フリードリヒ・ヘルダーリンの手記 〜或る隠者の告白
わたしは人生の後半全てを、偽りの中で生きてきた。そしてそのまま、偽りの中で死を迎えるだろう。自ら選んでわたしはその偽りの中にいままで隠遁していた。しかし、せめて死後の時代に向けてだけは、真実を伝えずにはおれない。だからわたしは、この手記を書き遺しておくことにした。
そして筆を執った時、「手記とはいったい何か」という疑問がふと湧いてきた。 その疑問を心の中で反芻してみた。自分自身でそんなものを書き遺しておこうと思ったとき初めて、「手記」なるものの定義を考えたというわけだ。
日記でもない、手紙でもない。むろん論文や小説でもない。ここで「手記」というものの定義を試みるとすれば、それはわたしがなぜそれを書き遺そうとするのか、その背景の説明をするということになるだろう。今のところその背景なるものを理解しているのは私だけであり、その私が、これから紡がれていくであろう文章に「手記」という言葉をあてがったのだから。だが説明と言っても、一言ですむだろう。
孤独。その土台の上に「手記」は成り立つ。
その文書の行き着く先、つまり読み手や目的が定まっていれば、それは手紙なり論文なり小説なりという性質を自ずと持つことになるはずなのだ。
「手記」。それは書き手の手元に残るより他に、当面の行き先のないもの。あるいは封をしたままどこか離れたところへあずけてしまうようなもの。それが、書き手の意図しなかったような経緯を経て、たまたま目にして興味を持った人物などの手によって日の目を見ることになる、そんなことでも起こらなければ永久に埋もれたままで終わることになる。そんなものを「手記」と呼ぶのではないか。
何かを心の中に背負い込んだ時、そして誰にも伝えることができないと思った時。そして幸いにも「書く」わざを多少でも持っている時、人はやはりそれを文字にして行き先のない「手記」を紡ぎだし、ひそかにしまいこんでおくのではないだろうか。人は皆一つの個である。一人の人間であるということはなんと小さく弱いことなのだろうか。
だが、その小さく弱い個には、それを取り巻く世界全体の様相が映りこんでいるはずだ。葉の露一滴に青い天蓋がみな映りこむように。露が落ちてはじければ青い天もはじけて消える。だが人はその天の青さを書き遺してから落ちるのだ。
手記とは闘いの記録なのではないだろうか。しかも、必ずやそれは敗北を書き遺すことになる。人がどうしたとて、個は世界には勝利しない。露が天まで昇るには、落ちてはじけて、それから蒸発してしまうよりほかはないのだ。
だが、人は皆個だといっても、万人がそういう闘いを行なって手記を書き遺すものではない。個として孤独を背負うべきか否かの運命は、そして手記を書き遺すべきか否かの運命は、やはり解らぬうちに決まってしまっているものらしい。
死。「手記」というものを定義するものが「孤独」だとするなら、その孤独の輪郭を際立たせるものが「死」だろう。自分という存在がなくなった後の世界にのみ、せめて自分の精神のひとかけらを遺しておきたい。それが、手記を遺そうとする孤独の姿ではないか。
死への意識というものが人間の尊厳を成り立たせる、と、そんなやや傲慢な定義をするなら、「手記」を遺すというのは、死すべき定めの人間にとってもっとも大事な使命であるとすらわたしには思える。言葉とはそのためにこそあるのではないか。そのために人間は言葉を学んでヒトから人間になる。「終わりにはことばがあった」ということなのだ。
「神は死んだ」という言葉がある。ならば神は手記を遺したか。そうだとするなら神の手記というものを目にしてみたいものだが、そのようなものがあるとは聞いたことがない。それは、神が人間ではないからか。あるいは、まだ死んではいないからか。
さて、いよいよここから、わたしの手記の主な内容を始めねばならない。先に、人生の後半全てを偽りの中に生きたとわたしは書いたが、しかしある意味では、それは後半だけではないかもしれない。常識的な順序をたどるならば、わたしの人生の歩み始めから語るべきだろうが、まず今のわたしの「偽り」の在り方について書いた方がよかろうと思う。なぜその偽りを作り出す必要があったのか、それをこそ説明しなければならないのがこの手記の持つ意味であろうからだ。
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