潮
「ジュリアン!走っちゃだめ〜!」
「かあたま、とおたまは?」遠くからカナンの腕に駆け寄ってくる幼子…。2年前に産んだ男の子、ジュリアンである。カナンの敬愛する母、「ジュリア」の名前を取った。最近は言葉もはっきりしてきたし、あちこち走り回っているせいもあり、生傷が絶えない。
「カナン!!ジュリアンは!?」ウナスが血相をかえて走ってくる。・・・彼はもうジュリアンに夢中である。仕事中であっても、少しの休みを見つけてはジュリアンの相手をするのだ。
「ここよ、ウナス。お昼にしましょうか。」肩を上下させながら汗を拭くウナスを見て、カナンは微笑んだ。カナンの料理の腕前は王宮でも評判である。だが、彼女がその料理を作るのはごく限られた彼女の愛しい人たちのためにだけ。
「今日は午後からはどうするんだ?」パンを片手にウナスが言った。
「ジュリアンはナフテラに見てもらって…。叔母様とヌウとテティと一緒にお裁縫をする予定よ。」
「そうか、俺も今日は早く帰れそうだから夕飯は一緒に食べれるぞ!」そういうとウナスはカナンの頬にそっとキスをして仕事に戻っていった。
「ジュリアンは大人しくしてる?うちのアンディはメンフィスに似たみたいで…。もう大変よ!」キャロルが言った。
「あら、姫様!男の子はそれぐらい元気があったほうがよろしいんですのよ!・・・うちのリュイは女の子なのに・・・男勝りで困ってるんですの。」溜息混じりに言ったのはテティ。
「元気があるならよろしいじゃありませんか。女の子とはいえ、うちのネフティは気が弱くて・・・。」なだめるように言ったのはヌウだった。
「クスクス・・・。一番大変なのは私達ではなくてきっとナフテラよ!今頃、私達の問題児たちにきっと手をやいているわよ。」
「そうでございますわねぇ。」テティが呑気に答える。彼女の夫はミヌーエ将軍、ナフテラは姑なのだが・・・。彼女の性格である。忘れているのだろう。後で青くならなければいいのだが・・・。
「さあ、出来たわ!カナン次を教えて頂戴♪」キャロルが作りかけの衣装を片手に言った。今、彼女たちが縫っているのは彼女たちの問題児、いやいや愛児たちのための衣装である。もうすぐ2歳の誕生日を迎えるのだ。
「ええ、叔母さま。じゃあ刺繍に入りましょう。柄は?」
「ホルス神を入れたいの。あなたが以前メンフィスと私にくれたお揃いの帯があったでしょう?アンディがそれを気にいっちゃったのよ。」
「まあ、まだ持ってらしたんですか?」
「ええ、メンフィスのお気に入りなの。全く、親子は似るって本当ねえ。」
「そういえば、うちのリュイも!ミヌーエ様のマントが大好きで!この間自分で着ようとしてたんですよ。」
「ネフティはルカの短剣を触っていて・・・。怪我してないか心配したんですの。どうも、持ち手の所に付いていた光る石に興味を持った様ですの。」
他愛の無い、でもそれでいて楽しげな話をしながら彼女たちは衣装を縫う手を進めていく。
・・・・・いつの間にかナイルには夕日が沈みかけていた。彼女たちは愛しい子と共に、迎えに来たそれぞれの夫に連れられ帰っていった。
「パパ?パパッ!!!」
「どうした?カナン!?おい、起きろ!大丈夫か?」突如悲鳴をあげた妻に驚き、ウナスはカナンを揺さぶった。
「・・・・・ウナス?ゆ、夢だった・・・の?」ぽろぽろと碧い目から光の粒が零れ落ちた。
・・・・ひっく・・ひっく・・・・・・・・・・・・・
「どうしたんだ?」ウナスはカナンを優しく抱きしめ理由を聞いた。彼女が泣くことは滅多に無い。だからこそ、心配なのだ。
「・・・パパがね、私を・・・探してる夢を・・見たの。ううん、今日が初めてじゃないの。もう、ずっと、な・・の。でもね、今日はちがったの。パパ・・倒れちゃった。」ワーッとカナンは泣き出した。これはきっと正夢だと、そういって泣き続けた。
「パパとは・・・。お前の父君か?」
「ええ・・・。そうよ・・・。」
・・・・・・・ウナスはじっと考えた。この場では結論を出せない。
(明日、キャロル様にご相談するとしよう。)より一層強くカナンを抱きしめた。抱きしめていないとカナンを奪われてしまうような・・・そんな気がした。それが誰かも分からないのに・・・ただただ不安だった。
「ええっ!!兄さんが倒れたですって!?」
「・・・。あくまで夢にございます。しかし、あれが泣くことは滅多にございませぬゆえ・・・。何とかしてやりたいのです。」
「何とかって・・・。」思い当たることは一つしかない。だがそれを・・・。軽々しく口にしてはいけない。そう思うが、答えは一つしか見つからなかった。意を決してキャロルは言った。
「ウナス・・・。カナンを兄さんの所へ帰してやるしか方法はないわ。最善の方法だけど・・・・。」
「いかがいたしました?」
「向こうにいるときは・・・記憶を失ってしまうの。もう一度ここへ帰ってこれるかは・・・わからないの。」
そんな・・・・・・。ウナスは愕然とした。
(記憶を・・失うだと?父君の所へカナンをやったらカナンは俺のこともジュリアンのことも、忘れてしまうというのか!!?)
