2001年 9月
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@「三国志」の迷宮  儒教への反抗 有徳の仮面 (1999)
山口久和文春新書歴史薀蓄
190頁660円★★★★

 一般的な三国志のイメージでは、曹操は人間味が少なくて残酷、劉備は人情に溢れて民思いといったところではないだろうか。に同情的に脚色されて一般に流布している「三国志演義」からのイメージである。
 漸くフィクションの世界でも、曹操=悪ではない漫画なども出てきているが、本書も「三国志演義」から距離を置いた解説書である。

 いわゆる桃園の誓いから始まる「三国志(通俗)演義」は、羅貫中によって脚色されたフィクションで、明代の思想である朱子学の影響を大きく受けている。簡単に明代と書いてしまうと判らないかもしれないが、明の建国は1368年。三国志の時代から1000年以上後だ。
 一方正史の三国志(「魏書」「呉書」「蜀書」)は、三国中の勝者であるの次の王朝の役人であった陳寿紀伝体でまとめたもの【注1】で、まったく内容が違うわけだ。
 陳寿の正史にしたところで、どれほど公平に書かれているかは疑問【注2】があって、正史もまた内容の吟味が必要なのであるが、少なくとも「三国志演義」をベースにした読物とは一味違っている。

 三国の前王朝である後漢の後半が乱れた大きな要因である儒教に注目し、法家としてあくまで合理的に、場合によっては残虐な処断を恐れない曹操には、彼が儒教の弊害を小さい頃から見て育ったことに対する反抗を見る。そして劉備には、――わたしにとっても新鮮だったが――彼の人徳に儒教の倫理観が浸透している一般社会に対するパフォーマンスを見る。
 他にも三顧の礼で有名な諸葛亮孔明の実際を検証しようとしている。【注2】

【注1】陳寿の名前を知ってる人は少ないかもしれないが、「魏書」の中に記載されている烏丸鮮卑といった周囲国に混じって、東夷伝も載っている。この東夷伝の中の倭人に関する記述を、日本では「魏志倭人伝」と呼んでいるわけだ。つまり人騒がせな(ロマン溢れるとも言う)邪馬台国論争のベースとなっている文章は、陳寿が撰んだ文である。

【注2】正史でも、蜀に対してはやはり好意的(気を使った記述)と言われているが、諸葛亮への言及は少ない。陳寿が仕えた晋は魏に取って代わった王朝で、その魏が蜀を滅ぼした。そして彼の父親は蜀の役人で、諸葛亮に処罰されたらしい…。こんな陳寿の背景が、やはり正史の記述にも影響しているかも。

(2015/10/14改訂)

A古代エジプト探検史 (1990以前)
J・ベルクテール「知の再発見」双書時代
234頁1400円★★

 ビジュアルの多い探検史で、特に版画などの絵が充実している。それらを眺めているだけでも結構楽しい。
 しかし本文のほうは、訳に問題があるのか原文がまずいのか、妙にぎこちなく面白味のない文章だ。教科書的と言えばよいのか、一般読者向けとしてはイマイチ。
 ロゼッタ・ストーンを解読した事で有名なシャンポリオンを中心とした、ヒエログリフの解読についての章は興味深く読めたが、イギリスとフランス、それに現地人を含んでの盗掘競争については、書きようでもっと面白くなるのではないか。

(2015/10/14改訂)

B秘湯中の秘湯 (1990)
清水義範新潮文庫ユーモア
257頁438円★★

 定期的に著者の洒落っ気に富んだ短編集を読みたくなるのだが、本書はだめだった。全然ダメ。日本語表現の面白さが著者の短編のウリで、その目線と文章の上手さにいつもなら感心してしまうのだが、本書はいかん。

 表題作を含めて11の短編からなっているが、OKを出せるものがひとつもなかった。技術でなんとか短編の形になっているが、もはやこの方向では、彼の泉は枯れてしまったのだろうか。わたしとしては悲しい。

 それならば昔に戻って、ジュブナイルSFを書いてくれないだろうかと思うのは、「エスパー少年抹殺/時空作戦」が好きなわたしの儚い希望。  「魔獣学園3」というのは無理か?

