ジークの心の傷―――それは乳母コスタに起因する。
母親はジークリンデ達を産んだ後、肥立ちが悪く静養に出かけたまま暫く帰って来なかった。
そこでジークリンデとシャルロッテの面倒は乳母のコスタが全権を握る形となったのだった。
母が帰って来てもその状況は変わらなかった。
コスタは二面性があり、両親から頼りにされていたのだ。しかしジークリンデとシャルロッテには厳し過ぎて恐怖でしかなかった。笑う事も泣く事も許されず、人形のように大人しくしろと躾られ、逆らえば見えない所に折檻を与えられた。それは自分の機嫌が悪い時も鬱憤晴らしにされる事も多かったのだ。そんな乳母の仕打ちは兄達が気付いてくれるまで続いた。
兄達から伝えられた乳母の実態に両親は激怒し即解雇したがもうその時は遅かった。二人の性格に大きな影を落としていたのだ。シャルロッテは極度な神経過敏性になり、ジークリンデは表情も言葉も思うように表に出せなくなってしまった。その幼い頃に受けた心の傷が今でも残っているのだ―――


「皇子の―――いえ。何でもありません」

アルベルトの心配そうな顔が目に入ったジークは言葉を濁した。また迂闊な事を言って皇子を刺激してしまっては駄目だろうとジークは思った。

「言いかかって途中で止めるな。気になるだろう。命令だ、言え」
ローラントは足を止めて言った。
命令とまで言われたら従うしか無い。ジークは仕方なく口を開いた。

「大神官は皇子に継がれた貴い血だけが大切みたいな感じのように――」
先日から感じるものを本人に言ってしまった。
しかしローラントの、ぞっとするような冷たい視線を受けて続きの言葉を呑み込んだ。

「―――誰もがそう思っていても口に出さない。馬鹿正直も刺激があって少しは楽しいかと思ったがここまでだと不快だ」
ジークリンデは、はっとした。皇子本人が気付かない筈が無いのだ。皆が知らぬふりをしているのに、わざわざ傷口を抉る行為をしてしまった。呑み込んでしまった続きの言葉を言ったら今度こそ不敬罪で処刑されるかもしれない。しかしジークリンデは言いたかった。乳母コスタの恐怖から救ってくれた一番上の兄の言葉を思い出したからだ。
月日が経ってもその恐怖から抜け切れず言葉を忘れたかのようなジークリンデに兄が言った。

『ジークリンデもう大丈夫だから喋るんだ。思ったことは声を出して・・・伝えたいことは声に出さないと相手に伝わらない――』
そう・・・ジークリンデは皇子に伝えたいのだ。このまま黙ってしまっては伝わらない。
でもどう言ったら上手く伝わるのかと思ってしまった。言葉も顔の表情と同じく苦手だ。
だからもっと怒らせてしまうかもしれない。しかし・・・

「皇子は駄々を捏ねる子供と一緒です。何故ご自分に自信が無いのでしょうか?それでは誰も皇子自身を見てくれないと思います」
アルベルトはもう駄目だと息を呑んだ。
彼女は昔から言葉足らずで理解するのは難しい。それでもアルベルトは長い付き合いだから何となく分かるが・・・初対面に近い皇子には分からないだろう。そのまま聞けば皇子を批判しているだけだ。
皇子は激昂するに違いないと思ったアルベルトだったが予想は外れてしまった。

皇子は、じっとジークを見つめているだけだった。ただ無表情に見ている。それを受けるジークも氷のように無表情だ。沈黙が落ち瞬きする音が聞こえるかのようだった。
その沈黙を先に破ったのはローラントだ。皇子は大きな溜息をついた。

「望むものは大概叶うこの私が悲観しているとお前は言いたい訳だ」
「違うのですか?」
ローラントは、くるりとジークに背を向けると短く答えた。

「当りだ」
そしてまた、くるりと振向き向い合う。

「お前の言う通り、皆が敬うのはこの身に流れる血。私はそれを保持する只の器にしか過ぎない。だから私が何をしようと何を考えようと血には関係ないという訳だ。何かを成し遂げたとしても私の手柄では無い。全て冥神の血の手柄だ。現に何でも苦労せずに出来る・・・冥神の血というのは馬鹿らしいくらい素晴らしいようだ」
ローラントは辟易とした口調で言った。

