現代宗教論

1. 一般的宗教論

  1. 通俗的宗教と特殊宗教
     宗教学では消極的宗教と積極的宗教、または民間宗教と世界宗教、あるいは通俗信仰と高等宗教という具合に種々の分類法によって区別されているが、ここでは通俗的、慣習的、前批判的宗教と特殊的、個性的、既批判的宗教に分けて考えることにする.
     前批判的というのは批判に客観的に耐えられないという意味で学問的とまで行かなくても良識的批判にも解答できない段階の宗教信仰を指している.特殊的というのはすでに個性と呼べる状態に達して、歴史的にも経験を経た人類的、世界的宗教思想のことを意味している.後者が、仏教、ユダヤ教、キリスト教そしてイスラム教も含めて歴史的宗教と呼んでもよい、いわゆる高等宗教を指している
  2. 高等宗教の再批判
     しかしその高等宗教内部も注意深く観察すると積極的信仰と消極的信仰の二種に分類されることが判明する.つまり、仏教でもキリスト教でも、単なる習俗的な民間信仰と同質の通俗的宗教と歴史的、客観的(学問的)批評に耐えられる性格の個性的宗教に分けられるのである.この区別のためには当該の宗教(派)の歴史的事実やその発展形態や信仰の観念や本質を学問(社会科学、哲学)的に批評して評価し直さなければならないのである.キリスト教ではキリスト教神学とか教義学とかいう分野でこの問題を取り扱っている.仏教にもそれなりの教学があるはずである.
  3. ここで宗教の領域を少し広げて人間学的分野で考えてみると宗教史の枠を越えて、哲学や社会思想の考察をも併せて考える必要が生じるであろう.シャカの原始仏教は十分に哲学思想であったし、中国の孔子以来の儒教は実践哲学と呼ぶべきであろうし、ギリシャのプラトンの観念論は宗教的であるし、事実この観念論はドイツ観念論としてキリスト教世界の哲学として復活している.
  4. こうなるとキリスト教がその内部で宗教信仰の本質的部分とヨーロッパ哲学的思想(理念)とに分れたり混淆したりしているのが現代キリスト教思想の現実態であると言えそうである.
  5. 現実の宗教史は通俗と特殊、消極と積極、慣習と洗練、の両面を示しながら存続していることになろう.
  6. その上で超越神信仰と内在神論とに分れて大きく二種に分類されてそれぞれその質を問われなければなるまい.
     因みに通俗的、民間的、大衆的宗教の大部分は〈迷信〉である.

09/11/20


2. 特殊宗教論(本質論)

  1. 宗教の存在
     宗教の本質論に入る前にこの世界、つまり人間の世界に宗教的と呼ばれてよい共通現象が歴史的に存在することが確認されることで、これは否定できない.
  2. この宗教的共通現象
     それでも地球上の事物一般の中に〈神性〉を認めるものと、真の〈神性〉を超宇宙的な存在と考える超越神論に宗教理念を大別することに異論はあるまい.
  3. そこで宗教とは地上の事物であれ、超宇宙的実在であれ、自己が貴重で大切と思われる事物や存在と関係のある〈人間存在〉を、ことにその〈生命〉を貴重で掛け替えのない〈現象〉と考えて、自他共にこれを尊重し、保護し、維持する精神を涵養する〈社会的行為〉であると定義することはできるであろう.
  4. イスラエルの宗教の聖典である古い律法は「自分を愛(大切に)するように自分の隣人を愛(大切に)せよ」(レビ記 19:18)と言っていて、ナザレのイエスもまたこの言葉の正しいことを教えているが、この理念はおそらく地上のいずれの高等宗教も認めるであろう.
     もう一つはモーセ(シナイ)の十戒と呼ばれる戒律で前半(1―3)は神に関わる戒めで後半は人倫社会に関するものであるが、これを現代語で言い直すと、前半は〈真の神以外の存在を神とするな!〉で、つまり〈真理以外の一切の疑似真理を真理と認めてはならない〉という内容になり、後半は〈殺すな、盗むな〉が内容の一般的道徳律である.
  5. 上述のユダヤ教(後のキリスト教も)の戒律は現代でも全世界で通用する人間生存(存続)の基本原理であることは明白である、ここでは古代のユダヤ教がすでに普遍(的)宗教であったことの証拠を遺していることになろう.後のキリスト教はこのユダヤ教の神殿祭儀行為を切り離して世界宗教に変身したと言ってもよかろう.
  6. ただキリスト教はその最初期からギリシャ哲学宗教とギリシャ語文化と混淆する危険にさらされ事実後にはギリシャ―ラテン式ユダヤ教という性格を帯びることになる.
  7. この結果キリスト教はギリシャの汎神論、後のドイツ観念論も吸収してギリシャ―ラテン的世界宗教に発展したものと考えてよかろう.
  8. そして普遍宗教としては仏教も儒教もギリシャ思想とも共通性を帯びた高等宗教を形成したとも言えよう.
  9. ただ普遍的になることだけではその本来特質を見失うことになるために、反復的に宗教改革が必要とされる宗教であり続けるであろう.
  10. それでもあの本来の〈戒律〉は自家の信仰理念の原点として確認し続けられるに違いない.

