
グレンはその手を一瞬止めたが再び動かし始めた。
「貴方は黙って見ていればいいでしょう?私が苦しむのを見るのも愉快だと言っていたではありませんか。懐柔が効かないこういう娘は身体に教え込んで力で支配してしまえば良いのです。邪魔はしないで下さい」
グレンの両手をジャラが掴んだ。
「止めよと我が言っている。そなたの守護神の真似事をしている我が言っているのだ。娘は気を失っている。そなたらしくないぞ・・・既にそなたの心は傷付いておるではないか」
ジャラに掴まれているグレンの手は震えていた。魔神によってニーナの上から引き離されたグレンは力なくそのジャラの腕にすがると魔神は我が子を慈しむ母のように彼を抱いたのだった。
「無理しおって・・・そのようになるまであの娘が好きか?シーウェル?」
グレンの肩がぴくりと揺れた。
「・・・いいえ・・・私はあの真っ白な娘は嫌いです。自分の醜さが浮き出て堪らなくなる・・・だから嫌いです。大嫌いだ・・・エリカなら良かった・・・エリカなら私の心を明るく照らしてくれた。私が暗い道に迷わないようにしてくれただろう。何故・・・私の傍にいるのが彼女じゃないんだ・・・」
それは目先だけの誤魔化しだとジャラは言いたかったが言わなかった。今のグレンに言っても否定するだけだろう。誤魔化しでもなんでも無い本当に癒しを与えてくれるニーナを否定しているようにグレンの心は一筋縄ではいかない。
ニーナはショックのあまり一瞬気を失ったがジャラの声で意識が戻り始めていた。
そして再びニーナを嫌いだというグレンの声が聞こえ、そして・・・
(シーウェル王は姉さまが好きだった?・・・)
魔神サイラスと恋人同士の姉をこの王は諦めたのだろうか?
(姉さまが好きなら・・・私みたいなのが嫌いなのは分かる・・・正反対だもの)
当然だろうなとニーナは納得してしまった。明るく活発で、はきはきと喋る姉は城中みんなの人気者だった。笑顔の真ん中には何時もエリカがいた。
その姉を愛したシーウェル王―――
(自分を好きになれと言ったのは姉さまに言いたかった言葉なのかも・・・)
ニーナはそう感じてしまった。そして自分の着衣の乱された胸元に手を当てて起き上がった。
魔神の邪魔が入らなかったらどうなっていたか・・・恐ろしくて震えがきた。
世間知らずのニーナでも彼が何をしようとしたのか分かった。シーウェルの王はそれだけ本気でニーナの心を侵してまで目的を達成させようとしているのだということだ。
ニーナは初めて王族としての使命を与えられ一途にそれを全うしたいと思っていた。その為に必要な事は何でもしたい。グレンがエリカを諦めてニーナで我慢しようとしているように、ニーナは自分も我慢しなくてはと思った。自分を嫌いだと言う人を好きになるように努力する。それが今自分に出来ることだとニーナは決意した。
「シーウェル王・・・私、同盟のためにこの結婚が必要なら・・・貴方を好きになるように努力します・・・」
グレンはその言葉をジャラの腕の中で聞いた。
何時の間にか意識が戻ったニーナが近くに立っていたのだ。
グレンは魔神の肩に預けていた顔を、はっとしてあげて頼りなく立つニーナを見た。
彼女は何時ものように言葉を探しながらも急いで喋ろうとしていた。
グレンがニーナの喋り方に苛々すると言ったからだろう。
「どうして・・・どうしてそんなことを言う?私がお前に何をしようとしたか分かっているのか?はははっ・・・分かっていないのだろう?」
グレンは信じられないという顔をして言った。
ニーナは彼が何故か怯えている感じがした。
何に怯えているのかまでは分からない。何をすれば安心してくれるのか?
「あの・・・私は貴方に従うと決めましたけど、不安なら・・・それをして安心するのなら、私は・・かま・・構いません」
ニーナは今にも倒れそうなくらい真っ青な顔をして言った。
ジャラは二人の話に加わるつもりは無いようで静観している。
グレンは彼女の覚悟した返答を聞いて逆に冷静さを取り戻した。
(・・・彼女は本当に染み一つ無い真っ白な心を持っている・・・)
国では同盟の大切さを聞かされたのだろう。だから陰湿な虐めにも耐えひたすら使命を全うしようとしていた。初めて会った日、澄んだ瞳で仲良くして欲しいと言ったニーナを思い出した。
そして自分とは大違いだとグレンは思ってしまった。猜疑心を常に持ち、血を分けた父親から食うか食われるかの世界に生きてきた自分とは全く違う存在―――それが堪らなく嫌だった。
しかしグレンはそれが堪らなく惹かれるものだと気が付いてはいない。
好きになるように努力をする
と言ったニーナに腹立ちを感じてしまう意味も分かっていないようだった。努力するとはそうしなければならないぐらい範疇に無かったものか、嫌われているかのどちらかなのだ。
「―――協力すると言うのならそれはもういい。ニーナ姫、精々私を好きになる努力をするんだな。それがこの同盟の鍵となるだろう」
「―――はい」
傷付いた顔をして返事をする彼女にグレンは苛ついた。
「その顔!私の前で二度とそんな顔をするな!努力すると言っただろう?そう口に出して言ったのなら直ぐに実行する事だ!」
「ご、ごめんなさい」
ニーナは謝ったものの表情を変えるのは難しくどうしたらいいか分からなかった。早くどうにかしないとグレンがもっと怒るだろう。彼の鋭い片目がニーナを射抜くように見つめている。
「ふふっ、シーウェル。気持ちを誤魔化すなど欺瞞 の権化であるそなたには容易いだろうがその娘には無理というものであろう」
ジャラがとうとう口を挟み出した。魔神にとって面白くない展開だからそうするのか?