「そうでしょうか?昨日も申しましたが剣は鍛錬無しに扱えないと思います。血だけで出来るのは力の解放だけと見うけました。ただそれだけです」
「それだけって・・・」
ローラントは昨日に引き続き唖然してしまった。
誰もが敬う闇の聖剣をガラクタと言った口が、今度は冥神の血は力を解放するだけの能無しと言ったようなものだ。こんな事を言う者は今まで誰も居なかった。只へつらっているだけだろうと言う考えがそうでは無いと感じ始めた。言葉は極めて簡素なだけで含んだ感じは全く無いのだ。出逢って間もないましてや只の護衛官が気になって仕方が無いのはどうしてだろうかと思ってしまう。

ローラントがその何とも言えない感情を持て余していると、目の前のジークの瞳が輝いた。
それは目を奪われるくらい眩しく感じた。そしてその原因が後ろからやって来たのだった。

「おはようございます。ローラント皇子」
皇族に許可無く話しかけるのを許された数少ない者の一人ライナーだ。皇子の前で丁寧に礼をとったが皇子からの挨拶は期待していない。

「皇子、失礼致します。ジーク、傷は大丈夫か?」
ライナーは一言ローラントに断りを入れてからジークに声をかけた。怪我の様子を見に来たのだ。

「はい、大丈夫です。利き腕ではありませんし支障は無いです」
「そうか、良かった。君に何かあればエドガーはもちろんだがクラウスが黙っていないだろうからな。俺としてはクラウスの嫌味の方が堪える」
あっさりとのけ者にされた感じのローラントは同じ立場のアルベルトに耳打ちした。

「エドガーとかクラウスとかは何者だ?」
「ジークの兄達です」
「兄?」
「はい、隊長とはもちろん親戚ですがクレール家の長男クラウス殿は隊長の一番の親友らしいです」
「昨日も耳にしたが・・・父親といいあれの家族は皆が皆過保護のようだな」
アルベルトは返答に困った。過保護と言うよりもこの異常事態を気遣わない家族はいないだけの話だ。それに双子の妹達は兄にとっては可愛くて仕方が無いのも事実だろう。

(妹だからだよな・・・弟じゃないんだから・・・)
「そ、そうですね。末っ子だからでしょう。私も妹は可愛いですから」
アルベルトは口が滑ってしまって自分で、ぎょっとしてしまった。

「妹?妹なら分かるが・・・」
「あっ、えっと・・・ジークは女の子みたいだからですね」
アルベルトは焦って繕おうとしたのも不味かった。

「・・・確かに線が細く女顔だが・・・」
(もう駄目だ!)
「あれだけ強くて可愛げの無い女なんかいる訳ない。あれをそんな対象と見る兄達の頭が可笑しいんじゃないか?守ってやりたい女と言うのは繊細で儚く抱きしめるのも躊躇われるような感じだろうが」
アルベルトは助かったと思った。完全にジークとは正反対の女性像を描いている皇子に彼女が女だとは思ってもみないことらしい。

