聖書解釈論 〈裏目読みのテーマ〉― 旧約聖書
1. 〈契約〉―その1
序 〈表読み〉という述語はなかろうが、旧約聖書を表読みすればその大主題は聖典結集者たちが考えたように〈律法〉と〈預言者〉と〈諸書〉の三主題になり、律法はイスラエルの〈宗教的法律〉で、預言者はイスラエルの預言者たちの〈信仰と思想〉、また諸書はイスラエルの文学を意味し、その内容は〈知恵(文学)〉と言えよう.これを更に詳説すれば、律法はその原因である〈契約〉、預言者は思想の内容としての〈終末論〉、文学はその本質的様式としての〈知恵〉ということになろう.ここではこの表(目)読みに対して〈裏(目)読み〉と言ったまでのことである.
まず〈契約〉であるが、これは〈契約思想〉などと言うよりは社会的(民族的)慣習(Sitte)としての生活様式と考えた方がよい.というのはイスラエル民族の思考様式は思想とか哲学というギリシャ流の本質からは遠い歴史的な生活慣習の積み重ね方式だったからである.
イスラエル民族の歴史学的に確実なアプローチ可能な時代は部族時代の士師時代からであることは言うまでもないが、考古学と伝承史の初期は族長時代にまで遡ることができるであろう.族長アブラハム(イサク)、ヤコブの時代はメソポタミヤのハムラビ王の時代に近く、アラビアの砂漠の遊牧民(牧羊民)の生活様式の中からカナン、後のパレスチナ、シリアの沃地にその姿を現すことになるのが族長たちであったと彼らの部族伝承が伝えている.この族長たちの神信仰が優れて個性的な神との人格関係の形成によって成立していたものと推論されるのである.「カツィウの神」とか「タイミの幸福」というアラム人の碑文は「アブラハムの神」「イサクの畏れ」「ヤコブの強き者」との著しい類似から族長たちの存在のみならず族長たちの神信仰の実在を示す証拠として考えられるのではなかろうか.
族長の神はいわゆる〈守護神〉の範疇に入るがその属性は〈自然神〉ではなくて〈人格神〉であったと考えるべきで、この神と信仰者の間にただ〈神秘的〉で〈主観的な思い込み〉の信仰心理が成立していたのではなく一種の〈契約〉つまり〈約束〉の関係が形成されていたと仮定できるとすれば、これこそが後のイスラエルの神信仰の特質、つまり本質であったと言い得よう.〈約束〉は双方によって保持されなければならないから一方からの契約破棄が生起すればその関係は御破算になる.イスラエルの信仰は実にこの〈契約関係〉の相手方である守護神に対する〈信頼〉であったのである.
09/10/8
2. 〈契約〉―その2
現実の歴史的慣習はもとより、〈理念としての契約〉も古代イスラエルの書物である聖書における最重要主題である.契約行為の社会的慣習自体は族長時代にまで遡ることは考古学的にある程度実証されているとしてもこの〈理念〉がどのように継承発展したかを論証する手続きはそれほど簡単なものではない.歴史的にはヨシュアによるシケムの氏族連合契約(ヨシュア記24章)以後ということになろうが、ヤーウィスト(エロヒストも)はアブラハム(創世記15章)にもモーセ(出エジプト記24章)にも遡源しようとしているとも考えられようが、イスラエルにとっては歴史的に証明できなくてもよく知られた法習慣であった可能性はある.これは人と人の間、また部族間の契約や同盟の関係のみならず神と人、守護神と部族との宗教的祭儀的慣習としても遊牧民の間で知られていた生活様式であったと考えられる.その上この理念が〈神と人〉〈神と部族〉〈部族と部族〉の関係を強固にして砂漠における遊牧民の生活を安定させる役割を果していたと推論することには無理はなかろう.
契約行為は社会的歴史的行為であるから経済学的に社会学的にある程度説明できようが、ここに一貫して流れる契約形成理念も見出されて、これが人格関係形成理念であるとすればこの理念が後代に思想の形をとることも予想される.あるいはその原意識が宗教的な信念(信仰)であったとすれば、この由来が問われねばなるまい.
とにかくイスラエル民族の理念的な出発点は族長時代であったことは伝承史の認めるところである.創世記15章が歴史的事実の報告ではないことは明白であるが人格関係形成理念の伝承には後代の再確認であったとしてもダビデ王朝の歴史において活発に生き返る信仰理念であったことは事実である.後代に特徴的な精神現象であったことは事実であるがその特質がその時代に突然現出したと考えるよりはこれには歴史的経験の伝承(統)があると考える方が無理がない.この理論を更に進めればアブラハム以前の伝承も問題になり得るが、これには歴史学的な処理手続きの方に無理がある.つまり歴史的資料が不足しているのである.