(2015/10/14改訂)

C富豪刑事 (1975〜1977)
筒井康隆新潮文庫推理
253頁438円★★★

 7年前に起こった5億円強奪事件の容疑者は、時効まで3ヶ月を残して4人に絞り込まれていた。しかしそこから先にこれといった決め手がなく、捜査陣には焦りが生じていた。そのとき捜査員の一人神戸大助は、真犯人がボロを出さずにいられない囮作戦を提案する。
 キャデラックを乗り回し、1本8千5百円の葉巻を半分も吸わずに捨て、10万円以上のライターをところ構わず置き忘れ、イギリス仕立ての特注スーツを着て平気で雨の中を歩き回る彼にしかできない作戦とは。…「富豪刑事の囮」

 筒井康隆を読むのはえらく久しぶりだ。もしかすると七瀬三部作を読んで以来かも。
 一方で「エディプスの恋人」のようなそら恐ろしい宇宙を描き、もう一方では怪作「村井長庵」なんぞも書くという、なんとも異能の作家だが、本書は素直なユーモア推理小説といったところ。

 犯人に事件を再現させるために、建物をまるまるコピー建造したうえでダミー会社を作り、財界の大物や一流学者を臨時の経理担当や技術担当にするという「密室の富豪刑事」はなかなか笑えたが、他の3編は評判ほど派手な話ではなかったか。聞いて期待していたほどではなかった。
 あの作者が意外にもフォーマット通りの推理小説を書いたというところに、好意的な評価が集まっているようだが、わたしはユーモアミステリというのはどちらかというと苦手な方で、これくらいの評価しかできない。
 しかしそういった話を気楽に読み飛ばすのが好きな向きにはお薦めだ。

(2015/10/14改訂)

Dブラッド・ミュージック
 Blood Music (1985)
G・ベアハヤカワ文庫SF
405頁760円★★★★★

 バイオチップ開発専門として発足した、ジェネトロン社に契約社員として勤めるウラムは、社内で禁止されているウィルスやバクテリアの遺伝子を組替えを行い、会社を解雇される。
 彼が作ろうとしていたのは、シリコンとたんぱく質でできたバイオチップではなく、細胞に含まれるDNA自体を演算に使おうとする自立型有機コンピューター、言い換えれば知的細胞を作る研究だったが、彼が廃棄を命じられた研究成果――アカゲザルなみの潜在知的能力を持ったリンパ球――を、社外へ持ち出すために自分の体に注射したとき、人類の未来は予想も出来ない方向へと向かってしまうのだった・・・。

 最初ウラムが主人公だと思っていた時は、彼を糾弾するハリスンのほうが旧弊な感がしたが、物語が進むにつれ、解雇くらいの生易しさではまるで足りなかった…。
 知的細胞VS人類というストーリーはかなりありそうだが、なかでも本書は目いっぱいぶっ翔んでる。80年代の「幼年期の終り」という紹介は知っていたのである程度の構えはしていたが、宇宙の組成すら――物理法則も含めて――変わってしまうという大風呂敷だ。

 この既存宇宙の崩壊が、やや危機管理の認識の低い科学者たった一人に依って引き起こされたというのがとてもブラックだ。
 しかし最早現実、非現実とかの定義すら壊れて、意識の不滅、過去の記憶の再構築が可能な思考宇宙は、薄ら寒い感覚を覚える一方、天国と同義であると言ってもいいかも。

(2015/10/14改訂)

E左手に告げるなかれ (1996)
渡辺容子講談社文庫推理
423頁667円★★★★

 スーパーなどで万引き客の補導にあたる保安士の八木薔子は、ある日職場で刑事の来訪を受ける。八木と以前不倫関係にあった木島の妻祐美子が殺されたというのだ。その妻に多額の慰謝料を払い、職をも変えたという過去を持つ彼女は、容疑者の一人に挙げられたのだった。
 それ以来、仕事に熱が入らない彼女は補導の実績が落ち込んでしまうが、それを見かねた指令長の板東は、八木に殺害現場(つまりは不倫相手の自宅)の程近い店への出向を命じる。数年ぶりに再会した木島にも手伝わせながら、八木は木島夫人の生前の生活を洗い始める・・・。

 第42回江戸川乱歩賞受賞作品。
 八木にとっては、慰謝料をふんだくった攻撃的な顔しか知らなかった木島夫人は、敵の多い半面、意外と面倒見の良い面があり、老人ホームのボランティアにも積極的に参加していたことが判る。しかし善意にしろ敵意にしろ、声高に吹聴せねば気がすまない性格が浮かび上がる。聖書の文言になぞらえた本書の題名の第一の意は、この性格を指している。
 そして本書の重要なポイントは大型スーパーVSコンビニ。この小売業界の裏側の対立事情のもと、コンビニのアドバイザーたちが不審な連続死を遂げており、木島祐美子殺しの背景にも存在するらしい。大型スーパー「ミギワヤ」と、そこから派生し親をも凌ぐ大手コンビニとなった「ディン・ドン」の対立もまた本題名を想起させる。

