
扉の内側で腰掛けていたナイジェルとツェツィーリアはその大きな音を聞き立ち上がって振り向いた。
「よう〜待たせたな」
アランは空いた手を軽く上げながら横柄に言った。遠路遙々やってきた労いもなければ正式な挨拶さえアランはしなかった。
イレーネは、はっと息を呑んだ。相手はナイジェルだ。彼は礼儀や作法に厳しい・・・イレーネはそのことを良く知っている。ナイジェルのその一面が更に冷たさを感じさせていることも・・・ナイジェルの様子を窺えばアランの態度をどう感じているのか?無表情で口を噤んでいるから分からない。
イレーネは慌ててアランに注意を促そうと口を開きかけた。
「へい・・・」
何時ものように陛下≠ニ呼ぼうとしたイレーネをアランが怒気を上らせて睨んだ。
イレーネは名前を呼べと言われていた事を思い出し、あっと口を噤み言い直した。
「ア、アラン様・・・」
アランの険しかった瞳がふと和んで笑みがこぼれた。
「何だ?」
「い。いえ・・・その・・・」
イレーネはアランのその急な変化に鼓動が跳ねて言葉が出なかった。
その様子を見ていたナイジェルは、ふっと微笑み口を開いた。
「イレーネ、息災のようだな」
(え?)
イレーネは驚き、ナイジェルを見た。彼もアランと同じく挨拶無しだ。
しかもアランを無視して自分に声をかけている。緊迫した空気が漂い始めた。
イレーネはナイジェルに返答するべきかどうか少し迷ったが・・・
「皇帝陛下お久し振りでございます。この度はお忙しい中、遠路遥々ありがとうございます。お二人が到着するのを楽しみに待っておりました」
「私もそなたに会えるのを楽しみにしていた。もちろんツェツィーリアが一番楽しみにしていただろう・・・さあ、ツェツィーリア」
ナイジェルは緊張するツェツィーリアの肩をそっと押した。
ツェツィーリアはこの道中ずっと考え込んでいた。クロードから聞いたようにイレーネが本当に幸せなら良い。しかし何年もナイジェルとの偽りの結婚を黙って我慢していたように皆に偽っているのかもと言う思いが浮んで消えないのだ。チラ、チラとオラール王を見れば怒ったような顔だし、さっきまで扉の外で言い争うような声も聞こえて不安が膨らんでいた。
「イレーネ様・・・」
イレーネに会ったら最初に言おうと思っていたおめでとうございます≠ニ言う祝いの言葉が出なかった。今にも泣きそうな顔をしているツェツィーリアにイレーネは眉を顰めた。
「ツェツィー・・・どうしたの?気分でも悪いの?ごめんなさい、わたくしうっかりしていましたわ。病み上がりだったわね?」
医者を呼ぼうとするイレーネをツェツィーリアは慌てて止めた。
「私は大丈夫です!申し訳ございません。慣れない場所に来たので・・・少し緊張しているだけです・・・ご心配をおかけして申し訳ございません」
ツェツィーリアはそう言い訳した。
「ツェツィー・・・」
イレーネは心配そうに彼女を見て、そして本当だろうか?とナイジェルを見た。しかしツェツィーリアを溺愛する皇帝に変化は見られない。大丈夫で無いのならナイジェルが平気な素振りをしないだろう。
「行くぞ!」
アランの声にイレーネは、はっとして横に立っている彼を見上げた。
「どちらへ?」
何処へと聞いたのはクロードだった。
何処だと聞いても今から行く場所は接見の間しか無いだろう。しかしクロードの予想では・・・
「あっちだ!」
アランが顎をしゃくって指し示した方向は王の居室がある場所だった。
やはりとクロードは心の中で嘆息した。いわゆる昔は王の花園と呼ばれた後宮。今ではイレーネとアランの子供達が住まうだけ・・・王がくつろぐ私的な場所だ。
初めての来訪者をいきなりそんな場所に連れ込むなど考えられない事だ。
第一級の賓客に位置するナイジェル達を迎えるにあたってクロードが用意した段取りなどアランはお構いなしのようだった。周りが冷や冷やするだけでアラン本人はいつも通りのやりたい放題だ。
(分からなくも無いですが・・・)
