天人の囁き25



「そなたとの約束があるのだから勝手に出来ない・・・」
カルムは息を呑んだ。

約束―――それこそ最初の約束はカルムが破り、再度無理押しで約束し直したばかりの不安定なもので今度は絶対優位のサシャから破棄しようと思えば出来るものだ。

「サシャ・・・もしかして・・・帰るかどうか・・・迷っているとか?」
今度はサシャが息を呑んだ。
確かに今の気持ちを言葉で表したらそれだった。迷っているのだ。
巫女時代の生活は平穏で何も不足は無い・・・今が有りすぎるのだ。
今まで文章で読んだもの以上の現実の世界―――それこそ心が騒ぎ続けていた。
不快なものも素晴らしいものも入り乱れる世界・・・それが嫌だと思えない自分が居るのだ。それは一番恐怖を感じる失うものの悲しさと連動すると感じている。
だからその世界から・・・それを与えるカルムから逃げ出したい気持ちが何度も湧きあがった・・・のに・・・今留まっているのが現実だ。

「私は・・・」
サシャは自分の気持ちが分からなくなった。だから、キュッと唇を噛みしめて、俯いていた顔を上げると聖なる御手と言われた手をカルムの天眼にそっと当てた。

カルムはその行為に驚き見えない瞳を見開いた。
自分の心を読めと言う態度を取るものはそうそう居ない。天眼に流れ込むサシャの心は彼女の迷いそのものだった。混沌として形が意味を成していなかった。

「・・・・・・・・・」
「どうだ?私の気持ちはどうなっている?」
「・・・・・・分からない・・・こんな感じは初めてだ・・・」
そうか・・・と言ってサシャはカルムの天眼から手を離しかけた。その手をカルムが素早く掴んだ。

「サシャ!穢れを清めるのはどういう事か考えてみたか?どんな術を使うのか知らないがあれは肉体的なものだけじゃない。心に刻まれた記憶もある。これまで消去出来る訳無い。それまでするとしたら精神への介入しか無い・・・」
母のように・・・と続けたかったがカルムはそれを呑み込んだ。

「起きた事を無かったものにすることはそれなりの代償が伴う・・・それは人形だよ・・・君が君で無くなる・・・」
サシャはそんな風に考えて無かった。確かに汚れた記憶の浄化となれば消去するしか無いだろう。

「心眼を操る天眼族でもそれは出来ない。もちろん廃人覚悟で何もかも全部消すのなら出来るけれどね。この私でさえ部分的な消去は出来ない・・・するとしたら・・・一度全部消して新しい記憶を刻む・・・それが果たしてされた側はそれで良かったのどうか・・・施した側の自己満足なだけなのかもしれない」
自己満足と言った時のカルムは自虐的だった。
サシャはそれがリネアから聞いたカルムの母親のことだと直ぐに思った。

「母上のこと、後悔しているのか?」
サシャはつい頭に浮かんだことを口にしてしまって首を竦めた。カルムの逆鱗に触れたと思ったからだ。思わず目も、ギュっと閉じたが一向に怒鳴り声も喉を絞められることも無かった。恐る恐る目を開くとカルムはどこか遠くを視ているようだった。
そしてそのまま静かに話し出した。

「・・・母はあのまま死んだ方が良かったのかもしれないと思う・・・生かされている母は不幸だろう」
「そんな事は無い!死んだら周りが悲しむ!それにその原因となる自分も嫌な筈だ!そなたももし母上と同じになっても死にたく無いだろう?」
「私?私がもし自我崩壊を起こしたら生き残りたいかって?考えた事も無いね・・・そうなったら生き残れる可能性は全く無いからね。イエランが速やかに私を殺すから・・・」
「なっ!何故?」
サシャは驚き目を大きく見開いた。

「天眼に私以上の心眼者がいないからだよ。神の遺産の天晶眼を使っても難しいからね・・・」
心眼者の自我崩壊は周囲に多大な影響を与える。それが天眼国一の心眼を持つカルムならその処置は正しいのかもしれない・・・サシャは今にもカルムがそれを起こしかねないような脆さを感じた。

そして何よりも・・・サシャが一番恐れていた恐怖を感じた。もし・・・もしカルムが死んでしまったら?・・・と思うだけで胸が締め付けられた。それは子犬のカザンが死んだ時よりももっと苦しいものだった。手足の指先から血の気が無くなり冷たく凍って行くような感覚さえ感じた。
思っただけでそうなるのだから現実だったらどうなるのか?・・・

