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冥の花嫁![]()
紫の石4![]()
ツェツィーリアは何か言い争っている声で目が覚めた。
意識がまだぼんやりする中、その声だけが耳に入ってきた。
「陛下!早計でございましょう。まさかこの様な事をされるとは・・・
婚儀の日時をお持ちしましたのに」
[婚儀?誰のだ?」
「何をおっしゃいますか。もちろん陛下と冥の花嫁との婚儀でございます」
「私の?そのようなものは無用だ。あんなもの一度だけで十分だからな」
「そうは参りません。冥の花嫁は正式な皇后ですし、只の花嫁でもございません。
それなりに儀式というのは必要でございます」
「私が無用だと言っているのだ。あれに私の子を産ませればいいだけの話だろう?
産めば第一皇后になるのは周知の事。面倒な儀式は必要無い。
とりあえず今は快適な閨があれば十分であろう?」
大神官クレヴァーはそれ以上言葉が出なかった。
確かに皇帝の言う事に間違いは無い。後継者さえ生まれれば良いのだ。
だが、まさか冥の花嫁を指し示したその日に儀式を通り越し、
この様にされるとは思わなかったのだった。
情が無い皇帝がどのように彼女を扱ったか想像出来る。
自分が冥の花嫁≠ニ理解する時間は当然無かったであろうし、
昨晩は皇后の部屋でひと騒動あったと内密に聞いた。
冥の花嫁と言っても当然今までは平凡に暮らしていたのだから、
普通の娘なら耐えられない一夜だったに違い無い。
寝台でまだ小さく包まって寝ているツェツィーリアを、遠くから見た大神官は哀れむしかなかった。
ツェツィーリアは気づかれないように息を殺して二人の会話を聞いていた。
花嫁とは名ばかりで子供を産ませるだけの道具なのだと再度思い知らされたのだ。心が痛かった。
自分というのが皇帝という強い力の前で押し潰されそうだった。
ナイジェルから受けた身体の痛みや辛さより、今の言葉の方が何倍も悲しく辛かった。
その後、二人が部屋から出て行く音を聞くと堪えていた涙が溢れてきた。
昨日からもう一生分の涙を流したような気がする。
そして泣き疲れてまた眠っているうちに身体を清められて見覚え有る寝室に運ばれていた。
そうそこは皇后の寝所だった。昨晩の名残は一切残って無い。
さすがに血塗れた絨毯の代わりに違う模様の物が入っていたから印象が少し違っていた。
ツェツィーリアは寝台に横たわりながらぼんやりと上を眺めているだけだった。
今が何時なのかも分からない。食事が横の卓子に並べられていたが食欲は無かった。
再び内扉が開いても驚かなかった。そこからナイジェルが現れても・・・・
ツェツィーリアはもうどうでも良かった・・・何も考えたく無かった・・・・・
ナイジェルはそれからの三日間、ほとんど彼女の側から離れなかった。
まるで砂漠を彷徨い、水を求める旅人かのように彼女を求め続けたのだ。
ツェツィーリアを求めれば求める程、渇きが酷くなった。だから更に酷く求めてしまった。
だが彼女は最初の夜と違い声もあげなければ涙さえ流さなかった。
まるで人形のようだった―――
その宙を見つめる瑠璃色の瞳を何時間も見つめてみた。だがその瞳は何も見ていない。
ナイジェルは後悔など一度もした事は無かった。
親族を手にかけた時も、女子供を含めた一族を全て葬った時も・・・そんな感情は皆無だった。
だが今・・・心に湧きあがるものに名を付けるとしたらその言葉しか思い当たらないような気がする。
(・・・・・・後悔?)