ナイルがざわめく・・・。何事かを予感して・・・。
「帰るって・・・?わ、私が?記憶を無くすかもしれないのに?」ウナスがそうだ、と言うとカナンは静かに言った。
「それは無理よ。確かに、パパのことは心配だわ。胸が張り裂けそうなくらいにね。でも、あなたのことを忘れるなんて・・・ジュリアンに二度と会えないかもしれないなんて・・・。それはできない。どんなことがあっても。」きわめて冷静に努めるカナン。しかし、と言うウナスにカナンは言葉を続けさせなかった。
「私は・・・。過去を捨てたの。あなたと生きると決めたときから・・・。考えを改めるなんて出来ないわ。」そう言ってカナンはジュリアンの手を引き寝室へ寝かしつけに行った。
・・・・・カナンの子守唄が聞こえる・・・。優しい歌声・・・。聞きなれたはずの歌声が今夜はやけに愛しく感じた。
「カナン・・・。お前はいったい何処に消えたんだ?」ここは21世紀のエジプトである。ライアンの元からカナンが消息をたってからもう・・・2年になる。妹であるキャロルも・・・帰ってはこない。彼は孤独であった。そのせいか、氷のライアンとよばれる事業の鬼は倒れてしまった。幸い、軽い風邪だったが・・・。
「カナン・・・。」もう一度呟く。愛娘の名前を・・・。亡き妻が苦しい息の下で付けた名前・・・。
(何故だ!何故神は僕の全てを奪う!最初は父さん、次はキャロルだった。そして・・・ジュリア。最後にはカナンまで!!)時折彼は夢に見る。愛娘の幸せそうな笑み、愛娘の傍に寄り添う見知らぬ男・・・。やりきれない気持ちが彼を苛立たせる。狂いそうなほどに彼の心をかき乱す。誰なのか分からないから。愛娘を風のように奪い去ったそいつに・・報復してやりたくとも、奪い返してやりたくとも所在が掴めないから・・・。
「くそおっっ!!!」部屋に声が空しくこだまする。だがそのこだまの中に・・パパ・・と愛娘の自分を呼ぶ声がかすかに聞こえた。やりきれない思いが、ぶつけようの無い怒りがほんの少しだけ薄らいでいった。しかし、同時にこみ上げる悲しさは事業の鬼に涙を運んだ。
「カナン・・・。お前やっぱり帰るんだ。」開口一番ウナスはそう言った。彼は昨日夢に見た。カナンの名を口にしては涙するその人の姿を・・・。きっとこの人がカナンの父君だと思った。
「・・・前にも言ったわ。私、いけない。」
「いいや。行くんだ。行かなくて後悔するのは俺じゃない。お前なんだ。会える可能性が一握りでもあるなら・・・。会え。」ウナスは幼い頃、無実の罪で父を、母を殺された。会いたくとも、両親に会うことは・・・・・・・出来ないのだ。
「忘れてしまうのよ!二度と会えないかもしれないのよ!?」
「お前ならきっと・・忘れないさ。どんなことがあっても帰って来るさ。」だから、行けと言う夫・・・。本当は行きたい。でもこの人に・・・二度と会えないかもしれないなんて嫌だ。絶対に嫌だ。葛藤するカナン・・・。
「今すぐに行けとは言わん。お前の気持ちの整理がついてからだ。キャロル様には俺から話しとくから、な?」ポンとカナンの頭に手を乗せてウナスは出勤していった。ジュリアンはまだ寝ている。すやすやと・・・・。
(ママ、私どうしたらいいの?ママならどうした?)答えが出るような気がしたのだ。あの日、死の淵から自分を救ってくれた母なら、きっと何かヒントをくれると・・・。
その時!フッと耳に風が吹いた。微かな・・・・母の声。カナンは決めた。ウナスが帰ってくるまでには・・・準備をしておこうと。出発は・・・早いほうがいい。
・・・・時の中を流るるナイルよ・・・この先この小さな母にどんな運命を与えるのか・・・・・・
「決めたんだな。本当に・・大丈夫なのか?」
「ええ、行くわ。きっとこれが最初で最後。心配しないで!!きっと私は記憶・・。無くさないわ。誓ってここに戻ってくる。」二人はナイルのほとりにいた。カナンは腕に皮製の腕輪を付け、中に小さな粘土板を入れている。腕にウナスの視線を感じたカナンは言った。
「きっと、この腕輪が私を助けてくれるわ。」
「そうだな。・・・・・無事で帰って来いよ。待ってるからな!」そう言ってカナンの小さな体を抱きしめた。きつく・・・きつく・・・。
「1週間で帰って見せるから。ジュリアンをよろしくね。泣き止まないときは、あなたのマントを貸してやって?喜ぶのよ。」
「ああ、わかった。1週間だな。何とかして見せるさ!」二人は岸に膝を着き、ナイルの水を飲んだ。
・・・ナイルの水を飲むものはいつかきっとナイルに戻ってくる・・・・・・その伝説にそって・・・。
「いってきます。ウナス。」
「いってこい、でもちゃんと帰って来いよ!」カナンはナイルに飛び込んだ。途端にナイルの水が渦巻く・・・ナイルの女神は水底深くカナンを連れ去った。岸には残されたウナスが一人、たたずんでいた。妻の帰りを信じて・・・・。
「しゃ、しゃ、社長〜!!!い、い、い、今報告が!!」
「何だ、騒々しい。今何してるか分かるか?会議中だぞ!」今度の企画はアジアへの大規模な進出をはかったものであり、かなり重要な企画である。ただでさえ、それで気が立っていると言うのに・・・。ライアンのこめかみに青い筋が浮かんだ。
「か、カナンさんが、お、お嬢様がナイル川のほとりで発見されたそうでございます!」
「な・・・な・・に?カナンが?見つかった・・だと?」途端にその社員に詰め寄った。思わず手に力が入る。
「本当か?カナンは無事なのか?おい、答えてくれっ!」
「お怪我も特に見当たらず、記憶もはっきりしておるそうでございますが、念のため、病院に運ばれたそうです。」要点をなるべく手短にライアンに伝えた。
「僕は行くぞ!後は頼む!」言うが早いかライアンは上着を片手にさっそうと走り去っていった。探し続けた愛娘の下へ・・・。一目散に車を走らせ、病院へと向かった。
「パパ?パパなの?」
「カナン!カナンか!!ああ、僕はお前を探して、探して・・!!」息せき切って駆けつけたライアンがカナンに駆け寄った。探し続けた愛娘・・もう帰ってこないのではとどれほどに僕は哀しんだか、それを恐れたか!でも、お前は帰ってきてくれた。僕の元へ、無事で!
「パパ、ごめんなさい。私、私・・・・。」
「いいんだ。何も言うな。帰ってきてくれて良かった。お前が無事に僕の元へ帰ってきてくれた。それだけで充分だ。」ライアンの眼は潤んでいた。
「カナン、今日は病院にいるか?」
「いいえ、パパ。私、話さなければいけないことがある。帰りましょう。帰りたいわ・・・。お家に・・・。」カナンは真っ直ぐに父の瞳を見つめた。変わってない、とライアンは思った。『人と話をするときは人の眼を見なさい』カナンがまだ幼い頃よく言って聞かせた。カナンはいつしか自然にそれを覚え実行していた。彼女の髪をいじる手つきも・・・何も変わってない。
「そうだな、帰ろうか。ばあやがきっと腰を抜かすぞ!」ライアンは冗談っぽく言った。しかしカナンは笑わない。何を言っても・・・。それだけが心に引っかかった。こんなに近くにいるのに何だか・・・愛娘が・・遠く感じた。不安が波のように彼の胸に押し寄せてきた。
「パパ、落ち着いて私の話を聞いて。信じられないかもしれないけど私・・・・・・・・・・。古代のエジプトにいたの・・。そこにはね・・キャロルさんもいた。パパの妹だって言ってたわ。」カナンはベッドの上でゆっくり話し出した。一つ、一つ確認するように・・・。彼女はウナスのこともジュリアンのこともはっきりと覚えていた。神の思し召しである。
「なん、だ・・・と?キャロル・・だと?」ライアンは正直言って娘の言葉を疑っていた。彼は超がつくほどの現実主義者である。占いどころか、呪いも、超能力も信じない。その彼が今、それを信じなければならなくなった。次に娘の口から発せられた言葉によって・・・。
「キャロルさんはね、古代エジプトの王妃様になっていました。私にも・・・夫と子供が・・・・います。古代に・・・・。」
ライアンは一度古代エジプトの姫君姿をしたキャロルを見たことがある。確かあの時、王冠をつけていたような気が・・する。だが!カナンに・・・夫だと?こ、子供だと?そんな馬鹿な!だってカナンはまだ・・・16歳だぞ!ぼ、僕の知らない間に!!何ということだ!!
