第三章 罠4


 小屋を出て舞い上がった美羽だったが、想像よりも遥かに飛行が困難だと思い知った。
イエランが翼は数分もしないうちに凍る、と言って脅していたが本当にその通りだった。
数分とは大げさだがそれでも長くは無理だった。次第に寒さで感覚が無くなり、羽ばたかせる事が出来なくなって高度が下がり墜落してしまった。運悪く木の枝で腕も切り血が滲みだしたのだった。
結局美羽は翼を仕舞い毛布を被って歩き出した。とにかく民家を見つけようと思ったが空からでも吹雪で視界が悪く、全く灯り一つ見つけられなかったのだった。
ゴウゴウという音だけが聞こえる真っ暗な世界で歩いている感覚も無くなってきた。
それでも前へ前へと進んだ。

(戻らないと・・・早く、早く・・・)
同じ雪の世界にあった宮殿を思い出した。氷の檻だと自分でも言ったがそんな事は無かった。
いつも、いつも暖かかった―――メラとルルナが楽しいそうに笑っている姿が目に浮かんできた。
そして何故かイエランの唇の端だけを上げる微笑んだ顔を・・・

その時、ちらちらと光るものが見えてきた。

「あっ、灯り?」
美羽は助かったと思った瞬間、くるりとその灯りと反対方向に向いて走り出した。
灯りと思ったものは獣の目だったのだ。無数の対になった小さな黄色い光りが美羽をめがけて迫って来た。彼女の傷付けた血の臭いを嗅ぎつけたのだろう。この地方には多い狼だった。

「誰かぁ―助けて――っ」
叫んだ美羽は冷たい雪が喉まで入り咳き込んだ。しかし雪の上をもがくように走った。
大きかった靴は脱げ、裸足となった足の裏に触れる雪は冷たいというよりも、感覚が無くなっていて熱く感じた。雪の上を楽しく歩いた記憶が全て嘘のようだった。
雪はこんなにも冷たく恐ろしいものだったのだ。
到底逃げおおせるものでは無く、一匹が飛び上がり美羽の右の二の腕に食らいついたのだった。
狼の鋭い牙が美羽の柔らかい肉に食い込んだ。

「きゃあ―――っ」


 イエラン達は犯人の逃走範囲を絞り込み、人海作戦で探していた。
もうこうなったら勘でいくしか無い。
イエランがそれを見つけたのは偶然だった。
そこは山間部で民家は無く、あっても狩猟小屋か急な天候崩れの為の避難小屋ぐらいしか無い地域だ。
歩いていると足元で吹雪の音とは違う、チリンと鳴る音を微かに聞いた。灯りを照らしてもよく見えなかったがもう一度足を動かしてみた。するとまたリンと鳴った。
イエランはまさかと思い、そこにもう一度灯りを低く照らして良く見ると、キラリと光るものが見えた。美羽に与えた髪飾りが雪にまみれて落ちていたのだった。
美羽が雪みたいだと言っていたように花飾
りは雪と一体化していた。
「これは!」
イエランはそれを拾い上げた時、その横あった木の枝が目に入った。
枝先には血が付いた布切れが引っかかっていた。それは見覚えがあった。
「これは美羽の・・・」
昨晩、美羽が着ていた夜着だ。黒翔国の布地は薄く綺麗な色目を使う。夜着になればもっと薄く繊細だ。昨日は美羽のその姿が愛らしく目に焼きついていたものだ。

雪に深く埋まっていない飾りと新しい血痕―――
「探せ!近いぞ!」
周りの兵達に叫んだ。方々に皆を散らし、イエランも自ら探し始めた。
暫くすると遠くで悲鳴が聞こえた。
「美羽?」
それは間違えなく美羽の声だった。そして獣の仲間を呼び集める遠吠えも同時に聞こえた。
イエランは心臓をひやりと撫でられたような気がした。その方向へと駆け出したが、再び吹雪の白い闇を切り裂くような悲鳴が響き獣の咆哮を聞いた。
身体中の血が凍りそうだった。こんな恐怖を味わったことは今まで一度たりとも無かった。

天眼が開いた。手に持っていた松明をその方向に投げ、宙に浮かせると灯りを増幅させた。
そこに照らし出されたのは美羽を銜えた狼だった。そして今にも襲い掛かろうとする狼の群れ―――

美羽はもう駄目だと思った時に空が急に明るくなった。
狼達もそれで一瞬怯み、口に銜えていた狼も美羽を放した。
そして美羽が見たものは金の天眼が輝くイエランの姿だった。気の遠くなるような寒さの中で見間違えかもと美羽は思った。松明に照らし出された彼は見た事がない顔をしていたからだ。
恐怖と焦りが入り混じったような顔?