何かが間違っていたからか?何が?その何かがナイジェルは分からなかった。
他人を思いやる心の無い彼は・・・
嫌、必要の無かった彼はツェツィーリアの心が分からないのは当然だろう。
(政務に戻らなければならない・・・・)
もう三日も我を忘れて放置したままだった。
あの一夜で十分義務を果たしたのだからそれ以上この行為は無意味だった。
結果が出てしまえば自分の役目は終わる。
彼女に触れる必要が無くなるのだ。必要が無くなる≠サれが心に引っかかった。
ナイジェルは考えれば考える程、今までに無かった感情に戸惑った。
そして今のツェツィーリアを見るのが辛くなった。辛いと思う感情も初めてだろう。
何故そう思うのか分からなかった。
暫くツェツィーリアを見つめていたが、想いを断ち切り彼女を残し立ち去ったのだった。
それから一週間近く、ナイジェルはツェツィーリアの元を訪れることは無かった。
自分の気持ちを落ち着かせ整理する時間が必要だったからだ。
このままでは自分を失いかねない感情を全て消し去る事に専念するしかなかった。
ツェツィーリアを見れば必要でない感情が簡単に湧いてくるのだから会いたくなかったのだ。
ところが大神官クレヴァーが悲痛な面持ちで伺候して来た。
「・・・陛下。緊急を要しますのでご相談に参りました。
陛下におかれましてはご面倒な事とお察し致しますが・・・何卒・・・」
「クレヴァー。私は忙しいのだ、申したい事があるのなら要点だけ手早く申せ」
「はい・・・ツェツィーリア様があれから一度もお食事をなさらないと、
女官から相談がございまして・・・このままでは・・・」
食事をしない?あれからだと?もう十日になるのでは・・・
「侍女は何をしている。あれが反抗して食事を拒否しているなら
無理やりにでも食べさせればいいだろう」
ナイジェルは腹立ちを抑えて冷たく言い放った。
「・・・・抵抗はなさっておりません。ですから食べさせれば人形のように大人しく食されますが
直ぐに吐いてしまわれるのです。医師の話しでは精神的に拒否しているのだと・・・・」
ナイジェルは大神官の話しが終わる前に立ち上がっていた。
今日しなければならない段取りなど全て頭から消え失せてしまった。
足はツェツィーリアの元へ向かっていた。一刻も早く彼女の元へと―――
今まで見た事がない皇帝の様子に臣下達は驚き、立ち止まっては頭を下げて道をあけた。
扉が開く時間さえも遅く感じたナイジェルは乱暴にその扉を押し開いた。
ツェツィーリアは寝台で横たわっていた。いつもの薄紅色の花のような頬は青ざめ眠ってはいなかった。
先日と同じように瞳が硝子細工のように冷たくただ開いているだけだった。
「ツェツィーリア!」
ナイジェルは彼女の名を呼び、腕を掴んだ。
その華奢な腕はこの数日で更に細くなっている感じがした。
強く掴み揺さぶるが反応は無い。
そのまま寝台から引きずり下ろしても床に力なく座りこんでいるだけだった。
ナイジェルが今まで必死に消し去ろうとしていたあらゆる感情が溢れ出した。
彼女が自分を拒否する怒りなのか?混在した想いが渦巻いた。
ナイジェルは遠巻きで様子を窺っていた侍女の一人を呼んだ。
側で控える侍女を横目で確認するとツェツィーリアに話しかけた。
「お前が意地を張ってそのまま食べないと言うのならその責任を侍女らに取らせよう。
世話が出来ない侍女は不要なのだから・・・・」
その言葉を聞き恐怖で硬直した侍女にナイジェルが長剣をかざした。
「お、お助け下さい!へ、陛下!お、お助けを・・・ツェツィーリア様!」
侍女の悲鳴と共に長剣が横に走った。鮮血が飛びツェツィーリアの頬を濡らした。
「逃げるな・・・手元が狂う」
剣は侍女の肩をかすめただけだったがナイジェルは容赦する様子は無かった。
剣を握りなおし再度振り上げた。
侍女の絶叫が部屋に響き渡った。
侍女がもう駄目かと思って目を瞑った時に、誰かが自分を庇うように覆いかぶさったのだった。
ごめんなさいと小さな声がして、目を開けるとそれはツェツィーリアだった。
ツェツィーリアは目の前でナイジェルが言っている事も、
しようとしているのも見えていたし聞こえていた。
だけど、手放した心が身体を自由に動かす事が出来なかったのだ。
駄目だと思っていても身体が言う事を利かなかった。
自分はどうなってもいいが、その為に他の人が罰せられ見殺しにするのは出来なかった。
そして何とか間に合ったようだった。
ツェツィーリアは彼女を庇いながら顔を上げると、
酷薄な表情で見下ろしている皇帝ナイジェルに言った。
喉がカラカラで焼け付くように痛かった。
「・・・・やめてください・・・言うことをききますから・・・どうか・・・」
ナイジェルは彼女の顎をとらえ更に、グイと上を向かせた。
「食事をして馬鹿な考えは止めると言うのだな?」
ツェツィーリアは上を向かされたまま頷いた。
涙が溢れてきた。
こんなに身体中、渇いているのに本当に涙はどこから溢れてくるのだろうかとおかしくなる。
ナイジェルはその涙をまた忌まわしいもののように瞳を細めて見ると長剣を鞘におさめ、食事を持ってくるように命じた。
直ぐに運び込まれたのは消化のよさそうなスープだった。
ツェツィーリアは静かにそれをすくって口に運ぶが、咳き込んでしまった。
間近でナイジェルも座って彼女が食べる様子を眉間にシワを寄せてじっと見ていた。
侍女達も固唾を呑んで見守っていた。彼女が食べないと自分達が罰せられるからだ。
ツェツィーリアは緊張のあまりスプーンを落としてしまった。
拾おうとすると代わりのスプーンが差し出されて握らされた。
ツェツィーリアは思わず手を引っ込めそうになった。それはナイジェルだったからだ。
彼はツェツィーリアがそれを持ったのを確認すると無言で元の席に着いた。
久し振りに触れられた手が何故か優しく感じたのは気のせいだろうか?