「説明しろ!カナン!証拠はあるのかっっ!」
「これを・・・見てパパ。」そう言うとカナンは腕につけていた皮製の腕輪の紐を切り、中から何かを取り出した。中にはヒエログリフを刻んだ粘土板が入っていた。文面は・・・・
・・・カナンの父君様、初めまして。私はウナスと申します。カナンの夫でございます。2年前に結婚いたしました。今、ジュリアンと言う名の子供もおります。このたびはご病気と知り妻を差し向けました。勝手なお願いではございますが妻は1週間ほどでこちらに返してください。私は彼女を愛しています。もはや彼女なしでは生きていけませぬ。何卒お返しくださいませ。ご無礼を承知でお願いいたします・・・・・
小さな小さな文字でぎっしりと書かれていた。おそらくかなり大変であっただろう。これは紛れも無い古代の石版・・・。もはやライアンに疑う余地は無かった。
「そういうことなの、パパ。私ねとっても幸せよ。あのね・・・・。」娘は3時間ほど話を続けた。古代に突然タイムスリップしてしまったこと、キャロルからの伝言、ウナスとの暮らし、息子の成長・・・・・。話は尽きなかった。ライアンは黙ってそれを聞いていた。そして、静かに口を開いた。
「カナン、1週間だったか・・・?」
「ええ、約束してきたの。」ライアンは黙り込んで一人考えていたが突然口を開き言った。
「古代には帰さない。暫く部屋に大人しくしていなさい。」
「パパ!!??」カナンは絶望した。帰れない?帰れなかったらウナスにはもう会えない。ジュリアンをこの腕に抱きしめることも出来ない。嫌だ!絶対に嫌!例えパパの言うことでも聞かないわ!部屋を去る父の後姿を見ながら、カナンは決意した。
(何が何でも1週間後には帰って見せるわ!)
・・・・ナイルよ緑なす悠久の流れよ・・今夕日が沈み行く・・・・
1週間がたった。カナンの必死の説得も功を得ず、部屋に閉じ込められてから・・・・。
「パパっ!帰してったら!帰りたいのよ!お願い!」
「だめといったらだめだ。」ライアンはカナンを抱きしめていった。
「お前がいなくなってからパパがどんな気持ちだったか分かるか?毎日毎日お前を探して・・・。悲しかったんだぞ。つらかったんだぞ。またパパに同じ想いをさせるのか?」
「じゃあパパはジュリアンに私と同じ思いをさせても平気なの?」
「・・・・・・・・・・・・・。」ライアンは言葉を失った。親の自分が知らないカナンが目の前にいた。瞳には初めてみる怒りの炎が映っていた。母譲りの瞳に・・・・悲しい怒りの炎が。
「私、いつも自分だけママがいないのが悲しかった。ママがいる人が羨ましかった。ママが恋しかった。ジュリアンには・・・あの子にだけは私と同じ想いをさせたくないの!!!お願いよパパ私を古代へやって!」娘は父に懇願した。
・・・・ずっとずっと私を育ててくれた・・・守ってくれた・・・・・・そして・・愛してくれたパパの胸・・・・・・
でも今は帰らなくちゃならない・・・私は・・私には・・・愛しい子が待っている・・・私がその子を育ててやらねば・・守ってやらねば・・・・愛してやらねばならない。親となった今は、自分よりもジュリアンの幸せを優先させたい。
「・・・・・責任を持って育てなさい。パパはきっとその子を見ることは出来ないが・・・・。守ってやりなさい。愛してやりなさい。お前の全てで・・・・・・・・。それができるかい?」本当は最初から帰してやるつもりだった。だが、子供がいると聞いたとき、この子にその責任の重さをわからせてあげなければと・・・それが分かるまで帰してはならないと考えていた。それまでは鬼になろうと・・・。だが、必要なかったようだな。
「!!!はい。約束します。」娘は強く答えた。ライアンは思った。ああ、この子は母親になったのだと。もう自分の手からすり抜けていってしまうのだと。そう思った。寂しかったが、何処か誇らしげな気分でもいた。
(ジュリア、見てるかい?僕らの子はこんなに立派になったよ。君が見守ってくれたからだな。いい子に育ったよ。)
「パパ有難う。我がままで、いっぱい迷惑かけて・・・悲しい思いさせてごめんなさい。私を育ててくれて有難う。」
「・・・・・・・遠くからいつも見守っているよ。いいか?パパのこと忘れちゃダメだぞ。その時は化けて出てやるからな!」
「ええええええ〜!ダメっ!私、逃げちゃうかもっ!」
「はははははははは。」二人は笑った。穏やかな空気が流れた。あと、ほんの少しで別れが来ることを知りながら・・・・・・・。
「じゃあ、パパさようなら。愛してるわ。体には気をつけてね。」二人はナイルのほとりにいた。カナンの両腕には行きと同じく石版が入った腕輪がつけてある。ライアンがくれたものだ。
「ああ、お前もな。旦那さんにわがまま言うなよ。ジュリアンに笑われないようにな。」ライアンはからかうように言った。
「まあっ!意地悪っ!そんなことしません!」カナンはプウっと頬をふくらませた。
「愛してるよ・・・・・。どうか幸せに・・・・・・・・。」
これが永久の別れになると・・・二人とも思っていた。二度と会えないからこそ、最後は笑顔でと・・・・そう決めていた。だけど・・・だけど・・・・・・やっぱり涙が溢れ出てくる。
「・・・・・っっ。パパ愛してるわ。さようなら。」
「・・・・・・・・・・・行け。幸せになれ。愛してるからな。」
カナンはナイルに足を踏み入れた。女神はカナンを腕に抱き古代へと連れ去った。・・・・・一人残されたライアンは泣いていた。声の限りに・・・。いつまでもいつまでも泣いていた。
・・・・おおナイルよ。この父を哀れと思いたまえ。娘を失ったこの父に・・・・どうか・・どうか・・・幸せを分け与えたまえ・・・・・・・・・・・・・
「カナン!?おいっカナン!!」・・・・・カナンは古代へと帰っていた。ナイルのほとりにはウナスがいた。今か、今かと愛しい妻の帰りを待ちわび、1週間がたった今日、いても立ってもいられなくなり飛び出してきていたのだ。
「ここ・・・・・。どこなの・・・・?」
「お帰り。寒いだろ。濡れてるもんな!着替えなくちゃ風邪引くぞ!ジュリアンも待ってる。家に帰ろう!」再会を喜ぶウナス・・・・。しかし・・・運命の女神は少女に残酷な運命を与えていた。
「帰るって・・・・。あなたは誰?ジュリアンて誰なの?」
「えっ・・・・・・・・・おいカナン・・???」女神は少女の記憶を持ち去った。もっとも彼女が大切にしていた記憶を・・・。彼女の愛しい夫と息子の・・・記憶を・・。
「おいっ!何冗談言ってるんだ!ふざけるのもたいがいにしろよっ!」ウナスは信じられず、カナンを強く揺さぶった。
「痛いっ!話してよ!」カナンは叫んだ。ウナスが力をこめて握っている左腕が・・・激しく痛んだ。
ナイルにカナンの声が響いていた・・・。
「そなた、真に私のことが分からぬと言うのか?カナン?」
「・・・・・・・・・はい。」メンフィスを前にカナンは言った。彼女は全ての記憶を失った。・・・・もはや自分が誰なのかも分からないのだ。彼女はこの場にいることにすら嫌悪感を抱いていた。さっきから何度も何度も同じことばかり聞かれるから・・・。分からないものは分からないのだ。
「メンフィス、今はそのくらいにして・・・。カナンの顔色が悪いわ。休ませてあげなくちゃ!」
「私の名はカナンというのですか?」
「そうだ。そなた真に思い出せぬのか?自身の名も、生い立ちも、ウナスのことも、ジュリアンのことも・・・。」
「・・・・・・だから、ウナスって誰ですか?ジュリアンて誰ですか?私には分からないのよ!!!もうほうっておいて下さい!!」ついに我慢の限界が来た。頭が割れそうだ。カナンは立つことができなくなり、その場にうずくまった。