 しかし、巧いなぁと思う反面、どうにも八木の一人称が肌にあわなかった。彼女は自立しているとはいえ、昔の不倫相手の木島を忘れられない弱さを持っている。この弱さと、時に気障ったらしいハードボイルドタッチの文体とは今一つマッチングが悪い。

 余談だが、先日本作のドラマの再放送が放映されていたので、ついつい見てしまった。
 八木薔子を天海祐希が演じていて、これは人選として悪くはないのだが、彼女はNHKで「凍える牙」の音道も演じていた。他に選択肢はないものか・・・。
 一見原作に忠実のようでかなり端折っていたし、なによりラストも180度変わっていた。

(2015/10/14改訂)

Fシャーロック・ホームズのクロニクル
 The Secret Chronicles of Sherlock Holmes (1992)
J・トムスン角川文庫探偵
318頁580円★★★

(1)パラドールの部屋
 ディアーズウッド侯爵と交際を始めたばかりのラッセル嬢は、侯爵の後見人である叔父から、彼がボート事故で死んだことを伝えられる。しかしある夜、彼女は侯爵家の敷地内に男二人に挟まれた彼を見かける。謀略を感じた彼女はホームズを訪ねるが・・・。

(2)ハマースミスの怪人
 ホームズとワトスンが訪れた劇場で、看板の歌姫が殺された。絶えず誰かの目があった殺害現場の楽屋から、犯人はどう消えたのか・・・。

(3)メイプルステッドのマグパイ
 ホームズが逮捕した美術品強盗の背後には、黒幕の存在が・・・。
 マグパイと名付けた黒幕にホームズがわなを仕掛ける。

(4)ハーレー街の医師
 奇妙な依頼で往診した医者は、その家でナルコレプシーだという女性を診療するが、後日何らかの犯罪を懸念しホームズを訪ねる。ホームズとワトスンは窓拭き職人に変装して…。

(5)ロシアの貴婦人
 若き日のホームズが、ロシアのスパイが起こしたと思しき殺人事件を潜入捜査で炙り出す…。

(6)キャンバウェルの毒殺事件
 警察を振り切ってホームズの下に逃げ込んできた青年の冤罪を晴らす。

(7)スマトラの大鼠
 テリア犬ほどもある巨大な鼠の群れをロンドンの下水道に流すとの脅迫状を、英国政府に突きつけたパイド・パイパーとホームズの対決。

 いずれもコナン・ドイルの原作中に断片的なコメントがあった事件を、パロディに走らず真面目に小説化した、正調贋作シリーズ第2弾。再読である。

 贋作というと一段下げて考えてしまいがちだが、ドイルの原作に混ぜ込んでも十分に耐え得る作品揃い。ホームズマニアならではの多数の注釈も楽しい。
 特に哀感漂う「メイプルステッドのマグパイ」がお薦め。

(2015/10/14改訂)

G語っておきたい古代史 (2001)
森浩一新潮文庫歴史薀蓄
230頁438円★★★

H次元がいっぱい アシモフの科学エッセイ8
 Adding a Dimension (1964)
I・アシモフ角川文庫科学薀蓄
327頁544円★★★★

 まあわたしが産まれる前に書かれた本だから、当然ながら最先端のトピックではないのだが、高校で習ったような物理や化学の無味乾燥な定理も、著者が先人の悪戦苦闘と時に悲喜劇に満ちた業績として語ると、途端に生き生きとした読物になる。
 正直言って、個人的にはメジャーな彼のSF小説よりも面白いとさえ思う。いつもながら感心だ。

 今回も数学、物理学、化学、生物学、天文学と章分かれしており、それぞれの分野がまた幾つかのトピックに分かれている。
 数学ジャンルでは、巨大な数の簡便な表記法や簡単な二進数変換の話には、特に興をそそられなかったが、続くπの話は面白かった。
 シャンクスという学者は、πの桁を15年もかけて707位まで計算したが、76年後の1949年、大型コンピューターENIACにあっさりと記録を抜かれたばかりか、500位付近で間違いがあったことも判った…。【注3】
 これなどは悲劇であり、申し訳ないが喜劇でもあるだろう。
 またシャンクスより3世紀も昔には、すでに三桁の分数比であらわされる近似値が登場していたことにも吃驚。

355/113はなんと3.141592まで合っている!