サシャは愕然としてしまった。絶対避けていたものに自分が陥るとは思わなかった。
絶対自分の心に誰も住まわせないと思っていた・・・その存在が失われる絶望はきっと恐ろしいものだと感じていたからだ。サシャの心の中でカルムの存在がとても大きくなっていることに薄々感じていたから何度も離れようとしていたのかもしれない・・・天山に帰れると聞いた時に心に浮かんだのは静寂の天殿では無くカルムの姿だったのだ。
それを再び感じた途端、混沌としていたものが濁り無いものへと変わった・・・

(なんだ?この感じは?)
ドキドキと鼓動が跳ね火照って来た。まともにカルムの顔が見られなかった。

「サシャ?」
急に黙って胸元を押さえているサシャが心配なったカルムは彼女に触れようと手を伸ばした。

「私に触れるなっ!」
サシャは身を引き、伸ばされたカルムの手を勢い良く払った。

「サシャ、君を害するつもりは無いし、約束を破るつもりも無いから・・・具合が悪くなったのかと思っただけで・・・」
「な、何でも無い!そ、それよりも自我崩壊なんて簡単に起きるものでは無いのだろう?」
「・・・さあ?どうだろうね・・・」
今までは心の弱い者がなると思っていた現象だったがそれが違うと、カルムは思い直している最中だ。それは愛情の深さと関係しているらしい・・・情が深ければ深いほどそれを失った時の絶望が自我崩壊への導火線となるに違いない。カルムは今まさにそれを体験するところだったから曖昧な返事で誤魔化した。
それよりも払われた手が痛かった・・・拒絶は剣を突き立てられたような感じだ。
見えない刃が手のひらを突き抜けて血が滴っている幻覚さえ視えそうだ。
だから思わず払われた右手に左手を重ねた。

カルムのその仕草にサシャは、ハッとした。払った手は骨折していた手だった。

「す、すまない!考えなく叩いて・・・痛むのか?」
「大丈夫・・・治癒は早いからね。もう骨も繋がっているし・・・明日には動かせるから・・・」
本当だろうか?とサシャが心配そうな顔をしているのがカルムには堪らなかった。
それに何処が?と言われても説明出来ないが今のサシャは何処か雰囲気が違っていた・・・混沌とした心を視たばかりなのに何だか期待してしまいそうだった。
だからそんな淡い期待を消去して現実に目を向けた。

「で?サシャ・・・君はどうするの?」
「私は・・・師に会う。そしてそなたが心配する術の方法を聞く」
「聞いてどうする?」
カルムの声が一段低くなった感じがした。

「・・・聞かないと次の答えは出ない・・・」
「・・・仮に問題無く奇跡のように・・・全て元に戻れるとしたら?」
声が更に低くなっていた。

サシャの答えは決まっている―――
しかしそれを言えばカルムとの微妙な関係が崩れるような気がして言えなかった。
それに自分自身・・・まだこの気持ちを認めたく無いのだ。ま
だ逃れる術があるのでは無いか?それが巫女姫に戻ると言うのも一つだが、もう二度とカルムと会えないと思うと胸が痛む・・・だからその選択は低い。
(でも喜んで傍に居るとなれば他人と距離を置きたがるこの人は遠ざかるだろう・・・)
それは嫌だとだけはサシャは感じた。

(私はどうしたら良いんだ?離れるのも嫌、これ以上心が傾くのも嫌なんて・・・)
カルムの問―――全て元に戻れるとしたら?

「・・・分からない。私は今まで天山だけ・・・その場所だけが全てだった。それに不足を感じたことも無かった。でも・・・本や天人達から見聞きしたことの無かった世界に触れて少し欲が出た。これが堕落なのかもしれないが・・・まだ虹の帯も見て無いし・・・」
見る間にカルムの顔が輝いた。サシャにはそれが有効だったと気が付いたのだ。
何にでも興味を示していた好奇心旺盛な彼女を引き留めるにはその手があった。

「そうだよ、サシャ!天山では外出は殆ど出来ないのだろう?自由じゃ無い!でも今は違う。猛牙国に来たいと言ったから連れて来たし、虹の帯が見たいのなら毎日観測させて出たら知らせてあげよう。行きたい所は何処にでも連れて行こう。欲しいものがあるのなら何でも手に入れてやるよ。天山よりずっと楽しい筈だ」
サシャが、クスクス笑い出した。

