第一章 名の無き地1
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白銀に輝く帝都。それらを抱くように広がる冴え冴えと澄み渡った空―――
路地と路地とが交差する数箇所の広場には、暖をとるための大きな焚き火が見える。
その燃え盛る紅い炎が白く冷たい雪景色の中で印象的だ。
少女は、ふと思った。まるでちょっと前のあの人みたいだと―――
どれくらい眺めていただろうか・・・凍える手に息を吹きかけた。
真っ白な息が細い指にほんの少しだけ暖かさをおくる。
しかし、その行為を嘲嗤うかのように空は凍てつく風を縦横無尽に躍らせて、
容赦なく可憐な少女の顔を撫でた。
少女は固く瞼を閉じて首をすくませると、風に舞い上がる金糸のような髪を押さえた。
「ティアナ様。御身体が冷えますから今日はこれくらいでお戻りになられませんか? 」
少女は後ろから掛けられた声の主に向かって振り向いた。
少し悲しげな色を湛えた瑠璃色の瞳が真っ直ぐに、声を掛けた相手を見上げる。
すい込まれそうな鮮やかな瑠璃色―――
ハーロルトは声を掛けたものの次の言葉が出なかった。
触れれば幻のように消えるかと思うような儚げな不可侵の乙女―――
誰もが魅了される〈冥の姫〉
皇城の最も上段に位置し、屋根はあっても石柱だけの吹きさらしの塔の中。
大人が五、六人立てばいっぱいという狭い空間で、彼は思わず彼女の視線から瞳をそらした。
ハーロルトは双子の弟エリクと鏡で映したかのように姿形はそっくりだが
性格の違いなのか印象はずいぶん違って見える。
自由奔放で陽気な弟とは正反対の彼は生真面目で実直。
エリクといえば情報収集とは言っても城下で平民と混ざっては青春を謳歌し、
はたまた貴族の夜会ではご令嬢方と恋の火遊びをする。
そんなエリクから兄ハーロルトの事を言わせれば『そんなんで人生楽しい訳? 』と、
気の毒がられるくらい彼は定規で端から端まで線を引くように規則正しい生活を送っていたのだった。
そんな彼に人生最大の転機が訪れたのだ。それは〈冥の花嫁〉であるティアナの護衛の任であった。
冥の花嫁・・・・・それは帝国に繁栄をもたらす冥界神の聖なる娘。
その神の子を最初に見たのは夏の初めだった。皇子から一言、
『ハーロルト、冥の花嫁を迎えに行く。ゲーゼの所に行って場所を聞いておけ』
それは数百年ぶりに降臨される伝説の花嫁の事とは思えない、
厄介そうな口調で言われた命令だった。
その後、大神官ゲーゼよりもたらされた花嫁の所在を報告したところ、皇子は急に激昂したのだ。
これは後に判明した事だが、その時は皇子のその様子にハーロルトは
何が何だか皆目見当がつかなかった。
それから皇子は報告を聞くなり、急に降り出した雨にも構わず単騎で、宮殿を飛び出して行ったのだ。
そんな様子の皇子を見るのは初めてで、その当時は驚いたものだった。
誰もが知る皇子は内に秘める気性が激しいが、自己を完璧に制御する冷徹な主君だったからだ。
そして暗雲が立ち込め夕暮れとは思えない暗さの中、
雷鳴が轟きわたり時折雷が真昼のように辺りを照らしていた
その夏の日、ハーロルトは〈冥の花嫁〉を見たのだ。
妖魔の唾液と血の混ざり合った異臭のする店内の床に彼女は座っていた。
その傍らには両親と思われる妖魔に食い荒らされた無残な遺体。
そして〈冥の花嫁〉は人形のように無表情でただ涙だけ流していた―――
その姿にハーロルトは胸が絞めつけられ呼吸が止まりそうだった。
その瞬間、儚く震えるその少女を 守りたい と強く願う思いが湧き上がったのだ。
暫くしてその思いが神に通じたのか皇子より〈冥の花嫁〉護衛の任務を拝命した。
なんと言う喜びか!
