「カナンさん!またお食事残して!」
「だって・・・・・・食べたくない。お腹すいてないわ。」
「いけません!そんなことばかりもう2日も聞いてますわ!」
「悪いけど・・・・。そろそろ出社しなくちゃいけないから。」
「まだ、5時です!それに今日は久々の学校でしょう?」
「学校行く前に、出社して今後のスケジュールと溜まっている書類の整理しときたいのよ。だから、ごめんね。」
カナンは尚も心配し留めようとするばあやを振り切って家を出た。




カナンが家に戻ってきてから2日目。退院は本人の意思だった。体調は回復には程遠い状態であったのに、周囲を無理矢理説得しての帰宅。相変わらず食事は口にせず、水とサプリメントで毎日を過ごしている。貧血を起こしているのは誰にでも分かる。が、しかし安静を取らせようとしても本人が拒否してしまうのだ。本人曰く『休んでる暇なんか無い』らしい。




「カ、カナン様!体調はもう宜しいので?」
出社するなり、カナンの秘書は目を見開いて驚いた。
「問題は無いわ。それより私のスケジュールを見せて。溜まっている書類は何処にあるの?」
「はい、あの・・・。こちらに。」
おずおずと秘書が差し出したスケジュールに、さっと目を通す。
「これは何?ほとんど空じゃない!この書類も大したものじゃないわ!」
「それが、今後のカナン様のスケジュールです・・・・。」
信じられなかった。入院する以前はスケジュール表は一分単位でびっしりと埋まっていたというのに・・・。今差し出されたスケジュールには学校が休みの日にしか仕事も稽古も入っていない。これは冗談・・・・?




「総帥の差し金ね。」
ビクリ、と秘書の肩が震えた。そういえば、私と一度も目を合わせない。カナンは舌を打った。続けざまに秘書に問う。
「石油事業担当のアレックスと、自動車事業担当のウィルはどうしているの?」
「は?」
「最近、この二人の人事に変更は無かったって聞いているの!」
カナンの剣幕に心底震え上がった秘書は叫ぶように答えた。
「お二人はアラスカの支社へ移動しました!」
カナンは予期していたその言葉を、一言一言確かめるように聞いた。そうして、固まる秘書を残して歩き始めた。
「どちらへ?」
「総帥室よ!あなたは自分の仕事を開始しなさい!」




「総帥、失礼いたします。」
「カナンか・・・・。どうした?今日は学校だろう?」
ライアンが穏やかに微笑んだ。しかし、カナンの目にその表情は映らない。
「総帥、私のスケジュールを変更したのはあなたですね?アレックスとウィルをアラスカへやったのもあなたですね?」
「違うといったら?」
煙草の煙がライアンの口から吐き出された。煙はカナンの脇を通り過ぎてゆく。しかしカナンは微動だにしない。
「私のスケジュールを変更できるのも、重役の転勤を決められるのも総帥しかおられません。これ以上の議論は無意味です。」
「そうだな。認めよう。」
「何故、アレックスとウィルを?総帥のご意見を伺いたいですわ。」
「おまえに変なことを吹き込んだからだ。私の娘にそんな態度を取ることは好ましくない。」
「何度も申し上げますが、私は会社内では総帥の娘ではありません!取るに足らない1社員です!」
「それは認めない!その考えは捨てろ!!お前にそう吹き込んだ奴らはもういないんだぞ!?こだわる必要はない!」
それまで、声を荒げなかったライアンの理性が吹っ飛んだ。カナンは言葉を詰まらせ立ち尽くした。沈黙が・・・・・続く。




「ともかく、暫く休め。体調が完全に戻るまでは、会社に来ること、稽古をすること一切認めない。」
「お言葉ですが、それには従いかねます。私の体調はすでに回復済みです。」
「嘘をつくな。ばあやから連絡は入っている。体温は38.3℃。食事は一切口にしていないそうだな。」
「総帥は私の何をご存知で?私は40℃を越さない限りは、休暇をいただいたことはございませんわ。」
今度はライアンが言葉を失った。確かに、そうだ。己の記憶にある限り、カナンが発熱による休暇を申し出たのは全て・・・40℃を超えた場合のみ。ただ単に、熱が上がりやすい体の子と思っていたというのに・・・・。違ったのか?
「休暇は願い下げます。私は・・・・・!?!」