09/11/20


3. 宗教本質論

  1. 前項本質論の4の〈古代イスラエルの戒律〉が普遍性と共に特殊性を備えているとすれば、これがまたどこからイスラエルに由来したかということが問題になろう.これが部族時代の聖所に起源を持つことは歴史学的にある程度確認されているが、仮説としては族長時代のある時期にまで遡ることができよう.
  2. イスラエルの神ヤーウェに対する戒めも部族内部の日常道徳的戒めも部族時代を背景に考えると、いずれの戒めもイスラエルの部族あるいはその成員の〈生命〉が救助され、〈生命〉の安全が確保された時にヤーウェに対する〈感恩〉の信仰から、まず神に対して、次に共同体内部の人間同士の間でも基本的道徳として確認されている.
  3. その信仰(宗教理念)の原点は部族とその成員の〈生命の保証〉の確認ということになろうか.歴史的行為としては周辺の異民族(国家)との戦闘の勝利の経験と機を一にしていると考えられる.この経験から、この信仰の原点は自己と部族の生命が原初的に神ヤーウェから与えられたもので、これが歴史的にも維持されていると考えるところに、この信念の特徴があると考えられる.
  4. ここで特徴的なことはこの〈生命〉が自然現象の内部で自然に発生し、自然に与えられたものと考える思惟構造にはよらないで、歴史的に導かれて与えられ、歴史的事件の経過において支えられ、救出されたと考えるのである.これは自然現象的思惟様式ではなくて歴史現象的思惟様式とでも言えようか.自然が豊かで、その生産力が豊富な沃地文化と自然が過酷な砂漠や岩山の生活の間にはそこで生活する人間の思惟構造に差異が生ずるのであろう.
  5. しかしこれでは風土説による〈自然神〉がイスラエルの神ということになってしまう.一方で族長個人と密接な関係(契約)を結ぶ〈人格神〉の存在を示す証拠が発見されていて(アブラハムの神、イサクの怖れ、ヤコブの強き者、カツィウの神等)この人格神ヤーウェの特質は旧約文書中至る所で見いだされている.エリヤの場合は自然神を否定する叙述が注意を引く(列王紀上19:9以下).預言者たちの〈主の言葉〉による神認識の伝統においても明白である.
  6. 実はこの人格関係(契約関係)形式の神がもっとも特徴的な聖書の神の性格であろう.ここにこの宗教の本質が潜んでいるし、この宗教の神秘が隠されていると言っても過言ではない.あるいはここからキリスト教神学を論じ始めるのがよいであろう.
  7. 創造論も救拯論も終末論も、人間学における生死論も復活論も、三位一体論も人格関係論として再編成するべきではないであろうか.