「美羽―――っ!」
彼の自分を呼ぶ声が聞こえた。
それと同時に次々と狼達が何かに弾かれたように飛ばされてはバタバタと倒れていた。

(・・・・本当にあの人なの?)
身体が重くて起き上がれなかった。温かい真っ赤な血が冷たい雪の(しとね)に吸い込まれていた。
イエランが駆け寄って来るのが見えたがその時、ドーンという地響きが鳴った。山が落ちてきたと美羽はそう思ったがそれは大きな雪崩だった。
美羽は必死に動かせる左腕を伸ばした。イエランを求めて?

「美羽―――っ!」
イエランの叫び声が聞こえた。
(どうしてそんな顔をするの?どうしてそんな声で私を呼ぶの?どうして・・・・)

イエランが必死の形相で美羽の名を呼びながら手を伸ばしてきた。彼の手が自分に触れたと思った瞬間、白い波に呑まれてしまい意識が飛んでしまった―――どうして?と思ったまま。


 冷たい白い闇に閉ざされてしまったと思っていた美羽の意識がうっすらと戻り始めた。

(―――私は・・・助かったの?何だか・・・温かい?・・・)
朦朧(もうろう)とする意識の中で何か金色の光りが見えていた。それが、すうーっと細くなって・・・

(消えた?何?)
美羽が焦点を合わせ始めると、覆いかぶさるようにイエランが真上から見下ろしていた。
彼は下半身に布を巻いただけの裸だったので、ぱっと目をそむけるように横を向くと、彼の右腕から血が流れているのが見えた。しかも獣にでも噛まれたような酷い傷痕・・・・

(獣?)
美羽は、はっとした。自分も狼に噛まれた事を思い出した。
それは右腕だった筈――しかし自分の腕を見ると血の跡はあっても傷一つ無かった。
木の枝で切ったはずの傷さえも無い。
美羽は驚いて粗末な寝床から起き上がったが自分も彼と同様、何も着ていない事に気がついた。

「きゃあ――っ」
慌て身体を抱くように丸くなって縮こまった。
その肩に肌触りの悪いゴワゴワした毛布がふわりと掛けられた。

「濡れていたから脱がせただけだ。そのままにしていると風邪をひく」
イエランは淡々とそう言いながら、自分は右腕を止血しようと不器用に片手と口で布を巻いていた。
美羽は再び自分の腕を見て、彼の腕を見た。
以前もイエランは美羽の翼の傷を天眼で自分の身体に移してくれたことがあった。今回もまたそうしてくれたのだろう。さっき見た金色の光りがそうだったのかもしれない。でも何故?

美羽は毛布を身体に巻きつけると辺りを見渡した。小さな小屋のようだが手の届くところに救急箱を見つけた。急いでそれを取り上げて開けると消毒液に包帯もあった。
寝床の端で腰掛け止血にまだ奮闘しているイエランの横に美羽は近寄って行った。

「あの、私が手当てします」
イエランの手が止まった。そして美羽を見た。目が合うと彼女は、ぱっと目を逸らしたがイエランの返答を待たずに、無言で手当てを始めたのだった。
そして包帯が巻き終わる前に美羽の手が止まった。

「・・・この傷は私の傷ですよね?どうしてこんなことを?」
「・・・・・・・・・」
イエランは黙っていた。

「・・・・前も翼の傷をしてくれましたよね?」
イエランは舌打ちをした。まるで聞かれたく無かったように?

「・・・・ああ・・・前は早く翼を引っ込めて貰わないと邪魔だったからだ・・・今日は・・・遭難しかかっているのに一々痛いと泣かれてもうんざりするからだ」
美羽は彼がわざと邪魔だ≠ニかうんざりする≠ニか嫌味な感じで言っているように聞こえた。
だからお礼を言った。

「あの・・・ありがとうございました」
イエランは、ちらりと美羽を見たが何も言わなかった。
しんと静まり返った室内の空気が重かった。美羽は辺りを見渡すと唾を飲み込んで聞いた。
何か喋っていないとイエランを意識しすぎて鼓動が早くなってしまうのだ。

「ここは何処なのですか?」
イエランは、ちらりと彼女を見た。
表情は変えなかったが、先ほどから美羽が何度も自分から話しかけてくるので驚いていた。

「避難小屋だ。雪崩に巻き込まれたから流されて方向がわからん。天候がよくなったら見つけてくれるだろう」
雪崩はイエランの天眼の力で助かったが、この小屋を見つけられて正直安堵していた。
そうでなかったら雪に不慣れな美羽を連れていては命に関わっただろう。

