最終章 神国の扉5

 
イエランは気配を感じたが見張りだろう、と気にも留めていなかった。
馬鹿馬鹿しい手枷を忌々しく見て、乱れた髪をかき上げた。じゃらりと鳴った重い鎖の音と一緒に、美羽が自分を呼んだような気がした。

「・・王・・・・天眼の王・・・大丈夫ですか?」
幻聴か?しかし、まさかと思ってイエランは後ろを見た。そして驚く。

「美羽・・・」
美羽は名前を呼ばれて、どきりとした。これは何時まで経っても慣れないようだ。
イエランは信じられないというような顔をしていた。

「あの・・私・・・心配で。それに・・ごめんなさい。黙ってこんな所まで来てしまって・・・でも私、こんな事になるなんて思わなくて・・・」
美羽は涙が止まらなくなった。もっとちゃんと謝らないといけないと思うのに言葉が出なかった。
心優しく律儀な美羽がただ謝るために来たとしてもイエランは嬉しかった。
重い鎖を引きずりながら、外と牢を仕切る鉄格子に近づいて行った。
そしてその格子の間から手を差し伸べると美羽の頬に伝う涙に触れた。

「泣かなくていい。直ぐに助けてやる」
優しく頬に触れる指に、美羽はもっと涙が溢れてしまった。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめ――」
美羽の唇にイエランの指が触れて言葉が途中でとぎれた。

「お前は本当に謝ってばかりだな・・・分かったから、もう謝らなくていい」
イエランはそう言いながら、美羽の唇に触れていた指をそのまま彼女の柔らかな口の中へと進めた。

「あっ・・・・・・」
ゆっくりと歯列をなぞるように動く指に、美羽は甘い疼きを感じるようだった。
その指を誘うかのように自然と口が開き始めた。そして鉄格子に身体を近づけていく。
もっと近くでイエランを感じるように―――

しかし焦らすように動いていた指が美羽の唇から離れた。もう止めるの?と思った瞬間、切なくなってイエランの顔を見てしまった。その彼の顔は間近に迫っていた。そして伸びてきた手に持っていたのは、いつの間にか失くしてしまった白い花の髪飾りだった。

「雪の花?・・・・」
「忘れものだ」
美羽はまさかと思って驚いた。
こんなものをイエランが拾って大事に持っていたとは思わなかったのだ。

それが髪に留められると、そのまま(うなじ)をつかまれ鉄格子に顔がもっと引き寄せられた。
それにまた驚く美羽の下唇を、鉄格子の内側からイエランが優しく食んだ。
海翔に傷つけられた傷跡に触れるかのように・・・そっと・・・冷たい鉄格子が二人間で邪魔をする。
そのもどかしさが尚さら欲情を昂ぶらせるようだった。深く合わせられない唇はもの足りないように震える。それでも美羽の薄く開いた唇の隙間からイエランの舌が侵入してきた。舌先同士がこすれて美羽は背筋がぞくぞくしてきだした。自分はこんな所で何をやっているんだろう?と思いながらも自分から舌を差し出していた。軽く触れ合う唇と、もどかしく舌先だけ絡み合う口づけ―――

「はぁ・・・っはぁ・・・」
息が切なく漏れ、もどかしさに鼓動だけが激しくなってくる。美羽はいつものように頭がふわふわしてきた。絡み合わない唾液が糸を引いて唇に落ち、それが空気に触れてひやりとする。
イエランが唇を離したのだ。

「・・・美羽・・お前の中に入りたい・・・」
美羽は意味が分かって、かっと頬を赤らめた。

(え?今ここで?)
美羽は眉をひそめてイエランを見上げた。

「・・・・流石にそこまではな・・」
(じょ、冗談なの?本当に?)
戸惑う美羽にイエランが微笑んだ。
今の今まで重ね合っていた彼の唇の端だけが少しだけ上がる微笑―――

その時、美羽の・・・・だからよ≠ニ言った言葉が浮かんできた。・・・・の部分は好き

(私・・・この人が好きなんだ・・・)
何故なのか分からない。どうして好きになったのかも分からない。理由なんて分からないのだ。
だけどこの胸に広がるのは憎しみでは無く愛しいと想う気持ちだった。

イエランが、じっと美羽を見つめていた。
美羽はそう自覚した途端、彼から見られるだけで鼓動が早鐘のように鳴り始めた。

(聞こえていないわよね?大丈夫よね?)
自分の気持ちをイエランに知られたく無かった。少し優しくしてくれると言っても彼にとって自分はただの人質。それよりもイエランが以前言ったように適当な玩具かもしれない。
立場は十分分かっている。敗戦国の王女が何を勘違いしているのかと思われたく無かった。

(それに・・・アルネさん・・・)
アルネの父親が言っていた。王がアルネの死に様を忘れる筈が無いと・・・・この春に結婚する筈だった。その彼女はもう二度と戻って来ないのだ。イエランの心に痛みと共に残るアルネへの想い。
美羽はそれを思うと胸がちくりと痛む。

