「ねえお母様。お母様はどこから来たの?」
少女が母の膝に手を置きながらふと尋ねた。父王をはじめ家臣たちもあまり知らない母の出生・・・・。叡智を持つ神の娘、心優しきナイルの娘よ、と誰もが敬い、誰もが慕う母は少女の自慢であった。でも、母はよく自分に言うのだ。私は神の娘ではないのよ、と・・・。だからなおさら不思議でたまらなかった。母は一体何処で産まれ育ったのだろう、と。
「素晴らしいところよ・・・・。あなたなら行けるわ。ネイト・・・。」
キャロルはそれ以上語らなかった。語ってはいけないような気がしたのだ。それは未来から来た彼女の宿命かもしれない。
ハピの娘とラーの息子の授かりし・・・・・娘の名はネイト。彼女はこれから未知の世界へと足を踏み入れることとなる・・・。まだ・・・誰も知らないが・・・。
数年後・・・・。少女は15歳になっていた。母に似て少し小柄で華奢な体系である。彼女はいつものように、ナイルのほとりに花摘みに出ていた。そして、その身分ゆえに暗殺者に襲われた。いつもは父王が腕の立つ護衛をつけてくれるのだが・・・。その日は運悪く、護衛は少数であり・・・・・。すぐに追い詰められた。
「へへへへへ・・・・・・。お姫様よ。悪く思わないでくれよ?俺は命令されてやっただけなんだからよぉ。さあ、一息に殺してやるから大人しくしてな。」
刃物に舌を這わせながらこちらを見つめてくる男・・・。ネイトは初めて味わう恐怖で体が硬直してしまった。逃げようにも逃げられない。父王も、兄も、母も・・・・誰も・・・。助けには来てくれない。
(私・・・・このまま・・・死ぬの?いや・・・!怖いよ!お母様!)
その時!手元の岩が突然崩れた。支えを失った少女の体も、ナイルに滑り落ちてゆく。恐怖のあまり、ネイトは目をぎゅっと閉じた。
濁流に呑まれていく中で・・・・・・暗殺者の・・・・・悲鳴と・・・兄の叫び声が聞こえたような気がした・・・・・。あとはゆっくり・・・・ゆっくり・・・・・未知の世界へ・・・・・・・。ナイルの女神の・・・・意志により・・・・・。どこまでも・・・・・どこまでも・・・・。
「おいっ!女の子が倒れているぞ!」
ここは21世紀。ネイトが行って見たいと切望していた・・・・・キャロルの世界である。彼女は・・・己の希望どうりに・・・・ここへ来れた。予想もしていなかった時に。そして、ナイルの岸に打ち上げられたのを、運よく夜中の見回りをしていたカイロ博物館の警備員に発見されたのだった。
「館長!館長!外の見回りをしていたら女の子を発見しました!」
「何?溺れていたのか?」
「わかりませんが・・・・水は飲んでいないようです。きっと川遊びでもしていて・・・流されてきたのでしょうな。病院は・・・もう開いてませんし・・・。どうしましょう?」
「弱ったな・・・・・・・。」
突然の出来事に困惑した館長と警備員のやり取りが続く。その様子をじっと見ていた傍らの男がやれやれといった様子で口を開いた。
「館長。宜しければその少女、私の家で一時お預かりしましょうか?朝になったら病院に連れて行くように手配しますし、親御さんにも連絡しましょう。」
「おお、ありがたい。では申し訳ありませんが頼みます。ミスター・ライアン。」
不幸中の幸い。とでも言うべきだろうか。カイロ博物館にはキャロルの兄、ライアンが訪れていた。何年か前、カナンがナイルに消え、再びナイルから現れたとき、ライアンはキャロルの無事を知った。王妃として遠い過去に生きている妹、キャロルの消息を掴むべく、彼は新たな王墓の発掘に出資を行っている。そして、発掘した物のほとんどはこのカイロ博物館に、無償で譲っているのだった。
暫くの後・・・ライアンは、気を失っているネイトを連れ、帰宅した。車を走らせている間、ネイトはライアンの横で身じろぎを繰り返した。きっと寒いのだろう。エジプトは昼は燃えるように暑いが、夜は一変して冷え込む。濡れた衣装は着替えさせたが・・・・・。ライアンは自分の上着をそっとかけてやった。彼にはひっかかるものがあった。
(この少女が着ていた衣装は・・・・・。カナンが・・・過去からタイムスリップしてきたときに着ていた衣装と酷似している。それに・・・エジプト人とは思えないこの金髪。もしや・・・・いや、僕の思い過ごしだろうか・・・。)
真夜中の道路を一台のスポーツカーが駆け抜けていった。
「お帰りなさいませ。ライアンさん。」
「ばあやか・・・。遅くなるから寝ててもいいって言ったのに。」
「少し胸騒ぎがしたものですからね。おや?何を抱えてらっしゃるんですか?」
ライアンが抱えていたのは、もちろんネイト。言われて初めてライアンはばあやに連絡していなかったことに気がついた。
「すまない、ばあや。カイロ博物館で館長と今度の発掘品について話して来たんだが・・・・どうもこの子、溺れたみたいなんだ。ベッドを用意してくれないかな?あと出来れば女の子用の洋服も・・・。」
