。
それゆえ速やかに行なわれた王位の交代劇―――その秘密は共に苦楽を共にした一部の者達しか知らない筈だった。それなのに幽閉していた牢獄からダドリーを連れ出した者がいるのだ。
誰が裏切ったのか?その誰かがどうしても分からなかった。
「あの時、迷わず殺しておけば良かった・・・」
グレンは怨嗟を込めて呟いた。
「確かにそなたにしては甘かったな」
ジャラは相変わらず楽しそうだ。グレンの窮地もまた愉快なのだろう。
この同盟はエリカとその魔神の登場によって予想外の展開を余儀なくされたが、それでも同盟は成功させなければならないのだ。その為にはシーウェルが再び王位争いでガタガタしている訳にはいかない。
先王の旧派閥だけで起こしたものでは無いとグレンは考えた。
裏で糸を引く他国が存在すると―――
そこでこの遊学という餌を投げかけ、更にオルセンの王女という刺激を与えた。難なく王宮奥深くに入り込んで何かと画策し易くなるが、先王を担ぎ出し覇権を狙う者にとってシーウェルとオルセンとの結び付きは最も避けたいと思うだろう。
(そう・・・彼女にちょっと気のある振りをすればいい)
案の定、それに釣られて動きが出て来た。後はニーナが泣きついてくれば大義名分を掲げ彼女らを十分探ることが出来る筈だった。その中に姫を騙 る偽者がいるとグレンは考えていたからだ。
そこから糸口を掴む予定だったのだが・・・
「いずれにしてもあれを早く見つけて処分しないことには、ベイリアルと戦う前に此方が足をすくわれます」
「ふふふ・・・しかし敵はぬるい。まどろっこしい事をせずにあの娘をくびり殺せば良いものを。そうすればこの地で死なせた責任をオルセンが追及して同盟は決裂であろう?もしくは戦争だ。そうなれば我はアーカーシャと戯れよう」
「―――私ならしませんね。娘が殺されたぐらいであのオルセンの王は同盟を破棄したり、戦争は始めたりする事は絶対に無いでしょう。そういう人物です。逆に私と共に追求するでしょうね。様子を見ていましたが敵はそこまで愚かではないということでしょう」
「その割に先ほどは青い顔をしていたと思ったが?我の見間違いか?」
ジャラは返してやったがグレンがその片目を自分に捧げた時からずっと見ていた。
聡明に育ちつつある自分の息子を煙たがった王は嵐の多い季節にどうでもいい用件で出航させた。
死んで来いと言っているような船出からジャラの気まぐれでグレンは生還したのだった。
それから何度も生命を狙われながら生き抜く様は小気味よくジャラは見ていて飽きなかった。
皆がグレンの手の上で面白いように踊っていたのだ。
しかしエリカとの出逢いは彼に変化をもたらした。彼女と結ばれなかったとしても何時も張り詰めていた心にもたされた心地よい想いを知ってしまったのだ。
その経験はもう以前のグレンには戻れないぐらいの衝撃だったに違い無い。
その証拠に自分の計画で踊らせているニーナに心痛めている様子だ。今までのグレンなら考えられないものだった。彼女が特別なのかもしれない。しかしそれに本人が気付いているのか?
気付かぬ振りをしているのか・・・素知らぬ振りをするのは何時ものグレンだ。
「気のせいでしょう。私は今、同盟の強化とシーウェルの憂いを取り除く事が優先ですから些細なことで心悩ますことはございません」
「くっくく・・・やせ我慢も程々にな。我でも身震いする程に清らかな心の主を相手にどこまでその態度が通用するのか見せてもらおう」
「・・・・・・・・・」
返答の無いグレンに気にする事なくジャラは愉快そうに去って行った。
やせ我慢♀mかにそうだとグレンは思った。ニーナは世間知らずどころか色に例えるなら純白だ。
話せば話す程、見れば見る程・・・反対に我が身の穢れを感じて苛々してしまう。あそこまで綺麗だと穢したいと思う気持ちと、逆にその清らかさに浸りたいと思う気持ちがせめぎ合ってしまうのだ。
「―――後者のほうが強いだろう。ふふっ、私も情けなくなったものだ」
エリカと出逢いによって自分にこんな気持ちが芽生えるようになったのを恨みたくなる。エリカが特別だったと思っていたから彼女の妹を特別に思うのか?それともニーナがまた特別なのかは分からない。
また彼女のすすり泣く姿が目に浮かびグレンは舌打ちした。
「何れにしても次に進むしかないだろう・・・」
グレンは湧きあがる想いを冷たい海底に沈めるかのように抑えたのだった。
そしてその日は毎週行なわれる親睦を兼ねた同盟国の客人との昼食会だった。
もちろんグレンも出席するその会は、彼の妻の座を狙う姫達にとって自分達を売り込む絶好の機会だ。姫達は国から持ち込んだドレスや宝石で自分を飾り立て出席する。それは毎回昼間とは思えないぐらい華やかなものだった。
「姫様、今日の昼食会は何を着られますか?」
マーシャはニーナの衣装室を開けながら言った。
他国の姫達は衣装室から溢れんばかりのドレスが本国から届けられて、その手入れが大変だと侍女仲間達が愚痴のような自慢のような事を言っていた。多分自慢の方だろう。
姫達の奇妙な派閥と一緒でその主に仕える王宮の侍女達にもそれが伝染しているようだった。
仲間であった筈の彼女達の中にも同じく派閥が出来ていた。
だからニーナが同じドレスを着まわしするから馬鹿にしてその侍女であるマーシャにもそういう態度をとるのだ。確かにニーナの衣装室はガラガラで、彼女の国の気遣いの無さにマーシャは腹立たしく思っていた。もしくはニーナが国へねだればいいのにと思うのだが・・・
(はぁ〜する訳ないかぁ〜)
ニーナは遠慮しているとかそう言う感じでは無くて関心が無いのだ。しかも競うという言葉をたぶん知らないかと思うぐらいそういう気持ちが無い。初めは呆れていたマーシャだったがこの頃では一緒にいるととても心が洗われるようで心地良かった。
しかし今日は朝の事件で流石のニーナも沈んでいる感じだから自分も何だかそういう気分だ。
その時、ニーナの部屋へ贈物が届けられた。
贈り主はシーウェル王。開けて見るとそれは素晴らしいドレス一式だった。
「姫様、良かったですね!なんて素敵なドレス!早速これを着て行きましょう!」
マーシャは興奮して言った。
このドレスなら意地悪姫達が着ているものよりずっと良い品で勝てると思ったからだ。
ニーナはそのドレスを手に取ってはみたものの考え込んでしまった。
こんな贈物を貰うのは初めてで嬉しいのだが、これはいつも貰っていた気軽なものでは無いから蝶のようになるかもしれないと思ったのだ。特別に扱われることによって出来る溝をニーナは恐れた。
自分は一生懸命に皆と仲良くしたいと思っているのにその想いがどんどん遠ざかるのだ。
その原因がシーウェル王からの特別扱いだということがようやく分かってきたのだった。
ニーナは嫉妬されるという負の感情を初めて知ったのだ。
「・・・・マーシャ、これは着ないわ・・・」
「えっ!どうしてです!」
「・・・たぶん・・これを着て行くと・・・みんなが嫌な気分になるでしょう?」
「でも――」
マーシャは反論する言葉を呑み込んだ。
マーシャは自分がお世話している姫は王からこんなものを貰ったと自慢したいぐらいだがニーナの性格を考えればそうはいかない。
結局それに手は通さず何度か着たことあるドレスに着替え、姫君達の嫉妬が渦巻く会場に向ったのだった。