「リネア殿が言った通りだ。そなたは大盤振る舞いで優しいと言っていた」
サシャはそう言いながら、恋人達に漏れなくだろうけれど・・・と思い胸が痛んだ。
その気持ちを知らないカルムは特別な感情を悟られまいと言い繕った。

「もちろん、私に役立つものには寛大だからね。君はその中でも貴重だから十分な見返りは用意するつもりだよ。だから約束と言うよりも取引だね」
「・・・そうだな・・・取引だな。しかし、そなたとの約束を簡単に違えられないのと同じに、我が師への恩義は無視出来ない。私を幼い頃より導いて下さった御方の顔に泥を塗って背を向けたままだったから・・・」
「それは君のせいじゃ無い!罠にかけたあの下女が罰せられるべきだし、私が穢したからで、サシャは何も悪くない!」
考えてみれば天女候補だった巫女姫がいきなり下山したのだ。かの地は色々な噂が飛び交っているだろう。サシャを陥れた張本人がそれこそ此幸いにと、悪意に満ちた噂を流しているに違いない。

「サシャ、君に恥はかかせない。もちろん妻の恥は夫である私の恥だ。君の天山入りは天眼国の王兄であるこの私の正式な妻として入らせる。誰からも非難させない。だから堂々と行ってその師と会えば良い」
そんな事を気にしている訳では無い、とサシャは言いたかったが・・・お陰で話しの方向が逸れて少し安堵した。自分はどうすれば良いのか?この迷いを師に会って教えて貰いたかった。

(きっとまだ間に合う筈だ・・・きっと・・・)


 そしてサシャ達は天山の麓の町にいた。
この地は天山を訪れる多くの者達が必ず通過する場所柄、商売繁盛のかなり潤った町だった。多分この町で一番大きな宿屋を貸し切り、その一番上等な部屋でお茶が出されたところだった。

「どう?サシャ、この部屋は?不快無く泊まれそう?一応準備があるからここに一泊するからね」
サシャはまだ状況が掴めず呆然としていた。猛牙国に行く時もそうだったがカルムの行動はまるで初めからそうする事が決まっていたかのように用意周到でいて迅速だ。
失せ物探しも・・・

「リ、リネア殿の失せ物探し!あれで良かったのか?それに黙って出て来て」
「あれで大丈夫。リネアなら分かるし、あの二人が寝所から出て来るのを待っていたら日が暮れる。本当に猛牙の男は性欲旺盛だね」
そう言いながら自分もサシャとなら何日でも部屋にこもるだろうな、と・・・ふと思った。性的なものだけじゃ無く、ずっと一緒にいたい・・・そんな感覚・・・

(そうそう、色情狂の猛牙だからじゃない。あの色恋に無気力だったイエランだってあの調子だし、適当に広く浅く主義の私だってね・・・)
カルムは自分のこんな気持ちの変化が楽しくて仕方がなかった。

「しかしだな・・・あの絵はちょっと・・・いや、少しどころでは無い」
リネアに残して来たものは落ちている場所を描いたカルムの絵だった。
それが木なのか岩なのか道なのかどっちが上なのか下なのかも分からないとにかく下手な絵だったのだ。

「目が見えないのだから仕方が無いだろう」
「天眼を開いていたじゃないか。それに天眼を開いてなくても真っ直ぐ字を書くだろう?そなた何でも完璧かと思っていたがそうでも無いのだな」
サシャが気の毒そうな顔でそう言うと、カルムがとても楽しそうに笑った。
無機質な金眼も一緒に微笑んでいるようだった。サシャの胸が大きく跳ねた。
今でも十分眩しいのに視力が戻れば・・・瞳に光りが戻れば今以上に眩しいだろう・・・そんなカルムをサシャは見たいと思った。

(でも・・・怒る時も今より迫力が増すだろうな・・・)
それもサシャは見たいと思った・・・怒った時のカルムも輝くように綺麗だからだ。

(それにしても・・・)
それにしてもこんなに早く天山に着くとは思わなかった。この短時間で移動する開路に遠視、心眼、念力など天眼族の力は神々に最も近いと云われるのも頷けるものだとサシャはつくづくそう思う。天人達の不思議な力にも似ているが根本的に違うのだ。天人の力は動力の源のようなもので実際に見えない。その力を巫女が現世に作用させるのだ。天眼族のように目に見える力を持つ彼らが本気を出せばこの世界など簡単に手中出来るに違いない・・・