「大変!すぐにカナンを部屋に運んで頂戴!ネゼグをもう一度呼んで!」キャロルが叫んだ。この出来事はキャロルにとっても、衝撃の事件であった。彼女は現代にいるときは、古代の記憶を無くしていたが、古代に帰ってくるときは全ての記憶を取り戻していたから・・・・・・。
その時、カナンの姿を柱の影から覗くものがいた。・・・・・・・・・・・・ジュリアンである。1週間前、目が覚めると母がいなくなっていた。父はすぐに戻ると言っていた。だから、泣かずに待っていたのに・・・・。母は自分のことを忘れてしまっていた。
(かあたま、どうして?ぼく、いいこにしてたよ。あんでぃともりゅいともけんかちてないよ。ねふてぃもなかちてないよ。なんで、ぼくのことわすれちゃったの?)幼子の目からは涙が止めどもなく流れ、その心には深い悲しみの嵐が吹き付けていた。
「先ほどは取り乱してしまってすみませんでした・・・・。」ここはカナンの部屋である。うずくまり、触れることを頑なに拒んだカナンを刺激せぬよう、ナフテラとキャロルがゆっくりと連れて来た。
「気にしないでカナン。それより気分はどう?」
「・・・・・・・大丈夫・・です。それより聞きたいことがあります。ウナスさんやジュリアン君と私はどんな関係だったのですか?何故皆さんがその名前ばかり私に問うのか知りたいのです。」
・・・・・・キャロルは言うべきか言わざるべきか迷った。言ってしまったらカナンはきっと自分を責めるだろう・・・そう思った。しかし、いつまでもこのままにしておくわけにもいかない。意を決してキャロルは言った。
「ウナスはね、あなたの夫よ。そしてジュリアンはあなたの・・・息子なの。」
「え・・・・・・・。」しばしの沈黙が流れた。カナンは混乱していた。
(私は結婚していたの?こ、子供も!?嘘!覚えてないわ・・・。何も覚えていない!でもそれが本当のことだとしたら・・・・。私最低の人間だわ!愛する人のことを忘れてしまうなんて・・・・・最低の人間・・・・・。)いつの間にか泣いていた。すすり上げることもなく、ただ静かに・・・・その目から真珠の粒を光らせていた。
「自分を最低だなんて思っちゃだめよ。」カナンの心中を察したキャロルが言った。彼女自身、現代では古代の記憶の一切を無くしていた。だからカナンの気持ちが良く分かっていたのだ。
「今はつらいかもしれない・・・。でもこれはね神様が私たちに与えてくださった試練なのよ。だから、あなたのせいじゃないの。ううん、誰のせいでもない。辛いかもしれないけれど、思い出す努力をしましょう。」
「お願い・・・・。私思い出したい。全部全部はやく思い出したいです。思い出してウナスさんに謝りたい。ジュリアン君を抱きしめたい。私・・・頑張ります。だから・・・お願いします。」
カナンの死に物狂いの努力が始まった。
「どうして私は肝心なことを思い出せないのかしら・・・。」呟くようにカナンが言った。
あれから2週間・・・。カナンは毎日必死で記憶を取り戻す努力をしていた。手の皮が向けるまで弓を引き、喉がかれるまで歌を歌い、手が動かなくなるまで裁縫をひたすらに続け、立てなくなるまで調理場にこもり調理をしていた。その甲斐あってか自分の名前、生い立ち、両親のことなど古代に来る前のことは全て思い出していた。しかし、カナンが暗いのには理由があった。
・・・・・・・・それはほんの数刻前・・。カナンは回廊でばったりとジュリアンに出会った。少し戸惑いつつ、
「今日は何をして遊んだの?」とさりげなく聞いてみた。しかしジュリアンは、
「かあたまなんかだいっきらいだ!」と一言言うなりプイとそっぽを向いて駆け出して行ってしまったのだ。仕方ないと言えば仕方のないことなのだがカナンにはショックな出来事であった。
「あまりお気になさいますな。きっと喧嘩でもしたのでしょう。虫の居所が悪かっただけでございますよ。」ヌウが必死になってなだめたがカナンは落ち込みモードに入って抜け出せなくなっていた。と、その時
「おい・・・・ヌウ。入ってもいいか?」ルカがやって来た。両手にカナンの大好きな青い蓮の花束を持って・・・。
「まあ、ルカどうしたの?お見舞いに来てくれたの?」ヌウは突然のルカの来訪を心から喜んでいた。カナンが少し微笑んでくれたからである。
「えっと、ルカ・・・さん?ヌウの旦那さんよね?花束持って来てくれたんですね。ありがとう。」
「いいえ、これは私からではありません・・・・。ウナスより預かって参りました。あと伝言も・・・。お伝えいたします。『体は大丈夫か?ちゃんと食べてるか?無理しなくていいからな。たまにはゆっくり休め。俺のことは気にするんじゃないぞ。』・・以上でございます。では、確かに。」そう言ってルカは花束をカナンに渡した。受け取るカナンの手の震えが伝わってきた。
「これ・・・ウナス・・・さんが?今日も・・・。」そうなのだ。ウナスはカナンを気遣ってあれから顔を出さないようにしている。彼は会いたくてたまらないのだが、自分と会うとカナンが無理をしようとするから会わないようにしていたのだ。その代わりに毎日こうやって彼なりの愛情表現をしている。
しかし、今のカナンにウナスの優しさは痛かった。いっそ責めてくれたほうが楽だとさえ思った。私はあなたを忘れてしまったのに、どうしてあなたは私を嫌いにならないの?何度も思った。
・・・・花束を抱きしめ声を殺して泣くカナンを気遣ってルカとヌウは部屋を後にした。
・・・・・おおハピよ・・御身の力持て・・・・この娘を救いたまえ・・・・・・
また2週間の時が過ぎた・・・。あれからジュリアンはカナンを無視するようになっていた。『かあたまなんかだいっきらいだ!』カナンが最後に聞いたジュリアンの言葉はそれだった。
(当然よね・・・。こんなお母さん、誰だって嫌いになるわよね・・・。)
「・・・・・・・・・・さま・・・・・カナン様?」はっとした。ヌウが心配そうに顔を覗き込んでくる。いけない、今は診察中じゃない!しっかりしなきゃ!
「ごめんなさい。続けて?」ネゼグに向かってカナンが言った。ネゼグはカナンの顔をじっと見た。あきらかに疲労の色がにじみ出ている。本人は隠しているつもりなのだろうが・・・・医師であるネゼグには一目でわかった。
「・・・・しばらく記憶を取り戻すための治療をお止めくだされ。このままではご病気になってしまいまする。後で薬湯を届けさせますから・・・よいですな?」
「先生・・・・私承知することはできません。」きっぱりとカナンは言った。
「何故!?今はご自分のご健康こそが一番大事なとき!」
「いいえ、一番大事なのは私なんかじゃないの。ジュリアンのほうが・・・傷ついているの。今の私じゃあの子を助けられない。私が早く思い出さないとあの子の心は闇に閉ざされてしまう・・・。救えるのは私だけなの。休んでなんかいられないわ。」記憶を失っていても彼女は「母」であった。本能が「息子」を救えるのは自分しかいないと呼びかけているのだ。ネゼグはそう思った。がしかし、このままでは本当にカナンは倒れてしまう・・・・・。
(荒療治だが・・・。賭けにでよう!)彼は一大決心をした。そしてすぐさま実行に移すべくヌウとルカを呼び寄せた・・・。
「カナン様、私、ナフテラ様に用事がありますので・・・。少しの間留守にしますがよろしいでしょうか?」ヌウが申し訳なさそうに聞いてきた。もちろん駄目などと無理を言うカナンではない。
「いいのよ、気にしないで?お疲れ様。」そう言ってヌウを送り出した。一人になるとナイルの風の音が耳に響いてきた。心地よいその響きにしばしの間酔っていた。瞼がだんだん重くなっていく・・・。疲労困憊の状態が続いていたカナンはそのままふと眠ってしまった。
・・・・・・・・・誰?