「まだ死にたいと思うのか?」
イエランの声に美羽は自分の思いから引き戻された。

「私は・・・いいえ。今は・・・今は死にたく無いです」
美羽はその答えが直ぐに出た。死にたく無い―――
今は瞬きする時間さえも目の前の人を見ていたかった。例え兄海翔や黒翔の民が彼に殺されたとしても、沢山泣いて、泣いて・・・ずっと泣き続けたとしても、死を選ぶことは無いと美羽は思った。
死んでしまったらもう二度とこの人を見られないのだから・・・・そう思う自分が愚かで酷いと思う。
それでもイエランだけを見つめて共にいたかったのだ。
それが初めて望んだ自分の幸せ―――

イエランは美羽の答えが本当だろうかと思った。確かに海翔が生きていて美羽の最も大切なものである兄の存在は大きいだろう。生きる糧が出来たのだから・・・・イエランは美羽に大事なものを作らせたく無かった。憎しみを捨て自分を見なくなるからだ。しかし海翔が生きていた時点で憎しみを煽る事も頓挫し、かといって再度殺すことも出来ずにいる。

(美羽はもう死ぬことは無いだろう・・・ならば・・・ここまでか・・)
イエランの心に去来するのは、喜びなのか絶望なのか?心眼を持つカルムが視ても分からないだろう。

「美羽。お前の兄に一人で此処に来てくれと伝えてくれないか?」
「えっ、でも・・・」
「そんな顔しなくてもいい。殺したりしない。話がしたい・・・それだけだ」
美羽は頷いた。イエランは真剣な様子だった。そしてさっきまでとは違う何かを感じた。
この鉄格子よりももっと違うものが二人の間にあるような気がしてならなかった。

「さあ、美羽、行きなさい」
美羽は何度も振向きながら地下牢を後にした。美羽は抜け出したのは簡単だったが帰る場所が分からなかった。でもあっさり捕まえてくれたので部屋へ戻る事が出来たのだった。
美羽が逃亡していたと連絡された海翔が直ぐにやって来た。

「美羽!逃げ出すなんて何故そんな馬鹿なことをしたんだ?大人しくしていたら何もされないんだから」
「私、逃げ出したのではないわ。天眼の王に会いたかっただけよ」
「何だってそんな!奴は敵国の王だよ!」
美羽は兄にどう説明しようかと迷った。
彼ら天眼国に海翔が思うほど非は無いと分かってもらいたかったのだ。

「兄様・・・私ね、天眼の人たちが黒翔を攻めると決定付けた事件の人を知っているの。私の目の前でその狂宴が行なわれたから・・・そしてその犠牲者は王の許婚だったのよ」
「許婚だって?」
海翔は戦端の原因は知っていたが、その人物が王の許婚だとは知らなかった。

「そうなの。だから私が同じようにされても仕方なかったでしょうね。でも彼らはあの人のようにしなかった。そして黒翔国も公正に治めて民を虐げることは無かったの」
それは海翔も悔しいと思っていたものだった。流石に国に赴くことは出来なかったが法国の情報網でそれなりに把握していた。戦闘で死んだのも殆どが城を守る兵と高暁や王妃に媚びへつらう重臣達だけだった。王族を皆殺しと言っても、その重臣の中に数人いるだけで、政敵と思われる王族は高暁によって既に殺されていたのだ。

「・・・・だけど、美羽。君はあの王にいいように弄ばれているんだろう?何も出来ない君にそうすること自体、卑怯者だろう?」
美羽はそこが何時も不思議に思っていた事だった。何故なのか?と。
しかし突き詰めて考えると答えが出て来たのだ。本心はまだ分からない・・・でも理由は今日分かった。
彼はまだ死にたいと思うのか?≠ニ聞いた。それが答えだ。

「兄様、私はあの塔に閉じ込められた時からいつも脅されていたのよ。逆らったら兄様を殺すって・・・だから嫌で、嫌で堪らなかったけどあの人の言うことを聞いていた」
「まさか・・・そんな風にあの男に言われていたのか?そんな馬鹿な・・・」
海翔は知らなかった。ただ美羽はか弱い少女だから逆らえないだけだと思っていたのだ。

「でもあの後、兄様が死んだと思ってて・・・だったらもう生きる必要は無いでしょう?私は異端だし、王女としての誇りもぼろぼろだったし・・・だから私、何度も死のうとしたの」
「美羽・・・」
海翔はあんなに近くにいたのに彼女の本当の気高さを分かっていなかった。
「そうしたら天眼の王が言ったのよ。私が死んだら黒翔の民を全部殺すって・・・でもそんなの嘘だったと今なら分かるの。だって彼がそんな事をするような人でないもの。色々、酷いことはされたわ。兄様が言ったように無理矢理に・・とか――でも、あの人みたいに嬉々となんかして無かった。何時もつらそうな苦しそうな顔を隠していた。そして言ったのもっと自分を憎め≠チて。どうしてだろう?と何時も思っていたのよ。何故?って・・・」
「それは・・・」
海翔はその裏に隠された真実が分かってしまった。そして美羽がまだ気が付いていない天眼の王の心を―――敗戦国の王女にそこまでする必要は無いのだから。