ソロモン王朝の残照期に原サムエル記やヤーウィスト(含エロヒスト)が見事にその記録をヘブル語散文で遺していることは特記するに値しよう.ここからイスラエルの特質を論じ始めるのが最良の方法である.
09/10/9
3. イスラエル民族の契約理念
民(神)話時代は除外して、歴史時代以前の部族伝承時代から典型的な部分を見てみると、まず父祖アブラハム(創世記15章)、モーセ(出エジプト3章)、サムエル(サムエル記上3章)、エリヤ(列王紀上19章)に対するヤーウェ(神)が契約を結ぶ件が語られている.いずれの場合もいくらか神秘的で古代宗教の表現様式によって記述されているが、それでもエリヤのケースは自然現象の後に「静かな細い声が聞えた」(列王紀下19:12)と記されていて、この部分の著者が〈言葉〉を通して預言者に告げる神ヤーウェを描いている.後の記述預言者の時代になると彼らは自ら「万軍の主は言われる」、「主の言葉を聞け」(イザヤ)、「主の言葉がわたしに臨む」、「主は言われる」(エレミヤ)、「主なる神はこう言われる」(エゼキエル、ホセア、アモス‐‐‐)という具合で、イスラエルの神は預言者には自然の異象でも天使でもなく専ら彼の〈言葉〉によって彼の意志を告げる、と認識されている.
逆を言えば神の意志は人間の言葉によって人間に認識される、ということになる.契約であれ律法(戒め)であれ神は人間の言葉を通してその内容を告知するのである.
イスラエルの神ヤーウェは自然を通してではなく、人の言葉を通して人格関係を結ぶ、という定言が確認されていることになるとすれば,〈契約〉による神?人関係は〈言葉による人格関係〉であって、これ以外の諸現象は排除されることになろう.
しかしこの神?人関係が歴史上のいつどこで始り、何故にイスラエルの王国時代の崩壊期に強烈に確認されたのかということは立証できないであろうから、これはイスラエル民族の特に預言者と呼ばれる知識層によって一方的に主観的に経験・認識されたのであろうと推論する他はあるまい.>
こうなると、問題はイスラエル民族の経験が人類の生存にとってどこまで貴重であるかということにかかっている.単に文学や音楽のケースであれば主観的に(趣味上)いずれが高級であるかどうかという判断で済むところであるが、宗教や倫理の事柄であればいずれが真理か、正義かという観点が問題になろう.しかしどの宗派であれ自己の絶対性を主張することでは争いが激しくなるだけであるから諸宗教間、諸思想間の対話を忍耐強く継続する以外の方法はない.
さてそこでイスラエルの場合その思想の特質は人格関係形成論に示されていたことになるとすればその人格関係とはいかなる性格と特質を持っているのかが問われねばなるまい.
>09/10/10
4. 新しい契約
古い契約はシナイの石の板に記された契約(出エジプト記24章、34章)であったが新しい契約は人の心に記される契約であった(エレミヤ書31章).この思想はホセア(2章)にもエゼキエル(37章)にも、イザヤにも認められる.「心に記される」とは〈心で知る〉という意味である.
〈古い契約〉が祭儀行為や律法の言葉によって民一般に公示されているのに対して、〈新しい契約〉が個々人の心、実は知性によって認識される、という具合に説明、あるいは定義した方が更に明確になろう.この前提には古い契約が〈シケムの契約〉か、これを理論的に遡源した〈シナイの契約〉が民全体に対応しているのに対して〈新しい契約〉では、イスラエルの民がすでに〈古い契約に違反してこれを破った〉という事実が確認されている.
エレミヤの時代はイスラエル王国(ユダ)がすでにヤーウェとイスラエルの間に結ばれた契約を破り、王国は滅亡してしまったという歴史が前提になっているから〈新しい契約〉は崩壊した古い国家の法律ではなくて、まったく新しい〈ヤーウェとイスラエルの神?人関係〉として形成・樹立されなければならないと考えられていることになる.しかもここで石に代って〈心〉が登場していることは人間が内面化され精神化されていることを意味する.この内面化、あるいは精神化現象は一種の近代化であり、世界化、または普遍化、つまりグローバリゼーションでもあると考えられる.〈石の板〉という部族、または民族、あるいは一つの国家に限定された法律的契約ではなくて中世から全世界、つまり全人類的広がりを持つ視野において神?人関係が捉えられようとしているとも言えよう.ここでの〈心〉は現代人の言う単なる〈心理学〉上の現象を指しているのではない.