どれくらいの時が過ぎたのだろうか・・・。眠っていたカナンは上から布団をかけられていた。・・・温かい・・・。お礼を言わなくちゃ・・・そう思って起き上がった・・・。
ぼやける視界がだんだんはっきりとしてきた。そこにいたのは・・・ヌウではなかった。ウナスだったのだ。
「!起こしたか?ごめんな・・・。」申し訳なさそうにウナスは言った。ふと、かけられていた布団を見た。それはウナスのマントだった。途端にカナンの顔が真っ赤になる。
「ご、ごめんなさい。私いつの間にか寝ちゃって・・・。」寝顔を見られていたなんて・・・。恥ずかしい・・・。
「疲れてたんだろう?ヌウから聞いたぞ。最近ほとんど寝てないんだって?・・・・・・・・心配したぞ。」ウナスはカナンを見つめた。・・・・・・何日ぶりに会っただろう。本当はカナンの噂を聞くたびに飛んでいきたくなった。抱きしめたくなった。でも、カナンのことを思えば・・・・今は我慢するときだと自分に言い聞かせてきたのである。
「本当にごめんなさい。あなたを傷つけて・・・。それなのに私・・・肝心なことは何一つ思い出せていない・・・。」気が緩んだのかカナンは泣いた。以前はこんなにたびたび泣くような人じゃなかったのに・・・とウナスは思った。ジュリアンとの一件はヌウから全て聞いていた。ジュリアンのことは怒れなかった。息子の気持ちも良く分かったから・・・。しかし、だからと言って妻を責める気も起きない。誰も何も悪くないのだから・・・。
「もう泣くな・・・。」自然にカナンを抱きしめていた。カナンは少し驚いたが嫌な感じはしなかった。逆に溢れるばかりの安心感を得たような気がした。
「自分を責めるなよ。俺のことは気にするな!いくらでも待つ自信はあるぞ。」ポンとカナンの頭に手を乗せた。
・・・・・・・・・カナンの全身に衝撃が走った。
『カナン様、お庭をお散歩なさいませんか?』ヌウの声
『カナン!エジプトの衣装似合っているわよ。』キャロルの声
『カナンお転婆もほどほどにしておけよ・・・。』メンフィスの声
『カナン・・・愛してる。』ウナスの声
『かあたま、だいすき!』ジュリアンの声
私、知っている!この人たち、みんな知っている!知っているわ!私の大好きな人たち!愛している人たちよ!
・・・・・・・・長い暗闇から今、カナンは抜け出した。全てを・・・思い出したのだ。そして、やっと帰ってきた。愛しいウナスの胸へと・・・。
「ウナス?ウナス!!」頭が割れそうに痛んだがそんなこと、どうでも良かった。やっと帰ってこれたのだから・・・!大好きな人のもとへ・・・!
「カナン・・・・?思い出したのか?」自分を「ウナス」とカナンが呼んだ。記憶をなくしてからは「ウナスさん」と呼んでいたのに・・・!?もしかして・・・もしかして・・・!!
「ええ!全部!全部思い出したわ!」
「カナンっっ!」ウナスは感無量であった。もはやそれ以上二人の間に言葉は必要なかった。お互いを見つめあい・・・そっと口付けを交わした。そして強く、強く抱きしめあった。
「どうして思い出せたんだ?」部屋から出た後、ウナスが尋ねた。彼は不思議でならなかったのだ。今までどんな方法を試しても結果ははかばかしくなかったのに、どうして急に記憶を取り戻せたのだろうかと・・・。
「ああ・・・。あのね、私の頭にポンって手を置くのあなたの癖なの・・。知ってた?多分きっとそれが思い出すきっかけになったのだと思うの。急に懐かしさがこみ上げてきたもの・・。結局私にはどんなときにもあなたが必要だってことなのよね。」照れくさそうにカナンは笑った。それにつられてウナスも笑った。今の二人は他に例えようのないくらい幸せなのであった。
「ところで・・・ジュリアンはどうしてる?」心に引っかかっていたことを尋ねた。
「ああ・・・・。きっと庭にいるよ。お前が記憶をなくしてからは毎日あそこにいるんだ。朝から晩まで・・・。アンディ様ともリュイともネフティとも遊ばないんだ。まあ、今はすねてるだけだろう。」心配ないさ、とウナスは言ったが、カナンは一刻も早くジュリアンの所へ連れて行って、とウナスにせがんだ。
・・・・・・ハピよ・・ナイルの女神よ・・・・
ジュリアンは木の上にいた。カナンが大好きな、木の上に・・・。胸には何かを包んだ袋をしっかりと抱えていた。
「ジュリアン?」
「!?」母の声がした。もうずっと聞いてない大好きな母の声・・。恐る恐るジュリアンは下へ視線をやった。そこには大好きな母と父がいた。本当は今すぐ降りて、母の胸にとびこみたかった・・・。しかし、ふと蘇るのは母が自分のことを忘れてしまっていたのを見た・・・王宮での記憶だった。
「ジュリアン、お母さんよ!おいでっ・・・!」木に登れないカナンは必死に手をのばすが、到底とどくはずもない。
「・・・・・・・かあたまじゃない・・。ちがうもん・・・。」そう言うとジュリアンはさらに上を目指して登り始めた。小さい子には危険すぎる高さである。もし、あそこから落ちら・・・・カナンは怒った。
「降りてきなさい!落ちたらどうするの?」
「ジュリアン!母様の言うことを聞けっ!」ウナスも加勢する。
「ちがうもんっ!かあたまじゃないもん!とうたまのばかっ!ばかっ!ばか・・・ばか・・・。ほんとうのかあたまは、ぼくのこと・・・わすれたりするもんか!」
「・・・・・・・・・・・!?」夫妻は絶句した。ある程度の予想はしていたが、まさか・・・ここまで傷つけてしまっていたなんて・・・・。しかし、夫妻が躊躇している間にもジュリアンはどんどん上へ登っていく。ウナスも連れ戻すために登り始めた。
「ジュリアン・・・・。お母さんの話を聞いて頂戴。お母さんはね・・・あなたのおじいちゃんの所に行っていたの。それでね・・・帰ってくるときにね・・おじいちゃんの所に記憶をおいてきたの。大好きなジュリアンやお父さんのことをね・・・。おじいちゃんに分かってほしかったから・・・。わかる?」カナンはジュリアンが納得するように簡単に説明をした。・・・・もっともジュリアンには言い訳としか聞こえないだろうとは思ったが・・・。
「・・・・・・うそだ。」ジュリアンは涙声だった。
「本当よ。お母さんはねジュリアンのこと、大好きだから・・・愛してるから・・・だから戻ってきたのよ。・・・あなたに悲しい思いをさせて・・・ごめんなさいね。お母さんが悪かったわ。許してくれる?」カナンも涙声だった。はたして、息子は自分のことを許してくれるだろうか?
