「カナン様、どちらへ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・。」
カナンは目線を横に流しただけで、つかつかと歩み続ける。秘書はひるむことなく更に厳しい口調で尋ねた。
「休憩時間は間もなく終わりです。会議室へお戻り下さい。」
エレベーターの前まで来るとカナンは突如歩みを止め、秘書に向き直った。きっ、と睨みつける。
「・・・・・・何かお気に触ることをしましたか?」
「総帥にはこう言いなさい。『カナンは連日の睡眠不足で体調不良だ。人並みの休息時間を与えろ』とね。」
14歳にもまだ満たない少女、カナンの口調は暗く、重かった。眼光には厳しい光が走り、何者をも寄せ付けないオーラを放っている。しかし、秘書は引くわけには行かない。今から始まる会議にはカナンの出席が必要とされている。学生の身であるとはいえ、カナンの視野は広く、能力も高い。長年、経済界のトップに立ち続けてきた重役や、それらを率いてきた総帥ですら気が付かない細部の点を指摘し、いかなるミスも見逃さない。だからこそ、カナンをリード・コンツェルンの総帥の跡継ぎとして最もふさわしい存在だと誰もが認めるのだ。
「許可しかねます。さあ、会議室へ参りましょう。」
「残念ね。それは無理よ。」
カナンはエレベーターに乗り込むと、あっけに取られている秘書に向かって書類を投げつけた。そして、ドアが閉まる直前に一言。
「それが今日の会議に【多分】必要な私の意見よ!」
ドアが閉まった。呆然とする秘書の耳にはカナンの皮肉めいた最後の言葉が波打って響いていた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・。」
カナンはエレベーターを降り、屋上へと更に歩みを進めた。リード・コンツェルンの本社はニューヨークで一番の高さを誇る。世界のトップ企業であるということを、堂々と世に知らしめている、と言った感じだろうか。
『パスワードを入力してください』
機械がドアの手前でカナンを止める。そう、屋上へ行くためにはパスが必要なのだ。そのパスはカナン一人しか知らない。ライアンにさえ・・・・カナンはそのパスを教えなかった。誰にも邪魔をされたくなくて、ライアンに無断でつけたその装置・・。鬱陶しかったが、これで邪魔が入らなくなるなら・・・と考えた上で設置したのだ。声紋との2重ロックに設定し厳重に厳重を重ねた。
「カナンよ。通しなさい。」
『ロック解除 10秒以内にお入り下さい』
カシャン・・・・・・ドアが開いた。カナンは迷わず歩み続ける。
サアッ・・・・・・・・・
冷たい風・・・。空は泣き出しそうな灰色・・・・。カナンはベンチに腰掛けた。ランチがまだだったことを思い出すが、当然のこと食べ物など持ってきてはいない。
(ま、いいか。自業自得よね。)
手が冷たくなってきたカナンは、スーツのポケットに手を差し込んだ。
(・・・・・・・・・・・・・?)
何か手ごたえを感じたカナンはそれを取り出してみた。紙袋だった。何かしら、カナンはガサガサと紙袋を開けた。
(・・・・・・・・!?ばあやったら・・・・。)
中にはカナンの唯一の好物であるアップルパイが入っていたのだ。カナンはそのアップルパイの包みに巻きついていたばあやのメモを読んだ。
カナンさん、ランチを又、抜いたのでしょう?会議もサボりましたね。そろそろお腹もすいてきた頃でしょうからパイを食べてください。ライアンさんに怒られたら庇って差し上げますから、ちゃんと家に帰ってきてくださいね。
(全く・・・・・・ばあやには敵わないわね。またやられたわ。)
カナンは今日は家に帰るつもりは無かったのだ。適当なホテルに泊まって、書類に目を通したら、そのまま学校へ行こうと・・・・そう思っていた。
少し冷めているアップルパイを口に頬張りながら、カナンは道路を見下ろしていた。行き来する様々な車をボヤーッと眺めていたが、そのうち通行人にも目がいった。・・・・女の子達が見えた。
高すぎてよく見えないが、カナンはとても羨ましく思った。
(いいな・・・・・・・。ショッピングに行くのかな。楽しそうだな・・・。)
カナンには物心付いたときから、友達と遊んだ記憶がない。一番楽しかった記憶といえば、世界各地にある支社を視察に行ったことくらいだ。あとの記憶は跡継ぎ教育・・・・ただその光景のみ。
諦めている、とはいえカナンもそれ相応の年頃。女友達と一緒にショッピングもしたいし、お茶したりもしたい。絶対・・・・させてはもらえないだろうけど。