興味あるからそうしたいのか?気まぐれなジャラの心は読めない。
言えることはこれ以上この魔神に首を突っ込ませないようにするだけだ。
「海神、貴方の言われる通りですね。私が浅慮でした―――ニーナ姫、これからも仲良くいたしましょう。貴女は私の大切な人ですからね」
グレンはあっさりと認めてジャラの言う欺瞞の笑みを浮かべた。
反抗すればジャラは面白がってきりが無いからだ。結局グレンはニーナに嘘だと露見しているのに彼女に恋した振りを押し通すように決めたようだった。
自分の本当に望むものを嘘で欺いてその嘘の上に嘘を重ねていく―――
ジャラにだけ見せる弱かった幼い頃のままの自分を封じ込めて、その上に築く虚構のグレンはそうそう崩れるものではないだろう。エリカの前にでさえ晒さなかった本来の姿をニーナには垣間見せているのに、自分の本当の気持ちが分かっていないと言うのは彼らしいと言えば彼らしい。
自分の心でさえも無意識に欺いているようだ。
ニーナは彼のその笑みを受けて悲しさが胸に広がった。
それが作った笑みというのが分かるから悲しいのだ。結局ニーナ自身を見てくれていないのと同じだ。エリカ以外ならオルセンの王女と言う肩書きさえ持っていれば誰でもいいのだろう。ニーナはこの時初めて心の奥が何故か痛む感じを覚えた。それはまた初めて経験する感情だったから意味は分からない。
とにかく悲しさが込み上げてくるだけだった。
「―――全くそなたは飽きぬな。娘、我が部屋まで送って行こう。共に参るがいい」
「海神!」
ニーナの肩をそっと抱き扉へと向かうジャラにグレンが制止するように叫んだ。
魔神はそれを無視して扉に手をかけた。
鍵がかかっていた筈の扉は難なく開き部屋の外へと出て行ってしまった。
グレンは追わずに立ちつくした―――
思い通りの展開へと駒を進めた筈なのに・・・何故か心が暗い海底に沈むような気分だった。
翌朝ニーナのところに思いがけない客人が現れた。
「よう!ニーナ!元気か?」
「デ、デール?デールでしょう?」
青年の姿をしたデールがいきなりニーナの目の前に現れたのだ。
朝食の片付けをしていたマーシャは驚き持っていた皿を落としてしまった。
少年の姿しか知らないニーナだったが話し方と雰囲気で彼がデールと直ぐに分かったようだった。
「あっ、マーシャ。彼は知人だから大丈夫よ。ちょっと席を外して貰える?」
ニーナはそう言って人払いをした。魔神に関するものは誰彼と容易に知られてはならないからだ。
彼女が部屋から出て行ったのを確認したニーナはデールに微笑みかけた。
「デール、何故そんな姿なの?それにどうしてここに?」
「我が君に様子を見てくるように言われて来たんだよ。力を使って来たからこの姿さ!本当の姿はこれだからな。それよりもニーナ、お前、何か痩せてないか?」
デールはいつもよりずっと高い位置からニーナの頭をなでた。
「デ、デール・・・」
ニーナは懐かしさの余り胸がいっぱいになった。でも泣いたりしたら心配するだろう。
だから、ぐっと我慢したがデールの胸の中に飛び込んだ。
「おいっ、ニーナ?どうした?あいつに苛められたか?」
デールは何時もと様子の違うニーナに腕を回しながらそう言った。
デールが現れた頃―――
グレンはジャラに邪魔された昨日の件で今後の話をしようとニーナの部屋の前まで来ていた。
丁度その時、怪訝な顔をした侍女のマーシャが出て来た所だった。
「ニーナ姫は在室か?」
マーシャは思わず声を上げそうになった。まさか王がこんな所にいるとは思わなかったからだ。
「は、はい。しかし今、来客が・・・」
「来客?こんな早朝に?」
「はい。それが・・・その・・・何処から入って来られたのか?いきなり現れて。でも知っているからって・・・あっ、王!」
グレンは最後まで聞かずに扉を開けた。小部屋の向こうに主部屋があるそこから話声が聞こえていた。扉を開け放つ前に耳に入って来た言葉―――
「もしかしてあいつ≠ニは私の事だろうか?魔神の従者殿」
誰が来ているのかと思えば部屋の中央で二人が抱き合う場面に遭遇してしまった。
ジャラから何も連絡は無かった。魔神はシーウェルの海域から全てに結界を張っているのだからこの男が来たのも分かっていた筈だ。また面白がっているのだろう。魔神と同じ世界の住人で不思議な力を持つデールはグレンにとって目障りな男だった。エリカにも馴れ馴れしく二人の仲を疑った事もあったぐらいだ。今度はその妹ニーナまで手懐けている。グレンは自分がこれから思い通りに動かそうと思っている駒に近づくのは誰であっても許せるものではないと思った。