「・・・・・うそだ。だって・・・かあたまだったら・・・これ・・・とりにくるはずだもん。」そう言ってジュリアンは包みをさらにぎゅっと胸に押し付けた。
「・・・なあに?それ・・・・。」
「かあたまの・・・・。」ジュリアンの言葉はさえぎられた。ウナスがジュリアンの下へたどり着き、彼を捕まえたからである。抵抗するかと思いきや息子は黙って自分に抱かれていた。・・・・目にいっぱい涙をためて・・・。
「さあ!母様にあやまれっ!」ウナスは怒っていた。それは、彼が初めてジュリアンに向ける「鬼のような」顔であった。ジュリアンはうつむき、胸に抱えた包みにさらなる力を込めている。
「・・・・・ウナス。怒っちゃ駄目・・・。ジュリアン・・・それはなあに?お母さんに見せてくれる?」
「・・・・・・やだ。」泣きじゃくりながらジュリアンは反抗した。最後の気力をふりしぼって・・。父の怒号にも、母の視線も怖くないと言えば嘘になる。・・・でも今更引き下がれない。無意識の・・・「男」としての意地だった。
「・・・・・・見せて?ちょっとだけ・・・・駄目?」カナンはしゃがんで息子と同じ位置に目線を下げた。じっと覗き込む。するとジュリアンはもうだめだ、というように腕をだらりとさげ、包みをポイ、と投げ捨てた。カナンは黙ってそれを拾う。
「・・・・・・これはっ!!」仰天した。無理もない。その包みの中には・・・・ライアンがくれた石版入りの腕輪が入っていたからだ。
「どこでこれを見つけたんだ?」怒りを抑えてウナスがジュリアンに尋ねた。
「・・・・・・・ヌウがいないときに・・・かあたまのへやから・・・もってきた・・。」カナンは静かに聞いていた。・・・ヌウがこれを必死になって探していた姿が蘇る・・・・。ここにしまっておいたはずなのです、と半ベソをかいて探していたヌウの姿が・・・・。
「・・・・やって良いことと悪いことがあるぞっ!」ウナスの手が空中に上がった。ジュリアンは思わず目をつぶった。
パンッ・・・・!乾いた音がする・・・。
(痛く・・・ない?)ジュリアンが恐る恐る目を開けると、目の前には左頬を赤く染めた母と、呆然と立ち尽くす父の姿があった。幼い子でも・・・自分を庇って母が父に打たれたのだとわかった。
「カナンっ!なんでっ・・・!」ウナスは気が動転していた。
「・・・ぶっちゃだめ。悪いのはジュリアンじゃない・・・私よウナス。ぶつなら・・・私を・・・。」カナンは真っ直ぐにウナスを見返して言った。強い意志をもった瞳で・・・。
「かあたまっっ!」ワ〜っと泣きながらジュリアンがカナンの胸に飛び込んできた。胸に顔をこすりつけながら・・・何度も何度もあやまった。カナンも何度も何度もジュリアンにあやまった。・・・そしてウナスも・・・二人に何度も何度もあやまった。三人は強くお互いを抱きしめあった。
辺りが一面・・・夕焼けに・・燃えていた。
キラリ・・・。ほんの一瞬光った何かにカナンがいち早く反応した。刃物かしら・・・・!?だったら危ない!
「ふせてぇ!」3人が伏せるのと同時に刃物が飛んできた。刃物は木に深くささっている・・・。並みの腕の刺客ではない。
「ちっ!一度ならず二度までも!命運の強い女め!やっちまえ!」辺りの茂みから次々と男たちが飛び出してきた。
(くそっ!このままでは・・・!)いくらウナスが剣に強いとはいえ、この人数を切り抜けるのは難しい・・・。ましてやカナンとジュリアンを庇いながらでは・・・。圧倒的に不利な戦いだ。
「ジュリアン!木に上ってなさいっ!早く!」カナンは咄嗟に息子を上に押しやった。・・・あくまでも狙いは私一人なのね・・。ここは中庭・・。暫く持ちこたえていれば何とか人が気付いてくれるわ!
「カナンっ!何してるんだ!お前も逃げろ!」敵と刃を交えながらウナスは叫ぶ。しかし、カナンは太股のあたりに仕込んでいた守り刀を手にすると、猛然と相手に切りかかっていった。
「逃げられるわけないわっ!」ウナスは気が気ではなかったが油断してはいられない。すばやく敵を切り殺し、カナンの傍へ向かった。周りを敵が囲む中、夫婦はお互いに背をあずけあった格好となった。二人とも剣を持つ手に汗がにじんでいる。
「馬鹿っ!お前なら逃げれただろうに・・・。」
「無理だったのよ!それにあなた一人を残していけるわけないでしょっ!」息が上がる中二人は短い会話を交わす・・・。
「こ、こしゃくなっ!女の分際でっ!」首謀者らしい男は頭に血が上っているようだ。真っ赤な顔で言い捨てた。
「あら?女の子がみんなおしとやかだとは限らないのよ?」挑戦的なカナンの言葉に首謀者は切りかかってきた。間一髪で第一刀をかわすとカナンは利き腕を思いっきり斬りつけた。ここなら致命傷にはならないけど・・・少なくとももう斬りかかってはこれないだろうと・・・。
「ぐわああああああっ!!」ウナスはもうすでに4、5人を倒していた。残るは・・・・あと4人!もう大丈夫ね・・・。と、カナンが安堵したその時!
「ガキを殺せっ!」首謀者が叫んだ・・・。
「ジュリアンっ!」男は刃を片手に木に上がり始めた。カナンは無我夢中で目の前の暗殺者を斬りつけ、ジュリアンを守るべく走り向かった。男を引きずりおろす・・・。間一髪で間に合った。
「卑怯者っ!この子には指一本触れさせないわ!さあ!来なさい!相手してあげるわっ!」だが・・・カナンはもう疲れ果てていた。武術が出来るとはいえやはり女の身である・・限界に近かった。相手もそれを見破っていた。
「へっ!女のくせによく言うぜ!死んでから後悔するんだなっ!」男はそう言うとカナンに斬りかかって来た。最後の力を振り絞り応戦するも、視界がぼやけ、足元もおぼつかない。その時!カナンは不覚にもつまづいてしまった。一瞬のその隙を敵は見逃さなかった。
・・・・・カナンの腹部に深々と刺さる刃・・・また敵の心臓にもカナンの刃が突き刺さっていた。相打ち・・・である。
「カナ〜ンっっっ!!」首謀者を倒したウナスが駆けつけてきた。遠くから・・・兵士の足音も聞こえる・・・。
「ウ・・ナス・・。だい・・じょぶよ。」顔面蒼白な夫にカナンは言った。
「しゃべるなっ!出血が・・・!」カナンの衣装はみるみる血に染まってゆく・・・。ウナスはすばやく止血するも・・・最悪の事態は充分に考えられた。
「だか・・ら。だいじょ・・・ぶ・だって・・ば。」力なくカナンは笑った。震える手でウナスの頬をなぞった。ウナスはその手をしっかり握り返した。
「おと・・・こが・・・ない・・ちゃ・・だめって・・・いつ・・も・・じゅ・・りあんに・・いってる・の・・あなた・・じゃな・・い。わた・・し・・しなない・・わ。」
騒ぎにやっと気付いた兵士が大勢駆けつけてきた。
「ウナスっ!どうしたんだ?・・・!カナン様っ!」
「侍医殿を今すぐ呼んでくれっ!頼む!早くっ!」ふと、カナンに目をやるとジュリアンを探していた。いつのまにかジュリアンはこちらへ走り寄って来ていたのだ。
「・・・・・・・・!?」カナンの手は空中をうろうろとしている。ジュリアンは目の前にいるというのに!目の焦点があって・・いない!