その時の喜びはかつて経験した事の無い湧き上がる思いに大空まで舞い上がる気分だった。
少し苛立ちながら命を下した皇子の言葉に頭を垂れて拝命していたが顔を上げる事が出来なかった。
自分はだらしない表情をしていると自覚していたからだ。
だが皇子が続けて言った言葉に、はっ、と顔をあげた。
『自由にさせていいが、行動を全て監視し報告せよ!もう二度と逃がしはしない』
絶対君主の低く冷たく放つその言葉の裏に、燃え盛る炎を感じた。
皇子の何かが変わっていく予感がした時だった。
それからは帝国を揺るがす事件が続いた。レギナルト皇子暗殺未遂に妖魔の暗躍―――
度重なる試練の中、皇子とティアナはお互いに愛を確かめ合い今に至る。
そのやっと落ち着いていたところに皇子レギナルトは二ヶ月と少し前、
帝国に出没した厄介な妖魔討伐に出掛けてしまった。
しかもその妖魔が隣国オラール王国へ逃走した為、思わぬ長期遠征となってしまっていた。
その皇子から無事討伐完了と帰国するとの一報が届いた後、
絶えることの無かった定期連絡が途絶えたのだった。
オラールから発せられた連絡からすれば順調にいけばもうそろそろ到着してもいい頃合だった。
だからこの数日、ティアナは時間が空けばこの場所で城下を見下ろし皇子の帰りを待っているのだ。
彼女の護衛を担当するハーロルトは当然彼女の後ろに常に控え、
時折無茶をするティアナを気遣っていた。
(我が主君の花嫁になる聖なる姫君・・・・)
ハーロルトは女性とこんなに話す事も、共に時間を過ごす事も家族以外いなかった。
ティアナと出会ってからは夜明けから陽が沈むまで片時も離れず共に過ごしてきたのだ。
彼女の悲しみ、喜び・・・全て傍らで見てきた。当然ながらレギナルト皇子よりも・・・・
忠実な彼は近衛隊長の任もおろそかにすることも無く副隊長であるエリクと連携し、
警護と公用に忙殺される毎日で、度々睡眠時間を削る事もあったがそれさえ喜びだった。
だが最近では胸の奥が何か重たい固まりでも呑み込んだかのように苦しいのだ。
特にこのような狭い空間でティアナと二人だけになると・・・・・
原因は分かっている。
(この御方は、触れてはならないもの。ましてや望む事は絶対に許されない人なのだ・・・
そう・・・あふれる思いに心が苦しいのだと分かっている・・・・)
ティアナをただ守りたいと思っていた忠節心だけで無くなっているのだった。
特に皇子と心が通じ合ってからのティアナは更に美しく輝いていた。
(だが、自分は皇子直属の第一の騎士。どのような想いがあろうとも
主君を裏切るくらいなら自分で自分を滅するまで・・・・)
ハーロルトはその思い封じ込めるかのように大きく息を吸い込んで完全に自制した顔を作った。
誰もこの彼の心に秘める思いに気がつく者はいないだろう。
自分を仰ぎ見ているティアナの、見れば苦しくなる瑠璃色の瞳を見返して優しく言った。
「皇子は大丈夫です。こちら側からも手の者を遣っておりますから、
時機に皇子一行の行方は分かると思います。急なこの天候ですから何かと滞っているだけでしょう。
ですからティアナ様はご安心してお待ち下さいませ」
「そうよね。この雪だから思うようにならないわよね。皇子達も、あっ!ごめんなさい。
エリクも皇子と一緒だったのよね。ハーロルトも心配でしょう?
私、自分の事ばかり考えていてあなたも心配だったでしょうに・・・・」
ティアナはハーロルトの言葉に少し安堵したが、皇子に随行して
共に行方不明のエリクの事を思い出し恥ずかしくなって頬を少し赤らめた。
「ティアナ様、私にお気遣いなく。エリクは殺しても死なない奴ですから。
要領よく立ち回っていますよ。もちろん皇子を御守りして。
しかし、皇子はエリク如きが御守りする程弱くございませんから
反対に守られているかもです」
ティアナが彼の言葉に再度安堵して微笑みかけたとき、
近衛兵が塔の出入り口に現れて直立不動で敬礼した。ハーロルトの部下だ。
「ご、ご報告も、も、申し上げます!」
心なしか伝令の兵は頬を赤らめ緊張して声も上ずっていた。
それは当然であろう。近衛兵であるから貴族なのは確かだが、伝令兵となると下級貴族なのだ。
それが普段間近に見ることなど無い高貴な佳人、
それも帝国最高の佳人である憧れの〈冥の花嫁〉に目通りするのだから。
兵舎にもどったら仲間から小突き回されるに違いない。
その幸運な伝令兵は時折ティアナを盗み見ながら続きを報告した。
「レギナルト皇子殿下一行は、只今、名の無き地にて所在を確認いたしました!」
ティアナはその報告を聞いた途端、歓喜の声を上げて咲き誇る花のように
微笑んだかと思うと大粒の涙を流した。
まるで宝石のような美しい瞳から、その欠片が落ちたのかと思うような涙。
伝令の兵は敬礼も忘れて阿呆のように口を開け、呆然とティアナに魅入ってしまった。
ハーロルトは内心、溜め息をついた。伝令兵を気の毒に思ったのだ。
ティアナは悲しくても、嬉しくてもよく涙するがこの涙が曲者で、
その姿が余りにも儚げで美し過ぎて胸が掻き乱されること必至だからだ。
あの伝令は当分、夜眠れない日々が続くだろうなと思う。
ハーロルトは泣くティアナをなだめながら、遠く 名の無き地 の方角に瞳を向けた。
