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第四章 密林の国7![]()
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美羽がサガンの無理強いで再び昏倒してから二日経ち三日目の朝―――
熱があるが身体の痺れが弱くなっていた。美羽は起き上がり広い部屋を見渡したが自分以外誰もいない。サガンは近くにいればまた手を出してしまいそうだと思ったのか朝晩だけ部屋の中に入らず、扉口から様子を見に来るだけだった。
サガンの部屋だから当然窓に格子も無い・・・・
美羽はまだ動けないと皆思っているから逃げるのなら今だと思った。さっきサガンも出て行ったばかりで暫く来ない。だから今しかないのだ。動けるようになったと分かったら今度こそどうなるのか美羽は分かっていた。サガンの汗ばんだ熱い大きな体躯の感触を思い出し、ぞっとしてしまう。
「嫌、絶対に嫌・・・」
美羽は一度、死を選び取ったのに今は天眼国に帰ることしか頭に無かった。それが何故なのか分からない。今は只、逃げられるのなら諦めずに帰りたいという想いでいっぱいだった。
美羽は何時ものように髪飾りに触れ勇気を奮い立たせると、ベッドからシーツを剥ぎ取り身にまとい窓から飛び降りた。先日の逃亡で方向的には分かっているつもりだ。
ただし先日、賊に侵入を許してしまったから城壁の警備は甘くないだろう。でも内側から出るものはいないと思うだろうからそこが狙いだった。案の定、見張りは外側だけを見ているようだ。
飛び上がれば目立つだろう。ならば下へ落下すればいいのだ。見張りの隙をついて美羽は飛び降りた。確かに自分の目線より下を見ていない者達に美羽の姿は映らなかったようだった。
真っ逆さまに落ちながら美羽はぎりぎりの所で翼を開いた。
そして太陽の位置を確認して羽ばたいた。天眼国へ向けて―――
―――天眼国―――
戦の準備は整った。イエランはあまり必要としないが胸と肩当てぐらいの簡単な甲冑を身に着けていた。そして今、路が開かれるのを待っている状態だった。
兵達はその王の前で彼が発する進軍の下知を待っていた。
そのイエランは出発前にカルムの遠見で彼女の様子を聞こうと、すぐ近くの別室にいる彼のもとへと向った。
「ミウちゃん!駄目だ!無茶だ!」
部屋に入った途端その言葉が耳に入って来た。
「どうした!」
カルムは遠見から意識を外す事無く答えた。
「逃げ出した。今、あっ、城壁を飛び降りた!」
イエランは目を剥いた。
「馬鹿な!あの身体で動くなど自殺行為だ!まして猛牙国だぞ!木の上でも危険な獣もいる!何をやっていたんだあの男は!」
イエランは思わず、美羽を捕まえているサガンに悪態をついてしまった。
彼女は大人しそうで意外と無茶をするのだ。イエランはそれを良く分かっていた。自分なら鎖でも付けてベッドに縛っておくだろう。しかしそんな事を思っている場合では無いのだ。
「何処に向っている!黒翔か?」
「この方向でいけば・・・黒翔では無く・・天眼の地だ」
「天眼・・・」
イエランは彼女が向うのが自分の方角だと聞いて、熱い思いが込み上げて来た。
もちろん美羽は人質なのだからと思っているからだと思うのだが・・・
それでも危険を冒してでも帰ろうとする気持ちにイエランの胸はいっぱいになったのだ。
愛して貰わなくても彼女の心を自分で占めたかった。それが例え憎しみであろうとも・・・
今まさに美羽の心を占めるのが自分だと確信したのだった。
(きっと彼女は今、恐怖しているだろう。自分が戻らなければ天眼の王に民が殺されると・・・そして心の中で懇願している筈だ。私にまだ民を殺さないでくれと・・・)
「あっ!ミウちゃんが落ちた!大変だ!」
カルムの声にイエランは自分の思いから我に返った。
「どういうことだ!大丈夫か!」
「ああ、木の上だから大丈夫のようだ。あっ、また飛ぼうとしている」
「ちっ、何故じっとしていないんだ!次元空間の修正をかけるにしても何処にかけたらいいんだ!とにかく路の修正だ!カルム、行くぞ!」
美羽はとにかく遠くまで行きたかった。
しかし流石に体力の限界だった。ろくに食事もしていなければ、毒はまだ身体を蝕んでいるし熱は高いのだ。もう既に一度落下してしまった。呼吸も整わず全疾走したように息が荒い。
「この森はどこまで続くのかしら?」
果てしなく続く緑の海に美羽は自信を無くし始めていた。
まだ木の上だから危険は無いが世間知らずの美羽でも猛牙国の恐ろしい話は聞いていた。
もちろん話しを面白くするために大げさなことも多いが、基本的には間違っていなかった。
密林には危険な動植物が生息している。だから人々は高い場所に住まう。もちろん高い所にも危険な動物はいて、夜になれば危険が増すから猛牙族は自らも獣になるとか聞いた。しかし美羽は囚われていた城で彼らが獣に変身している姿は見ていない。彼らも必要に応じて変化するのだろう。
美羽は歯を食いしばって再び飛び始めた。
すると、森が途切れ岩肌が見える場所が見えてきた。そしてそこには大きな川が流れているのが見えた。それはずっと森の奥から続いているようだった。そして美羽の行きたい方角へも伸びていた。
ふと見れば、川岸に小船が一艘繋いであった。多分漁をする船だろう。周りには誰もいない様子だったので美羽は迷わず降下し、その小船に乗り込んだのだった。なるべく空や水の上を移動したかったのだ。危険も少なくなるが猛牙族の馬鹿げた嗅覚で追跡されるのを恐れたのだった。
川の流れは以外に速く思うように進んだ。しかしそれがもっと速くなって来た。
そして耳を覆いたくなるような轟音が響き渡っていた。
「な、何?きゃ―――っ!」
小船が川に浮かぶ葉のようにくるくる回りだして下流に吸い込まれて真っ逆さまに落ちたのだ。
大滝だった!
