現代人としてキリスト教と諸宗教を考える
I 現代と宗教
宗教史全体から離れて、現時点でキリスト教を21世紀人として考察してみると、歴史的経緯の複雑で種々雑多の因縁を無視することから始めて、宗教としてのキリスト教の特性が浮かび上がってくる.一方でキリスト教は儀式(形式)的宗教として強力に人身を掴んでいることが明白に看取されるが、他方で、ひどく論理的で抽象的な、この意味では哲学的な宗教として自家の信仰を自覚している.片や慣習的、因習的、さらには呪術的、原始的でさえある宗教現象を呈しているが、もちろん内面性が欠如しているわけではない.片や知性的で理論的であるけれど、現代の自然(諸)科学との折衝においてお互いに十分納得のいく議論を積み重ねてきたわけでもない.社会科学的に論評すればプロテスタンティズムと現代資本主義の人間学的心理学的関係も観察されても、現在の段階ではお互いに独立独歩しているという他はあるまい.もちろん社会(共産)主義は資本主義内部の社会的政治的現象と考えるべきであろう.思想上はイスラエル―ユダヤ教的人生観、社会観を現代に伝えている.
上のように考えれば古代・中世的宗教的内実を生き続ける旧教(ギリシャ正教会、ローマカトリック教会)と宗教改革以後のプロテスタント教会(新教)の二つの性格が現代のキリスト教の外面(表面)に色濃く湧出している.
現代の自然科学はもはや儀式的呪術的形式宗教を真面目に相手にすることはあるまいが、知性的・哲学的宗教に対しても対話が成立するのはカントまでで、これ以後はシュライエルマッハー以来、プロテスタントの神学者たちも劣勢に立たされていると考えなければならないだろう.仏教のような哲学的宗教(あるいは宗教哲学)でも自然科学は取り合わないであろうからキリスト教神学も同じ取り扱いになると考えたほうがよいであろう.
現代人の生活感覚から批評すれば絶対者、あるいは神は自然の中には存在しないし、啓示現象を通して自己を顕現することはないのであって、これに反対する者は神秘主義者と呼ばれてもはや現代的ではない特殊な心理現象とされよう.確かに最現代以前の近代までは原始宗教や自然信仰を除いた高度の哲学的神秘主義宗教の存在は可能であったが、自然科学が自己の判断領域を越えて拡大解釈され、大衆が盲信して過去の宗教に代る自然科学信仰を確立したものと考えられる.この場合昔の宗教信仰を徹底的に批判し尽くすことを怠っているという事実に目をつぶってのことである.
II 自然科学と宗教信仰
いくらか歴史的に観察すれば古代はインドの人生哲学、中国の実践哲学、ギリシャの理論哲学がそれぞれ花開いて見事な時代であったが、中世はキリスト教とイスラム教のいささか迷信時代で近世のヨーロッパ人がこれを暗黒時代と表したのも宜なるかなである.どちらかといえば中世は古代の高等哲学を理解しきれずに迷信と儀式と俗信(習)に明け暮れている.近代に入ってようやく中世の悪夢から目が覚めてみたらギリシャの知性が羨ましくてギリシャ語と自然学に夢中になって自分なりに中世の宗教と迷信に古代の光とアラビアの自然学を利用して近代の自然科学の基礎を築き、これが最後には宗教から独立して自然科学が新しい人間の信念(仰)にとって代ったのである.
その後の自然科学の発達進歩は著しくて宗教信仰は置き去りにされた感がある.21世紀に入ってもキリスト教神学や宗教学は未だに自然科学とまともな対話(決)状態に入れないでいる.
しかしその原因は一般に考えられているように宗教が遅れていて科学が進んでいるというようなものではあるまい.自然科学はいつでも広大無辺な宇宙(自然)のごく微細な部分(範囲)を対象に分析・研究しているに過ぎないと思うべきである.ただし宗教が自然科学に比べて広(膨)大部分(範囲)を考察していると考えるのは誤りである.その対象事象がまったく異質であることに気付いていなければなるまい. 自然科学の対象はどこまでも自然つまり物質であってその範囲(領域)を越えるものではない.そこで人間の精神や感情までを自然現象や物質現象として捉えようとすることになるけれど、精神対精神の関係(論)をどのように理解し、説明するかということになると、現代の精神医学や心理学は満足できる成果を得ているであろうか.かなり疑問である.もともとこれは人間学中の最大の難問であったはずである.