古い時代にヤーウェと族長たちとの間の〈契約関係〉であったイスラエルの宗教現象は世界の創造神と被造者である人間との間の〈人格関係〉として認識されるのであるが、その関係の本質にはいささかの変質もないと考えるべきであろう.この人格関係こそがイスラエルの宗教(信仰)の特質(本質)であったとすれば、この関係が中世を越えて近代、つまり現代にも通用するのか、また生き続けているのかが次に問われねばなるまい.
09/10/11
5. 旧約聖書の人間関係論
旧約聖書には〈人間関係論〉としての理念や概念があるわけではない.ただ構造論として契約・律法の歴史が語られているに過ぎない.そこでこの〈裏読み〉方式で糸目を探るなら、ホセア書とエレミヤ書に顕著に〈神と人と関係の心理〉が表現し始めている.イザヤ書では〈知性論〉や〈意志論〉の構造で語られている思想や理念が〈心理や感情〉の領域で表現されるようになったと言えようか.
ホセア書では2章(14─20)、11章(1─4)が見事で、「わたしはイスラエルの幼い時、これを愛した.‐‐‐わたしはエフライムに歩むことを教え、彼らをわたしの腕にいだいた」と表現している.エレミヤはホセアの理念を継承し、更にヤーウェの力の対象である自己の苦痛を心理的に主観的に語っている(20章)しかし、これは神─人関係における主観性であって単純で孤独な主観主義ではない(日本の近代人の場合漱石の場合でさえ自分勝手な主観性の表白に過ぎない).
イザヤ書の系統は客観主義的叙述であると言えよう.〈ヨブ記〉になると神─人関係論は思想的に深みを増すが、〈雅歌〉はアラビア文学的美学に通じる関係論の心理を詳述している.
しかしこの人格関係はイスラエルの滅亡期になって初めて出現したわけではない.サムエル記にはダビデの盟友ヨナタンの死を悼む哀歌(弓の歌)において「わが兄弟ヨナタンよ、君のために私は悲しむ.君は私にとっていとも楽しいものであった.君が私を愛するのは世の常のようではなく、女の愛にまさっていた」(サムエル下1:26)といって驚嘆すべきヘブル文学の珠玉と言わざるを得ない表現に達している.
契約関係論はイスラエル思想の単なる構造や形式に過ぎない様式ではなくてその内実がイスラエルの思想家(信仰者)によって自覚され、知覚され表白されていたことを認めるべきであろう.ここにイスラエルの宗教(信仰)の本質が明示されていると考えてよかろう.
09/10/12
6. 旧約聖書におけるイスラエル史の大構造
まことに大雑把なイスラエル史の構造になるが、その網目が粗いからと言って粗雑なつもりはない.
創世記は11章までが〈原初史〉で12章以下が〈族長時代〉(史)である.出エジプト記は文字通りヤコブの子孫であるヨセフ族のエジプト脱出物語でレビ記民数記もこの中に含まれる.ヨシュア記は〈カナン侵入と部族結合の歴史〉で士師記が〈部族時代〉でルツ記も時代としては前王国時代としてこの部族時代に相当する.サムエル記は〈王国形成史〉で特にダビデ時代においてイスラエル史は絶頂期に到達す.列王紀はソロモン時代〈南北分裂王国時代〉の歴史になる.この後半はエリヤの登場と共に記述前預言者の時代を含んでいる.この後は大小預言者の時代を経てイスラエルの王国史は歴代志によってその滅亡の歴史が報告されている.
北イスラエル王国はアッシリアによって前721年に、南ユダ王国は前587年に新バビロニアによって滅ぼされてイスラエルは終了する.
この後は捕囚時代として国家としての形態を失うが南ユダの指導者層はエルサレム帰還が許されて民族としての一応の回復を見ることになるが、これ以後は属国としての運命を生きることになるのである.ペルシャ、ギリシャ、ローマが彼らの支配帝国である.
以上がイスラエル民族およびイスラエル・ユダ王国の興亡史であるが、旧約聖書の著者たちはこの民族国家史を単なる〈歴史〉として記述したわけではなく、彼らの神ヤーウェとイスラエルの民族の〈関係史〉として経験し、認識し、記述したのである.
問題は〈原初史〉はもちろん論外であるが歴史時代に入ったところでもその歴史を記述する著者たちは当の歴史から数世紀後に自己の解釈で歴史物語を構成(作成)していることにある.
09/10/13
7. 旧約聖書の各時代史のテーマ
これも簡略に記せば、〈原初史〉は〈人間の創造と彼らの楽園追放〉である.次の〈族長史〉は族長たちの〈流浪の旅路とヤコブの子孫のエジプト逗留〉である.族長時代と部族割拠(または連合)時代の間に〈出エジプトとシナイ契約〉という事件が挿入されている.部族時代(士師時代)はイスラエルのカナン化現象に対する闘争史で王国時代は〈ダビデ─ソロモン時代の栄光と失敗〉でここから〈預言者活動と預言書の作成結果〉が記録される.