しかも今日は一度だけ見たことのある青年の姿だった。敵の魔神と戦っていたその姿を見たグレンは己の力の無さを悔しく思ったものだ。自分は簡単に弾かれてしまったのにデールは圧倒的な力の差があってもエリカを守り抜いた。
だからその姿のデールにニーナが抱きついているのが気に入らなかった。
彼女はグレンを好きになると約束した。それなのに再会を喜ぶ恋人同士のような二人に腹が立ってきた。約束が違うと今すぐ引き剥がしたい気分だった。
思い通りに動かない駒に苛立ちを覚えるだけだと思いながら―――
反対にデールも前々からグレンが気に入らない。
それにニーナがこの男の声を聞いて、びくりと震えたのを感じたのだ。内々にサイラスから彼女の守護を命じられてこの地を訪れたデールはそんな些細な事も見逃せなかった。
だから不遜な態度でグレンを睨んだ。
「もちろん、あんたに決まっているだろう?他に誰がいる?」
「随分な言いようだな、従者殿」
「俺の名はデールだ!知らない訳無いだろう!名前も覚えられないのか!」
ニーナは二人の険悪な雰囲気に驚いてしまった。相手は怒らせてはならない大事なシーウェル王だ。
「デ、デール・・・どうしたの?喧嘩したら駄目じゃない」
「気に入らないんだよ!おいっ、お前!ニーナとの婚儀を申し込んだって?ついこないだはエリカとしたいって申し込んでいただろうが!何の魂胆だ!」
ニーナは驚いた。好きだけじゃなく既に国へ正式に申し込んでいたとは知らなかった。
「姉さまに・・・申し込んでいたのね・・・」
ニーナがぽつりと呟いた言葉をグレンは苦々しく聞いた。親書を送った矢先に本人から断られてしまった面目丸つぶれの苦い思い出だ。それよりも心の認めたくない部分でニーナに自分がエリカを好きだったという過去を知られたくなかった気持ちの方が強いだろう。
だからグレンは開き直って嘘を言った。
「お前の主人とエリカを争っても無駄だろう?私は勝算の無い賭けはしない性質でね。それにエリカは政治的に有効だと思ったから申し込んだだけだ。しかし今、政策的にももちろんだが彼女をとても気に入ったから申し込んだ。君にとやかく言われる筋合いは無いと思うが?」
グレンはエリカへの求婚は政治的な思惑であり、ニーナはそれに加えて恋愛感情を持っていると匂わせた理由を堂々と言い放った。しかしニーナは自分に対する想いは嘘だと分かっているしエリカとの関係も誤魔化されなかった。昨日、魔神に言っていた彼のエリカに対する想いを聞いていたからそれが嘘だと直ぐに分かったのだ。平気な顔をして嘘を言うグレンが怖くて悲しかった。
「本当は私より姉さまが良かったのでしょうね・・・」
ニーナは瞳を合わせること無くぽつりと呟く様に言った。それを言葉にしただけで何故か悲しかった。
グレンはそれを聞いて自分がエリカを好きだった事が誤魔化せていないと感じた。
すると焦る気持ちが湧きあがってきてしまった。
「違う!私は・・・」
グレンは私は・・・≠フ後の続きを何と言おうとしたのか分からなくなった。
(私は何を?)
グレンは彼女にこれ以上、自分自身をさらけ出すつもりは無い。
しかし勘のいいデールは今の一言で何かを感じた。
(もしかして・・・こいつ?いや、まさかな・・・)
ふと浮かんだ考えを一応否定した。グレンの隻眼が冷め切っていたからだ。
「―――ニーナ姫、私の言葉が信じられませんか?貴女は私の大切な人だと言ったでしょう?」
ニーナは彼の言葉は全部嘘だと分かっている。どんな言葉を並べたとしてもニーナにはそれが分かっているのだ。でも彼がそう思わせたいと思っているのならそう思う事にした。
「分かりました・・・」
ニーナの気持ちはグレンにとって手に取るように分かる。素直な彼女は納得していないと言う顔をしていた。それでもグレンに気を遣って分かったと嘘を言ったのだ。グレンは嘘をつかせてしまう自分が堪らなく嫌になってしまった。真っ白な彼女に、ぽとりと一滴シミを付けた気分だった。
「で?あんたは何を企んでいるんだ?強固な同盟の確立という子供じみた理由だけじゃないのだろう?」
デールが嫌味たっぷりに鋭く突いてきた。