「此処に一泊するのは分かったが、今から何をするのだ?明日は早朝から行くのか?」
「行く準備と言っても私達が何かをする訳では無いからね。天女への繋ぎだとか衣服の調達だとかだし・・・君は何をしたい?」
「私?私は・・・私は禊をしたい・・・」
「禊?はははっ、成程、禊ね。清澄な天山に行くのだからそれも良い。そんなことしたこと無いけれど私の俗世に塗れた精神でも少しは洗い清められるかな?」
「そ、そなたもするのか!」
「何?その驚いた声。こういう時でないとしないからね。面白そうだし・・・やり方は教えてくれるのだろう?」
「い、嫌だ!」
「どうして?」
「そ、そんなふざけた理由でするものでは無い!」
サシャは本当に冗談じゃ無いと思った。禊は一糸まとわずするものだ。そんな姿のカルムと一緒では心臓が破裂してしまう・・・意識していなかった時は何とも思わなかったのに今は想像しただけでも顔から火が出そうだった。

「ふ〜ん。じゃあ〜真面目にしたら良いだろう?」
「だ、駄目だ!そ、そう言ってそなたは不埒な事をするのだろう!」
サシャは恥ずかしさを気取られまいと大げさに反発したが、愉快そうに笑って受け答えていたカルムがそれを聞くなり急に口を噤んだ。

シン、と部屋が静まり返りサシャは、ハッとしてカルムの顔を見た。
サシャの視線が動くのと同時に、カルムは一番嫌いな神々しいまでの微笑を浮かべた。
いわゆる作った微笑だ―――

「信用無いですね。約束したでしょう?もう嫌なことはしないと・・・」
(また・・・この言い方・・・)
よそよそしいこの上品な物言いは何時もサシャを不安にさせる。約束なんかもうどうで
もいい!と言いたくなったがそれも言えない・・・そんな事を言ったらカルムの一時的な興味を引いてもそれこそ終が見えてしまう・・・
サシャはカルムが以前、意地悪く言っていたのを思い出した。


―――私を好きだと言わせてみせる。もちろん強制では無く、心からね。そうすれば自ら穢れと称するものを受けたがるようになる。自分からその足を開いて私の情けをねだるだろう―――

(好きだと言って、自分からねだる?)
サシャは再び、ハッとして首を振った。
そんな事、絶対しないと思っていたのに今は口を開けば後先考えずに言ってしまいそうだった。穢れなのに・・・これ以上深みにはまってしまったら駄目だと思うのに・・・今はカルムの声を聞くだけでもその指先を見るだけでも身体が火照って仕方が無かった・・・

「カルム・・・私・・・」
「何?何?サシャ?」
天眼の御方でも無く、そなたでも無い。初めて、ハッキリとサシャから名を呼ばれたカルムは思わず声が弾んでしまった。心を偽るのに長けている自分がこんなことぐらいで気持ちを露わにしてしまって・・・と苦笑しながら。

「・・・何でもない」
「何でも無い訳が無いだろう?何か言いかかったじゃないか。言い難いことなら天眼で視てやろ――」
カルムが天眼でサシャの心を視ようと彼女の手を取ると、強い拒絶と共に払われてしまった。
カルムは呆然と払われた手を天眼で視た。それは触られた拒絶では無く、明らかに心を視られたくないものだったからだ。
今までのサシャは気にしていなかったのに・・・
それが皆と同じに?カルムの心が暗く陰った・・・

「・・・私の心眼が恐ろしい?」
「え?・・・ち、違う!そうじゃない!」
「気を遣わなくていい・・・自分の心を読まれるなんて気分的に良いものでは無いからね。君は鈍いからやっと気が付いたんだろね。大丈夫だよ。私は慣れているから気にしない・・・」
「ち、違う!違う!そんな事!慣れているなんて言うな!違うんだ!」
サシャはカルムを傷付けた事に手足が震えた。
この場になっても迷っている自分を視せたく無かった。心への誓いを破りカルムに恋したことを・・・それを失う事を恐怖している自分を視せたく無かった。そう・・・この気持ちを知られてカルムから去られるのが怖かったの
だ。しかし自分の事情よりもカルムを傷付けた方が何倍も辛かった。
サシャは覚悟を決めて、開かれたカルムの天眼に手を伸ばした。
「サ、サシャ・・・」



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