一歩譲って個々の精神を物質の精華(現象)と理解したとしても、その個々の精神同志の関係も物質現象であろうか.ある精神が他の精神の存在を認識してお互いの間に他者の確認現象が生起したとすると、この現象の自覚と他者の論理の理解、他者の感情の動きの受容か拒否、その結果、時間的将来に向けてある特定の行為を決意し、その意志を相手に伝えるという一連の行為(現象)をすべて物質的現象として説明し得るのであろうか.自然科学らしい牽強操作はできるとしても自然科学だから事象の正確な解説が可能であるとは限るまい.
この問題、つまり自然科学と宗教(信仰)の問題は自然科学的に何か決着が付いたと思うべきではなかろう.つまり未だ未解決なのである.これはまさに現代21世紀の人間学的大問題であるはずである.
III 歴史と伝統(伝承)と人間存在ということ
さてこれは愚生40年来の管見であるが、前項とはいささか視点が異なる故にここで述べておくことにする.自然科学とは直接交渉せずに歴史学的、また哲学(含宗教学)的な考察になる.この視点は学生時代に熊野義孝師から受け継いだのであって独創的ではなくて伝承的と言うべきである.
「イエスがキリスト、救い主である」という定式が古代以来の教会の伝統的信仰告白であっても、このままでは現代人の異教徒にはいかにも説明不足であろう.〈何故にか?〉と問われるならば、〈イエスにおいて人間の諸問題の解決(答)が提示された〉と答えるのが正解であろう.それではその〈イエスは誰か?〉と問えば、〈イエスは新約聖書に記されているイスラエルの伝統に属する一人物である〉と答えられよう.では〈イスラエルの伝統とは?〉と聞けば〈古代オリエント史において形成された一民族国家で、その歴史的、精神的伝統は旧約聖書に記されている〉と言えばよい.それでは〈古代オリエント史とは?〉と問うならば、〈人類史の中で最古の継続的な歴史的思想的遺産を受け継いだ歴史的な伝統である〉と言ってよいであろう.
確かに古代史を遡るほどこの事実を証明するのは困難になろうが、古代の思想で切れ目なく継続して現代にその歴史意識や人間観や宗教信仰を精神的生命力(活力)と共に伝え得た思想的伝承現象は他に見られないと言えよう.ギリシャ思想もシャカの仏教も、孔子の儒教もユダヤ教・キリスト教・イスラム教のような生命力を持ち続けた思想組織生命体は他になかったのも事実である.この場合善悪・正邪の厳密な価値判断は度外視しているのであるけれど、まったくの非人間的思想であったならば、これもやはり生き続けることは不可能であったに違いない.しかしこの三千年間の評価だけでは真理性の規準の証明にはならないから、今後の一千年間がそれぞれの思想や組織にとって正念場になることは間違いない.
ところで、これが結論になるのだが、特定の思想とその思想を生み出した人間社会が生き続けられるにはその思想が健全な人間性を保持していたか、また現在も保持しているかによって判断されるのではなかろうか.思想の強さは精神の健全性と知性の明晰性と社会組織の持続性によって測定されよう.その点でもユダヤ・キリスト教の世界史上の足跡は小さくはない.
ここで最重要の識別要素は結果としての持続性であると考えられる.この持続性は伝統的儀式(カトリック)と信条と神学(哲学)によって支えられてきたが、いずれも明晰な知性の裏打ちが必須で、ここに思想を伝承する生命力が備わっていなければならない.
IV ナザレのイエスと伝承史
「イエスはキリスト・救い主である」という命題が伝承されて現代に伝えられたとすると、このイエスという存在の中には旧約聖書に保持されている古代イスラエルの思想が内在していると考えなければならない.しかも彼の中にその最善の人間性が啓示されていたと考えるためには古代イスラエル以前のメソポタミヤの歴史が特定の意味を帯びてこなければなるまい.これがイスラエル前史であって、古代イスラエル史はイエス前史になるのである.言い方を変えれば、イスラエル史はその前史の最良の部分を伝承していて、イエスは古代イスラエルの最良の思想を継承していたということになろう.
新しい歴史人間学的神学を提唱していることになるだろうか.人間がこの地球上に造られ(現れ)て、何か良い知性によって導かれて存続してきたと仮定すればそれはインドにも、中国にもギリシャにも一度は部分的にある時代に開花したのであるけれど、ナザレのイエスに収斂するように健全な人間性と明晰な知性が伝承されて公示されたと考えるのはキリスト教会の歴史観には違いないが、この事実性は今後の思想史において検証されなければならない.