ツェツィーリアは気を取り直してもう一度すくって口に運ぶ。
今度はうまく飲み込む事が出来た。
そして吐き出す事も無く、二口目、三口目と進めていった。
その様子を確認したナイジェルは無言で退室して行ってしまった。
彼がいなくなるだけでその場の緊張が一気に溶けるようだった。
ツェツィーリアが最後の一口を食べ終えた時、後ろで控えていた大神官が進み出て来た。
「本当にようございました。一時はどうなるかと心配しておりました」
「・・・・大神官様・・・私が本当に冥の花嫁なのでしょうか?間違いではないのですか?」
クレヴァーは後ろを振り向くと、侍女達を下がらせて人払いをした。
「突然でさぞ驚かれたことでございましょう。
確かに貴女は神託より示されたお方でございます。
その証拠が左胸に星のような痣・・・星の刻印≠ェ出てきた筈です」
ツェツィーリアは、あっと自分の胸を押さえた。確かにそれはある・・・・
「それは我が皇帝ナイジェル様の胸にも印されております。
即ち冥神の血を引く直系の証でございます。
直系・・・それも第一子にしか受け継がれない聖なる血。
遥かなる昔から受け継がれた冥神と帝国との血の絆は
冥の花嫁≠ノよって繋がれ続けるのです。
盟約に記されたその約定は世界を救うのです。
ですから貴女様はこの帝国で最も大切なお方なのです。
御身を大切にしてくださいませ」
「・・・・大切な物▼・・道具という訳ですね・・・・」
「とんでもございません!道具など!貴女は――」
クレヴァーは口をつぐんでしまった。
ツェツィーリアが全てをあきらめたように静かに微笑んだからだ。
「あの人にとって私は子を産む道具・・・
だから人形でもいいんじゃないかと思ったのにそれも許してくれない・・・
戻りたく無かった・・・このまま何も考えず感じず過ごしたかったのに・・・・
あの人が憎くて嫌い・・・嫌いなのに・・どうして・・・・」
どうして?♂スがどうしてなのか?嫌いだけだったらこんなに心が苦しまない。
冷酷で自分を物扱いする人なのに心が揺れる。
いつも夜に見ていたあの人は寂しい人だと感じていた。
温もりをしらないような可哀想な人だと思っていた。
同情だけじゃなかった。その心に少しでも触れたいと思っていたのだ。
触れるより前に彼から自分の心以外、全てが奪われてしまった。
身体も自由も未来も何もかも・・・・
「・・・・陛下があのように感情を表に出されましたのを私は初めて拝見いたしました」
「え?」
自分の想いの迷宮に閉じこもりかけた時、クレヴァーがぽつりと言った。
「貴女の状態を聞いた陛下は周りの者が驚くぐらい焦燥に駆られた様子で此方に向かわれました。
私も長年陛下を見ておりますがあのようなご様子は初めてでございました。
それにご自身で行かれての対処・・・やり方は強引でございましたが、
何時もならこのような面倒事はなさいません」
ツェツィーリアは空になった器を見た。
自分がちゃんと食べるかどうか見ていた紫の瞳はいつものように無機質で冷たい感じではなかったような気がした。
自分の心に触れる想い・・・だからどうして?≠ニ思ってしまうのだろう。