「そう・・・私が自分で死なないようにしたかったみたい。だから私は民のため死ねなかったし、もうそんなのどうでもいいと思っても、彼が憎くてこのまま死んで嗤われるのは嫌だとも思ったりしたの。だから私は今、生きているのよ」
だから天眼国は悪いばかりでは無いと美羽は言いたいのだろう。そしてイエランを想う美羽の心が朧気に見えてきた。

「それで私は思ったの。不幸な出来事はあったけれど、話の分からない人達では無いし、王は信頼出きる人だから話し合えないかと思うのよ」
「話し合い?」
美羽が考えているように簡単なものでは無いと海翔は分かっている。常春の楽園とまでいわれる黒翔国を美羽が言うように、難なく治めている彼らが応じるものでは無いだろう。まして彼らに取引出来るものなど自分は全く持っていないからだ。理由はどうであれ負けた国の末路はそんなものだ。

考え込む兄に美羽は小さな声で言った。

「・・・あのね、兄様。私、さっき天眼の王の牢屋に行って来たの。そしたら彼が兄様と二人だけで話したいことがあるから来て欲しいって・・・」
海翔は驚いて瞳を見開いた。あの地下牢は偶然に辿り着くような場所には無い。それよ
りもあの男が自分に話しがあると言うのに驚いたのだ。そして長々と美羽が話した内容もこれに関連つけて言いたかったのだろう、と思うと良い気分では無かったが・・・・
(何の話にしても・・・李影よりまともな話が出来るかもしれない・・・)
海翔は分かったと言って、部屋を後にした。


―――地下牢―――

海翔もイエランの鎖に繋がれた姿を見て驚いた。
普通なら愉快だと嗤うところだろうが美羽の話を聞いた海翔はそんな気持ちは湧いてこなかった。

「僕に話しがあるそうですね?」
二人は視線を外す事無く対峙した。

「単刀直入で言う。あの男が何をしたがっているのか私には興味はない。しかしそれで巻き込まれるのは問題外だ。だから全部壊す」
「貴方、可笑しいんじゃないですか?僕は李影の仲間ですよ。そんなこと言って――」
「仲間だろうが関係ない。美羽を助けたくないのか?」
「助けるも何も・・・僕達は・・・」
「信用出来るのか?あの男を?本当に危険はないと?」
イエランの言う通りだった。李影を今は信用していない。自分達の待遇は保障してくれていてもそれは信用の上のことだろう。事が成れば約束など反故にするかもしれないのだ。イエランは海翔の心の迷いは察していた。

「もちろん無償でとは言わない。黒翔国をお前に返そう」
「なんっ!」
海翔は馬鹿な?と思った。それこそ信じられなかった。あり得ない事だ。

「そんな話・・・信じられ・・・」
信じられるものかと言いたかった。しかしイエランの瞳を見て、その言葉は呑み込んでしまった。

(それほどまでに・・・この男は美羽を・・・美羽を愛している・・・)
美羽をどんな些細なことからでも守ろうとしているのだ。

(僕を殺さなかったのも悲しむだろうと思った美羽の為、死のうとする美羽に自分を憎ませたのも・・・全て美羽の為)
彼にとって黒翔国など美羽に比べたらどうでもいいものに違い無い。美羽を同じく愛している海翔はイエランを信じられた。そして少し負けたような気もした。

「―――美羽が言っていた。君は信頼出きる男だと」
氷の仮面のようだったイエランの表情が崩れ、少し驚いたように瞳が大きく開いた。
翔は驚いた。イエランは美羽の気持ちを知らないとは思わなかったのだ。予想では美羽はただの友好的なものでは無く、腹立たしい事にこの男を異性として好きなのだろうと感じていた。
美羽と共に国を治めるという自分の想いには邪魔なだけだった。

「黒翔国の件、間違いなくそうして貰えるのなら貴方の申し出は受けてもいいです。ただし、美羽も返して貰います」
イエランの頬がぴくりと動いた。しかし・・・

「・・・・承知した」
逆に海翔が目を見張った。イエランが承知するとは思わなかったのだ。

「本当に?」
イエランは頷いた。

「・・・・正直驚きました。貴方は美羽を手放さないと思っていましたから・・・僕の勘違いでなければ・・・しかし、本当に良いのですね?僕は実を言えば不義の子でして、美羽とは血の繋がりは無いのですよ。だから彼女を放すつもりはありません。この意味は分かりますよね?」
イエランは黙っていた。初めて知った事実だったが、どうすることも出来ないのだ。兄妹だろうが無かろうが同じだった。美羽が去って行ったあの夜の相手が海翔と分かった時から、彼女とは決別する運命だったのだと思った。もう美羽を繋ぎ止めるものも無く、彼女の悲しむ顔は見たくなかった。
イエランは自分が手を引きさえすれば美羽は幸せになれると思ったのだ。

そして二人は同盟を結んだのだった。
風魔鏡の発動を止め、天眼族の軍勢をこの城へ誘う事となったのだ。



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