旧約聖書を部分的に取り上げれば上述のようなことになろう.しかしこれを更に大きなスケールで推し測れば〈出エジプトとシナイ契約〉という祭儀色の強いテーマを除くとイスラエルは繰り返し反復して〈楽園追放〉を経験させられているように見える.この〈失楽園物語〉が果して著者たちの意図したテーマなのかはたまた意図せずに実現した歴史的主題であったのかが問われてもよさそうである.
〈原初史〉を書いたヤーウィストがアダムとエヴァの〈楽園追放〉を人間の原罪の運命的意図として彼の思考と推論の限りを尽くして作成したとすれば人間はヤーウェの再三の保護と誘導にもかかわらず、結果として自己の責任から失敗の行動に走って最初に与えられた場所(土地)から追放されて、最後にバベルの塔から世界中に散らされることになる.
現実のイスラエル史も与えられたカナンの土地に建設した王国から追い出されて遂に地上での自治権を剥奪される.
ヤーウィスト(たち)が現サムエル記の著者たちとイスラエル史上最初のヘブル語の文章を書き始めた時にはイスラエル王国は翳りを見せていて鋭敏な思想家であったら当然これに気付いていたはずである.仮にこれらの文書記者たちがイスラエルの弱体化に気付いていなかったとすれば、後の預言者群の輩出現象は説明できないであろう.
絶頂期に向かう民族や国家から優れた思想や哲学は生まれない.世界のいずれの地域の思想史も衰退期から崩壊期に向う時に良質の思想や哲学が発達することを示している.インドも中国もギリシャも同断で、これに先行しているイスラエルにおいても経緯はまったく同じである.思想や哲学は反省期に誕生すると考えてよかろう.
ダビデ王朝史を書いた原サムエル記の名文記者も驚嘆に値するヤーウィストの珠玉の歴史哲学もやがて厳しい時代を迎えようとしているイスラエルの宗教(信仰)と民族の生命を憂慮していたように見えるのはこちらの目が曇っているのであろうか.
09/10/13
8. 旧約聖書文学におけるヤーウィストの位置
旧約聖書を文学的作品としてみ見ていく時、その最高地点は最初期の作品であるヤーウィスト(一般にヤハウィストと記されているがヤーウィストの方がよい)の筆になる部分とあるいは後期のヨブ記であるかもしれない.
全文書中最初期の作品がすでに最高の傑作であったという批評は一見奇妙に思えるがおそらくこの判断に誤りはあるまい.ヨブ記はその思想の深さにおいてイスラエル文学のクライマックスを形成したと人々は言うであろうがヤーウィストの文学的質の高さは生半可なものではない.それは旧約聖書の他のどの文書と比べてもいささかも引けをとるものではない.
最初期に文学史上の最高傑作が現れたというのは偶然のことではない.イスラエルはヤーウィスト以前にすでにいくつもの祭儀文書や契約律法文書を各聖所の聖所伝説として保持していたに違いないがソロモンの王宮の知的な文化活動(ルネサンス的)においてダビデ王朝の成立史とイスラエル上古の歴史文学作品としてのヤーウィストの文書を生み出していたのである.この作品はダビデ─ソロモンの王朝文化なしには到底制作不可能であったことは明白でこの場合カナンやエジプトの先行文学の影響のもとで見事に花咲いてその作品の質の高さにおいて、その人間性の深さにおいて他の地域の優秀な文学と比較しても優るとも決して劣らない内容の作品を書き遺した事実は特筆に値する.これは身贔屓で言うのではない.客観的にこう言うことができると考えているのである.従って学問的にも成り立つ言辞と思っていて、このためには一書を編んでもよいと言うことができる.
どこが優れているかと言えば、この最初期の作品がすでに非宗教化されていて祭儀や奇跡や低俗な神秘思想から解放されているのである.この事実は創世記の〈失楽園〉から〈カインとアベル〉〈ノアの洪水〉〈バベルの塔〉と読み進むだけで十分に感得できる.原サムエル記の叙述も非神話化、脱宗教化の傾向がはっきり読み取れる.この点では数百年以降も後代の新約聖書の方が神話的である.
このような文学(思想)現象が成立するには経済・政治・文化(思想)に関わる基本的な条件が揃わなければ不可能で、ソロモン王朝がこの条件を十分に満たしていたことを認めざるを得まい.しかもヤーウィストの知性の鋭さは彼らが王国の精神的崩壊の必然性を見抜いていたことにあると言うべきであろう.これもまた過言ではあるまい.
09/10/20
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