最終章 鍵 1


 ―――どうして来てくれないの?約束は?
 ―――どうして?どうして?
 ―――寂しいよ――寂しいよ―――
 小さな声が誰もいない森から聞こえてくる。何度も何度も誰かを呼んでいる声。

だが誰も応える者はいなかった。
 呼びかける声の主は出てはならないと言われた森を抜け出した。
 ―――何処にいるの?何処?
 長い大きな耳をすまし、空色の瞳は瞬きもせず、辺りを探す。

毎日振り続ける雪に探す人の香りは消え途方に暮れる。

しかし、良く聞こえる大きな耳は確かな情報をとらえた。
 行き先は帝都だと―――
 真っ白な毛皮に包まれた体から、雪のように白い両翼が広がり天空へと舞い上がった。
 デュルラー帝国の首都へと向かう、その強靭な翼の羽ばたきは風よりも早かった。

何日も休まず、ただひたすら飛び続け帝都へと到着した。

しかしその広大な都に再び途方に暮れてしまった。

とにかく疲れた。気力も使い果たし、もう羽ばたく事も出来なかった。

瞼も重くて開ける事が出来ない―――冷たい雪の中にうずくまってしまった。
 その時、暖かく心地よい温もりが触れたかと思うと、体がふわりと浮いた。

気持ちが良くて再び重い瞼を少し開けてみた。
夢だろうか?寂しくて見ていたあの人?
 鮮明な瑠璃色の瞳が心配そうに覗いている。
「大丈夫?どこか怪我でもしているのかしら?」
「ティアナ様!それをお放し下さい!見かけと違ってそれは獰猛なのです!」
「大丈夫よ、ハーロルト。こんなに弱っているし、それに人語を理解するぐらい

賢いっていうでしょう?私達が自分に危害を与えるものかどうか分かるわよ。

でも、どうしてこんな所にいるのかしらね。初めて見るわ」
「非常に珍しい生き物です。その美しい毛皮と羽を取るために乱獲されて、

今では希少価値ですから滅多に見る事は出来ません。

知能が高過ぎて人の言う事を聞かないうえ獰猛なものですから人が飼っているとは思えません。

考えられるとしたら毛皮商人から逃げ出した可能性が高いですね」
「毛皮商人!殺されるの?」
 ティアナは庇うようにその(ヴァ)(イセ)と呼ばれる白い動物を、ぎゅっと、抱きしめた。
「今は保護動物に指定されていますから、違法になります。

もしその毛皮商人が現れても渡す必要はございませんし、逆に逮捕致します」
「良かった!じゃあ、家に連れて帰って手当てしましょう」
「ティアナ様!それはなりません!危険です!」

 ハーロルトは慌てて言った。
「大丈夫よ、大丈夫。ほら、こんなに大人しいわ。ふふふっ、可愛い」
 ティアナは真っ白のふわふわの体を優しく撫でた。

耳がぴくぴく動いてお礼を言っているようだった。
 探し人は見つからないが、心地良い居場所を見つけた白きものは再び瞼を閉じた。
 一方皇子宮ではヒルデが夜会の翌日から、まるで女主人のごとく振舞っていた。

そしてイルマが女官長のような有様だったが、

バルバラは皇子に訴える事も無く平然と好きにさせていた。

ただし、居なくなったティアナの部屋をヒルデが自分の部屋にすると

言った時だけは頑として譲らなかった。それこそその部屋の扉に鍵をかけてしまったのだ。
 腹を立てたヒルデは直ぐレギナルトに泣きながら訴えた。
「皇子!あのバルバラと言う女官はわたくしを馬鹿にしております!

皇子はわたくしの好きにして良いとおっしゃって頂きましたが、あの者が逆らうのです!