カナンは突然膝を着いた。ライアンが駆け寄り、抱き起こそうとすると拒否した。
「・・・・・・・ご心配なく。こんなこと日常茶飯事・・・」
ゆらり、と力なく立ち上がりそのままライアンから距離をとる。
「カナン!無理をするな!」
そう、カナンは無理をしているのだ。食事もろくに取らず痩せきってしまっている細い体に鞭打って・・・。青白くなった顔を化粧でごまかして。自分でもわからない。このまま父の優しい言葉を素直に聞いて、体調の完全回復を待てばいいとわかっている。父を『総帥』ではなく『パパ』と呼べばお互いのしこりが無くなるのも分かっている。でも、もう引き返せない。頭では分かっていても、心が、体がそれを拒否する。分かっているのにもう引き返せないんだ!
時々、彼女には声が聞こえる。




『お前は逃げるのか?』
いいえ、逃げはしないわ。
『弱虫の癖に意地を張るな。どうせ何も出来やしない。』
私は弱虫じゃない!
『諦めろ。抗うな。』
いやよ。諦めない。抗うわ。そうじゃないと顔向けできない。
『お前は、母を殺したな。なのに、のうのうと生きている。』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・。生きたくて生きているんじゃない!




誹謗中傷の嵐。出口の無い暗闇。終わりの見えない苦しみ。他にどんな例え方がある?誰が私を助けてくれるの?




そう、誰も助けてくれない。誰も分かりはしない。私だけに科せられた義務を。苦しみを。




カナンは自嘲した。あの声の言うとおりだ。私は逃げている。弱虫だし、臆病だ。死ねばいいとわかっているのに、父を残すことが怖くてそれが出来ない。ライアンが孤独のなかに取り残されることが怖い。




(パパは光の中にいればいいのよ。孤独なのは私一人でいい。不幸になるのも私だけでいい。パパに科せられた鎖も影も私が背負う。それが、パパからママを奪った私に出来るたった一つの償いだもの・・・・・・。)




だから、ここで折れてはいけない。あくまで心身ともに冷徹な『跡取り』の顔でなくてはならない。過去「氷のライアン」と呼ばれた父だが、その氷は溶けた。だから今度は私がその名を背負う。そう、決めたじゃない!




「総帥。何度でもいいます。私はただの社員です!」
「何を言う!?お前は私のたった一人の娘だ!誰よりも大切な娘だ!何でそれが分からないんだ!!」
ライアンがカナンをギュっと抱きしめる。




(このまま・・・・甘えてしまえたらどんなに楽かな。でも、駄目よ。)




「総帥、私の存在を御心から消してください。そうすれば私も、総帥も楽になります。」
カナンはライアンの胸に手を当てた。
「ここに、私がいたなら総帥は幸せになれません。娘としての私は死んだのです。どうぞ御心から消してください。」
ライアンはカナンの瞳を見つめた。本気だ。熱のせいかまどろんではいるが、この目はカナンが本気のときにだけ見せる信実の光。




ごめんなさい。パパ。




でもね、これが私がパパにしてあげられるたった一つの親孝行なの。




パパを幸せにするためにはこれしか思いつかない。




だから 娘としての私の存在を消して




私は 氷のカナンとして生きてゆきます




パパはもう氷のライアンじゃないわ




光の中にいるのが似合ってる 




光の中に 私という氷を持って行ってはいけない




分かってね パパ




だから 私の存在をパパの心から消してね







カナンは背負う 父の氷を



その華奢で細い体に その心に



父の幸せの為に カナンは消す



己の幸せを 望みを 夢を











―――――――――――――――――己の存在を















                                           FIN.

存在