岩手北部から青森にかけての道と、熊本から鹿児島へ抜ける道。南北に大きく離れながら、どちらもややマイナーな地域を取り上げている。
岩手北部から青森というと、南部藩と津軽藩の確執の話が想起されるが、他にも思想家の安藤昌益や、遊歴家の高山彦九郎なども紹介されている。
著者は俯瞰的な物の見方の徹底した人なので、思想家の述べる思想というものが、一つの真実を語るために無数の嘘を構築するという点で、さほど安藤昌益を評価しているわけではないが、農本的共産主義という思想を産み出した陸奥の風土に興味を抱いているようだ。
石川英輔は、金属などと違って農作物である米の囲い込みには限りがあって、江戸期の人口と米の取れ高から計算すると、当時の庶民たちも十分米を食べられたはずであり、当時の農民の生活として世間に流布されている、米を作りながら自分達は米を食えず、生きるか死ぬかの暮らしをしていたとするのは間違いではないかと述べている。なるほどと感心したが、こと八戸などの地方では武士階級が政治を怠り、商人達に農民の搾取を任せたうえ、自分達は彼らの上前をピンはねするという安直な手段をとったため、実際に食うや食わずの農民達が存在したらしい。
今でこそたゆまぬ品種改良の努力によって、東北地方もまた米の一大産地だが、もともと稲は南方産なので、寒冷地での安定した栽培は難しい。人間を大量に養うことのできる稲作の魅力に執りつかれた日本の支配層が稲作を経済の基本におき、その土地々々の環境を考えずに日本一円に農本主義を敷いたがために、そのつけを支払わされたのが八戸地方であると分析している。飢饉のときに、ついには死者の肉を食べて飢えを凌いでいたという事例を、高山彦九郎が今日に残している。
表題以外の一編「河内みち」では、大ヶ塚という南河内の一村に関する17世紀中盤の庄屋の見聞記が、当時のまだまだ荒っぽい村の日常が生き生きと伝わってきて興味深い。
(2012/10/3改訂) |