イレーネを何年も夫と言う名前だけで支配していたナイジェルへの敵対心が未だに燻っている感じだった。そしてイレーネを不幸にしたナイジェルに対抗して幸せにするのは自分だと誇示したいと言う気持ちも分かっているつもりだ。
(しかし・・・まさか・・・)
まさか?とクロードは、ふと過ぎった考えに自分で驚いてしまった。アランがナイジェル達の招待にこだわった本当の理由・・・クロードは胸騒ぎを覚えてアランを呼び止めた。
「陛下!お待ちを!」
「何だ?」
「少し・・・お話が・・・」
クロードの何時もと違う様子にアランは立ち止まった。
「イレーネ、先に行け」
「どちらへ?」
アランがイレーネに耳打ちをした。
「俺の部屋以外にしろよ。俺の部屋は昨晩お前を抱いたままの状態にしてあるからな」
昨日は寝室に行く間も無くアランに部屋の中でそのまま押し倒されたのだ。そのアランの激しい行為に部屋の調度品が幾つか床に落ちていたし何よりも香油であちこちベトベトだった筈だ。最近アランが気に入っているものでイレーネの肌に香油を塗ってその滑る手触りを楽しむものだった。
―――ぬるっとした香油がイレーネの胸元に落ち、アランの大きな手が円を描くようにそれを広げる。肌がぬらぬらと妖しく艶めきアランはそれだけでも興奮するようだった。イレーネはその何ともいえない感触に全身が感じて総毛立ち好きでは無かったがアランが楽しそうなので黙っている。
『どうだ?イレーネ、気持ちいいだろう?』
『は、はい・・・あっ・・・そこは・・・んんあっ・・・』
香油で滑りが良いからアランの指の動きもいつもより激しい。小さな胸の頂きを激しく擦られて思わず腰が浮いてしまった。後はいつものようにイレーネは記憶が飛ぶくらい抱かれて朝を迎えた―――
「朝になってもお前と香油の香りでむせ返るようだし」
イレーネはそれを思いだして顔を赤らめアランから逃げ出すように離れた。そしてニヤニヤするアランを残してナイジェル達と共に部屋を後にした。
皆が遠のくのを確認したクロードは後手で部屋の扉を閉めた。
「で?何だ、クロード。どうでも良い話だったら怒るぞ。大事な客を放ったらかしているんだからな」
「―――単刀直入に申し上げます。回りくどく申しても同じでしょうから」
「懸命だな。俺とお前の仲だ。腹の探りあいなんかしなくていい」
クロードは珍しく気持ちを落ち着かせるかのように胸に手を当てて口を開いた。
「デュルラーの皇帝をどうなさるお積りですか?」
「何?あいつをどうするかって?国一番のもてなしをするに決まっているだろう。お前が準備していただろうが」
「そんな事を聞いているのではありません。何をお考えなのですか?」
「お前の言っている意味が分からん!」
アランはフンと鼻を鳴らすと馬鹿にしたように肩をすくめ首を傾げた。
「分からないのなら分かるように申し上げます。以前・・・イレーネ殿を悲しませていた元凶がこのオラールに揃っている・・・生かすも殺すもこの国の王である貴方の思うまま・・・」
アランは最後までクロードの話に耳を傾けていたが押し殺すように笑い出した。
「ククック・・・馬鹿なことだ」
「そうでしょうか?一度も考えたことが無いと言わせませんよ。愛する人の辛かった過去・・・その場に行く事が出来て救えるのならそうしたい。しかしそれは神とて無理な話・・・そして忘れる事など出来ない辛い記憶を容易に呼び覚ます者達が存在している―――それに今も心の片隅に燻っている筈です・・・イレーネ殿の皇帝に対する想いを疑っている。皇后となり沈黙して過ごした七年・・・その長い間の想いは早々消えるものではありませんからね。時が風化させる?それは誤魔化しにしか過ぎない。あの方が生きている限り記憶は蘇り消えないでしょう。それが例え消えそうな小さなものでも許せない・・・違いますか?それならその元凶を消し去ればいい・・・簡単な計算です。そうでしょう?」
「・・・・・・・・・」
アランは無言でクロードを見つめた。クロードは暗く笑み頭を垂れた。
「我が王よ・・・貴方はこの国の陽。陰ることは許されません。そのような役目は私の仕事でございます」