 一時期、ゆとり教育の日本では、学校で教えるπの近似値が“3”になったとかの噂を聞いたことがあったが、現在はどうなのだろうか。3.14であってほしい…。【注4】【注5】

 他の物理学分野ネタでは、古典的SF(スペオペと言うほうがよいか)では欠かせないエーテルについてが面白かったかな。
 化学ネタでは、物を燃焼させる“燃素”から水素、酸素の発見。そしてそれに関わる3人の学者の物語。
 生物学ネタでは、エンドウマメの交配から遺伝学の基礎を作ったメンデルの事績。
 メンデルの本職が修道士で、彼の業績は生前には全く評価されずにこてんぱんに貶され、死後も長い間埋もれたままだったということは初耳だった。彼の死から16年後、同じ遺伝の法則を別々に発見した学者3人が、埋もれたメンデルの論文を再発見したうえで、自分たちの功績を放棄して無名の修道僧を称えたのは素晴らしい出来事だ。
 ラストを飾る“アイザック賞受賞者発表”はご愛嬌。

【注3】2014年現在、小数点以下13.3兆桁まで計算されているとのこと。

【注4】便宜的というにも、あまりに誤差が大きすぎだろう。ちなみに技術立国日本として付け加えるならば、はやぶさのミッションで使用した円周率の桁は16桁らしい。3.14では誤差が15万キロ…。

【注5】暗唱での世界記録保持者も日本人で、原口さんという人らしい。16時間30分かけて10万桁の暗唱に成功。…この無駄、とてもステキです。

(2015/10/19改訂)

I三国志 英雄妖異伝 (2001)
坂口和澄青春文庫歴史/時代
235頁514円★★★

 後漢後半から分裂時代を含んでの時代まで、さまざまな文献に残った多くの伝奇的な話を集めている。そのほとんどが初めて耳にする人物の話…。

 それはそれで興味深かったりもするし、確かに三国志の時代をまるまる含んでいるのだが、この内容に赤文字で“三国志”と題するのは小ずるいと思う。

(2015/10/14改訂)

Jホログラム街の女
 Dydeetown World (1989)
F・P・ウィルスンハヤカワ文庫SF
312頁660円★★★★

 限定された環境ではクローン人間が認められ、厳格に出産制限された近未来の地球。
 私立探偵シグ・ドライアーは、ある日ジーン・ハーロー=Cというクローンの訪問を受ける。自分を真民として、外宇宙へ連れて行ってくれる約束をした男が行方不明になったので、探してほしいと言うのだ。そんなことはありえないこと。彼女がその男から渡されたグリーンカードは偽造に決まっている。カードリーダーに通した瞬間に彼女が誰かの持ち物であることがばれるだろう。
 そう思いながらも報酬につられたドライアーは調査を開始するが、たちまち暗黒街の親玉にジーンともども拉致されることに・・・。

 これが第一部の始まりで、まぁありがちなSFハードボイルドという印象だったが、二部、三部と進むにつれ、ドライアーは未公認ゆえ存在すらしないとされている、落とし子問題にどっぷりとはまり込むことになる。
 「聖母の日」を読んだときは、つまらなさに眩暈に襲われたが、さすがはF・P・ウィルスン。本作はなかなか面白かった。

 軽快なストーリーを脇から支えているのは、様々な小道具的設定。クローンの娼街になっているダイディータウンがもとは国連ビルであったり、暗黒街の親玉宅の庭にはクローンのティラノサウルスが“番犬”として放されていたり、細かな部分が楽しい。
 第二部冒頭の単分子チェーンによる災難は、全体を通じての白眉である。

 それにしても、陳腐な邦題と美容院の宣伝チラシのような表紙はなんとかならないものか。

(2015/11/2改訂)

K不安な産声 (1989)
土屋隆夫光文社文庫推理
391頁619円★★★

 人工授精の研究で高名な医学者の久保伸也が、ある女性の扼殺犯として捕まった。他人の賞賛と畏敬の眼差しで見られることに慣れ、権威の道をまっしぐらに突き進んできた久保はなぜ殺人まで犯したのか。彼は劣情に支配された卑劣な犯行であると自ら主張するが、その裏には自らを殺人犯として葬っても守らねばならない過去があった。しかし彼は、担当検事である千草に全てを打ち明ける決意をし、長い手記を書き始める・・・。

 途中で一部三人称にもなるが、ほとんどが久保伸也の一人称手記により、自分の犯罪に至った行跡を辿っている。
 しかし何というか、オチに関わるから詳しくは書けないが、途中で犯行理由にもおおかた見当がつくし、結局のところ、彼本人の倫理観の問題に収斂される。なんとも腰の座りの悪い印象を受けた。

 社会的にも影響力のある高名な医者が起こした卑劣な殺人事件。
 肉親を始め近隣関係者が受けた衝撃を思えば、彼の頑固な態度はほとんど意味がないのでは?