カナンは下に向かって手を伸ばし、その女の子達を掴むような仕草をした。
(この子達の時間が・・・・・・・・欲しいな。他に何にもいらないから。)
掴んだその手から、まるで抜け出すように女の子達は通り過ぎていった。カナンは、深い溜息を着き、ベンチまで戻った。連日連夜の業務に疲れ果てていたカナンの体は休息を求め、カナンから体を動かす力を奪った。
(こんなとこで・・・・寝ちゃ・・・だ・・・め・・・。)
そう思ったときにはすでに遅く、カナンは眠りこけていた。
それを待っていたかのように、雨がポツリ、ポツリと降って来た。
「ただいま、ばあや。」
「お帰りなさいませ。ライアンさん。・・・・・・・・・・・・あら?」
びしょ濡れのライアンにタオルを差し出したばあやは、カナンの姿を探した。タオルが一枚腕の中にあまる。
「カナンさんは?ご一緒じゃないのですか?」
「何?カナンは帰っていないのか?連絡も無いのか?」
髪を拭いていたライアンの手が止まった。そういえば、今日は一度もカナンの姿を見ていない。いつもなら、会議室か、もしくは僕の総帥室に来るというのに・・・。
(会議を欠席したから、僕から怒られると思っているのか?いや、違う。それならホテルに泊まると、ばあやに連絡しているだろう。無駄な心配をかけるほど、カナンは幼くない。)
「ばあや、今何時だ?」
「ちょうど、10時を過ぎた頃です・・・・。SPに連絡しますか?」
「そうしてくれ。僕はもう一度社に戻る。」
そのまま、ドアに手をかけた。開くと、そこにはまさに、今から探そうとしていたカナンが立っていた。自分よりももっとずぶ濡れになって、顔を真っ赤にして。
「何処へ行っていたんだ!?何でそんなに濡れてるんだ!」
「何でもないです。帰りが遅くなってしまってごめんなさい。」
冷静に振舞ってはいるが、舌が上手く回っていないのが傍目で聞いていても分かるほどの、衰弱っぷりだ。そのまま部屋へ向かおうとするカナンを引きとめたライアンは咄嗟に額に手をやった。
(・・・・・まずい。かなりの熱だ。)
カナンはつい、と顎を下にやりライアンの手を離した。
「大丈夫だから・・・。ばあや、シャワー浴びたい。」
「はい・・・・・用意できてますよ。」
「じゃ、入ってくる。」
カナンはおぼつかない足取りで風呂場へと向かっていった。
「ライアンさん!カナンさん、すごい熱ですわ!」
「何度くらいあったんだ?」
「41・8度です。肺炎を起こしてるかもしれません!お医者様をお呼びしてもいいでしょうか?」
「ああ、頼む。僕はカナンについてるからな。」
カナンは雨の降る屋上で、無謀にも寝ていたのだ。しかも、4時間近くも。目が覚めたときには体は芯まで冷え切っていて、頭が割れそうなくらいに痛んだ。タクシーを拾ってきて何とか家までたどり着いていたのである。
荒い呼吸を繰り返す中で、父とばあやの会話を聞いていたカナンは呟いた。
「いいから・・・・。放っておいて。」
「馬鹿!こんな熱出して何言ってるんだ!大体今まで何処にいたんだ?」
「屋上・・・・。あそこ・・・私の場所だから・・・。」
屋上・・・・。ライアンも知っていた。そこにはカナンしか行けないと言う事を。そしてそこは、カナンの逃げ場所だということを。
「何してたんだ?今日は会議もあっただろう。お前の秘書が半ベソかいてたぞ。」
「書類には全部目を通して、私の意見書も作成して提出したじゃない。やるべきことはやった上でとった行動よ。・・・・・でも、お叱りは覚悟の上です。総帥。」
「・・・・・・家ではパパでいいと言っただろう。」
「仕事が終わるまでは私は娘じゃないわ。リード・コンツェルンの【跡取り】なんでしょ?」
「誰がお前にそんなことを吹き込んだ!?」
あまりにも、悲しく、冷たい愛娘の一言。その立った一言にライアンは怒りを覚えた。大事な・・・たった一人の愛娘にそんなことを吹き込んだ輩が許せない。
「誰でもいいじゃない・・・・・・・・・・。本当のことよ。」
熱で意識が朦朧としているはずなのに、カナンはしっかりと受け答えを繰り返した。
何もかも諦めた・・・・・・・・・そんな口調で・・・・・・・・・・
「カナン・・・・・・・・お前、どうしたんだ?変だぞ。ここ数日・・・。」
胸騒ぎがした。言葉に出したとおり、ここ数日のカナンには笑顔が無い。様々な危険な目にあってからは、外では仮面を被ったような子供になってしまった。だがそれでも、父親である自分や、ばあやだけには心を開いていたというのに。
