
会食会場に着いたニーナは真っ青になって立ち尽くしてしまった。
会場内にいた姫達の殆どがいつもより沢山の蝶で自分達を飾っていたのだ。
ニーナはそれが蝶の墓場を見ているようだった。
思わず今朝の出来事を思い出して吐き気を覚えてしまった。
しかし震える足でその間を抜け用意された席に腰掛けた。そこは何時もと同じく羨望の的・・・
正しく言えば嫉妬の的となるシーウェル王の隣。
冷ややかな視線を注がれながらもニーナは何時もの様に皆に微笑みかけた。もちろん誰も微笑み返しをしてくれるのでもなく話しかける者もいない。
聞こえるように誹謗中傷を言うだけだ。今日の話題はもっぱら昨日の蝶のことについてらしい。
だから申し合わせたように蝶を多量に飾っているのだ。
少し遅れて到着したグレンはその異様な様子に直ぐ気が付いた。
思った通り、今朝の件をニーナは言って来なかった。申し立ての無いものを追求する訳にはいかないが厨房関係の調べは内密に行なうように手配した。それだけでも手がかり一つ無かったのに比べれば前進したと言えるだろう。
食事中は礼儀として喋らない。煩くなるのはそれが終わってからだった。自由に席を立って食後の飲み物を楽しみながら歓談するのだ。
しかしその食事の途中で立ったのはグレンだった。
「ニーナ姫、庭でまた蝶を見ましょう。青い空に舞う蝶が美しいから」
「あの・・・まだ皆様は食事の途中ですが・・・」
全く手を付けていないニーナの料理にグレンが視線を落とした。
今朝の件で食欲が無いのは当然だろう。
「姫は食欲が無いようですね。私も今朝が遅かったので今、欲しくありません。先に失礼して参りましょう」
ニーナは困ってしまった。王の誘いを断るのは失礼だがみんなの気持ちを考えると行けば恨まれる。
でも、さあと言って手を引かれてしまっては断れ無くなった。
仕方なく付いて出る所にグレンが話しかけてきた。
「そう言えば、ドレスは気に入りませんでしたか?今日着てきて頂けるかと思っていましたが?それとも届けが間に合わなかったとか?」
聞き耳を立てている姫達の視線が一斉に突き刺さるようだった。
「あの・・いいえ・・・素敵なものありがとうございました。でも私には勿体無くて・・・頂く訳には・・・」
「どうして?とても似合うと思いますよ。貴女は悪戯に命を弄ぶような美しさより、ずっと似合うと思います。そう思って選びましたから」
グレンは優しく微笑ながら言った。彼は姫達が好んで付けている蝶の飾りをまた批判している。
ニーナはそれをハラハラしながら聞いていた。昨日と同じだ。
そして更にニーナは困って硬くなってしまった。
(手・・手が腰に・・・ど、どうしよう・・・)
グレンの手が自然に伸びてきてニーナを引き寄せたのだ。たぶんもう顔は真っ赤になっているだろう。その状態でぎくしゃくと歩きながら会食会場から繋がる庭先に出て行ったのだった。
これも当然犯人を煽る為のものだったが、ニーナの様子にグレンは内心それを忘れて楽しんでいた。
真っ赤になって手と足が同時に出て歩いている姿がとても愛らしかった。
しかし仕事は忘れていない。
「姫、先ほどスープなどは全く手を付けていませんでしたが口に合いませんか?」
ニーナは、はっとした。まさか今朝の件を言うことは出来ない。
「えっと・・・いいえ。いつも美味しく頂いています・・・とても温かいし・・・」
「温かい?スープは温かいものでしょう?」
「すみません。言い方が足りなくて・・・私は体が弱かったので・・・体に悪いと言っていつも冷めたものしか食べられなかったから・・・だから本当に何でも美味しいです」
グレンはそれを聞くとそれ以上追求する言葉が見つからなかった。
それならばと今度はニーナをふわりと抱き上げた。
「シ、シーウェル王!」
グレンは彼女を抱き上げたものの予想外の軽さに驚いていた。まるで羽でも生えているかのようにニーナは軽かったのだ。
「あっ・・すみません。足元に小石があったので危ないと思いまして」
「あ、ありがとうございます」
足をすくい上げているのでドレスの裾がまくれ上がって素足が見えていた。
そこには昨日足蹴にされた痣が数箇所あった。白い肌とそのうっ血した痣の対比が鮮明でグレンは自分が予想していたにも関わらず何故か・・・かっと頭に血が上ってしまった。
「痣!何故こんな!」
グレンの大きな声にニーナの方が驚いてしまった。
二人の様子を窺っている姫達の中には、びくっと肩を揺らしている者がいた。
グレンはどの国の誰がしていたと報告は受けていたが、実際彼女の被害を目の当たりにして怒りが込み上げてきてしまった。芝居では無く本気で追求したい気分だ。
しかしニーナは、さっとグレンの腕の中から降りてしまった。
そしてドレスを整えるとぽつりと答えた。
「あの・・昨日転んだので・・・」
固唾を呑んでニーナの言動に耳を傾けていた犯人達が、ほっと息を吐いて胸を撫で下ろしている感じだった。それらにグレンは、さっと視線をめぐらして確認した。ニーナにはこれだけ此方から話をふっても彼女らの所業を訴える様子が無かった。彼女の広く無垢な心は全てを許しているのだろうか?
