カシャン・・・・・。カナンの手から剣が落ちた。黙ってメンフィスはそれを拾い上げ、カナンに向き直った。つかつかと歩み寄る。その生気のない顔色と、いく筋も頬に残っている涙の後・・・・。彼女自身の戦いが終わったことを姿から見て取れた。
「・・・・・・・・・・・・・・叔父様。ご無礼を・・・・・・・・。」
「よいわ。忘れてやる。」メンフィスはカナンの戦いを理解した。己もまた幼き頃から幾度と無く命を狙われてきた身だ。幼き頃の自分自身の心を思い返すことでカナンの心中を察してやるより他にいい方法は見つからなかった。
「痛っ・・・・・・!痛いっ!」それまで平然としていたカナンが突然ガクリと、床に膝を着き地に伏した。お腹を抱え込みながらうめいている。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!?腹か?もしや和子が・・・・・・!!」
「侍医をよべーい!!今すぐに!!」メンフィスはカナンを抱き起こし、大声で叫ぶが早いかカナンを腕に抱きさっそうと部屋へ去っていった。ウナスも傷の手当の真っ最中であったが、カナンの変化を知ると、なりふり構わず走り去っていった。後に残されたものたちはカナンの無事を祈るしかなかった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・赤ちゃんは?・・・・・・・・・・・・・赤・・・ちゃ・・・。」さっきからカナンはずっと同じことを繰り返している。額には汗が噴出し、腹部の刺し傷も開いたため、包帯には血が滲んでいる。相当な痛みがあるはずだろう。しかし、カナンはもうずっと己の身よりも、まだ見ぬ和子だけを心配している。
『和子はまだ無事です。驚きました・・・・。よほどカナン様に会いたいのでしょうね・・・ぎりぎりの状態ですが・・・・。あとはカナン様次第。もしまた急激に行動されたり、ストレスを受けたりなさったら・・・今度こそ・・・和子は・・・・。』
ネゼグの言葉がウナスやメンフィス、キャロルの頭の中を支配する。特にキャロルはカナンを案じていた。彼女は以前アイシスによってメンフィスとの子を・・・・流産している。その悲しみは誰よりもわかる。己の心が崩壊し、それでもなお・・・苦しさは消えない。後から後から涙が溢れ、後悔と絶望、己への嫌悪感・・・・・それがどれほどに辛いことか・・・・。
「カナン!しっかりして!」手に力を込めて何度も何度も握り返す。・・・握り返す度にピクッとわずかに反応が返ってくるものの今だカナンは目覚めない。
「キャロル・・・。今はウナスとヌウに任せるのだ。我らが去らねばカナンも心が落ち着かぬであろう・・・。」メンフィスはキャロルの心中を察していた。
・・・・・・・・塩の海の神殿で、アイシスによって和子を奪われたときのキャロルの悲しみは・・・誰よりも深かった。いや、キャロルだけではない。己の心もまた崩壊寸前であった。愛しい妻を・・・己の血を分ける和子をも・・守れなかった後悔があとからあとから波のように押し寄せては心を・・・壊していく・・・。そのような苦しみ・・・思い出したくも無かった。
「・・・・・・・・・・痛っう!!お、叔母様?」カナンがやっと目覚めた。自分のおかれている状況が掴めていない様子だったがふと思い出すと、叫んだ。
「赤ちゃんは!?赤ちゃんは生きてるの?ねえ叔母様!!」心底怯えているような顔だった。
「落ち着きなさいカナン!大丈夫。赤ちゃんは大丈夫だから。」その言葉にカナンは安堵し、ゆっくりと辺りを見回した。・・・・・・・・・・・・ウナスを見つけた。ウナスは静かに近寄るとキャロルには目もくれず思いっきりカナンの頬を打った。
パァン・・・・・・・・乾いた音が部屋中に響き誰もが我が目を疑った。兵士とはいえ普段のウナスは温厚な人物で、人に、ましてや女に暴力を振るうなど考えられることではなかったのだ。・・・・そう、メンフィスやキャロルさえ知らないウナスがそこにいた。
「お前!自分が何をしたか分かっているのか!?あれ程安静にしておけといっただろう!取り返しの付かないことになったら一体どうするつもりだったんだ!」
・・・左頬にじんじんと熱い痛みが伝わってくる。カナンは初めての夫からの暴力に言葉を発することも出来ず呆然としていた。思考が完全に停止していた。しばしの沈黙が流れる・・・。
「ごめんなさい・・・。」先に沈黙を破ったのはカナンのほうだった。いくら、自分自身との決着をつけねばならなかったとはいえ、自分の行動はあまりに軽率だったと反省した。ウナスの言うとおりだった。取り返しの付かないことになったら・・・・・どんなに後悔してもしきれなかっただろう。・・・・・・・・それに何より己の中に宿っている小さな命に申し訳がたたない。言葉を話せない小さな命を守ってやれるのは自分だけしかいないのだから・・・。
その後、言葉を続けるものは誰一人としていなかった。怒り心頭のウナスがマントを翻して第一に去り、後を追うようにルカ、ミヌーエ将軍、メンフィスが去った。
そして・・・・・後には頬を押さえたカナンと、キャロル、ヌウが残されていた。
「カナン大丈夫?」オロオロとキャロルが言った。そっとウナスにぶたれた左頬をなぜてやる。・・・・・その頬はぶたれたばかりだからか熱を持っていた。そっと、手を離しヌウに冷水を持ってくるように指示した。沈黙がまた続く・・・。
「ごめんなさいね。叔母様。私は大丈夫です。」冷たい布を頬に押し当てながらカナンは笑った。心配をかけまいとしてごまかしてしまおうと考えていたのだが・・・キャロルはそれを見逃さなかった。
「全く!!ウナスったら!女の子をぶつなんて!」
「いいえ。叔母様。悪いのは私です。ウナスは・・・・正しいことをしたまでです。」
そう・・・・・・・・・・彼は間違ったことなどしていない。悪かったのは・・・非があるのは小さな命を無下にした己なのだから。
「でも・・・・・・。だからってあんなに強くぶたなくてもいいじゃない!」
「あれが・・・・ウナスの精一杯の優しさですわ。彼なりの・・・。わかって下さいませんか?心配なさらなくても私は大丈夫ですので・・・。ね、叔母様?」
キャロルは胸が痛んだ。夫からの暴力にカナンはショックを受けているはずなのに、それを全く見せてはくれない。心の奥深くに隠してしまっているような気がした。もう、カナンをほうっておいてはいけない。悲しみを繰り返させてはいけない。キャロルは意を決して言った。
「カナン・・・・・・・あなたの過去を・・生い立ちを全て話して頂戴。」
「そんな・・・。前に一度お話しましたわ。これ以上話すことはありません。」カナンは冷や汗が背に流れるのを感じた。叔母に・・・・・・・話してはいけない。自分が生きてきた中で起こった事・・・・。それは何の危険も無く育ってきた叔母には負担がありすぎるし、きっと最後までは聞けないと思った。そして・・・・・・・・・できればこの世界の誰にも話したくは無いと思っていた。なのに・・・・・・・・・。
キャロルの瞳はゆるがない。それは彼女自身も覚悟を決めていることを・・・・表しているのだと感じた。
「わかりましたわ。全て・・・・・・・・お話しましょう。」カナンは過去へ意識を集中させ、静かに語り始めた。
ナイルよ・・・・・・・・・・・・悠久の流れよ・・・・・・・御身はこの少女の過去を・・・・・
知り・・・・・・・・・・たもうか・・・・・・・・・・
―― 4 ――