「ほほほほほほ・・・・・。館長様から連絡を頂いていましたのですっかり準備していますよ。」
悪戯っぽくばあやは微笑んだ。何でもお見通しのこのばあやにライアンはすっかり頭が上がらない。カナンに料理、裁縫などを叩き込んだのもこのばあやである。親子共々やられっぱなしといった感じだ。
彼女は実に手際よく少女の世話をやってのけた。ライアンがシャワーを浴びている間には着替えも済んで、少女は暖かいベッドの中でスヤスヤと寝息を立てていた。ばあやが付いていてくれると言ったのでライアンもまた仮眠をとることにし、何かあったら起こしてくれと頼んで寝室へ向かった。
ベッドの上で彼は考えていた。
(あの子・・・・・。キャロルに良く似ているな。)
自分の腕の中で少女が身じろぎする感覚・・・・・。それは過ぎし頃のキャロルの仕草とそっくりだった。そして今もはっきりと脳裏に焼きつくキャロルの顔と、預かってきた少女の顔は余りにも似すぎていたのだ。
(まさか・・・・・。まさかな・・・・・。)
そんなことを考えつつ、ライアンもまた静かに寝息をたてた。
次の日・・・・・・。ネイトは起きると同時に悲鳴をあげた。無理もない。彼女は暗殺者に殺されかけた上、濁流に飲まれ、家族からは遥かに離れた異郷の地に突如連れて来られたのだから・・・・。ばあやが静かになだめても、高ぶる少女の感情は一向に治まる気配がなく、ぶるぶると震えてただ泣き続けた。
「父様はどこ?母様はどこ?王宮はどこなの?」
ライアンはネイトを真っ直ぐに見つめた。
「落ち着いて・・・・。君の名前は何と言うの?」
「ネ・・・ネイト。エ、エジプトの第一王女よ!」
「王女様、ご両親の名は?」
「父王の名はメンフィス、母王妃の名はキャロル。」
やはりライアンの予感は的中していた。ネイトもまた未知の力によってタイムスリップして来たのだろう。キャロル、という名が出てきた時点でその考えが立証された。酷似しすぎていた容姿もキャロルの血縁というのなら当たり前の話だったのだ。それならば早くキャロルの元に帰してやらねばならない。キャロルがきっと心配しているだろうからなどと、ライアンは考えていた。
「ネイト王女様・・・。落ち着いて聞いてくれるかな?僕の名はライアン。君の母上の兄だよ。君は・・・・未知の力によって僕等の世界へ来てしまったんだ。でも、安心して。きっと帰してあげるからね。」
妹に話しかけるように優しく穏やかに・・・・・ライアンはネイトに告げた。不安を増徴させないように。これ以上怯えなくてもいいように。
(母様の兄君ですって?ここは母様の生まれた世界なの?)
ネイトは半信半疑でライアンの言葉を聴いていた。ライアンの存在については幼い頃から母に幾度となく聞いてる。カナンの父君だということも知っている。そして・・・・何故か父王はその名をだすと額に青筋を浮かべる・・・・。ネイトにとって実に身近で不思議な名であった。彼女の中に、信じていいのだろうかという気持ちが芽生える。
(もしかしたら私の暗殺者の仲間かもしれない。敵国の間者かもしれない。そんな人にこの身を預けてもいいのかしら。でも、この人たちは私を介抱してくれた。悪い人じゃないのかも・・・・・・・。)
彼女が人を疑うことはほとんどない。キャロルの性格がそのまま、受け継がれているのだろう。世間知らず、ということも助けてかネイトはライアンの言葉を信じることにした。
「ライアン・・・叔父様?」
「ああ、そういうことになるのかな。好きに呼ぶといいよ。」
「私!本当に母様の世界へきたの?」
「本当だよ。ちょっと!落ち着いて!」
ライアンは突然一変した少女の態度にしばし唖然とした。さっきまで震えていた少女の姿はどこへやら・・・・・・。今彼の目の前にいるのは、キャロルそっくりのお転婆丸出しの少女。ライアンは思わず微笑んでしまった。目の前にいるネイトは失踪を繰り返した頃のキャロルと同じ年頃。同じ顔。同じ声。彼はキャロルが帰って来たかのような錯覚を覚えた。帰さねばならないという義務感はあった。それでも彼は知らず知らずのうちに一時の間でも、この暖かな雰囲気の中に身をおくことを望んでいるのだった。言い換えれば・・・・ネイトを帰したくないと思っていたのである。
「ライアン叔父様〜!!今日はね、【きょうかい】って所に行って見たい!」
ライアンはギョッとした。ここ数日ネイトに言われるがままいろんな所に付き合わされた。最初は市場。キャロルそっくりの顔で頼まれれば、嫌とはいえない。これは彼の性格上仕方のないことだ。事業の鬼「氷のライアン」の異名を持つ男の、唯一の弱点は妹であり、その妹にこの上なく甘いということは、誰もが承知のことだろう。