( 名の無き地 ファネールか そのような厄介な場所にいらっしゃるとは・・・)
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年中温暖な気候であるオラール王国に比べてデュルラーは四季が巡る。
夏は暑く冬は寒く寒暖の差は大きい。
そして今は冬―――
ファネール領。デュルラー帝国の最北端地方。
四季のある帝国の中でもほとんどが冬季と言う厳しい気候の土地。
ファネール―――名の無き地 と呼ばれる忘れられた都。
そこは先王時代、失脚し、帝国からその存在を抹消された侯爵領だった。
レギナルトの祖父でもある先王は歴代統治者の中でも刑罰には特に厳しかった。
存在するのに全てにおいて帝国から無視され続ける罰だった。
侯爵家一族にとって極刑を受けるより苛酷な刑罰であり、
ファネールとはファネールと言う名の牢獄だったのだ。
その地の近くにはオラールとデュルラーとの国境がある。
その昔、天・冥・人界を滅ぼしかけた〈虚無の王〉を封印した〈沈黙の地〉もそこに位置する。
両国を行き来するにはこの聖地である〈沈黙の地〉の左右に連なる山脈を
越えなければならなかった。
その山脈を境にするかのように両国の気候が分かれているのだ。
どういう訳か四季に関係なく深い森に囲まれた平地の〈沈黙の地〉は、
封印の儀式以外は例え皇族であっても立ち入る事が許されない聖地だ。
故にデュルラーに帰るのにはその左右にそびえる山脈を通らなければならなかった。
山脈とは言ってもその頂を登って行くのでは無い。
広い大陸の事、その山脈には山を掘りぬいた街道が数箇所あるのだ。
国境の関所にもなっていて両国の警備隊で出入り口は守りを固めてられている。
皇子一行はその山脈街道を抜けて一路、最短距離で帝都に帰参する予定だったが、
思わぬ事態にその予定が狂っていた。
それは、オラールの汗ばむ陽気から一転した帝国領は冬本番だった。
国を出た時はまだ雪も舞わない時期だったのだが、
まさか今年に限ってこんなに早く雪が降り出すとは予測出来なかった。
一月以上早い本格的な冬の到来だった。
しかも近年稀に無い降雪量―――
その為、国境は抜けたが帝都へ向かう街道はまだ山道が多くその要所、
要所の路が雪崩で閉ざされ、とうとう立ち往生してしまったのだ。
仮天幕の中、皇子レギナルトは帝都へ繋がる街道の報告を受けていた。
そのいずれもが閉ざされていて復旧には時間がかかるという内容だった。
「馬鹿な!道が一本も無いとは!」
レギナルトは持っていきようの無い怒りで声を荒げた。
報告した年若い斥候は皇子のその怒号に萎縮して、続きの報告は消え入るような声となっていた。
「――その、後はそ、その・・・はばかりながら彼の地しか無いと思われます。
そこは平地でございますから・・・」
「? 彼の地?」
「はっ。名の無き地 でございます!」
その地の名を告げるのも禁忌とされるその土地―――
レギナルトは憤っていつもより濃く光る紫の瞳を細め、天幕の外へ出た。
外は相変わらず雪が舞い降り遠く見渡せない。まだ遠い帝都を想う。
(ティアナ・・・・)
最後に見たティアナの姿を思い出す。
彼女に妖魔討伐に行くと言うと心配そうに瑠璃色の瞳を曇らせていたが
気をつけて と言って微笑んだ。
その日は何か予感がしたのか離れ難く思わずティアナを強くかき抱いて
何度も何度も彼女に口づけをしてしまった。
侍女のドロテーから大きな咳払いをされるまで・・・・・
ティアナは真っ赤になって腕から逃れるように少し抗った。
その様子がまた愛おしくて再び強く抱しめた。
直ぐにでも飛んで帰るつもりだったのだが、まさかこんなに長く
帝都を留守にするとは思わなかった―――
今でも自分の腕の中にすっぽりとおさまるティアナの柔らかな身体と唇が忘れられない。
この手に温もりを感じるようだ。
灰色の空を見上げ、幻を追うかのように片手を空へと突き出した。
ティアナと同じく儚げな雪はレギナルトの手に掴まらず冷たい口づけをする。
空を掴んだ拳を更に強く握り締め口元に運ぶと瞳をきつく閉じた。
ティアナの奇跡の生還後、すれ違っていた愛を確かめあった矢先だった。
婚礼の為の神殿も造営途中だ―――
レギナルトは決意し、くるりと踵を返すと天幕の前に控える臣下に告げた。
「エリク! ファネールへ行くぞ。出立だ!」
「やはりですか?復旧をお待ちになりませんか?」
エリクは皇子の答えは分かっているが、一応意見した。どう考えても得策とは思えないからだ。
しかし、皇子の気持ちも分からないでも無い。
「二度も言わせるな!ファネールだ!」
レギナルトはそう一言告げると歩きだした。
彼もエリクと同じく得策とは思っていないが、復旧を待っていたら春になってしまうかもしれない。
そんなに待てる筈も無い!
エリクはあきらめて他の者達に出立の命を飛ばしながら思うのだった。
(あの 氷壁の皇子 と言われ、その名の如くまるで氷の壁を相手にするかのように、
女人には冷たく見向きもしなかった皇子がこんなになってしまうのだから恋とは恐ろしいものだな・・・)
それから、やれやれ、と大きな溜め息をついて自分も出立の準備に取り掛かった。