09/11/20


4. 神認識の方法

  1. 人生の主要な目的が〈神を知ることで、これが人生の最上の幸福である〉と言ったのはジュネーヴの信仰問答である.日本人にはこの文章全体が不可思議で異様であろうと推測されるのは、宗教改革後のヨーロッパのキリスト教世界と21世紀に入っても非キリスト教的社会であり続けている日本人の思惟様式の差異が見えてくる顕著な文例であるからである.
  2. しかし〈神を知る〉ということは宗教学や神学の最初の課題ではあってもそう簡単なことではない.少し捻った説明になると、〈神に知られて神を知る〉ことを意味する、となるのだけれど、これでも納得がいかないであろう.
  3. 問題はエリヤの例(列王紀上19:18以下)に見るように風と地震と火の中に存在しなかったヤーウェ(神)が〈静かな細い声〉でエリヤに語るというのは、自然現象の中にではなく人間(人格)に語りかける神を表白していて、人間はどのようにしてその声あるいは言葉を聞くのであろうか、ということに尽きる.
  4. しかしそれでも人間に〈神の言葉〉を聞く能力があることは現代人には理解も納得もいかないであろう.やはりエリヤの話は上質な神話に過ぎないのではないか.これがキリスト教神学は〈聖霊によって〉と言ったり〈神は神自身によって知られる〉と言ったりするが、これではトートロジー(同義語反復)になるであろう.
  5. K.バルトのように〈子供が自分の母親を自明のこととして受け入れるように〉と言うのはこれでもやはり無理であると言わなければなるまい.私見によれば〈聖霊主義〉は神秘主義に、〈自明論〉は自然主義に連結する.
  6. 宗教史的に観察すると、この時点で〈聖典論〉〈教祖論〉〈伝統論〉が登場する.このいずれも神秘主義でも自然主義でもなくて、〈歴史学的〉立論であるところが現代流である.ただここでも問題は出発点は歴史的でも結論が神秘主義か自然主義に終ることである.
  7. 偶像はもとより、人知が考え出した観念論の神々は除外して、真の、唯一の神を知ることができるとしたら瞬間的に直感的に神に出会う奇蹟主義はやはり神秘主義に帰するであろうから、人間がこの地上で神を知る可能性は一本の歴史の道以外にはあり得ないが、古代ユダヤ教は紛れもなくこの道の上にあったと言うべきであろう.ギリシャにもインドにも中国にも類似した思想史の現象が観察されはするが、なぜか継続的に存続することがない.
  8. こうなると真の宗教、つまり真の、唯一の神認識の道は歴史的に何時、どこで開始したとしても、それが歴史の終末にまで生き続けている事実によって証明されることになろう.確実に現代は宗教の終了する時代であろう.それも外力によってではなしに自滅して消滅するのである.そこで最後まで存続する宗教があるとすれば、その宗教において真の神は発見され、知られていたことになろう.

09/11/20


5. 宗教(信仰)伝承(統)論

  1. 聖典論と教祖論を飛ばして〈伝統(承)論〉に入ろうと思うのは聖典論(聖書論)は〈教会論〉や〈聖霊論〉と密接に関係するし、教祖論はシャカやソクラテス(実はプラトン)や孔子と比較しても人物論に尽きるし、甲乙つけ難い主観論に終始することになるからである.
  2. 前項で触れたように神認識の可能性は現代人にとってほとんどないと言うべきであろうから、そこに何者か、ある種の媒介体が存在しなければならなくて、それが文献や口伝承、また教祖的人格なのであるが、それらが人間の機能の発現である限り、結局はまた聖霊論の神秘主義に逆戻りすることになろう.
  3. 伝承論というのは教義においては口伝承にしても文献伝承にしても〈言葉〉の様式に限られた伝承になるが、広義においては歴史自体の伝承というタイプ(様式)もあり得るのではないか.
  4. ある人間が突然ある時点で〈神に出会った〉ということは、この経験が全く孤立して生起したとすれば、それは〈神秘主義〉的現象と認定されよう.しかしこれが特定の歴史を有する集団(共同社会、民族、教会など)内部で経験されたとすれば、これは先行する同質の経験の再体験、再確認ということになる.仏教、特に日本の禅宗の言う〈悟り〉が何であるかは寡聞にして詳らかにしないが、伝聞によれば、ユダヤ―キリスト教的伝統とは異質であるように思える.
  5. そこで最後に残された唯一の神認識の可能性は、〈歴史的事件における神認識の奇跡〉である.これとても歴史内的経験であってみれば〈自然における神認識〉、つまり神秘主義や主観主義的聖霊主義との類似性を疑われる危険性がないとは言えぬが、歴史現象が自然現象とは異質であることから区別されてよいであろう.自然現象は原則として必然性によって支配されているが、歴史現象は必然性から自由になる時にその本質的性格が現れる.
  6. それではここで一種の〈仮説話〉を創作してみると、イスラエルの信仰の原点を一応族長時代に認定して(歴史的には士師時代である)、族長の神認識は、一人の個性的な族長が自己の家族(部族)の生命の危機に直面して、その危機からの脱出を願って自分の父祖の神に救済を祈願し、その結果生命の安全を保証され、そこで自分が父祖の神に出会ったことを知ったということになろう.実はヤーウィストの族長物語は士師時代の部族救済の体験が逆推理されたものであったに違いない.
  7. 士師時代の部族連合(体)の祭儀はシケムの契約祭儀(ヨシュア24章)が典型であるがその内実は上述の信仰と同質である.王国時代はシオン伝承が成立して,イスラエルの信仰伝承が確立するのである.この伝承を確認するたびにイスラエルの祭儀と信仰告白の伝承が継承され、ここに神認識の歴史伝承が成立していることになろう.