美羽は落ちながらも賢明に翼を広げて、滝の流れから逃れると下流の岸へと辿り着いた。
川に落ちなかったが滝のせいで頭からぐっしょり濡れてしまった。
身にまとったシーツも水を吸い重かった。
それを絞り、背翼は水を弾くように羽ばたかせると仕舞いこんだ。
「あっ、飾り!」
美羽は、はっとして頭を振った。するとチリンと下の方で音がした。
(良かった・・・ちょっとだけ休んでもいいかしら・・・)
美羽は濡れた重い身体を一先ず休ませようと座り込んだ。髪飾りをまたしっかりと留めなおして大きく息を吐いた。そして空を見上げる。太陽がじりじりと照りつけていた。
身体は直ぐに乾くだろうが美羽の体力をその分奪うようだった。
その眩しさに瞳を細めていると、急に陽が翳ったかのように暗くなった。
そして後方で大きな羽音がした。
(羽音?)
その瞬間、後ろに何かがいると美羽は思ったが確認するまでも無かった。自然とうずくまる身体が震えてきた。今更、息を殺しても仕方がないのに手足を引っ込め小さくなった。
「結構頑張ったじゃないか?俺の目を盗んでこんな所まで来るなんてな!」
確認しなくても足音一つさせず真後ろに立っているのはサガンだ。大きな羽音は翼を持つ獅子のエンライだった。あの神獣なら美羽の逃亡などあっという間に追いつくだろう。
「それにしても分かりやすい逃げ方だったな?真っ直ぐ天眼へ向ってるなんてな!」
影が伸びて来た。
「い、嫌――っ!」
反射的に這うように逃げ出す美羽にサガンの手が伸びてきた。彼女の細い首に手がかかった。
締め上げられながら身体がつり上がり、足先が地面から離れた。
「ぐ・・・ぐっっ・・・う」
「よくもこの俺から逃げたな!よくも・・・」
サガンの黄色い瞳が陽光を受けて金色に光っていた。
それがイエランの天眼に似ていると美羽は思った。それとも彼がここにいるのだろうか?