そしてネイトもまた、箱入り娘として育ったため、外の世界は新鮮で、すっかり味を占めてしまったのである。メンフィスもまた、妻そっくりのネイトを溺愛していたため、危険な目には決してあわせまいと、宮殿の外には一歩も出さずに育ててきた。彼女が外の世界に憧れを抱いたのは、そのせいかもしれない。
ネイトが次にねだったのはアメリカへの訪問だ。仕事の関係で一時帰国することになると言ったらあろうことか、ついて来たのである。これにはさすがのライアンもキャロルの躾け方を疑った。お転婆、我侭にもほどがある。散々駄目だといっても聞かなかったので一週間後には元の世界へ返るという固い約束を交わして連れて来た。
そして今日がその一週間目。
「どうして教会に行きたいんだ?今日が最後なんだぞ。もっと行きたいとこは無いのか?」
「だって・・・・。母様がね、行きたいっておっしゃっていたんだもの。でも、母様は来られないから私が代わりに行きたいの。」
そうか、と言うとライアンはそれっきり何も言わず、一番近い教会まで連れて行ってくれた。教会の中には誰もいなかった。ネイトは真っ直ぐにイエス・キリストの像を見つめた。時折、母の口からこぼれる神の名。それがエジプトの神々の名ではないことに気付いたネイトが尋ねると、母が話をしてくれるのだった。
(母様は・・・・・。どんなにか心配しているでしょうね。帰らなくては・・・・・。)
イエス・キリストの像に向かいネイトは跪き、両手を胸に当てて静かに目を閉じた。母が人目につかないところでしている仕草。ネイトにとっては見よう見まねのその行為でも、それを見守るライアンにしてみればキャロルが手元に帰って来たような感覚を与える仕草である。彼の中にネイトを帰したくないという感情がふつふつとこみ上げてきた。
(ネイトを・・・・・・・このまま・・・・僕が育てたい。)
最愛の妻を、娘を、妹を王家の呪いによって奪われた彼だから抱く当然といえば当然の感情。決して抱いてはいけなかった感情。
しかし、跪いてイエス・キリストに祈りを捧げるネイトの頬を一滴の光がつたっているのを目の当たりにしたとき、彼は己の弱さを痛感した。
(僕は卑怯者だ!愛するものを失ったときの悲しみは僕が一番知っているじゃないか!ネイトはキャロルの元に帰してやらなければ・・・・。)
邪念を振り切るように、ブンブン、と頭を振った彼はじっとイエス・キリストを見つめた。
(主よ・・・・。僕はこの子を主がお生まれになる遥か昔の世界へ帰してやりたい。この子が無事に帰れるよう・・・・・どうか・・・・見守って下さい。そして・・・・・僕の妹と娘にもどうぞご加護を。)
苦しい中での祈りは、主への誓い。きっとネイトを帰すという・・・・・・・その神への誓いを破ることはできない。・・・・・・・破ることの出来ない誓いを立てることで彼は全ての邪念を振り切ったのだった。
そして―――――二人はナイルのほとりに立っていた。ライアンは約束を違わなかった。身を切られるような思いの中で、必死に引きとめようとする衝動を抑えながらも、主へ立てた誓いを守り抜いていたのだ。
ネイトもまた、母の世界を離れる侘しさと、二度と会えないライアンへの思いから涙を止めどなく溢れさせていた。
二人とも無言のうちに決めていた。
さよならは、言わない。言ってしまったら互いの心に鎖を着けてしまうだけだから。
「ネイト・・・・これをキャロルとカナンに渡してくれ。」
「はい・・・・・叔父様。」
渦巻く古代へのナイルの流れ・・・・・・。ネイトは声の限りに叫んだ。
「ありがとうございました叔父様!大好きです!」
ライアンもまた涙で霞む視界をぬぐいそれに応えた。
「元気で暮らすんだぞネイト!僕も大好きだ!」
二人の声は重なって・・・・・そしていつしか消えた。
月の光がどうしようもなく冷たかった。
古代へ帰ったネイトはライアンに託された物を・・・・・ロザリオをカナンとキャロルに手渡し、そしてライアンのことを二人にだけ語った。それがライアンとかわした最後の約束だった。未来のことをむやみに話してはいけない。それは歴史を左右する重大なことだから、と言ったライアンの思いをネイトは決して忘れることはなかった。未来で過ごした僅かな時間の中で彼女は少しではあるが確かに成長していた。
今でもネイトはふと思い出す。抜けるような碧い空の向こうに広がる、遥かな未来の世界を。大好きなライアンのことを。
(叔父様、お元気かな?・・・・・・・。また会いたいな・・・。)
そうしていつも決まって漏れ出る言葉。彼女が覚えた唯一の英語。母の国の言葉。
「Thank you・・・・・・・・・・。」
遥かな未来に生きるたった一人の
私の大好きなライアン叔父様へ・・・・・・・・
何度でも、そう、何度でも、ありったけの思いを込めて
Thank you・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
FIN