09/11/21


6. 神認識論と伝承論

  1. 前項に引き続き論ずれば、有限者が無限者を認識することは不可能で、被造物の冠たる人間といえども造物主をその知能で知ることはできなくて、このアポリアを突破するために神秘主義や汎神論的自然主義(無限者から有限者が流出する)が考案されたが、現代知識人には直ちに納得できるものではあるまい.ただ通俗信仰の信者や、信仰宗教の教義ではどのような神信仰も発案されていて、現代人だから正しく誤りなくこの難問を処理できるわけではないことは周知の事実である.
  2. 人間の大脳細胞の知性機能は確かに他の動物に比べて比較にならぬほど優れていることは論を俟たないが、それでも人間は地球上の被造物の仲間で超越者を知る能力まで与えられてはいないと考える方が自然であろう.そこで古代の聖霊論が登場することになるが、初代キリスト教は原始的な宗教の霊力信仰と自己の聖霊信仰を区別するために細心の注意を払っているが歴史が経過するうちにゲルマンの後進文化圏で中世の長い年月の間にあらゆる迷信に巻き込まれていることも事実である.そのため繰り返し一種の宗教改革や信仰革新が生起することになるので、これは宗教内部の浄化作用と考えてよかろう.このカタルシス作用を具備していない宗教は真正の宗教とは言い難い.
  3. こう見てくると、旧約聖書中の契約更新現象と後のキリスト教史における宗教改革運動は真正の宗教組織における必然的な浄化作用と考えることができるであろう.この自己改革運動の伝承史の中にキリスト教の絶対性ではない〈真正性〉が証拠立てられるのではなかろうか.
  4. そこで〈神認識論〉に話を戻すと、聖書の宗教の神認識論は宗教者個人というよりは、古くはイスラエルの部族、後には王国の首長または宗教的指導者層が、自己の民族や国家の生命的危機に際して過去において自民族や国家を導き、助けてきた父祖の神ヤーウェに対して彼らの内面が正面から向き合う経験をした時に神、あるいは創造者(主)を知るに至った、と説明できよう.これはある意味では実存主義(論)に近い理解であるが、ブルトマンと同質であるとは決定できまい.どこまでも共同体と自己の生命が同時に自覚されていなければならないのである.しかもこの神認識が伝承上の同一の神でなければ十分条件を満たしていることにはならない.
  5. シケムの契約締結は歴史的に確認できる旧約信仰の原点であるが、ここからシナイの契約が想定され、更にアブラハム、ヤコブ、イサクの神認識にまで遡源されてイスラエルの信仰の伝承史が自覚されるところに旧約信仰の真正性を見ることができるのではないだろうか.ここから教会史へは更に数歩を進めなければなるまい.