「俺が光りでお前が影・・・親父が何時も、何時も俺達にそう言っていたな」
「はい。貴方は太陽の刻印を持つ光り・・・私はその影に生きるものです。我々王族は全て刻印の子に仕え影となるものでございます」
何時も飄々としているクロードだが隣国だとしても同じく尊い刻印を持つ者を葬ると言ったその顔は流石に青ざめていた。
「ばぁ〜か。お前、親父に洗脳され過ぎだ。だいたい子供にグダグダと自分達の理想ばかり押し付けて!光りに影?光りが無ければ影が出来ない?影は光りが無ければ存在しない?とか何とか訳分からん事を言って!俺から言わせたら大笑いだ!俺様が光りならお前達は照らされて光るだけだろうが!眩しくて目が開けられんと言う話なら納得だがな!」
アランはクロードの頭を軽く小突いて笑った。そして天井を仰ぎ笑いながら椅子にドカリと腰掛けた。しかし暫く笑っていたアランが急に静かになった。顔は天井を見上げたままだ。
「陛下?」
「―――クロード・・・お前の言う通り俺はアイツが憎い・・・あの澄ました顔でイレーネを苦しめていたのだと思えばブン殴ってやりたいぐらいだ。あれは時々不安そうな顔をする・・・どんなに愛していると言ってもどんなにそれを証明するかのように抱いてもな・・・あの男との過去を思い出すのだろう。俺との関係も臆病になっている・・・」
昨晩もいよいよナイジェルが来るのかと思うと気が昂ぶってイレーネを激しく抱いてしまった。
彼女の心を全部自分で満たすかのように滾るもので何度も貫いては爆ぜて注ぎ込んだのだ。
それこそイレーネが気を失うまでそれを何度も何度も続けた。馬鹿な行為だと思いながら・・・
アランは頭を振って勢い良く立ち上がった。
「ああっ!あの男が憎い!未だにイレーネの心に影を落とすあの男!ただ殺すだけなんて優し過ぎる!ヤツが愛するあの女を目の前で妖魔に食い千切らせてみようか!アイツの絶望する顔を見ながらその心臓に剣を突き刺したらさぞかし気持ち良いだろう!」
クロードは再び狂気に駆られたアランを見た。
イレーネを犯したあの朝、嫉妬と後悔とで狂ったように聖剣を振り回していたあのアランを思い出した。激情に全てを失いかねない様子だったあのアランだ。
クロードの深読みは当ったかに見えた。それならそれで・・・
と思ったクロードの頭をまたアランが小突いた。
「―――とか思わず考えてしまったのは認めるさ。驚いたか?」
ニッ、とアランが笑って言った。
「お、驚いたか?って!じょ、冗談ではないでしょう!」
「おう!もちろん、冗談じゃない。本気も本気!しかし、お前がどんなに狡猾で、ずる賢くてもイレーネに知られずに俺を満足させる結果は出せないだろう?」
「そんなことはございません!イレーネ殿には何一つ悟られる事なく出来ます!」
「無理、無理、無理だって!ばぁ〜か。俺がウソ下手なのを知っているだろう?お前が上手くやったって俺からバレるって」
出来る、無理だ、と二人は言い争っていたが・・・
「・・・陛下、論点がずれています。とにかく私にお任せ下さい」
アランは大きな溜息をついた。
「お前、やっぱり馬鹿だ。頭が良過ぎるとそうなるらしいという話は本当だったんだな。何時も言っているだろうが!俺はアイツになんか負けないって!分かっているのか?俺様が一番、アイツが二番だ!だから婚礼もイレーネとアイツの時よりもこの間の婚礼よりも盛大にした!イレーネの婚礼のドレスも身を飾る宝石も何もかもだ!アイツなんかどうでもいい!イレーネに俺とアイツを比べさせる為に呼んだんだからな! 」
それはアランが前々から公言していた事だ。子供染みていると呆れながらもアランが望むように全て整えたのだから言われるまでも無い。クロードは今更そんなことを聞いているのでは無いのだ。
「陛下、私は――」
「クロード、だいたいお前は俺を甘やかし過ぎだ。いいか!絶対に手を出すんじゃないぞ!少しでも手を出したら許さないからな!」
クロードにそんな脅しは昔から通じない。それが証拠にクロードは微笑んで聞いているのだ。しかし今は違っていた。
「・・・クロード、リリーは元気か?」