もう、我慢なりません!罰して下さいませ」
 大げさに泣くヒルデの言い分を聞きながら、側に控えるバルバラをチラリと見た。

彼女は姿勢良く胸を張り、何も動じて無い様子だった。威厳さえ感じる。

レギナルトはこんなバルバラを良く知っている。

レギナルト自身が間違った事をした時に見せる顔だ。

本当の肉親には縁の薄かった彼に、時には母のように父のように正しい道を諭し説いてくれた。

誰もが皇子と言う身分に平伏する中で、命をかけて自分を正しい道へ導いてくれていたのだ。

そんな彼女だからこそ女性の中で唯一敬意を払っている。
 なお捲くし立てているヒルデをレギナルトは黙るように手をあげて制し、

バルバラを正面から見据えて言った。
「それでバルバラ、何か言う事はあるか?」
「いいえ、何も。ヒルデガルト様の命を聞くようにとの皇子の命に従っていないのは

事実でございますから申し開き致しません」
「それではお前を罰する事になる」
 バルバラは深く頭を下げながらハッキリと返答した。
「ご随意に」
 レギナルトは大きく溜め息をついた。彼女の覚悟を久しぶりに見た。

こうなったら絶対自分の意見を曲げる事は無いのは分かっているが・・・再度問いかけた。
「朝から何の騒ぎかと思えば・・・たかが部屋ごとき誰が使おうと構わないし、

その様な事で争うなど愚かでは無いのか?そう思わないか?バルバラ」
「あの部屋は駄目でございます。歴代の正妃様が使用される部屋でございます。

ですから今はティアナ様が使うべき部屋と決まっております」
 バルバラは皇子を真っ直ぐに見つめてキッパリと言った。
 それを聞いたヒルデは、私の方が 冥の花嫁 だと叫んだが、

彼女は聞くそぶりさえしなかった。そして続けた。
「それに皇子はお忘れでしょうが・・・ティアナ様がお住まいになられるようになってからは

お忙しい皇子が毎日、朝夕とティアナ様の様子を伺いに通われておりました。

ご自分の部屋に帰る事さえも出来ない忙しい日でさえも・・・そしてあの忌まわしい事件の折、

あの部屋がティアナ様の血で赤く染まり、幾日も生死を彷徨い続けるあの方を

皇子はその部屋で見守り続けられました。お二人が深い愛情を育まれた場所でございます。

その様な場所に他の女性をお入れになるなどティアナ様に対する裏切りでございます」
「裏切るも何も、そのような覚えが無いのだから非難されても心外だ!」
 レギナルトは口が過ぎるぞ、と付け加えたが、バルバラは怯む様子など無かった。

 ただじっと皇子の瞳を見つめるだけだった。
 思うようにいかないヒルデはバルバラを罵り始めたが、
「バルバラを侮辱するのは誰であろうと許さない!

この件で私を煩わせるな!その鍵は私が預かる!」
 皇子は厳しい口調で厳命すると、バルバラは頭を下げて鍵を差し出した。
 レギナルトはその鍵を奪うように掴み、争いの元であるその部屋へ足早に向かった。
 バルバラが頑なに守る部屋の鍵穴にその鍵を差し込み回すと、ガチャリと大きな音が響いた。

そしてレギナルトは扉を押した。豪華な彫刻を施した大きな扉は見た目よりも軽く開く。
 レギナルトは瞳を細めて開かれた空間を見渡した。
 だが思い出すものは何も無い―――
 そこは何年振りかに見る部屋だった。この様な感じだっただろうか?とは思った。
 その部屋は最近まで此処に住んでいたらしい主が居なくても、

調度品の配置や全体の配
色などで主の人柄が偲ばれた。温かで安らげるような感じだった。
 レギナルトはその部屋を誰かに与えた記憶は無いが想像してみた。

あの娘が微笑んで自分を迎い入れる姿を―――その時、バルバラの言葉が頭を過ぎった。
 この床を赤く染め上げた血の海にあの娘が横たわる姿が見えるようだった。

そんな跡など無いのに?
 そして死の淵を彷徨い続けた蒼白な顔を―――
 先日は具合が悪いと言っていた。思えば顔色が良く無かった気がした。

イヴァンの話の時もそうだったが、再び胸が締め付けられるような感覚がする。

この感じは何なのだろうか?