「何でもないの。本当よ。・・・・・・お医者様なんて呼ばなくていいから、もう一人にしてくれない?」
「無理言うな。こんな状態のお前を放っておけるわけ無いだろう?」
「ライアンさん!一番近い病院からお医者様に来ていただきました!」
ばあやが医者を連れて部屋に入ってきた。カナンとライアンの会話はそこで途絶えた。
「先生、カナンの容態はどうです?」
「思わしくない。肺炎を起こしているようです。入院が必要ですね。救急車を呼びます。宜しいですか?ミスター・ライアン」
「そんなに悪いのですか!?」
救急車を呼ばなければならないほど・・・・入院させねばならないほどカナンの容態は悪いなんて・・・。信じられなかった。ふと、カナンに目を移すと、カナンは天井を見つめ、ひたすら酸素を求めて荒い呼吸を繰り返していた。
「カナンさん、救急車が来る前に何か飲まれますか?」
「いらない。あ、ばあや、忘れてた。・・・・・パイありがとうね。美味しかった。」
「はいはい。さあ、もうしゃべらないで。ゆっくり寝ましょうね。」
ばあやが、そう言ってもカナンは目を閉じようとはしなかった。そして、到着した救急車に乗せられて、救急病院へと搬送されていったのだった。
「先生、こんにちは。」
1週間後、ライアンはカナンの入院している病棟を訪ねた。カナンの担当医を見つけ、軽く会釈をし、挨拶を交わす。担当医は率直に告げた。
「カナンさんの入院ですが・・・・。もう少し伸びます。熱がまだ下がらないんですよ。38℃あたりを未だ・・・。それにご飯を一口も食べていないんです。点滴である程度は持ちますが・・・・これ以上は何とも。本人次第ですね。」
「そうですか・・・・・。親として恥ずかしいですが、私は仕事ばかりであの子にもほとんど構ってやれなかった・・・。それにずいぶんと無理な教育をさせてしまったようです。そんな私が・・・・カナンにあれこれ言える資格は無いですよね。」
「どうかお気を落とさずに。ミスター・ライアン。では、私はこれで。失礼。」
「どうも。」
ライアンは、視線を床に落とした。カナンは入院してからというもの、水以外何も口にしない。果汁を少し口に運ぼうとすると、首を振って嫌がる。固形物ならなおさらだ。ばあやが、試行錯誤して作ったカナンの好物、アップルパイですら寄せ付けない。心配でならないのに、どうしてやることも出来ない自分が情けない。
(僕は一体、今まで何を見てきたんだろうか・・・・?あの子のこと、いざとなってみると何もいえないじゃないか。)
どんな学識も、人の心を知る上では何の役にもたたない。ライアンは初めて自分が見失ってきたものの重大さを知った。
彼が見失ってきたもの。それは・・・・・・それは・・・・。
「カナン、入るぞ。」
ガラリ、とドアを開ける。病院で一番広い個室は、風通しも、日当たりも良い。病気を治すにはうってつけの場所なのだが、本人に治す気が無いのなら、無意味だ。
「総帥、わざわざご足労していただかなくとも良いと申し上げましたのに・・。」
「総帥ではない。【パパ】だ。ここは会社ではない。」
「会社でなくとも私はまだ、自分の仕事を終えていません。よって私には【パパ】と呼ぶ権利が無いのです。」
そう言ったカナンは、おもむろにライアンに書類を渡した。
「これは?」
「今度、本社で開かれる予定になっていた私の誕生会の延期の案内と、それに変わるパーティーの案内です。もちろん私は欠席します。」
誕生日・・・・。また・・・・。
カナンは自分の誕生日を嫌っていた。誰かがカナンに言ってはいけない秘密を明かしてしまったから。ジュリアの・・・命日を。カナンの・・・・・生まれたときのことを。知ってしまった日の夜、カナンの顔は蒼白だった。涙を見せないその姿が、返って痛々しく、かける言葉すら見つからなかった駄目な父親。それが、僕だった。
「駄目だ。お前の誕生日まであと1ヵ月半近くある。例年、延期ばかりしていては社員も、そして僕も納得できない。」
あえて、ジュリアのことは出さずに、そして出来るだけ優しくNOサインをだした。しかしカナンは反駁した。
「私は生きる人形よ。心なんて持ってない。その人形の誕生を祝う大人達の言葉なんて聞きたくない!総帥はそれがお分かりになりませんか!?」
言葉を失った。僕の知らない間に、カナンはこんなに傷ついていたというのか?僕の知らない間にこんなにも悲しい思いをして毎日を過ごしていたというのか?自分で自分を人形と、称してしまうほどに?