「カナン・・!お前!目っ!」
「み・・える・・も・・ん。しんぱ・・・い・・しな・・いで。」嘘がばればれだった。駆けつけてきたネゼグにすぐに診察してもらった。
「一刻を争う!すぐに治療しますぞっ!」ウナスとジュリアンは引き離された。全てを・・・ネゼグに託すしか方法は無かった。
・・・・・おおハピよ・・・・なぜ・・この母にこのような・・・・運命を・・お与えになるのか・・・
「ネゼグ殿!カナンは?」治療を終えカナンの部屋から出てきたネゼグにウナスが迫った。・・・5時間にも及ぶ長い間、彼は一睡もしていなかったのだ。目が赤くはれている。
「命の危機は脱しました・・・。」ウナスは安堵した。この手からすり抜けて行ってしまうのではないかと・・・どれほどに案じたか!だが・・・・次に発せられた言葉に・・・耳を疑った。
「ですが・・・目が・・・・。暫くはお見えにならないでしょう。いつごろ完治するかは・・・・めどが立たぬ・・・。」
「え・・・・・っ。目・・・が?」絶句し、呆然としているウナスの肩を励ますように叩きネゼグはその場を立ち去った。ウナスはよろよろとカナンの傍へ歩み寄った。カナンは刻々と眠っていた。時折、苦しそうに顔をゆがませながら・・。自分のせいだ・・・。ウナスは己を激しく責めた。なぜあの時!もっと早く間者に気がつかなかったのだろう!カナンを逃がさなかったのだろう!守れなかったのだろう!剣を持って戦うことが己の生き方であるのに!己のその剣は・・・・愛する人一人満足に守ってやることのできない・・・軟弱な剣・・・。
「くそうっ!!なんでっ!なんでカナンばかり・・・。」人目もはばからず大声でウナスは泣いた。後から後から雫が頬を伝っていった・・・。握り締めた拳に・・・・噛み締めた唇に血がにじんでも・・・気がつかないほどに泣いていた。
「なぜに賊はカナンを狙ったのだ?」
・・・ここは会議の間。今イムホテップとメンフィス、ミヌーエなど多くの者達が協議を行っている。議題はただ一つ。「カナンが暗殺者に狙われる理由」だ。カナンは王妃、キャロルの姪であるとはいえ、メンフィス(現王家)の血は全く引いていないため、王位継承権はない。つまり、カナンを殺したからと言ってエジプトには何ら問題はないのである。以前にもカナンは刺されたことはあったが、その時賊はキャロルを狙っていたと考えられていた。しかし、ウナスの証言により今回だけでなく前回もカナンを狙っての襲撃だったことが明らかになったのだ。
「全く持って不思議にございます。」皆、口をそろえて首をひねるばかり・・・。
「ええい!暗殺者の出身は!?まだ分からぬのかっ!」メンフィスはイライラしていた。その時一人の兵士が調査の結果を報告しに駆けつけてきた。
「王!暗殺者の身元などが分かりましてございまする!」
「おう!待ちかねたぞ!申せっ!」
「はっ!押し入った賊10名の内、9名は下エジプトの神殿の兵士、そして首謀者は・・・・・カナン様の宮殿の守備隊長でございました・・・。」皆が耳を疑った。カナンを狙ったのは他国のものではなかった。しかも・・・下エジプト!目と鼻の先にある場所から!その上首謀者は、カナンを一番に守らなければならないはずの守備隊長!皆がざわめき始めた。
「何と申すっ!それでは・・・カナンを狙ったのは・・姉上か?」
下エジプトには今だアイシスを崇拝するものが数多く潜んでいることは分かっていた。しかし・・・・・・・なぜ姉上がカナンを?狙いはキャロルではなかったのか?メンフィスさえも、アイシスの行動に疑問を感じていた。・・・報告が続けられる。
「首謀者の懐から・・・。書状が出てまいりました。文面は『キャロルの姪、カナンを殺害せよ。あの者を殺せば少なからずキャロルに打撃をあたえることができよう。情けはいらぬ。すぐさま闇に葬るがよい。 下エジプトの女王 アイシス』でございます。」
「何っ!」やはり・・・キャロルにダメージを与えることが目的だったのか・・。しかし・・何の罪もないものを殺めよとは・・。姉上め!許せぬっ!
・・・・・おお・・ナイルよ・・・ハピ神よ・・・哀しみにくれる者に・・怒りにもゆるものに・・・憎しみを抱くものを・・御身の力持て・・救いたまえ・・・・・・・・・
寒い・・・喉が渇いたわ・・・・お腹が痛い・・・。不快な腹痛と焼け付くような喉の渇き・・・。鳴り止まない耳鳴り・・・。カナンはふと目を開けた。いや、開けたつもりだった。しかし、見えるものなど無かった。真っ暗な闇が刻々と続くのみであったのだ。
(どうして?なんで?)力を振り絞って手を上げる・・・。ゆらゆらとその手が空中をさまよった。と、その手を突然つかまれた。心臓が跳ね上がり、思わず身を引いた。
「誰っ!誰なのっ!?」手は離されない。それどころか、ますます力が入っているような気がする・・・。もしかして私、賊に捕まっているのかしら・・とカナンは考えた。
「カナンっ!?目が覚めたのか!?良かった・・・。」
「!!!!!?ウナスっ!」賊などでは無かった。その手は愛しい夫の手だったのだ。だが・・・なんで見えないの?ふに落ちない点があった。そっと目の辺りに触れてみる。柔らかい手触りの布が巻かれているようだった。
「ウナス?これとって。見えないのよ。」自分ではずしたいが、刺された腹部の痛みも目を覚まし始めたようで激痛がこみあげ、冷汗が吹き上げてきた。手も思うように動かせない。とてもじゃないが・・無理である。
「カナン・・・。落ち着けよ。お前の目・・暫くの間見えないらしいんだ。強い光とか・・・いけないらしいからその包帯は取るな・・・。」一つ一つ確かめるようにウナスは伝えた。
「えっっ!嘘っ!」驚きを隠せなかった。見えないの?じゃ、じゃあどうやって生活すればいいの?顔も見えないのに・・・。自分の傷さえもこれじゃあ確認できないわ・・。
「・・・すまんっ。俺のせいでっ・・・お前にこんな傷っ!」ウナスはさらに力をこめてカナンの手を握った。手に温かい雫がかかるのをカナンは感じた。ウナスが泣いているのだと・・・分かった。
「やだ・・気にしないでっ。あれは私を狙った刺客だったのよ。それに・・・このところ・・ちょっと体調も悪かったし・・・。刺されるなんてね、私が不覚だっただけよ。」ウナスが自分を責めないようにカナンは少し笑って見せた。
「目・・・治るんでしょ?」
「あ・・ああ。いつになるかは分からんが・・。」
「そう!治るのね!良かったわ。じゃあ暫くは大人しくしとくわ。もっとも、動くことのほうが難しいでしょうけどね。」ペロッと下を出したカナンを見てウナスは思わず噴出した。さっきまでの重苦しかった気持ちが嘘のように消えていた。二人の愛の絆はより一層深まったのであった。
・・・・その後・・・ウナスはカナンの食事を手伝おうとしたが、盛大に皿をひっくり返しヌウのおかんむりを受けたのは・・また別の話である・・・。
3日後・・・農地の視察に出かけていたメンフィスが帰ってきた。もっとも、視察などと言うのは建て前で本当は下エジプトに残存するアイシス崇拝者の調査についてだったのだが。いきなりカナンの病室に・・・・盛大な怒鳴り声が響き渡った。もちろん声の主はメンフィスである。
「このたわけ者ぉ〜!!!!女子のみでありながら剣など使うでないわっ!それみろっ!このざまではないかっっ!!!」あまりの恐ろしさにカナンは縮こまってしまった。反論する気さえ起こらない。いや・・・・反論など出来ない・・・。絶対に無理だ!