たしかに世界思想史上前5世紀頃結実したインド、中国、ギリシャの諸思想の質の高さには驚くべきものがある.その後も思想史上に小径はあちこちに見られて、イスラエルの預(豫)言者群に始まるある種の思想活動には特筆すべき特質が提示されている.そこにはダビデ王朝後のヤーウィストと学者たちの呼ぶ思想家(たち)から預言者イザヤまでの思想史には人間認識におけるある種の完結した結論を読み取ることが可能である. 旧約聖書の冒頭の書創世記の人間理解は1―3章の失楽園説話において人間存在の構造、つまり存在様式がすでに語り尽くされているように推論される.ヤーウェが土から人間を造りこれに息を吹き込んで〈生きる者〉(生命体)にするが、この人間(アダムとエヴァ)は神の命令(言葉)に背いて地上に〈死〉を招き寄せ、人間は〈生きはするが死ぬ者となる〉.しかもその〈死〉は〈生〉と同様創造主から与えられる現象なのである.この生命現象はいかにも現実存在としての人間に対する決定的な認識として記されている.本来〈生命〉は創造主と被造者の間の喜ぶべき最高の関係を表現する記述であるはずであるが、ここにほとんど同時に〈死〉が入り込むというのである.そしてその責任はどこまでも人間の側にあって、その責任に対する〈審き〉が〈死〉と定義されている.これが集団存在の民族イスラエルに対しても同質の現象として捉えられるときにイスラエル民族(国家〉の滅亡と重なり合ってイザヤ以下の預言になり、その思想がナザレのイエスともう一度重なる時に個人としての人間の〈罪と罰〉の構造を形作ると言えよう.――この項、更に続く
V 旧約聖書とナザレのイエス
イスラエル史の純粋の思想的内容を旧約聖書の諸文書と考えて、その内実とナザレのイエスの関係を問うのであるが、イエスの好んだ書物がイザヤ書であったことは大体間違いないし、またこのイザヤ書がひょっとすると旧約聖書の諸文書の中心に位置しているかも知れないのである.この仮説には旧約諸文書が律法(含歴史)と預言と諸書(諸文学書)であるという三区分を認めてもやはり思想的総合力として預言者(書)が最重要位置を占めると考えてよいであろう.ここにイスラエルの信仰のエネルギーが集中していて、他のすべての部分に及んでいるように思える.この意味では創世記のような思想文学も実は預言文学と考えられるのである.
福音書におけるイエスの旧約聖書の引用文は一方にイザヤ書中の第三イザヤがあって(61章)、他方に申命記の6章とレビ記19章がある.またイエス自身の受難については第三イザヤの〈主の僕の歌〉(53章)との類似性が知られている.いずれにしてもイエスと旧約聖書の関係は古代イスラエルの伝承し、保持し続けてきた高度の倫理的人間性において見事に緊密に結びついている.古代イスラエルの部族社会において認識、確認された人間性は一方にヤーウェ、つまり生命の創造主である神に対する〈感恩の念〉であり、他方に部族内外の隣人に対する〈思いやり〉すなわち愛であったのであって、これがイエスの存在と人格において他の何よりも大切で、この事実が彼の十字架に到る生涯と行為によって実証されたと当時の弟子たちが気付いてこれが最初のキリスト教信徒たちの生活の最高規準(範)になったのである.
古代オリエントにおいてはメソポタミヤでもエジプトでもインドでもすでに高度の人間性の規準が確立していたと考えてよいが、イスラエルの場合は生命の賦与者である創造主に対する信頼(仰)と被造者の間での健全な協力生活の実現が人間にとって最重要課題と認識されていたことが当時の次第に腐敗していくローマの社会にとって新しい活力になったとすれば、これもまた歴史の不思議と言えそうである.ある意味では古代の人間性の最良の部分がイエスに体現されていたとも考えられよう.これをイスラエルの側から自分にとって有利な視点で眺めればイスラエルは古代の諸民族の中から選び抜かれてこの優れた人間性を体験、自覚、確認するように導かれたという具合にもなるであろう.結局結果としての歴史的事実が浮上してくることになる.ただこの認識に至る過程にイスラエル王国の滅亡という避けられない歴史的事実が入り込んでいて、その上にイエスの十字架上の死が何事かを語っているのを見逃すことはできない.この事実に正面から向き合う以外に人間と人間の歴史の問題の解決はないということを意味しているとも受け取れよう.
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