メンフィスは連日、休むことなく灼熱の砂漠を、幾多の町を駆け抜けた。焦がれて焦がれて思い続けたキャロルの元へ。疲れなど忘れて。早く会いたい。抱きしめたい。ただその一心で。




(おお九神群の神々よ!ナイルの女神ハピ神よ!我は未来永劫、御名を高らかに称えん!)




キャロルが自分のことを覚えていないことをまだ彼は知らないから。神は偉大にして残酷。何故いつも彼の愛しい人を苦しめ、奪っておしまいになるのか。彼が最初にキャロルを失ったのは濁流の中。ある時はライオンにかみ裂かれた重症の娘を奪われたこともあった。そしてその度に彼は眠れぬ夜を過ごして、喪失感の渦に放り込まれては・・・苦しんで。




・・・・・・・・キャロルの滞在する村が見えてきた。遠くから聞こえてくる馬のひづめの音を敏感に感じ取った砂漠の男たちは王のお出でだ!と口々に叫び道を開ける。一人の兵士はひづめの音を感じ取るが早いか村を飛び出し、メンフィスを出迎えに行った。若い女たちは、噂に高い美しい王を一目見ようといそいそと家を出て、だんだん近づいてくる王一行の姿に胸を高鳴らせていた。




「王!ナイルの姫様はあちらの家にて!」
「おお!ご苦労!案内いたせ!」




キャロルがいるこの小さな村の村長の家。馬上から見えるその家に一歩近づくたびメンフィスの鼓動は甘く高鳴った。あと少しで会える。あと少しで抱きしめられる。あと少し―――――――そうあと少しだ!メンフィスは一気に道を駆け抜けてゆき・・・とうとう村長の家へとたどり着いた。扉を開けようとすると、手が震えた。キャロルは過ぎし日の己の言動を許してくれるだろうか。またこの腕の中で笑ってくれるのだろうか。・・・・・前々から抱えていた不安が今となって蘇ってくる。




(いいや!必ずや我が腕の中で再びあの笑みを取り戻す!)




意を決したメンフィスは扉を勢いよく開けた。目の前に居たのは彼の愛しい妃。傍に控える者たちなど見えない。彼の瞳に映るのは焦がれ続けた妃の姿だけ。震える手をのばし呼びかける。




「キャロル!おおキャロル!」




言いたいことはたくさんあった。だけど今は言葉が出てこない。今、自分はどんな顔をしているのだろうか。一国の王たる自分はこの娘の前ではただの男となってしまう。いや、それでも良い。キャロルがいればもう他には何もいらない。




メンフィスはキャロルを抱きしめようと一歩前に進み出た。しかし―――――キャロルはあろうことかメンフィスの胸を思いっきり付き返した。そのまま走って先にキャロルを迎えに来ていたルカの胸に飛び込む。そうして・・・残酷な言葉をとうとう言ってしまった。




「あなたは誰!?ルカ助けて!怖いの!」




あなたは誰?あなたは誰だ・・・と・・・?




メンフィスの心の中で残酷な言葉がこだまする。何故だキャロル!何故だ!そなたは私のことを・・・・・・忘れたというのか?認めぬ!そんな・・・そんなことは!




「戯言を申すなっ!こちらに参れ!キャロル!」




無理矢理メンフィスがルカからキャロルを引き離す。キャロルは恐怖心から泣き叫んだ。




「ルカっ!ルカっ!助けて!誰なのこの人!ねえ何で助けてくれないの!?」




怖い怖い怖い怖い――――――メンフィスの記憶を無くしたキャロルにとって、目の前のメンフィスはまさに猛獣であった。殺されるかもしれない、と思った。必死で抵抗するもメンフィスの腕からは逃れられない。気が動転してしまった彼女は思いっきりメンフィスの腕に噛み付いた。




「っ痛!」




腕に激痛が走り、キャロルを掴んでいた手の力が一瞬ゆるんでしまった。キャロルはこれぞ好機とばかりにメンフィスの腕から抜け出した。そしてルカの背に隠れ、親を失った小鳥のようにブルブルと震え続けた。暗い面持ちのルカが必死でなだめすかすも再び顔を上げることはなく、ルカの衣装を掴んだまま離さなかった。




「王・・・・・・・詳細を・・・・・・・・申し上げまする。どうぞ、こちらへ・・・。」




村長はメンフィスを別室へ招き入れると、キャロルの状態を話し始めた。




「王妃様は・・・・お付の武官のお名前も、召使のお名前も、侍女のお名前も・・・覚えていらっしゃいました。隣国の情勢も各国の王の名もご存知でいらっしゃいます。このエジプトの王妃様になられたことも・・・。ですが、ですが・・・・・・・・。」
そこで村長は言葉を止めた。続けられるはずもなかった。ああ誰がいえようか。王妃様は王のことだけ忘れておいでなのです、などと!自分が言ってしまったらこんな小さな村など皆殺し、もしくは焼き捨てられる。王が王妃を熱愛しているという噂はこんな小さな村にでも広がっていた。王の激しいご気性を抑えられるのは唯一あの方だけ、王妃様だけだ、と皆口々に言っていた。




だが、その唯一のお方が・・・・・王の怒りを生み出しているのだ。現に今ここで。どうしたらいい?どうせればこの場を切り抜けられるのか?可哀相に・・・・村長はすかっり小さくなってしまった。蛇に睨まれた蛙の様に。




メンフィスは怒る気にもなれなかった。キャロルが噛み付いた痕が腕にくっきりと残っている。さっき噛み付かれたばかりの傷は熱を持ち青黒く腫れてきている。きっと必死になっていたのだろう・・・・・・・・・・・・・・・・我が腕から逃れようと。




「うるさいっ!下がれ!皆下がれ!」




一声叫ぶと固まっていた側近たちは一目散に部屋を出て行った。村長が一番最後に平伏して去っていくのを見送ったあと・・・メンフィスはじっと傷跡を見ていた。偶然なのかその場所は以前キャロルに噛み付かれた場所と全く同じ箇所であった。




(あの時は・・・キャロルは我が腕に帰ろうと・・・必死になって噛み付いてきたのだったな・・・。ふっ・・・・・・・・やはりあやつは変わっておらぬ。)




笑っては見たものの抱えきれないほどのどす黒い感情が再び彼に吹き付けた。




(くそうっ!何故だ!?何故キャロルは私を忘れたのだ!私だけを!私がこんなにも待ったというに!・・・・愛しているというに!あやつはもう・・・・私のことを思い出さないのであろうか?二度と私を愛さないのであろうか?)




連日馬を走らせて一睡もしていなかったせいか、軽い疲労感を感じた。そして続けざまに眠気が彼を襲う。




(全て・・・・・夢であれば良い。目覚めたらキャロルが我が腕の中に・・・・いれ・・・ば・・・よいのだ。)




眠りに落ちる直前、視界の片隅に金色の光を捕えたように思ったが・・・・・・夢うつつの彼はそのまま眠ってしまった。




メンフィス・・・・・・・ごめんなさい




キャロルの声が聞こえた。

―― 3 ――