そう思うとその彼女らを増長させ煽っている張本人のグレンはまるで自分がニーナから許されているような錯覚を感じた。心の奥が、ちくりと針を刺したように痛む。
「そうですか。気をつけて下さい。姫が怪我をしたら私が悲しい・・・貴女は私にとって大事な人だから・・・」
「え?」
グレンの大胆な言い回しに聞き耳を立てていた姫達は、小さな悲鳴を上げたものまでいた。
しかし言われた本人は、意味不明の顔をしている。
「姫、私の気持ちを察して貰えませんか?私は貴女に夢中なのです。この想いは日に日に強くなるばかりで・・・先日オルセンの王にその旨の親書を送りました。返事は貴女の気持ち次第で祝福するとのこと・・・」
結婚の申し込みを既にオルセンにしているという衝撃的な話だった。端から見ればシーウェル王がニーナに恋をして申し込んだかのようだった。
「あの・・・シーウェル王・・もしかして・・・私のことが好きとか言っているのですか?」
グレンはニーナからそういう切り替えしがくるとは思わなかった。
しかしそれはそつなく微笑みを作り答えた。
「ええ、とても好きです」
ニーナはそれが全部嘘だと気が付いた。声は心を込めた優しさで溢れているし、微笑んでもいるが瞳がそれを語っていないのだ。隻眼だから表情が分かり難いとか言う感じでは無い。ニーナは何時もそういう顔をした家族を見ていたから分かった。母も父も兄や姉も周りにいた者全てがもうすぐ元気になる≠ニにこやかに笑って嘘を言っていたのだ。その時のみんなの瞳だけは悲しみに暮れていた。
それと同じだった。ニーナは悪意を表に出す姫達を怖いと思ったことは無かった。
でもこの時初めて他人を・・・
そしてグレンを怖いと感じてしまった―――彼の嘘が怖かった。
ニーナは一瞬にして戸惑いと恐怖が入り混じる顔へと表情が変わってしまった。
「ニーナ姫?」
「嫌!」
グレンは彼女の様子の変化に気が付き触れようと手を伸ばしてきたが、ニーナは拒絶の言葉と共にその手を払いのけたのだった。
グレンはまさかと思い、叩かれた手を宙で止め一瞬呆然としてしまった。
しかし我に返ると周囲に目を配った。こんな場面でニーナに拒絶されては何かと不都合なのだ。
グレンは更に表情を和らげ微笑みを浮かべたが、そうすればそうするほどニーナの顔が強張っていた。その彼女の後ろ姿しか皆が見ていないのが幸いとはいえ、これ以上拒絶の態度を取らせる訳にはいかない。それよりも胸の奥から湧きあがってくる怒りがグレンを支配してしまった。
「此処ではゆっくり話も出来ませんから場所を移動しましょう」
グレンはにこやかにそう言うとニーナの細い手首を掴んだ。しかしその柔らかな表情や声とは裏腹に握り潰されるかのような力が彼女の手首にかかっていた。
ニーナがその痛み顔を歪ませた隙にグレンは顔を近づかせ耳元で囁いたのだった。
「シーウェルと友好関係を続けたいのなら私に従え」
その低く囁かれた声は怒気を含んでいた。ニーナは恐ろしくなって思わずグレンから離れようと体を引いたが、彼の手がそれを許す筈も無く更に力が加わってしまった。
「さあ、参りましょう」
ニーナは従うしか無かった。手を引かれたまま庭を通り抜け、皆の視線から逃げるように連れ込まれた場所は王の居室だった。そこでニーナは解放されたが、グレンは部屋の奥に進むと卓子の上にあった水差しから水を注ぎ飲み干していた。
入り口近くに残されたニーナは手首が痛かった―――視線を落として見れば指の痕までしっかり残ってうっ血していた。とても悲しくなって涙が溢れてきた。
ニーナは滅多に泣かない。涙が溢れそうになっても、ぐっと堪えていた。泣いたら母親が心配するから彼女の出来る精一杯のものだった。だから最近悲しくて泣いたことと言えば蝶の為に泣いたぐらいだ。
それが今、涙がぽとぽととその手首の痣に落ちてきた。グレンの嘘が悲しかったのだ。