「ごめんなさいぃ。」もうあやまるっきゃない。そう一瞬で判断した。傍に控えていたヌウももう真っ青!血の気が無い!
「二度と護衛はいらぬなどと駄々をこねるなっ!!!思い知ったであろうっ!良いかっわかったなっ!!!」有無を言わせぬ勢い・・・ど迫力である。
「い、痛っう〜!!」腹部に力を入れてしまった。全身に痺れと激痛がはしる。怒られたせいもあってか、ますます痛みが大きくなってくるような気が・・する!
「カナン様っ!?お薬湯を!早くっ」ヌウが手早く他の侍女に言い渡した。すぐさま侍女が薬湯を取りに走った。
「おいっ・・・!いかがいたした?だ、大丈夫か?」体をよじって痛みを訴えるカナンにメンフィスがうろたえた。なすすべもなく、見ていることしか出来ない。ネゼグが薬湯を持った侍女とキャロルと共に現れた。開口一番メンフィスにつげた。
「王!カナン様は絶対安静のみですぞ!怒鳴ったりなさらないでください。お傷にさわりますゆえ・・・。」続いてキャロル・・・。
「メンフィスっ!!!あれほど怒らないようにって言ったじゃないっ!!カナンが可愛そうでしょっ。」メンフィスはもう、自分の非を認めざるを得なかった・・・・。カナンの状態がメンフィスの怒号により悪化したため・・・カナンの協議への参加は明日へと持ち越しになった。
「・・・・・・昨日は大変ご無礼をいたしました・・。叔父様。また心配かけてごめんなさい・・。叔母様・・・。」消え入るような声でカナンは挨拶をした。斜め前にいるメンフィスの気配が気になってしょうがない。いつまた、昨日のように怒鳴られるかと思うと・・・全身を冷や汗がつたうのだった。
「メンフィス。カナンを睨まないで頂戴。カナン、無理して立たなくていいのよ。まだ傷・・・塞がっていないのでしょう?早く座って!」有難い、とカナンは思った。貧血のせいか立っているのも限界の状態だったし・・・なによりメンフィスの視線を自分から遠ざけてくれたのだから・・・。感謝しなくては・・。
「ふんっ!さてカナン・・・。今日の協議にお前を呼んだのは他でもない。お前を襲った賊について耳に入れておきたいことが少々あってな・・。よいか、暫く黙って皆の話を聞いておけ。」
カナンはそれから2時間程身動き一つせず・・・大臣達、ミヌーエ、イムホッテプ、メンフィスの話に耳を傾けていた。そして、ある程度の事情を理解した。そして・・・目の見えない己を賊が狙ってくる可能性があるということも言われはしなかったが・・・悟った。
「己の置かれている状況、また各国の情勢・・私の姉上のことなど・・・。理解できたか?」
「はい。目も見えず、動くこともままならない今・・・。私は命を奪われる可能性が・・・充分にある。だから、護衛の数を増やす。外出は一切禁止。・・・そういうことですね。」
「そうだ。否やは言わせぬぞ。」カナンは正直言うと庭に出るくらいいいじゃないかと反論したかったのだが・・我慢した。ここで反論すればたちまち糾弾されると・・・。頭の良さは父親譲りである。
それから暫くして・・・。カナンは部屋に戻ることを許された。しかし部屋を出ようとすると、キャロルに呼び止められた。
「カナン?大丈夫?真っ青よ!ご飯も一口も食べていないんでしょう?」・・・だってお腹刺されちゃいましたからと気楽にいえるわけが無い。だって彼女の隣にはメンフィスの気配があったから。こんなことをいえばたちまち一喝されるだろうことは予想できていた。
「出血が多かったらしいですから・・。貧血でしょうね。それに今は食欲が無いだけですよ。心配しないで下さい。」なるべく真面目にカナンは言った。・・・しかし目が見えなくともキャロルが困惑した顔をしていることが薄々感じられた。・・・・キャロルは責任を感じていたのだ。アイシスがカナンを狙ったのは、自分にダメージを与えるためだったから・・・。あくまで自分を気遣うカナンに申し訳ないと思う気持ちを持っていたのだ。
「カナン私に出来ることはない?何かしてあげたいのよ。」
「!!!?いいですよ。叔母様!申し訳ないです。」というのは真っ赤な嘘!実は一つだけ頼みたいことがあったのだ。キャロルにしか頼めないことが・・・。だけど・・隣にいるであろうメンフィスが怖くて・・・言える訳が無い!あとで、ヌウに伝言して貰うしかないとカナンは諦めていた。しかし、意外なことにメンフィスはあっさりOKをだした。女子だけでの話もあるであろう、と言って。突然のことで信じられなかったがここは素直に感謝しようとカナンは思った。
・・・・・・・ハピよ・・・この小さな母の・・願いとは・・・何であろうか・・・・御身は知りたもうか・・
「えっ・・・。これって・・・・もしかして?」キャロルに手渡されたカナンからの「願い」それは・・キャロルにとって信じられない物だった。そこには・・一度たりとも忘れたことの無い・・大好きな・・家族の名前が書かれた腕輪があったからだ。水に浸かったせいか皮製の腕輪は少し伸び柔らかくなってはいたが刻まれていた文字を母国の言語を一言一句間違えずにキャロルは読んだ。この世界に来てからはもう二度と目に出来ないだろうとあきらめていた母国の言葉・・・。懐かしさからか母の顔が浮かんできた。涙がうっすら目ににじむ。
「私のお願いはこの腕輪の中に入っている石版を読んでほしいということなんです。英語を読めるのはこの世界では叔母様だけですから・・・。それからパパからの伝言も思い出して・・実はこの腕輪の右の石版は叔母様に宛てたものなのです。パパとおばあさまとロディ叔父様からの・・・。記憶を無くしていたから渡すのが遅くなりました。」
カナンは手でキャロルを探した。メンフィスと違ってキャロルの存在は雲のように掴めない。そのため至近距離にいても気配がほとんどなくどこにいるかわからない。ふらふらと頼りなく空をつかむその腕をキャロルはしっかり握り返した。
「ありがとう・・。嬉しい。兄さんはママは私のこと・・・覚えててくれたのね・・。」