クロードは、はっとした。
「リリーに何か?彼女は何の関係も無いでしょう?」
「ふ〜ん、関係無いならもう少し平然とした顔をしろよな。なってないなぁ〜そんなんじゃ政敵に足元すくわれるぞ。このネタで脅せるのは俺だけにしておけ」
「なっ・・・」
クロードはアランに急所を突かれたようなものだった。リリーの存在は十分クロードの弱みになっているのだ。それを出されたクロードはそれ以上追求出来ず結局煙に巻かれた感じだった。本心を聞いたのにすっきりとはしなかった。ハッキリしている事は何もするなと釘を刺されたと言うことだ。
しかしクロードはナイジェルの思惑も気になって仕方が無かった。ナイジェルは言った―――
イレーネと婚姻を解消するつもりは無かった≠ニ。その言葉がふと・・・クロードの脳裏に浮んだ。
(イレーネ殿が幸せでないと感じれば帝国に連れ帰るに違いない・・・)
もしそんな事になれば・・・クロードは考えるだけで、ぞっとした。先に何手も密かに手を打つクロードでも今回ばかりは打つ手が無かった。と・・・言うより打たせて貰えないのが正解だろう。
もう行くぞと言って部屋を出て行くアランの後ろ姿にありったけ悪態をつきたい思いを大きく息を吐いて堪えた。
一方、イレーネ達は宮殿の最奥にある場所へと移動して来た。
部屋は沢山あるが皆が自由に出入り出来る開放的な広間がちょうど中央にあった。昔は女達が王の寵愛を毎夜、毎夜競い合った場所だ。媚薬のような甘い香が漂っていた空間は今、明るく爽やかな場所へと変わっていた。寛げる低めの椅子が点在しイレーネの愛用の弦楽器が何時でも弾ける状態で置いてあるだけだ。
「申し訳ございません、陛下をお通しするような場所ではございませんのですが・・・」
イレーネは困惑した顔でナイジェルに謝った。
「そんな事は無い。到着したばかりで私はともかくツェツィーリアは疲れている。儀礼的なものが続けば尚更疲れるだろう。謁見者もいたのであろう?」
「そうだと思います。帝国の皇帝が初めてオラールに来られるのですからお会いしたいと思われる方は多くいらっしゃいますから・・・」
「では、アラン殿に感謝だ。ツェツィーリアは苦手だから余計疲れる。そうだろう?ツェツィーリア?」
ナイジェルが優しく微笑んでツェツィーリアに言った。
「はい、すみません・・・私、慣れなくて・・・」
「ツェツィーは人見知りしないけれど色々な思惑を秘めた方々と渡り合うのは苦手でしょうね。微笑んでいるのに心の中では正反対とか・・・良くある話ですもの」
「イレーネ様・・・」
イレーネはそういう者ばかりが取り巻きに居た辛かった皇后時代を思い出したが、直ぐに微笑んだ。
「さあ、この話は此処までにしましょう。そうそう、気分が良くなるように何か弾きましょうか?」
沈んでいたツェツィーリアの表情が瞬く間に輝いた。
「わあ〜嬉しい!久し振りです!お願いします!」
イレーネが弦楽器を弾き始める準備をしているとリリーがお茶の準備をしてやって来た。これで懐かしい顔ぶれが揃った。冥の花嫁の出現が無ければこれが普通の姿だっただろう。
仲の良い皇帝夫妻とお気に入りの侍女達とのひと時―――
先を進むアランの耳にイレーネの楽の音が聞こえて来た。そしてクロードには香り高い茶の香りが鼻腔をかすめた。
「・・・まさか・・・リリーも居るのですか?」
「ああ、呼んでいた。気が利くだろう?」
ニヤリと笑うアランにクロードは言葉が出なかった。リリーを引き合いに出した脅しは本気なのだ。
クロードが全く知らない間にリリーが王宮に呼ばれていた。アランに出来ない事は無いのだ。
アランは陽気で大らかな面ばかりが表立っているが隠れた部分では帝国の皇族殺しと言う異名を持つナイジェルと大差無い冷酷さも持っている。それが歴代の刻印の子―――絶対王者の本質だろう。
「相変わらず良い音だ。そう思うだろう?クロード?」
「―――はい。誠に・・・」
上機嫌になったアランが扉前で突然立ち止まった。中の会話が耳に入ったようだった。
見る間にアランの顔に怒気が上る―――