09/11/22


7. 倫理(学)通論

  1. まず倫理を集団倫理と個人倫理の二種に分けてみることにする.人間の生活は基本的に集団内部で成立しているから、原初的、歴史的には倫理が集団内部の生活現象であることは明白であるにもかかわらず、人間存在が単に人類共通の存在である性格ばかりでなく、個性として単独に成長し、個人として判断し、選択・決断する存在であることも事実で、実はこの個性またはキルケゴールのいう単独者であることが彼が属する集団・社会の運命にとって決定的な影響を及ぼすことがあるという事実にも注目すべきである.人間以外の動物にもリーダー格の存在は認められるけれど、人間の場合ほど顕著な例は他にはない.
  2. 個人倫理が原初的には共同体の運命を危うくした責任者という種類の罪の認識であったことは理解しやすい.この場合具体的な戦略上の失敗であったり、愚かな政略結婚上の判断ミスであったり、遊牧民の場合の移動方角の間違いであったりするのが通例であろう.経済政策上の失敗ならば古代も現代も同断であると考えてよいが、イスラエルの場合預言者たち、また王宮の歴史家たちの王に対する判断規準は王たちのヤーウェに対する契約違反があったと認定しているところが世俗というか一般の歴史学とは異質である.
  3. これが王とか族長とかではなくて信仰者個人についても同じ判断規準が適用されるとすればアダムとエヴァの〈失楽園〉説話は個人倫理にも当てはまることになろう.つまり人間は個人としても彼の創造者に対して被造者としての根本的な精神的な判断ミスとその結果としての行為によって〈楽園〉から追放され、結果として滅びなければならない、と考えられてもいるのである.
  4. 創世記の最初期の著者であるヤーウィストが人間の罪を単に王国の代表者のものと考えずに個人倫理としても考え抜いていたとすれば、この著者の思想家としての力量は抜群で現代思想にもそのまま通じる内容を展開していたことになる.通例古代人の思惟においては倫理は部族内、共同体内部のルール違反として考えられているのだが、王国の運命が傾き始めていた時期とはいえ、ヤーウィストにおいてすでに思想の世界か、つまり国家の枠を越えてグローバリゼーションが起こっていたことになるのである.
  5. ヤーウィストはアダムを王の一人として描写しているとしてもここに登場している人物は一人の人間の資格を十分に備えている.現代人の一人として考えることさえ可能であって、犯した罪も個人主義化した現代人の傲慢な自己実現の姿と全く同質である.つまり現代の賢人の一人が考案した道徳説話としてこれを読むなら、現代人は自己の限界を超えて人倫世界からも地球環境からも追放されて滅びに至る道を歩み続けるであろう、と予告されていることになる.
  6. ただし、ヤーウィストはイスラエルに示されている創造(主)信仰と自己の罪の本心を知る人間の知性の働きによって救済に至る一本の道があることを指し示している、という創世記の構造(様式)を読むこともできるのであるけれど、現代世界の人間はいつこの知性に気付くのであろうか.

09/11/23


8. 続 一般的宗教論

  1. 世界宗教が現代ではキリスト教、ユダヤ教、イスラム教であるなら、日本の場合は仏教、神道、キリスト教が三つの代表的な宗教会派であろうか.そこでそのいずれかが唯一の、真理の、最上、最高、最良の宗教であるかが常に問われもし、また自家の信仰の〈絶対性〉の主張がいつも舌足らずに主張されているのが人類史上の常識にもなっているけれど、私見を述べれば、〈絶対性〉も〈真理性〉も〈正統性〉も宗教においては主張したり宣言したりすることはどうやら空しいことのようである.つまりこの種の議論には決め手がないことを認めるべきであろう.その有様は丁度〈子供の喧嘩〉に似ているのである.
  2. レッシングが〈賢者ナタン〉でドイツに伝わる〈三つの指輪〉の話をしているが、この立場に立つべきではないかと思う.つまりユダヤ教もイスラム教もキリスト教も自家の宗教信仰の〈絶対性〉や〈真理性〉を探求して確認すべきではあるが、他の宗教に対してその絶対性を主張して押しつけて、ましてや折伏しようという態度はお互いに厳に慎むのがよかろう.このような精神からは何もよいものは生じないからである.
  3. 対仏教の場合は小乗仏教はおそらくは生活修行宗教であろうから今は措くとして大乗仏教とキリスト教の対話は不可能ではないであろう.その結果は相互の異質性に気付くことになるはずであるが、その作業が大切なのである.神道に関しては対話も無理かも知れないと考えられるのは相手が自然宗教であるからで、知性による説得は不成立に終わることになろうから、互いの確信の中へ立ち戻る他に方法が見つからないのは互いに残念なことである.
  4. 宗教信仰は改革・革新が行われた時は精神的にも知性的にも活発で健全であるが、しばらくすると精神的に弛緩し、信仰は習俗と化し通過儀礼の様式や儀式だけが生き残ることになって内実は失われることになる.更に既成の宗派から新興宗教が乱立するのも宗教史においては一般的現象である.欧米ではキリスト教社会から、日本では神道や仏教から知性的には低いレベルの新興宗教が発生して種々の世間を騒がす異様な事件を引き起こすことになる.
  5. 新興宗教の発生には社会学的なまた歴史学的な背景が観察され経済的な政治的な諸原因や理由が重なっていることも確かであるけれど、既成の宗教自体の弱体化現象とも考えられるであろう.しかし同じ原因から健全な宗教改革が生起する可能性もあって、実はそのような健全な精神力を持続的に活動させている宗教が真正の宗教信仰であるとも言えるのではなかろうか.この精神の健全性を失う時にその宗教は積極的なレベルの高い宗教であることを終了しているのである.