「そうですか・・・」
美羽は大事な事を言うのを忘れていた事を思い出した。ここに彼がいる訳!
「あっ!私、逃げ出したのではありません!私・・・昨日攫われて・・・だから私、一生懸命戻ろうとして!私・・・私は・・・だから」
「分かっているから包帯を最後まで巻いてくれないか?」
「あっ、ごめんなさい」
ほっとしたら今度は今までの恐怖が甦ってきた。巻き終わった手はカタカタと震えだした。
手足を縛られ攫われたこと、吹雪の暗闇の中を彷徨たこと、狼に襲われたこと・・・・心細くて怖くてどうにかなりそうだった。だから涙が溢れてきた。

「――どこの痴れ者か知らんが、だいたい私から物を奪って逃げられるものか。馬鹿が」
美羽はイエランが吐いたその悪態を聞くと、可笑しなことに大丈夫だと言われているみたいになり安心してしまった。吹雪の中で彼を見た時、とても安堵したのを思い出した。
そう・・・彼がいれば大丈夫と思うと、涙も震えもピタリと止まった。

そしてイエランにもう一度お礼を言いたくなって彼の顔を見た。
ところが彼は異様なほど額にぐっしょり汗をかいていたのだ。薪を燃やして小屋を暖めているといっても中は肌寒いく、汗をかくような室内温度ではなかった。
美羽は思わずその汗をそばにあった布で拭った。その時、布から外れた指に当たった額は火のように熱かった。全身も小刻みに震えている。
美羽はもう一枚あった毛布を彼の肩にかけると、手に触れた肩は氷のように冷
たかった。
「あの・・寒いのですか?」
「あ・・ああ、少しな・・・向こうの棚にある酒を取ってくれないか?飲んで身体を温めよう」
美羽が酒瓶を取って振向くとイエランは座っていた寝床に倒れこんでいた。意識が朦朧としているようで息が荒かった。傷と寒さのせいか高熱を出しているみたいだ。
美羽は、そっと汗を滲ませた額に手を置くと、さっきより熱くなっているようだった。
それにガタガタと目に見えて大きく震えだしていた。

「大変・・・どうしよう・・・」
美羽は急いで酒瓶の蓋を開け、イエランの頭を抱えて口元にそれを当て傾けたが飲み下す事が出来なかった。透明の液体が唇の端から滴り落ちてしまった。

「駄目だわ・・・」
美羽は一瞬どうしようかと思った。そして自分達以外誰もいないのに、本当に誰もいないか確かめるような仕草をするとその酒を含んだ。
「うっ、に、にがい!」
顔をしかめると思わず吐き出してしまった。
強い酒は口に含んでいるだけで舌が痺れるようだった。そのうえ数滴が唾液と共に気管に入ってしまって咳き込んでしまった。
極寒のこの国には身体を温める為にこんな強い酒が常備されているみたいなのだが・・・・

咳き込んで涙を滲ませた美羽は、覚悟を決めてもう一度その酒を口に含んだ。
そして苦しそうに震えるイエランの顔を両手で包みこむと、その酒を口に含んだままイエランに、おずおずと短慮がちに口づけしたのだった。荒く口で息をする彼は唇を開いていたので口の中へ進入するのは容易かった。そして酒を移す。しかし殆どこぼれてしまった。

「駄目?難しいわ・・・」
美羽はどうしようと思ったが、もう一度自分で含み覚悟を決めて今度はもっと深く口を合わせた。
そしてイエランが嚥下するまでそれを解かなかった。
こくりと音がして喉が上下した。今度は上手く出来たようだった。

「飲んだ!」
美羽は、ほっとして酒瓶の中身がなくなるまでそれを繰り返した。
自分は飲んではいないがそれでも唾液にまじるそれは、美羽の喉に熱く流れ込み飲んでいるのも同じだった。自然と頭がふわふわしてきた。それは飲み慣れない酒のせいなのか、口を合わせる度に動いて絡めてくるイエランの舌のせいなのか分からなかった。
彼の意識は朦朧としている筈なのに口づけを交わしてくるのだ。
酒を求めてなのか?美羽を求めてなのか?彼の舌は深く差し込まれ美羽の口の中を探っていた。
いつもより熱い、ざらりとした彼の舌の表面が触
れる度に美羽の口の中も甘く痺れて燃えるように熱かった。熱に浮かされたイエランの舌の動きは流石にとても緩慢だった。それでも酒と唾液とが絡みあって嚥下させる度に、彼が舌を絡めるので、くちゃくちゃといやらしい音がしていた。
その音を聞きながら美羽は体の奥で、じんわりと疼くものを感じた。

「んん・・・・んっ」
美羽は気持ちが良くなって自然と甘い声がこぼれてしまう。
自分のしている事を忘れてしまいそうだった。
それでもなんとか酒を一瓶全て飲ませ終わった。
だがイエランの震えは止まらなかったのだ。整った顔は赤くなっているのに唇は真っ青だった。
熱がまた更に上がってきているようだが身体は冷え切っていた。
美羽は不安になってきた。どうしたらいいのだろうかと―――



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