いつも彼女の事を考えると頭痛がして靄がかかったようになる。

いつの間にか手が震えていた。震える指を手の平に食い込ませて、大きく息を吐き出した。
 その部屋の扉は元通りに鍵をかけると、その足は考えるよりも先にティアナの下へと向かっていた。

彼女の居る大通りから少し離れたミュラー通りの花屋へと―――
 そのティアナの店は朝から賑やかだった。

 ハーロルトの婚約者、リーゼロッテが突然現れてハーロルトやティアナの後を

付いて回っているのだ。この場所では恐ろしく不似合いな貴族の娘らしい格好の彼女に、

ティアナは自分の小さな時の服を着せた。

質素でおよそ生まれてから一度も着たことないような服を少女は嬉しそうに着てくれていた。

ティアナは更に一人前に貴婦人の様に結い上げられた髪を解いて二つ結びにすると

服と共布で作ったリボンを結んでやった。
 リーゼはそれが気に入った様子でハーロルトの周りをクルクル回って見せていた。
 ティアナは、くすっと笑うとハーロルトに耳打ちした。
「ハーロルト、リーゼはあなたに褒めてもらいたいのよ。何か言ってあげたら?」
「えっ!」
 ハーロルトは、ぎょっ、としてリーゼを見た。

大きな瞳を輝かせて確かに何か言いたそうな感じがする。
「ええっと・・・リーゼロッテ。可愛いですね」
 そのありきたりな一言でも、リーゼは嬉しそうに飛び上がるかのように跳ねた。
 幼くても幼いなりにハーロルトに恋をしているのが手に取るように分かる。

四、五年もすれば立派な貴婦人になるだろう。しかもかなりの美しさになるだろうと予想される。

そうなれば誰もが羨む似合いの二人になるに違い無いとティアナは思った。
 和んでいる暇は無かった。店先は客で大忙しなのだ。

その上、買おうとした花を取った、取られたで喧嘩をし始めた若者達がいた。
「僕が先に買おうとしたんだ!」
「何を!俺が先だぞ!」
 ティアナは慌てて二人の側に駆け寄った。
「お客様、喧嘩は止めて下さい!お願いします」
「ああ〜ティアナ、僕の心配をしてくれるの?」
「はぁ〜何、言ってんだ?お前!俺の心配をしてくれてんだよ!」
 ティアナ目当ての客同士だったようだ。
「ティアナ、君が止めてと言うのなら、僕、この花譲ってもいいよ。

その代わりティアナ、今度食事に付き合ってくれる?」
「な何、言ってんだ!そんなら俺がいらねえよ。なぁ、ティアナ?俺と今度どう?」
 二人はそう言うなりティアナの手を、あっと言う間にそれぞれ掴んだ。
 行き過ぎの行為にハーロルトが動いたがそれよりも早く、

フードを目深かに被った長身の人物が動いた。

そしてその若者達の空いた腕を捻り上げたのだ。
 二人は痛みで堪らず悲鳴を上げるとティアナの手を放した。
 その長身の人物は彼らの腕を払いのけながら有無を言わせない口調で言った。
「この店の花、全て私が買おう」

「な、何を抜かす!この野郎!」

 血気盛んな方の若者は、いきなり横から現れた男に拳を振り上げて怒鳴った。

「私が全部買うと言ったのだ。聞こえなかったのか?去るがいい」
 傲慢な声。誰もが従うと思っているその声は顔を見なくても分かるレギナルトだ。
「ば、馬鹿言うんじゃねぇ―お、覚えとけよ」

 皇子から漂う覇気は只者じゃ無いと感じた若者は、捨て台詞を残して逃げるように去って行った。

 どうして此処に?とティアナは思ったが、店には騒ぎを起こした彼らだけでは無い。

他の客がいるのだ。皇子の理不尽な要望には応えられない。
「ありがとうございます。でも少々お待ち下さい。他の方が先にお越しですので、

そちらから承りますから、その後にお願い致します」
 ティアナは毅然として言うと、彼の返事を待たずに他の客を優先しはじめた。








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