「そ、それは母君、皇后様のような方ですね」
ローラントの生母――冥の花嫁はそういう女性だ。ローラントにとって唯一自分自身を見てくれるのがその母ヘレーナだった。そして同じ哀しみを持つ。ヘレーナはローラントの他にも冥神の血筋を残す為、何人もの子を宿すのを期待された。しかしそれは期待外れに終わりローラントが唯一の子となったのだった。薄れた血でも残すのが後の為と皇帝には第二、第三と次々と妃が決められていった。そして次々と弟や妹が生まれたがローラントにとって父が同じでも母が違う者達を家族とは思え無かった。
己の中に濃く継がれた冥神の血が自分とは違う存在なのだと感じさせるのかもしれない。
両親の間に愛と言うものが存在したのか?只の義務だったのか・・・冥の花嫁に無理強い出来ない決まりだったのだからどうだったのだ?とも思う。
ローラントは父がそして母がそれをどう思っているのか分からない。それぞれの想いは胸に秘められたまま訊ねることも無かった。聞いてはならないような気がしていたかもしれない。
母ヘレーナは権力に執着せず殆ど公式の場に出る事は無く後宮を出て離宮に静かに暮らす。離宮と言っても広大な皇城内にある一角だ。でも子が産めず用無しになった母に振向く者は誰もいない。
ローラントはまるで将来の自分を見ているようだった。それでもまだ自分は良いかもしれないと思う。次代を継ぐ子を
成したとしても父親のように国を守ると言う仕事があるのだ。そう思っていなければやっていけない。
(それにしても嬉しそうな顔だ・・・)
巡る想いを断ち切るように目の前の現実を見たローラントはむかついて来た。

「気に入らないな。主を待たせて喋り込むとは・・・」
ぼそりと呟いた皇子にアルベルトが直ぐに繕った。ローラントが想いに耽っているぐらいの間で話し込んでいると文句を言う程時間は経っていない。

「あの、ジークは昔から隊長に夢中なものでして・・・すみません」
「お前が謝っても仕方が無いだろう?もういい。行くぞ!」
二人を無視してさっさと歩き出した皇子に慌ててアルベルトが従った。
もちろんジークリンデも直ぐ後を追う。
残されたライナーは溜息まじりに見送った。ライナーは昨日報告を受けて流石に早まったと後悔した。どんなことがあってもジークの入隊は断るべきだったと思ったのだ。しかし彼女の的確な対処とアルベルトとから粒さに聞いた皇子との会話のやり取り・・・そして皇子に対して芽生えた忠義心は近衛隊を任された者として得がたいものだと直ぐに思い直した。
ローラントの気難しさは並では無い。気に入らない者は昨日のように撒いて姿を眩ましたり、護衛官を自分から辞めたいと言うまで難癖をつけたりする。それでは皇子を完全に守ることが難しいのだ。
剣術大会の時、ライナーはどちらでも仕えると皇帝の手前そう言ったが、本心は皇子付きに変わりたいぐらいだった。ローラントの身の安全が最大の使命と思うライナーにとって自分の格付けなどどうでも良いのだ。しかし問題はそれだけでは無かった。

 密かに囁かれる皇帝派と皇子派―――
権力を握る皇帝と冥神の血を濃く受け継いだ皇子―――本人達の意思に関係なく派閥が出来ようとしているのだ。現皇帝を早々に退位させてローラントを皇帝へと担ぎ出す。まだ若い皇子を意のままに操ろうという者達がいるのだ。だから神殿は慎重過ぎるぐらい慎重に花嫁候補を選んでいる。
そういう背景にライナーが皇帝付きから皇子へと変わるだけでも波風がたつと予想されるのだ。

(ジーク、しっかり皇子を護ってくれよ)
頼りになる従妹はローラントに気に入られたかもしれないと感じたライナーはそう願ったのだった。



 それから数日、皇子に付き従っているジークリンデは呆れ果てていた。
ローラントは予定など滅茶苦茶で気が向いたものしか動こうとしないのだ。予定と言っても重要なものは確かに無い。読み上げるにも苦労するような訳の分からない授賞式だの、何とか会の懇親会の挨拶に何
かの記念式典への出席などなど・・・公務で忙しい皇帝の代わりに出席する社交的な要素が多い。
だからと言って勝手に予定を変える皇子の我が儘ぶりにジークリンデは閉口してしまった。
そのうえ今日はそれらをすっぽかして昼間から女性と逢引中・・・恋人達が夜に良く使うらしい城内の温室で警護している具合だ。