 これだけ見事に自分の心中を手記で説明できるなら、ぜひとも犯行の前に関係者へ読ませて欲しかった。さぞましな展開になったろうに。

(2015/11/2改訂)

L五分後の世界 (1994)
村上龍幻冬舎文庫冒険
293頁533円★★★★

 違法すれすれに詐欺、恐喝など、殺人と強姦以外の悪事を重ね、不況の煽りでピンク映画の会社が倒産してからは、他人名義の不動産でなんとか凌いでいた小田切は、ジョギング中に、何の脈絡もなく、異様な集団とともにぬかるみの中を延々と歩いていることに気付く。死んだのか、夢なのか、思考が追いつくよりも早く、前を歩いていた男が日本語とも思えない言葉で何かを言い、歩くのをやめたとき、どこからともなく現れた男は、小田切が言葉も忘れるほどの滑らかさで、男を殴り、小銃を構え、そして行進が動きだすと消え去った。その圧倒的な印象を小田切に与えた男は、兵隊の姿をしていた。…。

 小田切が紛れ込んだ世界では、太平洋戦争で徹底抗戦を続けた日本人は激減、国土は大国に分断進駐され、僅かな“純”日本人は地下にゲリラ国家を継続させていた。
 大東亜戦争からの位相のずれた日本世界で、質素ながら凛とした美意識を持ち続けている地下の日本人と接するにつれ、小田切は彼らに一種の尊敬の念を抱くようになるが、それら現代社会へのアンチテーゼをどう捉えるかは難しいところ。

 しかし、前半アンダーグラウンドへたどり着くまでに小田切が味わう圧倒的な不条理感と渇いた戦闘描写は、ぜひ一読してみるといいだろう。

(2015/11/2改訂)

M傑作ミステリーベスト10 (2001)
20世紀総集完全保存版
週刊文春編文春文庫PLUSミステリ薀蓄
595頁914円★★★

 「週刊文春」では、その年のミステリー作品のベスト10を決めるのが、年末の恒例らしい。
 本書はそれらを1977年からの24年分――83年からは国内、海外に分けて――掲載している。  できるだけ多くのジャンルを読みたいわたしは、まぁそれだけ多くハズレ作品を引き当ててしまったりするのだが、せめて推理小説くらいは確実なところを狙いたい…。
 そんなわたしには、本書のような本はありがたい。これまでわたしの視野に入ってこなかった名作も浚えるだろうと期待だ。

 しかしまぁあまりに幅広すぎる取り合わせ。
 冒険、謀略といったスパイものやホラーまで、例えばスティーブン・キング「IT」なども“ミステリー”に含まれるらしく、1991年度の海外部門3位にランクインしている。いくらなんでも・・・。【注6】

 “ミステリー”の範疇の広さは別にしても、選考委員たちの感性は残念ながらわたしとは随分異なっていて、先に読んだ「不安な産声」は1989年度国内部門の1位である。
 同年4位の「奇想、天を動かす」、7位の「クラインの壷」より上だということはないと思うのだが。

 それでも本書をもとにbk1アマゾンを渉猟して10冊ほどを買い込んだが、かなりの本が現在入手不可だった。悲しい。

【注6】この13年後に読んだこちらではこんなことを書いている。

(2015/10/14改訂)

N二の悲劇 (1994)
法月綸太郎光文社文庫探偵
422頁619円★★★

 マンションでOLが絞殺された。殺された後に顔面をガスレンジで焼かれるというこの凄惨な事件、被害者と同居していた幼馴染の女が失踪しており、この女が捕まれば終わりの単純なものと思われた。
 しかしこの事件を法月警視が綸太郎の誕生日に持ち出し、綸太郎はこの事件に興味を引かれることになる。被害者を発見したのは彼女の会社の同僚で、失踪中の同居人の婚約者。愛憎のもつれからの怨恨の可能性も。いや、顔を焼いた裏には入れ替わりの作為がある可能性が浮上する。  そして殺された清原奈津美には京都に男の影が見え始め、舞台は東京から京都へ。単純そうに見えた事件は意外な展開が…。

 視点人物はその京都の男である。
 物語はオフビートに始まり、互いの小心さから起こった些細なすれ違いが大きな悲劇へと発展してしまう。端っから明るい話でないことは判っているが、そこにどれだけ捻りの効いたプロットを用意してくれているのか。  期待のハードルが高すぎたかもしれないが、うーむ、まあこんなものか。

 “それ”を導入する事で、きっかけとなった誤解の出所を上手く説明しているが、人によると陳腐なオチと暴れてしまうかもしれない。意外にわたしは腹は立たなかった。こういった話好きなのだろうか?

 法月綸太郎が説教垂れるのは余分である。

(2015/11/2改訂)

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