広い世界に出たものの遠い異国で仲間外れにされて一人ぼっちだったニーナにはマーシャとグレンだけが勇気をくれていた。その彼の優しさが全て欺瞞で固められた姿だったのだ。
そして今もそれを続けようとしている。
水を飲んで気持ちを落ち着かせたグレンの振向いた顔は優しく微笑んでいた。
「泣かないで・・・愛しいニーナ姫。手荒なことをしてしまってすまない。貴女が私を避けたからつい、かっとしてしまって・・・許して欲しい・・・ニーナ姫・・・」
「い、いや・・・こ、来ないで・・・嫌・・・」
ニーナは急いで部屋の外へ逃げ出そうと扉に手をかけたが、伸びてきたグレンの手で止められてしまった。そして金色の鍵が差し込まれるとガチャリと鍵をかけたのだった。
驚き振向いたニーナはその鍵をグレンが遠くに投げたのを見た。
鍵が何処かに当って落ちた音を遠くで聞いた。
「逃げられないよ。ニーナ姫・・・」
ニーナの拒絶にあったグレンは抑え込んでいた怒りが再び湧き上がってしまった。
これは自分の思い通りに踊ってくれない彼女に対しての怒りだと思うことにした。
現に目の前で泣くニーナに苛々しているじゃないかとも思う。
「こ、ここから・・・だ、出して下さい・・・お願いします・・・」
「うるさい・・・うるさい、うるさい!黙れ!お前を見ていると苛々する!そのトロトロ喋る声を聞くと気分が悪くなる!何もかもが気に入らない!」
「ご、ごめんなさい・・・私・・・」
グレンは、はっとした。
(今・・・自分は何を・・言った?)
自分の持て余した心を罪の無いニーナに向って八つ当たりをしてしまったのだ。
彼女に本心を晒し、とうとう虚構で固めた筋書きが壊れた。
グレンは愚かな自分に対して舌打ちした。
そして怯えて泣くニーナを壁まで追い込んだが彼女が床にしゃがみ込んでしまった。
小さくうずくまって泣くニーナを見れば胸の奥がまたチクリと針で刺されるようだ。
しかしその彼女を無理やり立たせようとしたが抵抗されたのでそのまま床に押し倒した。
そしてニーナの顔を覆っていた両手を無理やり掴み、床の上に押さえつけ身体も自由が利かないように膝で押さえ込んだ。こうなってしまったらニーナは身動き一つ出来なかった。
鬼気迫る表情をしたグレンが怖くて堪らなかった。ゆっくり喋るニーナの話を優しく聞いてくれた彼の口から気分が悪くなると言われたから今、何か言いたくても言葉は呑み込んでしまう。
グレンは見ていても苛々すると言ったのにニーナを見下ろしていた。
「―――私はお前が嫌いだ。だが結婚する。だから愛するようにしよう。心から愛しているよニーナ。お前も私を好きになれ!お前の父親は親馬鹿だ!政略結婚に娘の意思を尊重する話にならない馬鹿だ。だが我々が絆を深めてこそ列国を抑えることが出来るだろう。分かったか?」
ニーナは自分を好きになれと命令する王が恐ろしかったが、父親から言われていた使命にそれが必要なら従うしかないのだろうか?しかし自分を嫌いだと言う彼を好きになれないだろう。
でもそうしなければならないのなら・・・
「・・・私・・・私も貴方みたいに好きなふりをします・・・それで・・許してください」
「私は好きになれと言ったんだ!ふりをしろとは言っていない!」
グレンは苛々が止まらない。
「す・・好きになる気持ちは・・・命令されてなんか・・・出来ません」
「うるさい!出来なくてもやるんだ!」
グレンは自分を好きになれ≠ニいう事にこだわり続けた。どうしてそう思うのかと言う想いは封じてそれを命令したのだ。もう自分はどうしてしまったのか?と嗤いたくなった。
そしてジャラが愉快そうに笑う姿が目に浮かんでくるようだった。声まで聞こえるようだ。
「シーウェル、そのままその娘を穢すつもりか?そなたが後で心を痛めても我は慰めてやらぬぞ」
本当に声がした。
グレンがニーナのドレスの胸元に手をかけ始めたその時にジャラがどこからか現れたのだ。