「皇子さまぁ嫌だわぁ〜あの人達が見ている所なんて。二人だけになりましょうよ」
「気になるのか?木と思え只の木だ」
「でもぉ〜」
ジークリンデはこんな評価をしたくは無いが見るからに賢くない感じの娘・・・それよりも大神官が頭から湯気を出して怒りそうな身分的に問題がある娘だ。服装からして貴族でも何でも無い城の下働きの娘だろう。しかし男が好みそうな可愛らしい顔に小柄な身体は出るところはしっかり出ている肉体的に魅力溢れた娘だ。そうだとしても・・・

「・・・大神官殿はこれを注意されていたのだな?こういう事は頻繁なのか?」
ジークリンデがアルベルトに耳打ちした。

「ま、まぁ・・・そこそこかな」
アルベルトは冷や汗ものだった。情事の場面など女が見るものでは無いからだ。と言うか見せたく無いものだろう。それを平然と見ているジークの神経を疑ってしまう。

(赤くなったりされても俺も困るけどな・・・それにしたって・・・)
濃厚に口づけを交わしている皇子の手が娘の胸元のボタンに手がかかり出した。

「いやぁ〜ん。皇子さまぁ〜あの人達が見ているからイヤよ」
先に進もうとする皇子に娘が勿体つけて再び二人だけになりたいと駄々を捏ね出した。
その時、アルベルトが止める間も無くジークがその二人の前に進み出てしまった。

「お嬢さん、申し訳ないのですが我々は皇子をお護りするのが役目。離れる訳には参りません。ですから皇子に無理を言わないでくれませんか。お願いします」
丁寧に跪いて真摯に言うジークに娘は大きな瞳を更に大きく見開き、ローラントは唖然とした。
情事の最中に注意を促しに来る者などいない。護衛官は空気のようにいるだけなのが普通だ。
しかもそれを止めたい様子ではないのに更に驚いてしまったのだ。
注意された娘は悪い気はしなかった。自分のような身分のものに貴族の近衛兵が姫君に傅くように願い出てくれたのだ。皇子に誘われて気分は最高だが本当にお姫様になったようだった。

「いいわよ、きれいな護衛さん。見るのを許してあげるぅ」
娘が許しても皇子は水を注されてやる気が無くなってしまった。ほぼ押し倒していた状態から起き上がると無言で服の埃を払いだしたのだ。そしてその場から立ち去ろうとした。

「あっ、皇子さまぁ〜どこに行くの?」
娘も慌てて起き上がったがローラントは振向きもしない。

「皇子、お待ちを!」
ジークリンデは慌てて皇子を止めようとした。しかしローラントは止まらなかった。
すたすたと無言で温室から出てしまったのだ。取り残された娘の嘆きを聞きながらジークリンデは皇子の前に回りこんだ。

「皇子、私が何かご不快にさせたのでしょうか?」
ローラントはそれを聞いて呆れてしまった。

「何がだって?自分がした行為が可笑しいと思わないのか?」
「お邪魔かと思いましたがお相手の方が皇子と二人きりでと何度も申しておりましたので・・・それは由々しき事態かと思いました。御身をお護りするのが私の役目ですからお相手の方にも理解して頂きたく思ったもので・・・それが悪かったのでしょうか?」
怒るのも呆れるぐらいの正直な答えにローラントは毒気を抜かれてしまった。
ジークは大神官が煩く言う理由を言ったのでは無く本当にローラントの警護を念頭に置いた行動だったのだ。馬鹿馬鹿しいほどの正直さにローラントは怒る気も失せてしまった。遊びにはちょうど良い娘だったが何だかどうでも良くなった気分だ。多分、再び出会っても思い出さないかもしれない。
ローラントは神殿への腹いせにこういう遊びを繰り返していた。しかし罪悪感を覚えてしまう気分は初めてのような気がした。清々しく凛としたジークの前では何だかそう思ってしまうのだ。
それからの皇子はこの火遊びは無くなったのだった。そして公務も前よりも大人しく参加するようになった。ローラント皇子の心境の変化に近しい者達は驚きを隠せない様子だ
った。
退屈を嫌う皇子が退屈な公務をこなす・・・まさに不思議な光景となった。



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