殺されそうなのにそんな事を考えている自分に呆れてしまった。
熱に侵されて思考回路が可笑しくなっているのだろう。
(彼がいる筈ないのに・・・・)
「何で微笑んでいる!何故だ!こんなに俺を揺さぶるお前が憎い!憎い!くっ・・・」
サガンは美羽の細い首から手を解いた。そして顎を釣り上げるように持ち上げる。
「許さねえ!絶対に許さん!」
そして余裕なく噛み付くように唇を重ねてきた。口腔を乱暴に貪るようにかき回すサガンの口づけも、イエランのような気がしてくるようだった。
「はぅ・・・・・ん・・ふっ・・ふふ」
「何が可笑しいんだ!何を笑っているんだ!答えろ!」
激しく美羽の肩を揺さぶった。
「・・・金色の・・瞳・・天・・・眼?イエラ・・ン?」
「なっ!俺のどこが奴なんだ!」
美羽はガクガクと揺さぶられながら空を見た。青い空だった―――
(飛びたいあの空へ・・・)
急に翼を広げた美羽にサガンは瞳を見開いた。夜空に舞う彼女を見た時に猛牙の男は美羽を自分のものにしたいと思ったのだ。まだ水に濡れたその姿は陽光の下で輝いて美しかった。
しかし飛び立とうとする美羽をサガンは捕まえた。
「逃がさないぞ!逃げるなら翼をへし折ってやる!」
「その汚い手を離せ!」
いきなり後ろから罵声を浴びたサガンは振向いた。そしてそこには突如現れた男がいたのだ。
サガンは、にやりと嗤った。その男の額に開く金色の天眼を見たからだった。
金色の天眼は王族の証―――
「お前が天眼の王か?」
美羽の危機にイエランだけ一人急ぎこの地へと渡って来たのだった。
「そうだ。それにそれは私のものだ。返してもらおう」
「ハッ!調子のいいことを!勝手に他国へ足を踏み入れて、そんな言い分が通るとでも思っているのかい?ええ?三つ目野郎?」
イエランは挑発するサガンに動じる様子は無かった。ただ自分に気付きもせず、ぐったりとその男の腕にもたれかかってやっと立っている美羽が気になっていた。
冷ややかな面のイエランのその視線にサガンは気が付いた。
(この男・・・)
「返して貰おう。元々盗まれたものだ」
「盗まれた?冗談!こいつはあんたから逃げてきたんだよ!そして俺の所に助けを求めた。可愛い声で言ったなぁ〜黒翔国を助けてください≠チてな!」
イエランの冷ややかに見えた瞳が炎を灯したように揺れた。しかし嗤った。
「くっくくっ、それは絶対に無い。もし自分がそうしたらどうなるか、これは良く知っているのだからな。くくくっ・・有り得ない」
凄い自信だとサガンは思った。確かに美羽の帰るという執念は尋常では無かった。それだけ彼女を脅しているのだろう。
「さあ、どうだろう?俺が天眼から黒翔を取り返してやると言ったら喜んで主人を乗り換えたぞ!だから俺のものだ!ほらっ、見ろ!」
サガンは悔し紛れに美羽の胸元の布をずり下ろした。そこには当然、サガンが無理やり付けた口づけの赤い跡がくっきりと浮かび上がっていた。自分のものだと主張するかのように、その胸のふくらみに手を這わせたサガンはにやりと嗤った。
案の定、イエランの冷ややかに見えていた顔に怒気が上った。
「貴様!」
「おっと、動くなよ。首なんか直ぐにへし折れるんだからな・・・はははっ、愉快だ!この肌は吸い付くような素晴らしい手触りだし蜜のような味がするよな?」
サガンはイエランを見据えたまま美羽の首筋に舌を這わせた。
美羽はその舌の感触に背筋が、ぞわりとして遠のき始めていた意識が戻ってきたのだった。
ふと気が付けばサガンが身体をピッタリと寄せていた。しかも誰かと喋っている。誰と?
美羽は視線を上げイエランの姿を見つけて驚くと、青い瞳を大きく見開いた。
また夢かもしれないと思った。
しかし胸のふくらみを弄ぶこの気持ち悪い感触は夢では無かった。
そして自分をじっと見るイエランの視線に美羽は胸が苦しくなった。
―――白い肌は自分だけのもの・・・肌につくのは自分の口づけの跡だけだ、と彼は言っていた。
それなのに彼の朱金の瞳に映っているのは違う男のつけた赤い跡だ。
「ち、違います!い、いや――っ!止めてください!放してっ!」
イエランは美羽の叫び声で、噴き出しかけた怒りを押さえ込んだ。
「くっくっ、それで彼女が乗り換えたって?毒蜘蛛で自殺図られながら拒否までされて?傑作だな。それはお前の妄想だろう?」
「お、お前――っ、何でそれを!そうか、お前達は盗み見も得意だったな!」
イエランが二人に近づいて来た。
「さあ帰るぞ!」
右手を差し出すイエランに美羽は、はっとした。
(帰る?)
力強くそう言うイエランの声に美羽は何故か安堵してしまった。差し出された彼の手は美羽をいつも無理やり押さえつけていた。でも驚くほど優しく触れる時もあった。
広げられたイエランの大きな手に美羽は魅せられたように手を差し伸べた。
しかしサガンにその手を掴まれてしまった。
「これは俺のものだと言っただろうが!」
イエランは心の中で舌打ちした。しっかりとサガンの腕に抱かれている美羽がいては攻撃が出来なかった。何か隙を作らなくてはならないだろう。
その時、美羽がサガンの腕に噛み付いたのだった。その瞬間、緩んだ腕の中から美羽が飛び出して、サガンもイエランも同時に彼女に向って手を伸ばした。
しかしその二人では無く、もう一人の人物に美羽は攫われてしまったのだった。
「きゃ――ぁぁ」
「美羽――っ!」
イエランの指先が美羽に触れることなく再び二人は引き離されてしまった。