09/11/24


9. 宗教頽落論と再生論

  1. 宗教に限らず、すべての人間は個人と集団にかかわらず青年期、台頭期、興隆期には生命力に満ちて活発で、健全性を帯びる可能性も高いが、下降期にかかると生命力は衰え組織力は劣化し健全性が失われるのは通例である.資本主義、社会主義、民族主義、自由主義、全体主義、教養主義、軍国主義いずれも例外はなく教育も医療も宗教も同断である.
  2. 21世紀初頭は明らかにこの頽廃期に突入していて呆れたことに中流クラスの言語活動能力まで生命力を失いつつある.諸外国については詳らかにしていないが、アメリカや日本ではこのところこの現象は顕著である.これは経済力と生産力の凋落というよりは精神力と知性力の低下のように見受けられる.確かに人間は精神力だけで生きているわけではないが、精神が病めば肉体も衰えるのである.
  3. 仏教は疾うの昔に気力を失っているし、ユダヤ教もキリスト教もこのままでは生命力の維持も危ぶまれようがイスラム教は現代でも活発と言えばなかなか盛んであるのはこれは一種の新興宗教的体質に由来するのであろうか.しかし気になるのは仏教もキリスト教も新興宗教化することによってしか息を吹き返さないとすれば、人間の歴史において宗教の歴史はすでに終了していることになるのであろうか.新興宗教化現象というものは一種の原始宗教化であって退化現象と考えねばならないであろう.新興宗教の盛んな時代は高等宗教の退潮期であるとも言えよう.
  4. ヨーロッパで16世紀に生起した宗教改革の本質は新興宗教現象ではなくて、ゲルマン(ドイツ)民族の充実期の到来と見るのが正確であろう.M.ルターがルネサンス教養の様式に従って原典で聖書を読んでその読解に成功した結果であると考えれば、ヨーロッパ民族が中世の千年以上の歴史を経てようやくヘブル語とギリシャ語で原典聖書を読むことができるようになったということはゲルマン民族の幼稚性と成長の緩慢さもさることながら、これが人間の成長の妥当な年限であるのかも知れないのである.
  5. 大事なことは個人のではなく一民族の知性的な発達に要する年限のことで、あるいはこの長さはいずれの民族にとっても必要な絶対年数であるやも知れないと考えると人類史には新しい視点が要請されることになる.一個人の知性の成長に必要な年数と一民族の必要年数との比較研究というものは寡聞にして未だ知らないが、ゲルマンの経験に普遍性があるとすれば一般に再考を要することになる.
  6. そこでキリスト教、特に中世のキリスト教にとって再生と方向修正が必要であって、これをM.ルターがやってのけたとすれば、宗教の再生と方向転換の主題が現代のキリスト教にとって真剣に取り上げられてよいテーマなのではなかろうか.
  7. とにかく常に宗教改革能力を保持している宗教が真正の宗教であると定義できよう.

09/11/25


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