「空虚な世界に失望しても、何も変わらないって分かってる!でも、どうすればいいのですか!?私は私の人生すら自由に出来ないのに!私の人生はママの死と引き換えに得たものです・・・。それに、未来の私の肩には世界中のリード・コンツェルンの社員の・・・その家族達の生活がかかっている!私一人の些細な失態でその人たちは・・・・!その人たちは・・・!!」
「やめないか!カナン!」
「やめません!総帥は私を笑いますか?軽蔑しますか?弱い人間だと罵りますか?でも私だって!普通の子供に生まれたかった!友達とおしゃべりして、ショッピングなんかにも行って、休日にはお出掛けだってしてみたかった!でも、全部夢で終わったのです!私に負わされた責務は余りにも重い!私は・・・・私はまだ13歳です。自由を夢見る人形になんてなりたくなかったのに!」
「もうやめるんだ!体に触る!分かったから。分かったからな!カナン!」
カナンの動きがピタリ、と止んだ。やっと落ち着いたか、と安心した矢先。
「やはり、総帥は何も分かってらっしゃらない。もういいです。」
カナンの目には失望の色がありありと浮かんでいた。その瞳が映すカナンの感情は手に取るように分かるのに、その瞳の奥に隠された真実を彼は見抜けない。彼が見失ってきたものとは、愛する人の真実の心。当たり前に思いすぎて、ついつい後回しにしてしまっていた。その代償がこんな形で現れるなんて・・・・。
「お帰り下さい。明日の業務に差障りが出てはいけません。私は近日中に帰宅いたします。山積している己の仕事にも取り掛かりますので。どうか、もう此方にはいらっしゃらないで下さい。」
「カナン!何故そんなことを言う!」
「お帰り下さい。総帥。」
「カナン!僕に言いたいことがあるならはっきりと言え!何も分からないままじゃお前を助けられないじゃないか!」
カナンの瞳がスウッとそらされた。ほんの数秒、だったのに、一時間にも、あるいはそれ以上にも感じられ・・・・。再びカナンがライアンを見据えた。
「私は総帥に何も望んではいません。・・・・・訂正します。もう、誰にも何にも望みません。・・・・・安心してください。自ら命を絶つような愚かな真似は二度といたしませんから。心殺して、孤独の中に生きましょう。それがきっと私の運命です。」
ライアンの記憶が蘇る。自分の幼い頃。カナンと同じように跡継ぎ教育で一杯だったあの頃の自分の記憶が・・・。鮮明に。
(僕は・・・・つらかったさ。人並みに遊んでみたかった。会社の為に生きるなんてまっぴらだと思っていたじゃないか!でも僕は、後に自分でこの道を望んだ。だからこそ、今の僕がいる。僕はカナンに残酷なことをしていたのだな・・・。愚かなのはカナンじゃない。僕じゃないか。)
「カナン・・・・・・。ごめんな・・・。」
「総帥が悔やまれることなど何一つございません。・・・・・私は、きっとこんな風にしか生きることは出来ないのですから・・・。」
「違う!カナン!」
「どうぞもうお引取りを!」
騒ぎに駆けつけてきた医者らの手によって、二人は隔てられた。
ライアンが、見つけたカナンの真実は・・・・・蒼い真実。
己が汚してしまった 白いパレット
どんな色を上から重ねても それは消えない
今のカナンは 筆をなくした 哀しい絵描き
蒼い色しか知らないの
無くした物が多すぎて 何をなくしたかもわからない
だからカナンが知っているのは パレットに唯一つ残された
哀しい蒼
カナンが再び温かい色を取り戻すまで
後 どれくらいの時を
蒼いパレットとともに 過ごさなくてはいけないの?
誰か 教えてあげて
行き場をなくした可哀相な 父と娘に・・・・
教えてあげて・・・・・・・・・・・・
